女神の慈雨
日が落ちる頃、気候や季節が偏って安定しているダンジョンでは珍しいことに、雨が降り始めた。
冷たい冷たい雨だった。
凍える夜、カレンはミルクスープカレーを作って配った。
それが多くの人にとっての夕食になった。
自分の作った万能薬の効き目を見るために、カレンは患者たちの天幕を回った。
そこでテレーゼとその仲間たちを見つけ、そういえば姿が見えなかったとカレンはやっと存在を思いだした。
ヴァルトリーデが誘拐されたわけで、一番側で護衛していたテレーゼたちが被害に遭うのは当然である。
「カレン様……あなた様の万能薬をいただきましたわ。おかげでパーティーの者たちは命をつなぐことができました。心からお礼を申し上げます」
テレーゼが自身もベッドから起き上がれないまま、それでも指先まで神経を張り巡らせて、丁寧にカレンに対する敬意を示した。
カレンはぶっきらぼうに答えた。
「わたしは錬金術師ですから、ポーションで助けられる人を助けているだけなので、お気になさらず」
「……カレン様は、ユリウス様があのような方だとご存じでしたか?」
おそらくは、エルダートレントとの戦いのことを言っているのだろう。
後で聞いた話、中々戻ってこないと思ったら、テレーゼは水魔法で燃える冒険者たちの火の勢いを和らげていたらしい。
だから最前線から戻れなかったのだ。決してユリウスを見物していただけではないらしい。
カレンがすべての火を消し止められたのは、もしかしたらテレーゼの水魔法のおかげだったのかもしれない。
そうだとしても、自分はユリウスの戦いを見ていなかったと答えるのも癪で、カレンは回りくどく答えた。
「ユリウス様の口から聞きましたよ、色々と!」
「恐くはありませんでしたか?」
「ないですね。全然」
殺すのが楽しいというユリウス。そんな自分を恐ろしく思っているユリウスの姿を見ると、どうしてそこまでと不思議になるぐらいには、カレンはそういう人間を見慣れている。
ただ、幼い頃から魔物狩りが趣味だった弟のトールでさえ、人を殺すのを楽しんでいるのを見たことはない。
そんな様子を目の当たりにしたら、たとえ弟でも恐いとは思うかもしれない。
それでも、だ。
「――今後、たとえ恐ろしいと思うことがあったとしても、わたしはユリウス様から離れるつもりはありません」
「カレン様はお強いのですね。私、ユリウス様に夢を見ていたようです。実際にお話してみると想像していたユリウス様とは随分と違っていました……特に、あなたと共にいらっしゃる時には。最初は、それをあなたが貴重な人材だからだと思っていたのですが……」
テレーゼの話が途切れ途切れになる。
彼女は魔法使いだ。もし黒い卵のかけらに汚染されたなら、その影響は計り知れない。
続く言葉は気になったものの、カレンは錬金術師として声をかけた。
「もう休んでください、テレーゼ様」
「ユリウス様が、いなくなって……私、探しに行けませんでした。パーティーリーダーでしたし……護衛の任務がありましたし……それに、ユリウス様なら大丈夫だろうと思ってしまって……カレン様が助けにこられて、きっとユリウス様は、とてもお喜びになったと思います……」
「なんでそう思うんですかね?」
まるでユリウスのことをわかったように言うテレーゼにむっとしてカレンがつい訊ねると、テレーゼは微笑んだ。
「私も、助けてもらえてとても嬉しかったから……ダンジョンの中でひとりは、とても寂しくて、恐いから……」
ユリウスへの理解というよりも、それはテレーゼの気持ちだった。
カレンは虚を突かれた顔をしたあと、テレーゼのシーツをかけ直してやった。
「そろそろ眠ってください。治るものも治りませんよ」
「はい、カレン様……」
テレーゼは微笑んで眠りについた。
天幕を出て降りしきる雨に紛れさせ、カレンはぽつりと呟いた。
「ユリウス様と先に会ったのが、わたしでよかった……」
カレン自身意外なことに、その気持ちの出所は嫉妬心ではなかった。
もしもテレーゼが先にユリウスと会っていて、ユリウスがテレーゼを選んでいたとしても――テレーゼはあくまでユリウスに助けられるお姫様であって、ユリウスを助けに行ってはくれなかっただろう。
だとしたら、カレンが先に出会ってよかった。
たとえ今のように出会えていなかったとしても、いずれ出会うことになっただろうとすら思った。
それは運命論ではなくて、カレンがカレンであって、ユリウスがユリウスだから、必然的に出会うことになるという話だった。
カレンは息を吐いた。
やっと、ユリウスが自身を誇りに思える理由の一つとして、テレーゼがいてくれてよかったと思えた。
その後も、騎士たちは雨で足場も視界も悪くなる中、忙しく働いているようだった。
カレン的には今回の事件は解決している。
黒幕にまで手は届かないがダンジョンの異変の最たる理由だろう空白地帯の研究施設はペガサスに燃やされたし、これからは魔物たちが越境してくることもなくなるだろう。
ダンジョンから出た後また色々と大変だろうが、それはそれだ。
だが、ダンジョンが崩壊していると思っている人々にとってはそうではない。
そんな中、もうすべて終わったと知っていて仕事も終えたカレンだけは、一人まったく別のことで頭をいっぱいにしていた。
現在、ユリウスの天幕の前である。
「ゆ、ユリウス様! カレンですっ!」
「――入ってくれ」
「失礼します……!」
ユリウスは椅子に座っていた。
ヴァルトリーデの天幕はほとんど部屋のようになっているのに、ユリウスの天幕には必要最低限のものしかないように見えた。
カレンはつい端に置かれたベッドを見やった。
ユリウスの背が高いためか結構大きめで、くっつけば二人並んで眠れるだろう。
「カレン」
「はいっ!」
「こちらへおいで」
「はいっ……!」
カレンは雨よけに被っていたマントを脱いだ。
マントの下は、夜着姿である。ここが八階層であるのをいいことに、今夜は体をピカピカに磨き抜いてきた。
イルムリンデとドロテア協力のもと、一分の隙も残していない。
ユリウスの前に立ったカレンは、頬に伸びてくる手を見て目を閉じた。
胸を高鳴らせながら待っていると――額に柔らかな感触が押し当てられて、離れていった。
額にキスされたらしい。
カレンがきょとんと目を開くと、ユリウスは微笑んだ。
「約束を果たしてくれてありがとう、カレン」
「え? あ、はい」
「では、おやすみ。君が根城にしているヴァルトリーデ王女殿下の天幕がすぐ側なので、見送りはいらないだろう」
ユリウスはやんわりとカレンに退室を促す。
ぽかんとしているカレンに、ユリウスは苦笑した。
「魔力酔いは収まったので、君への用事はなくなった、ということだよ」
「えーっ!? わ、わたし、すべての覚悟ってやつを済ませてきたんですけど!?」
「酔った私の愚かな戯言を今後は真に受けないでくれ」
「純度百パーセントのユリウス様の欲だけで、手加減なしのものすごいキスをしてくださる約束は!?」
「そんな約束をした覚えはないよ、カレン」
ユリウスは微笑んで言った。そういえば、カレンが一方的に望んだだけである。
魔力酔いが収まったら、色々と落ち着いてしまったらしい。
カレンは頭を抱えた。
「しょ、食欲でもなんでもキスしてもらっておけばよかった……! 次に階梯を昇るのはいつですか!?」
「私の魔力酔いを待ち望まないでくれ。ろくでもない本性を君に見せてしまうだけだ。君が好きだと言ってくれた私とは違いすぎる。……もう帰りなさい。男の天幕に長居するのは君にとってよくない」
「あっ、ちょっと!」
ユリウスがカレンを天幕から押し出そうとする。
夜中に呼び出しておいてのあまりの理不尽に、カレンは背中を押すユリウスの手を掴んだ。
「ユリウス様の気持ちは落ち着いたとしても、ちょっと恐いなと思いつつも期待に胸をふくらませてきたわたしの気持ちは全然収まっていませんからね!?」
カレンが魔力酔いした時に爆発したすべての欲は、普段から抱いていたものだった。
酔ったから隠していた欲をあらわにしてしまっただけで、欲がなくなるわけじゃない。
だから押してみたものの、カレンを見下ろすユリウスの顔が舌打ち寸前の人間の顔に見え、カレンは急速に意気地を失った。
「えっと、じゃあ、また明日――」
しょぼしょぼとした顔をして、そそくさとその場を離れようとしたカレンだったが、その腕をユリウスの手が掴んで引っぱった。
「わっ」
カレンは気づいた時にはユリウスのベッドに放り込まれていて、さらに身動き一つ取る前には、ユリウスに馬乗りされていた。
簡易ベッドが軋む音を聞きながら、カレンは近づいてくるユリウスの顔を前に、受け入れるように目を閉じた。
そっとユリウスの唇が、唇に触れる。
黒の卵の食欲に駆り立てられていた時とは違う口づけだった。
はじめは戸惑いながらも心地よく受け入れていたカレンだったが、やがて薄目を開けてみて、気づいた。
ユリウスはまったく目を閉じる様子もなく、カレンの反応を見ていた。
だからこれまでとは違って息苦しさもなく、ただただ心地よいだけなのだと気づいた瞬間、カレンは全身沸騰したように赤くなった。
そのさまもつぶさに観察しながらユリウスは口づけを続け、カレンが拒絶するにもできずにぐったりした頃にやがて離れた。
「カレン、君の期待に沿えなくて申し訳ないが、手加減なしで私の欲をぶつけるのは君にはまだ早すぎるようだ。今夜はもう帰りなさい」
「でも……」
「私に君を大切にさせてくれ、カレン」
困ったような微笑みには懇願の響きがこめられていて、カレンは目を瞠った。
自分を恐れられるべき化け物だと信じているユリウスが、必死の努力で己の信じる善で自分を律しようとしているのが感じられた。
「君は私の女神だ。君という空を曇らせるような真似を、私は決してしたくない。頼む」
切実なユリウスの懇願に、カレンはぽかんとして言った。
「ユリウス様って本当に、わたしのことが好きなんだ……」
「今の今まで信じていなかったと言わんばかりの口ぶりが気になるが、そうだ。私は君を愛してしまった……だから私はもう君を手放すことはできないのだ。すまない」
まるでそれが悪いことのように言う理由を、カレンはすでに知っている。
ユリウスが苦い笑みを浮かべるのは、ユリウスの本性を見ればカレンの気持ちが変わると思っているからだろう。
謝罪するのは、カレンがいつか逃げ出したくなると、頑なに信じているからだろう。
そんなことはないと言ってもユリウスが信じてくれる気がまったくしなかったので、カレンはそのあたりをうっちゃって訊ねた。
「わたしのどんなところが好きなんですか? いつから好きですか?」
「とにかく、ベッドから降りてくれないかい? そして天幕から出ていってほしい。君がここにいるという状況が心臓に悪い」
ワクワクしながら訊ねるカレンに、ユリウスが頭を抱えて言う。
困らせたいわけではないので、カレンは渋々ベッドから起き上がると、いそいそとマントを羽織って天幕を出た。
見送りに出てきたユリウスに振り返ると、カレンは笑顔で言った。
「わたしも、ユリウス様のことが好きですよ!」
「君こそ、私を本当に好きなのかどうか。私の見目と体と地位と名誉と、他に好きなところはあるのかい?」
「耳が痛い!!」
まさにそこに惹かれたのは否定のしようもない事実である。
「でもですね! 今はもっと別のところも好きですからね!」
「私のどういうところが好きなんだい?」
「先に聞いたのは私ですよ! まずは私の質問に答えるべきです!!」
カレンがワクワク最高潮で訊ねると、ユリウスはくすりと笑みをこぼした。
そして、いつかカレンが自分から逃げ出していくだろうという確信を忘れたようにはにかんだ。
「君のすべてだよ、カレン。私は君のすべてを愛してしまったんだ。君が思うよりもずっと前からね」
カレンはにんまりと笑い、何かをこらえるようにジタバタした。
けれどこらえきれずに、雨も構わずユリウスに飛びついた。
「大好きっ!!」
遠慮会釈もなくカレンに抱きつかれて、ユリウスはつい声をあげて笑ってしまった。
騒がしい夜だった。ダンジョンが今にも崩壊するかもしれないと疑われる状況で、王国騎士と冒険者たちは夜も構わず駆り出され、交代で魔物の討伐を行っていた。
ヴァルトリーデを誘拐した組織が運営していたと思われる怪しげな研究施設についてや、そこで行われていたおぞましい研究についても調べを進めなければならず、ペガサスに燃やされてしまった黒焦げの瓦礫をひっくり返し、証拠を探して奔走する者や、地上への報せに走る者、生け捕りにした僅かな捕虜たちから情報を引き出そうとする者などが、忙しく立ち働いている。
誘拐されたヴァルトリーデとヴァルトリーデが連れて帰ってきたペガサスの子、ヴァイスの護衛も増員されている。
その上、すぐ近くにあるヴァルトリーデの天幕、侍女たちの天幕の入口から、興味津々でこちらをうかがう無数の目がある。
それらのすべての視線に気づいていない様子のカレンは無邪気にユリウスに抱きついて、抱き上げられて、笑みを浮かべてユリウスを見下ろした。
カレンは先程自制を望んだユリウスに配慮して言わないが――気持ちのままに口づけしたそうな目でユリウスを見つめていると気づいてしまったユリウスも、もはやこらえられなかった。
ユリウスは空の瞳を見上げて微笑み、今度はユリウスが目を閉じる。
すると、カレンの唇が優しくユリウスに降りそそいだ。
第五章完結!!!!!!
おかげさまで『錬金術師カレンはもう妥協しません』は、SQEXノベル様から書籍化していただくことになりました!
応援してくださった皆様、本当にありがとうございます!!
夏~秋頃に出せるように頑張っております!
イラストはazuタロウ先生に描いていただけることとなりました!!!!!
ラフはもう拝見しておりまして、本当に、最高です……!!!
いずれX(旧twitter)に出させていただき、皆様にも見ていただきたいので、気になる人はチェックしてみてね!!!
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