たなごころの上
「あの薔薇園が見えるか?」
「はい」
連れ出されたのは王宮の庭園だった。
エーレルトも見事だったが、さすが王宮の庭園は広く、にもかかわらず手入れが行き届いていた。
絢爛に咲き乱れる真っ赤な薔薇の花畑の中に、埋もれるように小さな宮殿がある。
ふわりと濃い甘い香りを乗せた風がカレンたちのもとまで届いた。
「あれは薔薇の宮殿という。あの庭園のことを知っているか?」
「聞き覚えがあるような気はしますが……思い出せません」
「あれは毒婦の宮殿だ」
毒婦、というおっかない単語にカレンは背筋を正しつつも、一人の人物をきちんと思い浮かべてしまった。
第一側妃、ベネディクタ。
「薔薇の宮殿には毒婦が暮らしている。あの庭園はその毒婦が丹精込めて手入れをしている薔薇の庭園だ」
そういえば以前、イザークに濡れ衣を着せられそうになった時に、その原因となった側妃ベネディクタは、国王によって謹慎するように命じられた。
その時に出てきたのが薔薇の宮殿だ。
王妃は何を考えているのか読めない目をして薔薇に埋もれる小さな宮殿を見すえて言う。
「どういう育て方をしているのか、年々香りが濃く甘くなっている。ここからでもこれほどの甘い香りがするのだ。庭園の中に入ればむせかえるような薔薇の香りで満ち、息もできないほどであろう。だが、陛下の鼻は慣れてしまっているようでな。最近はもう違和感も覚えないらしい。そなたはどうだ?」
「ここから香る分にはとても甘い香りだな、と思うくらいです」
芳香成分が多いのだろう。
香水にポプリに、色々なことに使えそうだな、と思ったカレンだったが、王妃の薔薇園に対する口調は明らかに批判的なので口には出さなかった。
「では、中へ入るぞ」
侍女や女官に命じて、王妃が庭園の中に入っていく。
カレンはそのあとに続きながら、周囲を見渡した。
「えっと、ここには側妃様がいらっしゃるんですよね?」
ダンジョンでの恐らくはベネディクタが絡んだ思惑を阻止したのはまさにカレンだ。
会えば嫌味を言われるだけでは済まないだろう。
カレンがビクビクしているのを、王妃は横目で見下ろした。
「安心せよ。今日は毒婦はここにはいない。陛下と遠乗りに出かけるそうだ」
王妃は平然と言う。自分の夫が自分以外の女とデートに出かけたというのに、よくそこまで平然としていられるな、とカレンとしては信じられない気持ちである。
これが貴族や王族の常識であるならば、カレンが貴族社会で生きるのは間違いなく無理だろう。
「近衛騎士団には、あの毒婦が丹精を込めて腐らせた貴族の子弟が陛下の許可を得て潜り込んでいる。陛下はそれもまた試練だとおっしゃったが、先日ついに、あの毒婦は私の息子までをも腐らせた。陛下に言わせれば、息子は試練を乗りこえられなかったというわけだな」
ボロミアスのことだろう、と見当は付いたものの、もちろんカレンは口を噤んでおいた。
王妃はどんどん薔薇園の中心部にある小さな宮殿に向かって進んでいく。
事前に王妃が言っていた通り、薔薇の香りはどんどん濃くなっていく。
どろりと肺に絡みつくような甘い香りだ。
呼吸しているだけで噎せて、カレンは思わず咳き込んだ。
「ケホッ、す、すみません」
「構わぬ。――ゆえに今、我が子たちはアースフィル王国の王位継承権を争っている」
「そ、そうなんですね」
カレンは咳を我慢しながら適当に相槌を打った。
何故そのような話をされるのか意味もわからないし、正直に言えば、興味がない。
カレンは平民で、平民にとって為政者とは気がついたら代わっているもので、代わったとて自分には関わり合いのないものである。
その政策は自分たちの人生に確かに関わってくるのだろうが、その政策がそもそも聞こえてこないので実感もない。
前世の記憶があるカレンなので、政治に多少の興味はある。
だが、もしも自分たちにとってよほど不利益な政策を国が執るならば、この国を捨てて出ていけばいい、という考え方が根本にある。
これは前世の考え方というより、父親から受けた冒険者の教えによるものだろう。
薔薇の宮殿の前までくると、カレンだけでなく侍女たちも息苦しそうにしていて、王妃はハンカチで口許を覆っていた。
「腐りきった果実のような香りだ。一体どのように育てたらここまで薔薇を狂わせられるのか……そうは思わぬか?」
言うと、王妃はくるりと薔薇の宮殿に背を向けて庭園の外に向かって歩き出す。
口を開くと吐きそうで、カレンは返事もできなかった。
「本当は兄弟で争っている場合ではないのだ。我々が戦わねばならない相手は常に魔物とダンジョンであるべきだ。そうでなければアースフィル王国の版図を保つことはできぬ」
「そうですね」
カレンは鼻をつまみながら答えたが、誰にも咎められなかった。
「だというのにあの毒婦は与えられた権力を使って己の望みのために内側からこの国を腐らせ、弱らせようとする……冒険者の父を持つそなたにとっても、力を持つ者が己の欲望のために他者の邪魔をするのは忌々しい行いではないか?」
「そう、ですね。……冒険者に嫌われるやり方ですね。私も好きではありません」
強者が妬ましいなら、より強者になればいい。
ダンジョン十階層を越えた者を妬むのなら、十一階層を越えればいいという考え方だ。
九階層までしか行けない者が、十階層を行く者を妬んでその者を害するなんてあっていいはずがない。
ちょうど、イザークがカレンに濡れ衣を着せたのと同じやり方だ。
もしかしたらそれは、ベネディクタがそそのかしてやらせたのだろうか。
王妃が薔薇園を出て、カレンたちもそのあとに続いた。
すぐに深呼吸したものの、体にまとわりついた薔薇の香りか、まだ近くにある薔薇園の香りのせいか、カレンの胸は悪くなった。
外からその香りを嗅いでいただけの時には馨しい香りにも感じられたのに。
「陛下は試練とみなしてあの女の行為を見逃している。そのことで、そなたを今後も患わせることがあるかもしれぬ。私にはそれを止める権限がない。だが、それが陛下の意向であろうと、私の意向とは違えているとこの場で明言しておこう。あの女の持つ権力ゆえにそなたが虐げられることがあれば、私を頼るがいい。陛下には権限を剥奪されているが、協力できることがあるかもしれぬ」
「あ、ありがとうございます」
国王にとっては、ベネディクタは我が子に試練を与える者。
その試練を越えられるような子を望んでいるということなのか。
それともすべてはただの建前で、若く美しいベネディクタに溺れているだけなのか。
王妃がこう申し出てくれるということは、カレンの言葉は王妃の機嫌を損ねてはいなのかもしれない。
「権力や魔力、力を持ちながらもそれを己の享楽のためにのみ注ぎ込み、そのすべてを与えてくれる世の中のためには一切還元しない者や、その者の怠惰を庇い寵愛し特別待遇を与える権力者というものを、そなたらのような平民は嫌っておろう?」
「まあ、そうですね」
カレンは苦笑しながら近衛騎士たちを思い浮かべた。
ベネディクタに腐らされたという、近衛騎士たち。
失敗に付け込まれて近衛騎士に取り込まれつつあるというボロミアス。
ベネディクタはカレンと王妃の、共通の敵だ。
この共通の敵を前にして、色々なことに目を瞑ってくれるということかな? というカレンの予想は外れた。
「まさにヴァルトリーデはそういう怠惰な者だと思うのだがな」
「あー……」
カレンは近衛騎士の話をしているのだと思ったが、王妃はヴァルトリーデの話をしていたらしい。
ヴァルトリーデは権力も魔力も持っている。
世話になっている人々のために頑張ろうという気持ちはなくもない。
だが、恐いから戦いたくないと逃げ回っている。
国王は、そんなヴァルトリーデを甘やかし許している。
それは、ベネディクタに甘やかされる近衛騎士たちと同じ構図であるのかもしれない。
王妃までもがヴァルトリーデに甘えを許していたら、カレンはともかくそれ以外の人々――実力がなければ、その実力を発揮しなければ生きることさえ許されない平民たちは、どう思うのか。
そんな人々の前で、王妃はどうふるまうべきなのか。
カレンの前で娘を批判してみせたのは、果たして――。
「母としては、そなたのような実力者がヴァルトリーデを友と呼び、庇ったことに一種の感動を覚えなくもない」
ハッと息を呑むカレンを、王妃はヴァルトリーデと同じくらいの背丈でひたりと見下ろした。
「だが、そなたがあのヴァルトリーデを次期国王に望むというのであれば、王妃としてそれを阻まぬわけにはいかぬ」
「まっっったく望んでいませんので安心してください。ヴァルトリーデ様に王様とか、絶対に無理だと思います。本人も全然なりたがらないと思いますよ」
王妃は望んでいたはずのカレンの言葉にほんの僅かに表情を歪めた。
カレンの見立てが間違っていなければ、しょっぱい表情だったように思う。
「……そなたは確かに我が娘のことをよく知る友人であるらしい」
それがヴァルトリーデを友人だと言ったカレンに見せるパフォーマンスなのかどうか見分けはつかなかった。
母親として、かつ王妃として、複雑な思いのこめられた言葉に感じられて、カレンは結局、王妃を嫌いにはなれなかった。