酔っ払いたち
「カレン!」
ボロミアスに報告を終えるところまでが、カレンの仕事だった。
そのカレンの仕事が終わるのを待っていてくれたユリウスに遂に名前を呼ばれ、カレンはぎくりとした。
カレンは逃げ出したくなった。もしかしたら死ぬかもしれないと思っていたから破れかぶれだったが、今思えば話を聞き出すためとはいえ裸で迫る痴女である。
どうしても死ぬ前にユリウスの話が聞きたかったし、そのために手段を選んでいられなかった。
とはいえ、今思い出すと顔から火が出そうだった。
それに、別れ際にユリウスが口にした言葉もある。
あれは一体何だったのか。
あの時には嬉しいと思うと同時にカレンを引き留めるための口先だけの口実かもしれないなとも思った。
どちらとも、自分の中で特に結論はつけなかった。
どちらでも、死ぬかもしれないと思っていたカレンにとっては満足だった。
だが、生きて帰ってきてしまった今となっては話が変わる。
『愛している』という言葉をどういう意味でユリウスが口にしたのか、確かめないことにはきっと、今夜は眠れなくなる。
だけど、怒られるに決まっている。
逃げたくてたまらない――でも、カレンは逃げるわけにはいかなかった。
カレンはユリウスが胸に秘めていた秘密を強引に聞き出した。
ユリウスが、恐がられるに違いないと思っている理由をすでに知っている。
それなのに逃げたら、きっとユリウスはカレンが自分を恐れていると誤解する。
すべてを知ったカレンはもう、逃げることはできないのだ。
カレンはその場に踏ん張って、意を決してユリウスを見た。
ユリウスはひどく思い詰めた表情をしていて、カレンは胸が痛んだ。
そんなカレンの頬に手を添えると、ユリウスはぐにっと引っぱった。
「ひゃー!」
「とても心配したよ、カレン」
「ご、ごめんなさい」
「……いいや、君が謝ることではない。また君の歩みを止めようとしてしまって、すまないことをしたのは私だ。君を応援すると言いながら、申し訳ない」
普通、あんなことを言って危険な場所に向かっていく人がいれば、恋人でなくとも止めたくなるものだろう。
それなのに、ユリウスはカレンに謝罪した。
カレンはてっきり怒られるものだと思っていたから、ユリウスをぽかんと見上げた。
「心配なら、私が君について行けば良かったのだ」
「でも、それは……」
あの場所には魔力のある人は自らの意思では入れない。
ユリウスを連れていくには、気絶させて担いで連れていくぐらいしかないのだろう。だが、魔力を持たないカレンはユリウスを引きずることすらできないほど非力だった。
たとえ別の方法で連れて行けたとしても、普通の魔力持ちは恐らくろくに身動きも取れないだろう。ユリウスも自力で歩けていたとはいえ辛そうで、息苦しげで、あの状態では魔力無しでも男複数人に囲まれたらひとたまりもなかった。
あの場で、むしろいつもより元気だったヴァルトリーデが異常なのだ。
そして、魔力がなくても身動きできるカレンの方がおかしい。
不可能を可能にすればよかったのだと言い出したユリウスに、カレンはなんと言えばよいのかわからなかった。
絶望しているのかと思ったからだ。
だが、ユリウスは絶望なんてしていなかった。
「君が心配なら、私は君を引き留めるのではなく、どんな手を使ってでも君について行くべきだったのだ。エルダートレントが、ペガサスがダンジョンの境界を越えられたというのに、どうして私が越えられないことがあるだろうか?」
それは、エルダートレントとペガサスが壊れていたからだ。
でも、それを言えないカレンは口をはくはくと動かした。
「魔物はダンジョンが壊れていないと越境できないとしても、人間ならばどうか。知性ある人間が魔道具や魔法で途方もなく強大な魔物に立ち向かい、討伐することが可能なように――私には、できることがあるはずだ」
ざわ、とカレンの全身に鳥肌が立った。
ダンジョン内を構成する、魔力の色が変わったのを感じた。
ユリウスがカレンの瞳の空を見下ろしたまま、そこに何かを見つけたように目を瞠った。
「何かが壊れなければ女神の境界を越えられないというのなら、私は自身を壊してでも――ああ、そうか。そうなのか」
ユリウスの瞳が虹色に揺らめいて、その輝きがユリウスを見上げるカレンの瞳にも映り込んだ。
間近に迫った空から、虹色の光の粒がユリウスに降りそそぐ。
カレンもその光の粒を一緒に浴びた。
エルダートレントやペガサスが、自分を犠牲にしてでも我が子を助けようとしたことには気づいていたのに、今の今までカレンは理解していなかった。
つまり、ダンジョンが壊れていなくとも――自身を壊せばダンジョンを越境することができる。
魔物たちは代償を払いさえすれば、自らの意思でいつでもダンジョンから出ることができる。
女神の摂理に逆らうのではない。
これはむしろ、女神の摂理の範囲内でさえあるのだ。
ダンジョンから魔物は出られず、越境できないものだと思っているのは人間だけ。
代償さえ払えば魔物も人間も、誰もがこの勝手口を使う権利を有している。
――その真実に、自力で気づいたユリウスが階梯を上がっていく。
カレンはそのおこぼれに与って、わずかに階梯を上がりながら、ごくりと息を呑んだ。
これからはきっと、ユリウスはカレンがどれほど危険な場所に向かうとしても着いてきてくれる。
カレンのために、代償を払ってでも。
そう思った瞬間、カレンの両目から涙があふれた。
そんなカレンを見て目を細めると、ユリウスは言った。
「カレン、私に悪いと思わないでほしい。君が君の望みのために生きるように、私も私の望みのために生きるだけなのだから」
ユリウスの言葉に、カレンは泣きながら首を横に振った。
「違うんです。実はちょっと、恐かったんですよ。今回、けっこう……ヴァルトリーデ様の前では平気なふりをしなきゃと思って、頑張っていた、ん、です、けど……っ」
わりと本気で、死ぬかもしれないと思っていた。
だから、最後に口づけられなかったことが心残りだった。
「代償が必要なのに、申し訳ないとも思ってるのに、それでもこれからはユリウス様が一緒にいてくれるんだって思ったら、心強くて――」
ユリウスの顔が近づいてきて、カレンはすんでのところでその口をバシッと手で覆って口づけを防いだ。
ユリウスが口を覆われたまま、不機嫌そうに眉をひそめた。
「どうして止めるんだい? カレン」
「これから皆さんのための万能薬を作らないといけないので! 魔力を吸い尽くされたら困ります!! 絶対に我慢できないでしょ!?」
ユリウスの瞳が虹色にゆらゆら揺れている。完全に魔力酔いしている。
この状況で、魔力回復薬を飲んだあとの安定した状態ですでに我慢できないと言っていた行為が我慢できるはずがない。
――言ってて恥ずかしくなって真っ赤になるカレンを見下ろし、ユリウスは口を塞がれたまま首を傾げた。
「確かに、手加減できる気がしない」
「手加減って何です――キャッ!?」
手のひらを舐められて、カレンは悲鳴をあげてユリウスの口許から手を引いた。
真っ赤になってユリウスを見上げるカレンに、ユリウスは微笑んだ。
いつもの柔和な笑みとは違う、どこか酷薄さを感じる笑みにカレンは息を呑んだ。
「私がこれまで君に対してどれほど手加減していたか、今すぐ教えてやりたくてたまらないよ。どうか受け入れてくれないかい? カレン。私も、無理やり君に口づけたくはなくってね」
言いながら、ユリウスがカレンの腕を捕らえた。
カレンを逃げられない状態にして、顔を近づけてくる。我慢ができないらしい。
我慢できないまでも許可を得ようとするところが、ユリウスらしかった。
魔力酔いをしていると、自制心が効かなくなるのはカレンもよく知っている。
ノーブレーキでフルスロットル。誰にも止められない風になるのだ。
だからカレンは半ば諦めつつ、ふてくされた顔で呟いた。
「食欲をなくしてからキスしてもらいたかったのに」
カレンのぼやきに、ユリウスはピタリと動きを止めた。
カレンはユリウスを赤い顔で睨みつつ、ちょっぴりとはいえ階梯を上がったほろ酔い加減で駄々をこねた。
「純度百パーセントのユリウス様の欲だけで、手加減なしのものすごいキスをして欲しい人生だったなあ!!」
「――なるほど」
「何がなるほどですか! こんな激しい口づけをされても、お腹が減ってるだけかもね、と思って盛り下がるわたしの気持ちがわかりますか!?」
「確かに、毒に冒された影響で君を求めていると思われるのは癪だな」
ユリウスの顔が、カレンから離れていく。
「この場は私が堪えよう。だがカレン、その代わりに今夜、私の天幕に来てほしい」
「えっと……夜、というのは、つまり」
「すべての覚悟をして私を訪ねてきてほしいという意味だよ、カレン。約束してくれるのならば今は君を解放してあげよう」
身の危険をビシバシと感じながらも、カレンは満更でもない顔でごくりと唾を飲んだ。
「わ、わかりました!」
「では、解放してあげよう。約束を破ってでも逃げたければ逃げるといいが、捕まった時は覚悟してくれ。本当の私は忍耐強くもないし、優しくもない、残酷で欲深い人間だからね」
ユリウスはこれまでのカレンに見せたことのない冷たい笑みを浮かべた。
「今後君がどこへ逃げようとも、私は君を追って行ける。決して逃がすつもりもないということを、どうか理解しておいてほしい」
カレンが決してユリウスの手の届かない場所から死地行きを報告して逃げたことを、やはりユリウスは結構怒っていたらしい。
冷たいながらも奥に熱を宿した金色の目でカレンを見下ろすユリウスを見上げながら、悪くない……とカレンは酔っ払った頭で考えた。
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たくさん読んでいただきありがとうございます!!!!