表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

嘘の世界1

刻字のない木札端

作者: ハル

床がわずかに震えていた。

揺れているのに、景色の端に貼られた白い境界線だけは動かない。


ここは「待つ」ために作られた場所だと、みんなが口にせず知っている。

僕はその中央の台に立ち、木札を配る係だった。


僕の判断基準は単純だ。

先に並んだ者を先に呼ぶ。

割り込みは戻す。


声が大きいとか、泣いているとか、善人とか、そういう属性は存在しても意味を持たない。

列は列だ。

僕は列だけを見る。



今日は入口が四つ見えた。

いや、五つだったかもしれない。


見えている入口と、入ってくる人数がいつも噛み合わない。

それでも列はできる。列ができれば、僕は木札を渡せる。


木札には短い言葉が刻まれている。「次」。それだけだ。


最初に来たのは帽子のない老人で、次に赤い靴の女、次に子ども。

子どもは札を受け取ると、裏返して覗き込み、突然、台の脚を叩いた。


「これは何だ?」


僕は答えなかった。答える必要がない。札は札だ。

刻まれた言葉は「次」で、次は次だ。


子どもは叩くのをやめ、列に戻った。

列は進む。それだけで良かった。



呼び声は天井のない上から降りてくるはずだった。

誰かが札を握りしめ、呼ばれ、境界線の向こうへ行く。


その一連は、ここでの唯一の流れだ。

僕の仕事は、その流れを詰まらせないことだ。



ところが、今日は呼び声が落ちてこない。


最初の老人が札を掲げたまま、軽く首を傾げた。

赤い靴の女は唇を動かして何かを数え、子どもは再び台の脚を叩こうとしてやめた。


周囲の人たちは動じない。

動じるという反応が、ここではまだ薄い。


僕は列を見て、札を配り続けた。

先に並んだ者を先に。割り込みは戻す。

基準は揺れない。

揺れるのは床だけでいい。



呼び声が来ないなら、来るまで待てばいい。


そう思った瞬間、待つという行為の手触りだけが残り、来るべきものの影が薄くなった。


誰も「何を」待っているのかを言えない。

言えないのに列は続く。


目的はまだある。呼ばれるはずだ、と皆が同じ向きに目を向ける。

けれど結果だけが、どこにも接続しない。



僕は札の束を数えた。

減っている。配っているからだ。

配れば減る。

それはここでも成立する。


老人の手の中の札も確かにある。

赤い靴の女の指にも、子どもの握りこぶしにも、同じ「次」が刻まれている。

規則は成立している。主体もいる。目的もある。


結果だけが来ない。


境界線の外側を見た。

境界線の外側は、境界線の内側と同じように揺れていた。


移動していないのに動いている。



遠くに、誰も触れていない水たまりがあり、波紋だけが更新され続けている。

そこに呼び声が沈んでいるのかもしれないと一瞬思い、思ったことが薄くなった。


推測はここでは重みを持たない。


赤い靴の女が僕に近づき、札を差し出した。

「次」と刻まれた面を僕の鼻先に向ける。匂いはしない。

女は笑っているのか、笑いの形をしているのか分からない顔だった。


「次、って、いつ?」


僕は列の先頭を指した。

先に並んだ者を先に呼ぶ。それ以上はない。


女は納得したように頷き、列に戻った。

納得という言葉も、ここでは薄い。



子どもが境界線に近づき、線の上に片足を置いた。

置いた瞬間、足首から先だけが境界の外に見え、膝から上は内側に残った。


上下の区別ではなく、内外がずれたまま静止した。

子どもはそれでも札を握っている。握る手は内側だ。


僕は子どもを列に戻そうとした。

割り込みではないが、列の秩序が崩れる予感がしたから。

けれど子どもは振り返らず、線の上で身体の角度だけを調整した。


まるで、呼び声が来る位置に耳を合わせるみたいに。



そのとき、入口の一つが閉じた。

閉じたというより、入口だったことがなかったように壁になった。

壁は以前からそこにあったような顔をしている。


入口の数が合わないまま、でも誰も困らない。

困るという結果が、最初から約束されていない。


僕の手元の札の束を見た。束の端に、今までなかった札が一枚混じっている。

「次」ではない。白紙だ。

表も裏も白紙で、木目だけが流れていた。


僕はそれを抜き取り、列の先頭の老人に渡した。

基準は守った。先頭だからだ。


老人は白紙を受け取り、札を掲げた。

掲げたまま、ずっと待ちの姿勢で立っている。

床は揺れ続ける。境界線は動かない。呼び声は落ちてこない。



僕は残りの札を数えた。

配った数と一致しているはずなのに、一つだけ合わない。


どれが余ったのか、どれが足りないのか、数えるたびに場所が変わる。

それでも列は前へ進む形だけを保つ。


子どもの足首の先が、境界の外で小さく揺れた。

波紋みたいに。


僕は次の札を取ろうとして、指先を止めたまま、台の上で手を開ききれずにいる。

白紙の札だけが、老人の手の中で、まるで文字があるふりをして揺れていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ