刻字のない木札端
床がわずかに震えていた。
揺れているのに、景色の端に貼られた白い境界線だけは動かない。
ここは「待つ」ために作られた場所だと、みんなが口にせず知っている。
僕はその中央の台に立ち、木札を配る係だった。
僕の判断基準は単純だ。
先に並んだ者を先に呼ぶ。
割り込みは戻す。
声が大きいとか、泣いているとか、善人とか、そういう属性は存在しても意味を持たない。
列は列だ。
僕は列だけを見る。
今日は入口が四つ見えた。
いや、五つだったかもしれない。
見えている入口と、入ってくる人数がいつも噛み合わない。
それでも列はできる。列ができれば、僕は木札を渡せる。
木札には短い言葉が刻まれている。「次」。それだけだ。
最初に来たのは帽子のない老人で、次に赤い靴の女、次に子ども。
子どもは札を受け取ると、裏返して覗き込み、突然、台の脚を叩いた。
「これは何だ?」
僕は答えなかった。答える必要がない。札は札だ。
刻まれた言葉は「次」で、次は次だ。
子どもは叩くのをやめ、列に戻った。
列は進む。それだけで良かった。
呼び声は天井のない上から降りてくるはずだった。
誰かが札を握りしめ、呼ばれ、境界線の向こうへ行く。
その一連は、ここでの唯一の流れだ。
僕の仕事は、その流れを詰まらせないことだ。
ところが、今日は呼び声が落ちてこない。
最初の老人が札を掲げたまま、軽く首を傾げた。
赤い靴の女は唇を動かして何かを数え、子どもは再び台の脚を叩こうとしてやめた。
周囲の人たちは動じない。
動じるという反応が、ここではまだ薄い。
僕は列を見て、札を配り続けた。
先に並んだ者を先に。割り込みは戻す。
基準は揺れない。
揺れるのは床だけでいい。
呼び声が来ないなら、来るまで待てばいい。
そう思った瞬間、待つという行為の手触りだけが残り、来るべきものの影が薄くなった。
誰も「何を」待っているのかを言えない。
言えないのに列は続く。
目的はまだある。呼ばれるはずだ、と皆が同じ向きに目を向ける。
けれど結果だけが、どこにも接続しない。
僕は札の束を数えた。
減っている。配っているからだ。
配れば減る。
それはここでも成立する。
老人の手の中の札も確かにある。
赤い靴の女の指にも、子どもの握りこぶしにも、同じ「次」が刻まれている。
規則は成立している。主体もいる。目的もある。
結果だけが来ない。
境界線の外側を見た。
境界線の外側は、境界線の内側と同じように揺れていた。
移動していないのに動いている。
遠くに、誰も触れていない水たまりがあり、波紋だけが更新され続けている。
そこに呼び声が沈んでいるのかもしれないと一瞬思い、思ったことが薄くなった。
推測はここでは重みを持たない。
赤い靴の女が僕に近づき、札を差し出した。
「次」と刻まれた面を僕の鼻先に向ける。匂いはしない。
女は笑っているのか、笑いの形をしているのか分からない顔だった。
「次、って、いつ?」
僕は列の先頭を指した。
先に並んだ者を先に呼ぶ。それ以上はない。
女は納得したように頷き、列に戻った。
納得という言葉も、ここでは薄い。
子どもが境界線に近づき、線の上に片足を置いた。
置いた瞬間、足首から先だけが境界の外に見え、膝から上は内側に残った。
上下の区別ではなく、内外がずれたまま静止した。
子どもはそれでも札を握っている。握る手は内側だ。
僕は子どもを列に戻そうとした。
割り込みではないが、列の秩序が崩れる予感がしたから。
けれど子どもは振り返らず、線の上で身体の角度だけを調整した。
まるで、呼び声が来る位置に耳を合わせるみたいに。
そのとき、入口の一つが閉じた。
閉じたというより、入口だったことがなかったように壁になった。
壁は以前からそこにあったような顔をしている。
入口の数が合わないまま、でも誰も困らない。
困るという結果が、最初から約束されていない。
僕の手元の札の束を見た。束の端に、今までなかった札が一枚混じっている。
「次」ではない。白紙だ。
表も裏も白紙で、木目だけが流れていた。
僕はそれを抜き取り、列の先頭の老人に渡した。
基準は守った。先頭だからだ。
老人は白紙を受け取り、札を掲げた。
掲げたまま、ずっと待ちの姿勢で立っている。
床は揺れ続ける。境界線は動かない。呼び声は落ちてこない。
僕は残りの札を数えた。
配った数と一致しているはずなのに、一つだけ合わない。
どれが余ったのか、どれが足りないのか、数えるたびに場所が変わる。
それでも列は前へ進む形だけを保つ。
子どもの足首の先が、境界の外で小さく揺れた。
波紋みたいに。
僕は次の札を取ろうとして、指先を止めたまま、台の上で手を開ききれずにいる。
白紙の札だけが、老人の手の中で、まるで文字があるふりをして揺れていた。




