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短編集

落ち続ける君を、永遠に抱きとめる 〜雨のドームで交わした、偽りの空の下の約束〜

作者:
掲載日:2026/01/29

 雨が降っている。

 窓の外じゃない。ドームの天井ガラスに、無数の細かい水滴が叩きつけては、滑り落ちていく。

 その音が、静かな部屋に響き渡る。

 「演出」だということを忘れさせるほど、水滴の軌道は生々しい。

 

 湿った空気が肺に絡みついて、息をするたび胸が重くなる。

 今日の気分は「憂鬱な午後の雨」設定らしい。

 管理AIの趣味が悪い。

 ……本当に、悪趣味すぎる。


 私はソファの端に、膝を抱えて小さく縮こまっていた。

 頬を膝に押しつけて、冷たい布地の感触にすがる。

 視線は天井ガラスに吸い寄せられて、水の筋をぼんやり追う。

 一筋、また一筋。

 まるで、私の(ここ)のどこかが、ゆっくり溶け出して流れ落ちているみたいで。

 隣にいるのは、いつものように瑠璃がいてくれる。


 彼女は床に体育座りして、膝の上にタブレットを乗せている。

 細い指が、画面をゆっくりとなぞる。

 まるで世界から音を遮断しているみたい。


 青白い光が彼女の横顔を照らして、長いまつ毛に影を落とす。

 その指の動きを見るだけで、胸の奥がちくりと疼く。


 どうしてだろう。

 ただそこにいるだけで、息が少し浅くなる。

 瑠璃の髪から、ふわりと甘い匂いが漂ってくる。


 いつもの彼女の匂い。

 溶けた砂糖菓子みたいな、柔らかくて少しだけ危うい甘さ。

 雨の湿気と混ざって、余計に濃密に感じる。


 この匂いがするだけで、ドームの冷たい空気が少しだけ優しくなるはずなのに……

 今日は、なぜかそれさえ、胸を締め付けて離さない。

 私は膝に顔を埋めて、そっと息を吐いた。


 冷たいソファが頰に触れて、ひんやりする。

 また、あの夢を見たんだっけ。

 落ち続ける夢。


 今日も、昨日の続きみたいに。

 心臓が、雨音に負けないくらい、どくどくと鳴っている。

 いや、違う。

 本当は静かすぎて、自分の鼓動さえ雨に飲み込まれそうで怖い。


「……またあの夢見た?」


 瑠璃が突然口を開いた。

 視線はタブレットから外さないまま、私の方に言葉だけ投げてくる。

 その声は、雨音に溶け込むように静かで、でも、どこか鋭く胸に刺さった。

 指が画面をなぞる動きが、一瞬だけ途切れる。

 まるで、私の答えを待つみたいに。


「うん」


 私は正直に答えた。

 声が小さくて、自分でもびっくりするくらい震えていた。

 喉の奥が、乾いて、言葉を飲み込みそうになる。


「今回はちょっと違った。最後まで落ちなかった」


 瑠璃の指が、ぴたりと止まる。

 タブレットの光が、彼女の指先を冷たい青白さに染め上げた。

 ゆっくりと、まるで重力に逆らうように顔を上げて、私をまっすぐに見つめる。

 その瞳がいつもより、ずっと、深い。

 底の見えない、真冬の海のような青。

 遺伝子調整の副作用だと、彼女は以前自嘲気味にそう笑っていた。

 感情の昂りに呼応して、虹彩の色が変質してしまうのだと。

 今、瑠璃の心がどれほど激しく波打っているのか。

 饒舌すぎるその「青」が、残酷なほどはっきりと私に告げていた。

 心臓が、どくん、と大きく跳ねた。


「落ちなかったって……着地したの?」


 声が、少し掠れている。

 心配と、期待と、何か別のものが混ざった響き。


「違う。落ちてる途中で、誰かに抱きとめられた」


 一瞬、息が止まるような沈黙。

 雨音だけが、部屋を満たす。


「……誰に?」


「わかんない。顔、見えなかった」


「声は?」


「声も。……でも、すごく温かかった。腕が」


 その言葉を口にした瞬間、胸の奥が熱くなった。

 夢の中の温もりは、今でも体に残っているみたいで。

 瑠璃は小さく息を吐いて、タブレットを膝から下ろした。

 そのまま、ゆっくり、私の隣に移動してくる。

 肩が、ぴたりと寄せられた。

 いつもの距離感より、近かった。


 彼女の体温が、じんわりと伝わってくる。

 ドームの冷たさを、優しく溶かすように。

 甘い匂いが、ふわりと強くなって、私の鼻腔をくすぐる。

 砂糖を煮詰めたような、柔らかくて、けれど少しだけ、危うい甘さ。


「それ、私じゃないよね?」


 冗談めかした声。

 でも、その響きには、本気の確認が混じっていた。

 喉の奥で、言葉が詰まる。


「……たぶん」


 私は目を逸らさずに答えた。

 逸らしたら、すべて、負けそうだったから。


「だって、瑠璃の匂いはもっと甘いもん。……あの夢の中の人は、雨と金属と、少しだけ焦げた砂糖みたいな匂いがした」


 瑠璃が、くすっと笑う。

 けれど、その微笑みは、いつもより少しだけ(いびつ)に見えた。

 わずかに下がった目尻が、痛いくらいに切ない。


「ひどい。私の匂い、そんなに特徴的?」


「うん。忘れられない」


 嘘じゃない。

 この匂いがあるから、私はこの無機質なドームの中で、自分がまだ「生きて」いるのだと実感できる。


「……ずるいこと言うね、綾」


 彼女の手が、私の左手の甲にそっと重なった。

 冷たい指先。

 止まない人工雨のせいか、それとも?

 微かに震える指先の振動が、ダイレクトに伝わってくる。

 呼応するように、私の胸の奥がきゅっと締めつけられた。

 ふっと、雨音が遠のく。

 世界から色が抜け落ちて、私たち二人だけが、鮮やかに取り残されたみたいだった。


 冷たい指先。管理AIが設定した外気温のせいか、それともこの空気感だからか。


「ねえ。もし、その夢の人が私じゃなかったとしても」


 瑠璃の声が、いつもより一オクターブ低く沈む。


「私、嫉妬すると思う。……すごく、すごく、自分でも嫌になるくらい、醜く嫉妬する」


 私は、逃がさないように彼女の手を握り返した。

 浮き出た関節。細い骨の感触。

 その(もろ)さが妙に愛おしくて、胸の奥が焼き付くように熱くなる。


「――じゃあ、私が『落ちていく』夢を見たら?」


 試すような言葉が、自分の唇からこぼれ落ちた。


「瑠璃なら、どうする?」


 瑠璃は一瞬だけ瞼を閉じ、静かに、湖面が凪ぐように目を開いた。

 そこにはもう、揺らぎなんて微塵もない。ただ、射抜くような真っ直ぐな青があった。


「――落ちてくるところで、両腕を広げて待ってる」


「……キャッチできるかなって、不安になると思うよ?」


「いいよ。でも、絶対に離さない。たとえ二人まとめて地面に叩きつけられるとしても、綾だけは、絶対に離さないから」


 雨音が、一段と激しさを増した。

 ドームの天井が悲鳴を上げるほど、暴力的なまでの人工雨。

 私は瑠璃の肩に、そっと頭を預けた。

 髪から零れ落ちる、いつもの甘い匂い。

 夢の中の誰かとは違う。けれど、今この瞬間の私を救ってくれる唯一の真実。


「……瑠璃」


「ん?」


「……いま。私、落ちてるみたい」


「ふふっ。じゃあ、私の受け止める番だね」


 彼女の腕が、私の背中に回る。

 奪い去るように強く、それでいて、壊れものを扱うように優しい力で。

 外の雨は、まだ止まない。

 けれど、この腕の中にいる限り。

 もう二度と、奈落を恐れる必要なんてないのだ。


 あれから、雨は止まなかった。

 いや、正確には「止める許可」が下りなかったのだ。

 ドームの管理AIが『感情安定化プログラム』の一環として、この人工雨を四十八時間延長することを決定したらしい。


 理由は「住民のメンタルヘルス向上のため」

 笑えるくらいに、反吐(へど)が出るほど偽善的だった。


 瑠璃と私は、ソファから動かずにいた。

 膝を寄せ合い、指を絡め、時々、どちらからともなく浅いキスを交わす。

 言葉は、もう必要なかった。

 何年も隣にいて、互いの呼吸の深ささえ知り尽くしている。

 ……けれど、今日という日は、そのいつもが通用しなかった。


 瑠璃が唐突に体を離し、弾かれたように立ち上がる。

 窓際まで歩み寄り、冷徹な天井ガラスにその掌を叩きつけた。

 彼女の指の形をなぞるように、無機質な水滴が歪んで流れ落ちていく。


「綾」


 背中越しに届いた声は、今にも壊れそうなほどに震えていた。


「私、もう――限界かも」


 私はソファを抜け出し、彼女の背にそっと腕を回した。

 抱きしめた肩は、驚くほど小さく、小刻みに震えている。


「限界って……何が?」


「全部だよ。このドームも、止まない雨も、この安っぽい偽物の空も。……私たちが、ここで死ぬのを待つだけの家畜だって事実も、全部」


 振り返った彼女の瞳は、溢れ出した涙で濡れ、ひどく濁っていた。

 遺伝子調整の副作用――激昂に呼応した虹彩が、闇のような紺碧へと変質していく。


「ねえ、夢の話……覚えてる?」


 瑠璃が、縋るような熱を込めて囁いた。


「あの――落ちていく途中で抱きとめられた夢」


「うん……忘れられるわけないよ」


「あれ……私だったのかもしれない」


「……え?」


 思考が白く染まる。けれど、瑠璃の言葉は止まらない。


「顔は見えなかったって言ったよね。でも、匂いがしたって。雨と、金属と、少しだけ焦げた砂糖の匂い」


 私は、喉を鳴らして息を飲んだ。


「それ、私の――『昔の私』の匂いなんだよ。子供の頃、ドームの外周メンテナンスエリアを遊び場にしてた。焦げた回路と、古いオイルの匂い。それから、隠れて舐めてたキャンディの、少しだけ苦い甘さ……」


 瑠璃が私の頰に手を添える。冷たかった指先が、今は私の体温を奪うほどの熱を帯びている。


「つまり、あの夢は未来の私たちが、過去の綾を、今の綾を受け止めたってことなんだよ」


「……どういう、意味?」


「脱出するんだよ、綾。もう、待てない。AIの許可なんて、死ぬまで下りない。私たちで、この偽物の空をぶち破るんだ」


 外。そこは、誰もが「死」と呼んで忌み嫌う場所。

 薄い酸素、牙を剥く放射能、狂ったように変動する気温。人間が生きることを許されない、呪われた不毛の地と言われてる。

 けれど、瑠璃の瞳に宿る「青」を見れば、そこに迷いなど微塵もなかった。


「一緒に落ちよう」


 彼女が、甘く囁く。


「今度は、私が下で待ってる。綾が落ちてくるのを、両腕を広げて」


 私は、答えの代わりに彼女の唇を奪った。

 短く、けれど命を分け合うような、深く、鋭いくちづけ。


「……うん。一緒だよ。どこまでも」


 その夜、私たちはドームの最下層、世界の底へと向かった。

 メンテナンス用の、錆びついた古い排気ダクト。管理AIの監視が最も薄い、死角。

 瑠璃が何年もかけて、執念でハッキングし続けた非常用ハッチの前に立つ。

 ハッチの隙間から、外の風が細く、鋭く入り込んできた。

 生々しく、冷酷な、金属と土の匂い。

 瑠璃が、折れそうなほど強く私の手を握る。


「――怖い?」


「うん。……でも、瑠璃がいるから。だから、怖くない」


 彼女が微笑んだ。それは、ドームの空よりもずっと優しく、眩しい笑顔。


「じゃあ、行こうか」


 ハッチが開放される。

 暗闇と暴風が、一瞬にして私たちの体を飲み込んだ。


 落ちる。

 重力に引かれ、どこまでも。

 けれど、あの夢とは違う。

 瑠璃の細い腕が、私の背中を、魂を、壊れるほど強く抱きしめている。

 彼女の匂いが、全身を包み込んだ。

 雨と金属と、焦げた砂糖。――夢で、私を救ってくれた「未来」の匂い。

 加速する落下の中で、私は確信していた。

 ――ああ、これでよかったんだ。

 地面に叩きつけられるその瞬間まで、私たちは決して、離れなかった。

 外の世界は、確かに過酷だった。

 けれど、そこには広大な、本物の空があった。


 焦げた砂糖と雨、そして金属の匂い。

 夢の中で私を救い続けたあの香りが、今、現実となって私を優しく包み込んでいる。


 ――地面に激突する。

 そう覚悟して目を閉じた瞬間、何かが私たちの落下を強引に引き止めた。

 打ち捨てられた古い非常用ネットか、あるいは堆積した廃棄物の山がクッションになったのか。

 全身を走る鋭い痛み。けれど、それは私たちがまだ「壊れていない」証拠だった。

 瑠璃が先に体を起こし、すぐさま私の顔を覗き込んでくる。額から流れる鮮血が、彼女の白い頬を伝い落ちた。


「綾……大丈夫……っ?」


 震える声。けれど、その唇には確かな歓喜の笑みが浮かんでいた。


「……うん。瑠璃こそ、その傷……」


「これくらい、平気。生きてる。……ただそれだけで、今は、十分すぎるくらいだよ」


 私たちは互いを支え合いながら、泥にまみれた地面を踏みしめ、ゆっくりと立ち上がった。

 視界に広がるのは、かつての文明が朽ち果てた廃墟の群れ。崩落したビル、沈黙した機械、それらを覆い尽くすように奔放に伸びる雑草。

 空は重い灰色だ。けれど、分厚い雲の隙間からは、ドームの照明とは比較にならないほど鋭く、純粋な光が差し込んでいた。


 ぽつり、と。頬を打つ冷たさ。

 管理AIの計算に基づかない、不規則で、気まぐれで、けれど生きている雨。

 瑠璃が私の手を握り直す。指と指が、もう二度と離れないように深く絡み合う。


「外……怖い?」


 囁くような彼女の問いに、私は首を振った。


「ううん。瑠璃がいるから、怖くない。……むしろ、すごく綺麗だなって」


 見上げる空から、少しずつ雲が千切れていく。

 遠く、錆びた鉄骨の向こうから、聞いたこともないほど澄んだ鳥の囀りが響いた。


「これから、どうする?」


 私の問いに、瑠璃は足を止め、眩しそうに私を振り返った。

 紺碧の瞳が、朝の光を反射して宝石のように輝く。


「一緒に生きる。それだけだよ。……新しい場所を探して、二人だけの家を作って。雨が降ったら一緒に濡れて、晴れたら一緒に笑って」


 瑠璃の手が、私の頬を包み込む。指先を伝う雨の雫が、二人の体温を繋ぐように滑り落ちた。


「約束だよ、綾。もう、落ちない。……もし落ちたとしても、すぐに立ち上がる。貴女が、隣にいてくれるから」


 吸い寄せられるように、唇を重ねた。

 雨の味がした。本物の、ほんの少しだけ苦くて、けれど泣きたくなるほど甘い、命の味。


「うん。約束。……永遠に、一緒だよ」


 太陽が完全にその姿を現し、廃墟の街を黄金色に染め上げた。

 崩れた壁の向こう側、遙か遠くに広がる緑の丘。そこには、私たちの知らない「何か」が、確かに待っている気がした。

 私たちは、もう一度強く手をつなぎ、歩き出す。

 いつの間にか雨は止み、代わりに、新しい季節を運ぶ優しい風が吹き抜けていった。


 もう、落ちる夢を見ることはない。

 だって、私たちは今。

 この大地の上に、自分の足でしっかりと立っているのだから。


 誰も知らない、廃墟の片隅。

 そこには、寄り添うように二つの小さな墓標が並んでいる。

 刻まれた名は、「綾」と「瑠璃」。


 本物の雨が降るたび、石の表面を幾筋もの水滴が滑り落ちていく。

 それは、止まらない涙のようにも見えたしあるいは、二人が今もそっと、くちづけを交わしているようにも見えた。


 時折、風が吹くと、どこからか甘い匂いが鼻をくすぐる。

 焦げた砂糖のような。雨に濡れた金属のような。

 きっと、二人は今も一緒に生きている。

 永遠に、互いの温もりを分け合いながら。


 管理された偽物の楽園ではなく。

 この、どこまでも広くて残酷な、本物の空の下で。

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