王国の掟 ディーヒルド視点
「私は錬金術師カレンの目にどのように映っていただろうか?」
王妃宮の浴室で、王妃ディーヒルドは体を洗わせていた。
上は三十代から六人の子どもを産んだとは思えない年齢不詳の艶めかしい肢体を惜しげもなく晒し、しみついた薔薇の香りを落としていく。
体を泡立てるのは錬金術師カレンが売っている王女印の化粧品セットのうちの一つ、美肌の石鹸である。
カレンがカモミールと呼ぶ花と同じ香りのするこの石鹸ポーションは、彼女の弟子でもいまだ再現は不可能とのことで、欠品が続いている。
この石鹸が手に入らぬ者たちは仕方なく、カレンが公開している石鹸のレシピにならって石鹸を作る商人たちから、ポーションではないただの石鹸を購入しているという。
ポーションとしての効果のない石鹸でも、使った方が肌艶はよくなり清潔を保てるそうだ。
香料の使われていない固形石鹸は、すでに王国騎士団や近衛騎士団の戦略物資としても組み込まれている。
軟石鹸より取り扱いやすく、汚れが落ちやすいと重宝されているそうだ。
騎士団はそれぞれ納品実績を積んでいる最中のEランクの中でも殊更優秀な錬金術師たちに対して石鹸ポーションの納品を要求しているそうだが、今のところ、他にこの石鹸ポーションを納品できた錬金術師はいないと言う。
個人依頼を受けるCランクの錬金術師たちも作れず、Bランクともなれば他者のレシピを押しつけられることを嫌う高い矜持があるので無理強いもできない。
だが、たとえ無理強いされたとて作れないのだろう。
ディーヒルドも王国錬金術師に訊ねてみたが、王国錬金術師ですら、あのポーションを作ることは未だ叶わないのだと言う。
カレンに圧力をかけようとする貴族もいたが、それはディーヒルドが止めるまでもなく、どこかで止まった。
特に冒険者ギルドの高ランク冒険者が関わると、王家ですら力の流れを把握できなくなる。
ディーヒルドの体を洗い終えると女官たちが退いていく。
浴槽に身を横たえたディーヒルドのもとには三人の侍女たちだけがその場に残り、ディーヒルドの質問に答えた。
「平凡な平民の娘としては、王妃陛下ともあろう方が気さくに声をかけてくださることに感じ入るかと」
「低ランクの冒険者であったがゆえに捜索隊を出してもらえなかった冒険者の父を持つ娘としては、王妃陛下が義務を果たさぬにも関わらず気にかけられているヴァルトリーデ王女殿下に見せる母としての顔に嫌悪を持ったかと」
「ヴァルトリーデ王女殿下の友人としては、王妃陛下の薄情さに胸を痛めているかもしれません」
三人の侍女たちが三者三様に意見を述べる。
そのどれも十分ありえる。
カレンが表に出して見せたのは三番目のヴァルトリーデの友人としての感情だったが、それが演技という可能性もありえるのだ。
「錬金術師カレンのあの言動が演技だとすれば、今日の私の対応は実に中途半端であったな」
だが、カレンがどういう意図を隠していたとしても決定的な過ちとはならなかったろう。
国を第一に想う王妃に見えただろう。娘を贔屓しているようには見えなかっただろうが、母としての未練も捨てきれていないように見えただろう。
ディーヒルドは盛大に溜息を吐いた。
冒険者ギルドが動いてAランク冒険者を一人拘束したということがわかっている。
そのAランク冒険者はダンジョン調査隊の参加者で、ダンジョン調査隊でパーティーメンバーであり夫でもあったパートナーを失ったことで心の均衡を失ったそうだ。
恨みはダンジョン調査を命じた国王に向いてもおかしくなかった。
だが、その恨みはカレンに向かい、しかしカレンに届く前に何者かの働きかけにより冒険者ギルドを通じて治められた。
Aランクともなれば、冒険者は人族の宝である。
貴重な戦力の意思を曲げることが許されるのは、それ以上の戦力か、はたまた能力を持つ者にしか許されない。
もしもすべての冒険者たちに背を向けられれば、国というものは滅びるものなのだ。
ディーヒルドがまだ少女だった頃、そうやって滅びた国があった。
「しかし、ダンジョンで一体何があったらペガサスを従魔にすることになるのだ? ヴァルトリーデの説明ではまるでわからん」
呼び出して説明させたが、ヴァルトリーデはディーヒルドを前にすると怯えるため、その説明が要領を得なかった。
ダンジョンの八階層にペガサスがいたのだという。
アースフィル王国の転覆を目論む者たちに攫われた我が子の卵を取り返しに来たペガサスから、その卵を譲り受けたのだという言葉だけを聞けば、まるでシビラ王の再来のようだが実態は違う。
よくよく聞き出せば、ヴァルトリーデはことの成り行きの大半を気絶していたためによく理解していないという。
すべての段取りをつけたのは、錬金術師カレン。
この錬金術師は果たしてどういうつもりで、この状況を作り上げたのか。
何故冒険者ギルドを動かすほどの影響力を持っているのか――冒険者ギルドの差し金か?
「これまでは陛下に諦められていたからこそ大した試練を与えられなかったのだと言うのに、この調子では陛下にどのような試練を課されるかもわからん」
「ご心配ですの?」
「心配? そうさな。これ以上ヴァルトリーデを余計に目立たせて、冒険者たちにアースフィル王国が見限られぬか心配でたまらぬ」
かつてゼクタス王国という国があった。
王都から西に進み、大河グラナスを越えた先にあるディーヒルドの生まれ故郷の更に先、西の森を越えた先に存在していた。
この国は傲慢な王と貴族たちの横暴に耐えかねた冒険者たちに見捨てられ、大氾濫を止められずに滅んだのだ。
そのありさまをディーヒルドが実際に見たわけではない。
西の森は未だ攻略されていないダンジョンがいくつも存在する、大陸中央の大森林の片割れである。
この森を越えられるのは実力のある冒険者や、冒険者に守られたわずかな者たちだけだった。
それでも、国交はあった。
だがある日を境にその国交は途絶えた。
ディーヒルドが見たのは、森を越えてくる大勢の冒険者たちである。
実力を持つ冒険者たちが、自分たちにとって本当に大事な人間だけを守りながら森を越えてアースフィル王国に、ディーヒルドの領地にやってきた。
「冒険者たちにとって祖国とは必ずしも守らねばならないものではない。
だが、彼らは強者であればあるほど女神の試練に慣れている。ゆえに筋の通った理には従ってくれる。彼らにアースフィル王国が敷く掟が理不尽であると思わせてはならぬ」
両親が森を越えてやってきた冒険者たちをその家族ごと歓迎し迎え入れる姿を見て、ディーヒルドは国家規模で同じようにすると決めた。
そのために熾烈な争いを経て王妃となってここにいる。
国王には国王の考えがあるようだが、ディーヒルドは共有を許されないその考えの結果を待っていられるほど気が長くない。
ディーヒルドが浴槽から上がると、侍女たちがディーヒルドの体を拭い、ローブを羽織らせる。
「引き続きヴァルトリーデを監視せよ」
厄介なことに血筋は正統。
ペガサスの存在は王祖シビラがヴァルトリーデを認めた証のようにも見える。
ただ太っているだけではない、ぶくぶくと歪に膨らんだ醜い姿のままであったならまだしも、見た目だけはディーヒルドが王妃の座を射止めた娘の頃とよく似た姿になってしまった。
何も知らぬ国民の――冒険者の目から見れば、ヴァルトリーデはアースフィル王家を象徴するような存在だろう。
「もしもヴァルトリーデがアースフィル王国の国益に反するようであれば――」
生まれたばかりのヴァルトリーデを抱いた時の柔らかさや、甘やかな香りの感覚がまざまざと蘇ったが、ディーヒルドは目を逸らすようにいつの間にか背後に現れ跪く黒装束の者たちに視線をやった。
「――よきにはからえ」
「はっ」
応答後たちまち姿を消した者たちを見送り、ディーヒルドは長椅子に腰かけると侍女が注いだブドウ酒を一気に飲み干した。