落ち続ける君を、永遠に抱きとめる 〜雨のドームで交わした、偽りの空の下の約束〜
雨が降っている。
窓の外じゃない。ドームの天井ガラスに、無数の細かい水滴が叩きつけては、滑り落ちていく。
その音が、静かな部屋に響き渡る。
「演出」だということを忘れさせるほど、水滴の軌道は生々しい。
湿った空気が肺に絡みついて、息をするたび胸が重くなる。
今日の気分は「憂鬱な午後の雨」設定らしい。
管理AIの趣味が悪い。
……本当に、悪趣味すぎる。
私はソファの端に、膝を抱えて小さく縮こまっていた。
頬を膝に押しつけて、冷たい布地の感触にすがる。
視線は天井ガラスに吸い寄せられて、水の筋をぼんやり追う。
一筋、また一筋。
まるで、私の心のどこかが、ゆっくり溶け出して流れ落ちているみたいで。
隣にいるのは、いつものように瑠璃がいてくれる。
彼女は床に体育座りして、膝の上にタブレットを乗せている。
細い指が、画面をゆっくりとなぞる。
まるで世界から音を遮断しているみたい。
青白い光が彼女の横顔を照らして、長いまつ毛に影を落とす。
その指の動きを見るだけで、胸の奥がちくりと疼く。
どうしてだろう。
ただそこにいるだけで、息が少し浅くなる。
瑠璃の髪から、ふわりと甘い匂いが漂ってくる。
いつもの彼女の匂い。
溶けた砂糖菓子みたいな、柔らかくて少しだけ危うい甘さ。
雨の湿気と混ざって、余計に濃密に感じる。
この匂いがするだけで、ドームの冷たい空気が少しだけ優しくなるはずなのに……
今日は、なぜかそれさえ、胸を締め付けて離さない。
私は膝に顔を埋めて、そっと息を吐いた。
冷たいソファが頰に触れて、ひんやりする。
また、あの夢を見たんだっけ。
落ち続ける夢。
今日も、昨日の続きみたいに。
心臓が、雨音に負けないくらい、どくどくと鳴っている。
いや、違う。
本当は静かすぎて、自分の鼓動さえ雨に飲み込まれそうで怖い。
「……またあの夢見た?」
瑠璃が突然口を開いた。
視線はタブレットから外さないまま、私の方に言葉だけ投げてくる。
その声は、雨音に溶け込むように静かで、でも、どこか鋭く胸に刺さった。
指が画面をなぞる動きが、一瞬だけ途切れる。
まるで、私の答えを待つみたいに。
「うん」
私は正直に答えた。
声が小さくて、自分でもびっくりするくらい震えていた。
喉の奥が、乾いて、言葉を飲み込みそうになる。
「今回はちょっと違った。最後まで落ちなかった」
瑠璃の指が、ぴたりと止まる。
タブレットの光が、彼女の指先を冷たい青白さに染め上げた。
ゆっくりと、まるで重力に逆らうように顔を上げて、私をまっすぐに見つめる。
その瞳がいつもより、ずっと、深い。
底の見えない、真冬の海のような青。
遺伝子調整の副作用だと、彼女は以前自嘲気味にそう笑っていた。
感情の昂りに呼応して、虹彩の色が変質してしまうのだと。
今、瑠璃の心がどれほど激しく波打っているのか。
饒舌すぎるその「青」が、残酷なほどはっきりと私に告げていた。
心臓が、どくん、と大きく跳ねた。
「落ちなかったって……着地したの?」
声が、少し掠れている。
心配と、期待と、何か別のものが混ざった響き。
「違う。落ちてる途中で、誰かに抱きとめられた」
一瞬、息が止まるような沈黙。
雨音だけが、部屋を満たす。
「……誰に?」
「わかんない。顔、見えなかった」
「声は?」
「声も。……でも、すごく温かかった。腕が」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥が熱くなった。
夢の中の温もりは、今でも体に残っているみたいで。
瑠璃は小さく息を吐いて、タブレットを膝から下ろした。
そのまま、ゆっくり、私の隣に移動してくる。
肩が、ぴたりと寄せられた。
いつもの距離感より、近かった。
彼女の体温が、じんわりと伝わってくる。
ドームの冷たさを、優しく溶かすように。
甘い匂いが、ふわりと強くなって、私の鼻腔をくすぐる。
砂糖を煮詰めたような、柔らかくて、けれど少しだけ、危うい甘さ。
「それ、私じゃないよね?」
冗談めかした声。
でも、その響きには、本気の確認が混じっていた。
喉の奥で、言葉が詰まる。
「……たぶん」
私は目を逸らさずに答えた。
逸らしたら、すべて、負けそうだったから。
「だって、瑠璃の匂いはもっと甘いもん。……あの夢の中の人は、雨と金属と、少しだけ焦げた砂糖みたいな匂いがした」
瑠璃が、くすっと笑う。
けれど、その微笑みは、いつもより少しだけ歪に見えた。
わずかに下がった目尻が、痛いくらいに切ない。
「ひどい。私の匂い、そんなに特徴的?」
「うん。忘れられない」
嘘じゃない。
この匂いがあるから、私はこの無機質なドームの中で、自分がまだ「生きて」いるのだと実感できる。
「……ずるいこと言うね、綾」
彼女の手が、私の左手の甲にそっと重なった。
冷たい指先。
止まない人工雨のせいか、それとも?
微かに震える指先の振動が、ダイレクトに伝わってくる。
呼応するように、私の胸の奥がきゅっと締めつけられた。
ふっと、雨音が遠のく。
世界から色が抜け落ちて、私たち二人だけが、鮮やかに取り残されたみたいだった。
冷たい指先。管理AIが設定した外気温のせいか、それともこの空気感だからか。
「ねえ。もし、その夢の人が私じゃなかったとしても」
瑠璃の声が、いつもより一オクターブ低く沈む。
「私、嫉妬すると思う。……すごく、すごく、自分でも嫌になるくらい、醜く嫉妬する」
私は、逃がさないように彼女の手を握り返した。
浮き出た関節。細い骨の感触。
その脆さが妙に愛おしくて、胸の奥が焼き付くように熱くなる。
「――じゃあ、私が『落ちていく』夢を見たら?」
試すような言葉が、自分の唇からこぼれ落ちた。
「瑠璃なら、どうする?」
瑠璃は一瞬だけ瞼を閉じ、静かに、湖面が凪ぐように目を開いた。
そこにはもう、揺らぎなんて微塵もない。ただ、射抜くような真っ直ぐな青があった。
「――落ちてくるところで、両腕を広げて待ってる」
「……キャッチできるかなって、不安になると思うよ?」
「いいよ。でも、絶対に離さない。たとえ二人まとめて地面に叩きつけられるとしても、綾だけは、絶対に離さないから」
雨音が、一段と激しさを増した。
ドームの天井が悲鳴を上げるほど、暴力的なまでの人工雨。
私は瑠璃の肩に、そっと頭を預けた。
髪から零れ落ちる、いつもの甘い匂い。
夢の中の誰かとは違う。けれど、今この瞬間の私を救ってくれる唯一の真実。
「……瑠璃」
「ん?」
「……いま。私、落ちてるみたい」
「ふふっ。じゃあ、私の受け止める番だね」
彼女の腕が、私の背中に回る。
奪い去るように強く、それでいて、壊れものを扱うように優しい力で。
外の雨は、まだ止まない。
けれど、この腕の中にいる限り。
もう二度と、奈落を恐れる必要なんてないのだ。
あれから、雨は止まなかった。
いや、正確には「止める許可」が下りなかったのだ。
ドームの管理AIが『感情安定化プログラム』の一環として、この人工雨を四十八時間延長することを決定したらしい。
理由は「住民のメンタルヘルス向上のため」
笑えるくらいに、反吐が出るほど偽善的だった。
瑠璃と私は、ソファから動かずにいた。
膝を寄せ合い、指を絡め、時々、どちらからともなく浅いキスを交わす。
言葉は、もう必要なかった。
何年も隣にいて、互いの呼吸の深ささえ知り尽くしている。
……けれど、今日という日は、そのいつもが通用しなかった。
瑠璃が唐突に体を離し、弾かれたように立ち上がる。
窓際まで歩み寄り、冷徹な天井ガラスにその掌を叩きつけた。
彼女の指の形をなぞるように、無機質な水滴が歪んで流れ落ちていく。
「綾」
背中越しに届いた声は、今にも壊れそうなほどに震えていた。
「私、もう――限界かも」
私はソファを抜け出し、彼女の背にそっと腕を回した。
抱きしめた肩は、驚くほど小さく、小刻みに震えている。
「限界って……何が?」
「全部だよ。このドームも、止まない雨も、この安っぽい偽物の空も。……私たちが、ここで死ぬのを待つだけの家畜だって事実も、全部」
振り返った彼女の瞳は、溢れ出した涙で濡れ、ひどく濁っていた。
遺伝子調整の副作用――激昂に呼応した虹彩が、闇のような紺碧へと変質していく。
「ねえ、夢の話……覚えてる?」
瑠璃が、縋るような熱を込めて囁いた。
「あの――落ちていく途中で抱きとめられた夢」
「うん……忘れられるわけないよ」
「あれ……私だったのかもしれない」
「……え?」
思考が白く染まる。けれど、瑠璃の言葉は止まらない。
「顔は見えなかったって言ったよね。でも、匂いがしたって。雨と、金属と、少しだけ焦げた砂糖の匂い」
私は、喉を鳴らして息を飲んだ。
「それ、私の――『昔の私』の匂いなんだよ。子供の頃、ドームの外周メンテナンスエリアを遊び場にしてた。焦げた回路と、古いオイルの匂い。それから、隠れて舐めてたキャンディの、少しだけ苦い甘さ……」
瑠璃が私の頰に手を添える。冷たかった指先が、今は私の体温を奪うほどの熱を帯びている。
「つまり、あの夢は未来の私たちが、過去の綾を、今の綾を受け止めたってことなんだよ」
「……どういう、意味?」
「脱出するんだよ、綾。もう、待てない。AIの許可なんて、死ぬまで下りない。私たちで、この偽物の空をぶち破るんだ」
外。そこは、誰もが「死」と呼んで忌み嫌う場所。
薄い酸素、牙を剥く放射能、狂ったように変動する気温。人間が生きることを許されない、呪われた不毛の地と言われてる。
けれど、瑠璃の瞳に宿る「青」を見れば、そこに迷いなど微塵もなかった。
「一緒に落ちよう」
彼女が、甘く囁く。
「今度は、私が下で待ってる。綾が落ちてくるのを、両腕を広げて」
私は、答えの代わりに彼女の唇を奪った。
短く、けれど命を分け合うような、深く、鋭いくちづけ。
「……うん。一緒だよ。どこまでも」
その夜、私たちはドームの最下層、世界の底へと向かった。
メンテナンス用の、錆びついた古い排気ダクト。管理AIの監視が最も薄い、死角。
瑠璃が何年もかけて、執念でハッキングし続けた非常用ハッチの前に立つ。
ハッチの隙間から、外の風が細く、鋭く入り込んできた。
生々しく、冷酷な、金属と土の匂い。
瑠璃が、折れそうなほど強く私の手を握る。
「――怖い?」
「うん。……でも、瑠璃がいるから。だから、怖くない」
彼女が微笑んだ。それは、ドームの空よりもずっと優しく、眩しい笑顔。
「じゃあ、行こうか」
ハッチが開放される。
暗闇と暴風が、一瞬にして私たちの体を飲み込んだ。
落ちる。
重力に引かれ、どこまでも。
けれど、あの夢とは違う。
瑠璃の細い腕が、私の背中を、魂を、壊れるほど強く抱きしめている。
彼女の匂いが、全身を包み込んだ。
雨と金属と、焦げた砂糖。――夢で、私を救ってくれた「未来」の匂い。
加速する落下の中で、私は確信していた。
――ああ、これでよかったんだ。
地面に叩きつけられるその瞬間まで、私たちは決して、離れなかった。
外の世界は、確かに過酷だった。
けれど、そこには広大な、本物の空があった。
焦げた砂糖と雨、そして金属の匂い。
夢の中で私を救い続けたあの香りが、今、現実となって私を優しく包み込んでいる。
――地面に激突する。
そう覚悟して目を閉じた瞬間、何かが私たちの落下を強引に引き止めた。
打ち捨てられた古い非常用ネットか、あるいは堆積した廃棄物の山がクッションになったのか。
全身を走る鋭い痛み。けれど、それは私たちがまだ「壊れていない」証拠だった。
瑠璃が先に体を起こし、すぐさま私の顔を覗き込んでくる。額から流れる鮮血が、彼女の白い頬を伝い落ちた。
「綾……大丈夫……っ?」
震える声。けれど、その唇には確かな歓喜の笑みが浮かんでいた。
「……うん。瑠璃こそ、その傷……」
「これくらい、平気。生きてる。……ただそれだけで、今は、十分すぎるくらいだよ」
私たちは互いを支え合いながら、泥にまみれた地面を踏みしめ、ゆっくりと立ち上がった。
視界に広がるのは、かつての文明が朽ち果てた廃墟の群れ。崩落したビル、沈黙した機械、それらを覆い尽くすように奔放に伸びる雑草。
空は重い灰色だ。けれど、分厚い雲の隙間からは、ドームの照明とは比較にならないほど鋭く、純粋な光が差し込んでいた。
ぽつり、と。頬を打つ冷たさ。
管理AIの計算に基づかない、不規則で、気まぐれで、けれど生きている雨。
瑠璃が私の手を握り直す。指と指が、もう二度と離れないように深く絡み合う。
「外……怖い?」
囁くような彼女の問いに、私は首を振った。
「ううん。瑠璃がいるから、怖くない。……むしろ、すごく綺麗だなって」
見上げる空から、少しずつ雲が千切れていく。
遠く、錆びた鉄骨の向こうから、聞いたこともないほど澄んだ鳥の囀りが響いた。
「これから、どうする?」
私の問いに、瑠璃は足を止め、眩しそうに私を振り返った。
紺碧の瞳が、朝の光を反射して宝石のように輝く。
「一緒に生きる。それだけだよ。……新しい場所を探して、二人だけの家を作って。雨が降ったら一緒に濡れて、晴れたら一緒に笑って」
瑠璃の手が、私の頬を包み込む。指先を伝う雨の雫が、二人の体温を繋ぐように滑り落ちた。
「約束だよ、綾。もう、落ちない。……もし落ちたとしても、すぐに立ち上がる。貴女が、隣にいてくれるから」
吸い寄せられるように、唇を重ねた。
雨の味がした。本物の、ほんの少しだけ苦くて、けれど泣きたくなるほど甘い、命の味。
「うん。約束。……永遠に、一緒だよ」
太陽が完全にその姿を現し、廃墟の街を黄金色に染め上げた。
崩れた壁の向こう側、遙か遠くに広がる緑の丘。そこには、私たちの知らない「何か」が、確かに待っている気がした。
私たちは、もう一度強く手をつなぎ、歩き出す。
いつの間にか雨は止み、代わりに、新しい季節を運ぶ優しい風が吹き抜けていった。
もう、落ちる夢を見ることはない。
だって、私たちは今。
この大地の上に、自分の足でしっかりと立っているのだから。
誰も知らない、廃墟の片隅。
そこには、寄り添うように二つの小さな墓標が並んでいる。
刻まれた名は、「綾」と「瑠璃」。
本物の雨が降るたび、石の表面を幾筋もの水滴が滑り落ちていく。
それは、止まらない涙のようにも見えたしあるいは、二人が今もそっと、くちづけを交わしているようにも見えた。
時折、風が吹くと、どこからか甘い匂いが鼻をくすぐる。
焦げた砂糖のような。雨に濡れた金属のような。
きっと、二人は今も一緒に生きている。
永遠に、互いの温もりを分け合いながら。
管理された偽物の楽園ではなく。
この、どこまでも広くて残酷な、本物の空の下で。
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