ある善良な冒険者の話
「ヨハン兄さんは一番上の兄で、Cランクの冒険者だったわ」
ただ経験を積んだだけでなれるのはDランクが限界だと言われる。
Cランク以上に上がるには、才能がいる。
だからマリアンの兄のヨハンは、とても才能のある冒険者だったのだろう。
「若くしてCランクになったヨハン兄さんはみんなの憧れだったわ。なのに誰にでも分け隔てなく接する甘い人で、お人好しだった……だから依頼でもないのにどこかでダンジョンが崩壊したと聞いたらわざわざ出向いて、救援活動を手伝うような人だった。父さんや他の兄さんたちも、ヨハン兄さんに呆れながらもそれを手伝ってあげたそうよ。逃げるあてもないFランク以下のやつらのために、うちの商会の物資を分けて炊き出しをしてやったりね」
マリアンが言葉を選んでいるのが伝わってくる。
それでも、Fランク以下の人々への憎悪が滲み出る。
「ある時、兄さんはダンジョンからあふれ出した魔物――Cランクのサイクロプスと戦った。兄さんもCランクだけど、本来はパーティーで倒す魔物よ。それでも兄さんは辛うじて魔物を倒したけれど、深手を負ったの。その報せを手紙で受け取った時、父さんも兄さんたちも出払っていて、動けるのが私しかいなかった。私が十歳の頃よ」
マリアンはカレンたちより二歳年上なのだ。
カレンがマリアンと出会ったのは、その直後だろう。
赤い目を見開き、マリアンは過去を見つめて震えながら言う。
「だから私が出向いたわ。私が辿り着いた時には、兄さんは虫の息だった。深手を負った状態で、手当だけはされていたけれど怪我は悪化していた。回復ポーションを使っていなかったのよ。うちからたくさんポーションを送ったはずなのに、全部使いきってしまったって言うのよ。そして、すぐに死んだわ。よく持ちこたえていたけれど、怪我が悪化して……ひどいことになっていたのよ」
マリアンは怒りに打ち震えながら「でもね」と呟いた。
「持っていたのよ。兄さんの看病をしていた、女が。私が兄さんのために手配して送らせたポーションを、持っていたのよ! コソコソして、後ろめたそうにしながら荷物を私から隠そうとしたからピンと来て、うちの下男に押さえさせて、荷物を漁らせたら出てきたのよ!!」
マリアンは拳を机に叩きつける。
机が揺れたが、誰もそれを咎めはしなかった。
「兄さんからもらったって言っていたわ。兄さんが配ったんですって。逃げた流民の夫が帰ってきた時に怪我をしていたら使ってあげたいからと、兄さんが苦しんでいるのに使わなかった!! ――調べたら、他にもそういうやつがゴロゴロ出てきたわ」
マリアンは、カレンを睨みつけた。
「今後、回復ポーションなんて二度と手に入らないかもしれないからって、自分たちを守るために戦った兄さんのために回復ポーションを使うのを渋ったやつらが、ぞろぞろとね……Fランク以下の戦えもしない、他人の足を引っぱるしかできないゴミ共よ!」
「それがマリアンがFランクを憎む理由なんだね。だから、わたしの石鹸を盗んだの?」
「……いいえ、違う。あの頃はまだ、あんたに才能があるかどうかなんてわからなかった。ただ、待てなかったの。あんたの許可を得る暇も惜しかった。これがあれば兄さんも助かったかもしれないと思ったから」
カレンとしては、十分同情できる理由だった。
大好きな兄を助けられたかもしれない石鹸を見て、我慢できずにレシピを奪ってしまった。
このレシピで、兄と同じように亡くなる冒険者を減らしたい。
その動機自体は立派なものだとも思った。
Fランクのカレンに対する軽侮と憎悪も理解できる。
正直、石鹸やライオスを奪われたことへの怒りはもうなかった。
カレンの人生にとって、どちらももう必要のないものだった。
こうして理由がわかれば、どちらかというと気の毒さを覚えるほどだ。
石鹸を盗んだ当時のマリアンは、小学生ぐらいの年齢の子どもなのだ。
元々、謝られればいつだって許してあげようと思っていたくらいだった。
だけどナタリアとサラはまだ白けている様子である。
それなのにマリアンは正直に続けた。
「だから、そのあと錬金術師になったあんたがいつまで経ってもFランクでいるのを見たときは、安心したわ。私は間違っていなかったんだと思った。Fランクなんて自分のことしか考えていないから、冒険者たちのために一刻も早く普及する必要があると言っても、自分の利益にしがみついて話にならないだろうから」
「マリアンさあ、それ言っちゃう? わたしを説得する気あるの?」
カレンをというより、カレンの背後に控えるナタリアとサラを。
マリアンにだけ見えるようにカレンが目配せするのを見て、マリアンがうんざりしたように溜め息を吐いた。
「聞き心地のいい嘘を言ったって仕方ないでしょう。本当に吐き気がするほど甘っちょろいわね、カレン」
「あのさー、マリアン。言葉には気をつけようね??」
ここはマリアンにとってのアウェーだよ?
カレンの忠告を、マリアンは鼻で笑った。
「じゃあ何よ。私に同情できる過去があったら、あんたは許すわけ? 涙ながらに謝ったら、私があんたから莫大な利益を、名声を奪った罪を見逃すっていうの!? 馬鹿じゃないの! そんなこと、あんたが許したってそこの二人が許すわけがないでしょう!!」
「馬鹿じゃないのかってところは同意見」
「僭越ながら」
うなずくナタリアとサラを背景に、カレンは困った顔をしてマリアンを見つめた。
「じゃあ、マリアンはどうするつもりなの?」
「あんただけなら口先で騙くらかせそうだったから、そうしてやろうかと半ば本気で思いかけていたけれど……元々はこれを渡すつもりだったわよ」
そう言って、マリアンは一枚の紙をぺらりとカレンの前に突きつけた。
書かれた文句にカレンは目を丸くした。
「無許可で石鹸を販売していたことを許してくれるのなら、私、マリアン・グーベルトは賠償代わりにカレンに年季を売って働くわ」
「年季労働者って、それって……!」
カレンは顔をしかめた。カレンの知る限り、それはほとんど奴隷の身分だ。
借金をした人や、犯罪者がなるものだ。
この世界では魔物が出現しない場所が貴重だから、犯罪者を収容して悔い改めさせるための刑務所のような施設は存在しないのだ。
修道院が似た機能を持っているものの、身分の高い軽犯罪者向けの施設である。
もちろん、年季を売る際に条件は付けられるが――マリアンが提示した契約書にはマリアンの身を守る条項がない。
しかも、すでに契約書にはマリアンの名前が署名されているのに、年季の数字部分が空欄だった。
「好きな数字を書きなさい。それぐらいの覚悟はしてきたから」
それがどれほどの覚悟がなければ吐けない台詞なのか。
想像もできず、カレンはごくりと息を呑んだ。