政争の火蓋
「ペガサスが――!」
ヴァルトリーデが悲鳴をあげる。
墜ちていくペガサスは、翼の先から光の粒のようになって消えていく。
いてはいけない場所で、強大な力を使った代償を払っているのだと、見る者たちに『理解』をさせる強制力が働いていた。
「うきゅ! きゅきゅっ! きゅーっ!!」
ペガサスの子がパタパタと暴れて、光の粒になって消えていく母親の方へ行きたがる。
だが空を飛ぶための翼は飾り物のように小さく、蹄も丸っこく鋭さのかけらもない。
さほど力も込めていないヴァルトリーデの腕の中から抜け出すことさえできないでいる。
このペガサスの子には、母親のもとに駆けつけるための力は何一つなかった。
「きゅーーーーーーーーーーーーーー!!」
「すまない。だが、そなたまで行かせるわけにはいかぬのだ……!」
ペガサスは、業火の炎に落ちる前に光の粒となってダンジョンに消えた。
ポロポロと涙を流すペガサスの子を抱きしめて、ヴァルトリーデも一緒に泣いていた。
カレンはふと空を見上げた。
「浄化は、成功したみたい」
光の粒が空に向かっていく。
それはペガサスのものであり、それ以外の別の者たちのものでもあるように思えた。それはほとんど確信だった。
集落から離れているとはいえまだ空白地帯の範囲内にいるはずなのに、カレンの魔力が自然回復しはじめる。
まるで火の付いた油のように燃えさかる、集落周辺に撒かれていた黒い粉――黒い卵の粉末が、魔力を奪おうとする力を失っていく。
この地が空白地帯でなくなれば、外にいる人々がこの場所までやってくるまでそう時間はかからない。
カレンはきゅうきゅうと泣いているペガサスの子をそっと撫でた。
「ヴァルトリーデ様、この子をどうしましょう」
「連れてゆく。置いてはいけぬ」
「だったら、従魔にするしかありませんね」
魔物は越境しないが、従魔にしたら連れていける。
契約によって魔物と人との間に魔力回路がつながって、それによって魔物はダンジョンの軛から解き放たれるのだ
「カレン、ペガサスの子と従魔契約を結んでやってくれ」
「わたしの身にはあまりますよ」
「確かに、カレンの魔力はポーションを作るためのものであったな。この子に与える魔力は余っていないか……」
カレンはそういう意味で言ったわけではないのだが、ヴァルトリーデは納得顔をしてペガサスの子を見下ろした。
「連れて行ければ父上に献上するのだが、人の版図に連れていくには契約せねばならぬしな。ここはボロミアス兄上に――」
「うきゅーッ!!」
ペガサスの子は、ヴァルトリーデの胸に抱きついて首を振った。
「ど、どうしたのだ?」
「うきゅ! うきゅきゅ! きゅーー!!」
何度も何度も首を振り、ペガサスの子はヴァルトリーデにしがみつく。
カレンたちの言葉をすべて理解して、それに抗議しているのがありありと伝わってくる。
ヴァルトリーデにも伝わったのだろう、困惑顔でカレンを見つめた。
「この子は……私と契約したがっているのか?」
「そうみたいですね、ヴァルトリーデ様」
ヴァルトリーデは躊躇いがちに腕にだいた子ペガサスと視線を合わせた。
「だが、私で良いのか? 私は戦う力を持たない、弱い人間だ。いや、力はあるが――心が弱く、その力を扱うことができないのだ。そして、そんな自分を変えるつもりもない」
「うきゅきゅ~!」
「私には立派な兄がいるし、弟や妹たちもいるのだ。父上や、母上もいる。他にもこの世界には立派な冒険者や、錬金術師だっているのだ。その者たちでなく、私ではきっと後悔するだろうに――」
「きゅーっ!!」
子ペガサスはひしっとヴァルトリーデに抱きついた。
卵から孵るところにいたので刷り込みに成功したのか、はたまたこの賢い魔物の子は孵化する前からヴァルトリーデの声が聞こえていて、自分を励ましながら魔力をくれるヴァルトリーデを好きになっていたのかもしれない。
ヴァルトリーデは目を潤ませると、うなずいた。
「では、そなたの名前はヴァイスだ。この名を気に入ってくれたなら返事をしておくれ、ヴァイス」
「きゅうっ!!」
人間が名を呼んで、魔物がそれに答えて、双方向に魔力を通い合わせて魔力の回路をつなぎ合わせる。
ピン、と空気が張りつめた一瞬を過ぎると、ヴァルトリーデはほうっと息を吐いた。
「従魔契約、成立したぞ」
「わたしもヴァルトリーデ様の友だちだから、これからよろしくね、ヴァイス」
「きゅううっ!」
魔力のない空白地帯が消えてしまえば、燃えさかり黒い煙をあげる集落の存在は、あっという間に白日のもとに晒されて人が押し寄せてきた。
カレンたちもすぐに見つかり、そしてヴァイスの存在も発見された。
「――これはどういうことだ、ヴァルトリーデ?」
ヴァイスを抱くヴァルトリーデを見下ろすボロミアスの目は窮地から無事に帰還した妹を見る目ではなかった。
政敵を見る目をしていた。
取るに足らなかったはずの妹が、アースフィル王国の象徴の一つであるペガサスの子を抱いて帰ってきたのだから、そういう目にもなるだろう。
と、カレンは思い当たったのだが、ヴァルトリーデは困惑の表情を浮かべていた。
「ええと、どういうこと、とはどういう意味でしょうか?」
「それは、何だ?」
質問を絞った兄ボロミアスの問いに、ヴァルトリーデは合点がいった様子で破顔した。
「私の従魔となってくれた、ペガサスの子です。私と同じように悪党どもに攫われて、あの集落に囚われの身となっていたのです」
「――従魔」
ボロミアスは食い入るような目をしてヴァルトリーデの腕の中にいるペガサスを見つめた。
魔物を異常に恐れるヴァルトリーデでさえ、ペガサスへの憧れがあった。
王祖シビラのように騎士として王国騎士団を率いるボロミアスにも当然、ペガサスを従魔にすることへの強い憧れがあるだろう。
ボロミアスの目に浮かぶのは渇望と言ってもいいほど強い感情に見えた。
きっと、ペガサスと玉座を巡り、ヴァルトリーデは政争に巻き込まれていくだろう。
父親である国王の期待に応えたい、認められたいと願うヴァルトリーデにとっては飛躍的な前進となるだろう。
それがわかっていたのでカレンはペガサスの子との契約を辞した。
だが当のヴァルトリーデはポケッとしていて、自分の置かれた状況を理解しているようには見えなかった。
その後、カレンが借りた剣を返した時もボロミアスは上の空だったが、あった出来事を報告し出すと険しい表情になっていった。
カレンたちの報告により、ボロミアスたちはほぼこれをダンジョンの崩壊の予兆だと確信したようだった。
だが、それは違うのでは――そう言おうとして、カレンは言えないことに気がついた。
女神の制限がかかっていて、説明できなかったのだ。
エルダートレントやペガサスの越境から、ダンジョンが崩壊しかけているのではないかと懸念するボロミアスたちに、ペガサスがダンジョンは崩壊していないと言ったことを伝えられなかった。
それに関連してか、『壊れていたのはダンジョンではなくエルダートレントやペガサスの方ではないか』という推測もまた、カレンはどうしても伝えられなかった。
だから、ボロミアスたちが起きてもいないダンジョン崩壊を止めようと奔走し出すのを、カレンは止めることができなかった。
前回女神の制限がかかった時とは違い、今回は階梯を上げてはもらえなかった。
ペガサスからのヒントが多すぎて自力で何かを理解したとみなされなかったのか、はたまた理解には至っていない別の何かがあるのかもしれなかった。
今日で『錬金術師カレンはもう妥協しません』投稿開始からちょうど半年!
毎日投稿がんばりました!