見届け人
カレンは結果として、ペガサスの子をペガサスの親が願っていた形では救えなかった。
だが、ペガサスにはもうカレンたちを害する意思がないのが見て取れた。
「弱いのは、そこまで嘆くほどのことだろうか?」
ヴァルトリーデは複雑そうな面持ちで問う。
その問いは、もしかしたらヴァルトリーデが自身の母親に聞きたい問いなのかもしれなかった。
『戦えないなら、生きられないということよ。そして、十分に死ぬこともできないということ。また捕まって、次こそ死ぬよりも悪いことになってしまうかもしれない』
壁際に並ぶ卵を見て、ペガサスはぶるりと身震いした。
『強くならないといけないわ。戦って、死ねるようになりなさい、ヴァルトリーデ。おまえも、ああいう状態にされるはずだったらしいわよ』
「ああいう状態? ――まさか」
『おまえを運んでいた人間たちが言っていたもの。おまえは、黒い人間になるのだと』
ヴァルトリーデは真っ青になって絶句した。
何のためにヴァルトリーデがここに連れて来られたのか。
それは、魔物の卵で成功した実験を、ヴァルトリーデで試すためだったという。
ヴァルトリーデは青ざめた顔で部屋の奥を見やった。
そこには一際大きな装置があった。
何も入っておらず、どれほどの大きさの卵を入れるつもりだろうかと思っていたが、それは人間用に用意された装置だったらしい。
『きちんと死ねるように、戦えるようにならないといけないわよ』
ペガサスは、母親のような口調でヴァルトリーデを諭したあとカレンを見やった。
『呪われた魔物の卵たちを助けるにはどうしたらいいと思う?』
ペガサスに問われ、カレンは並んだ黒い卵たちを見やった。
「ペガサスさんはどう思いますか?」
『魔力を求めているようだから魔力を与えたらどうかとは思うけれど、どれほど魔力を与えてあげればこの子たちが満足できるのか、私には予想もできないわ。他の方法はないかしら』
イザークは黒い石――卵に魔力をこめたとかで、卵の呪いのトリガーを引いたようだった。
だから、魔力を与えるにしても先程ヴァルトリーデがペガサスの子にやったようなやり方ではいけないのだ。
ここにいる卵たちはもう、生きてはいないから。
『ここ以外にも、あちらの方にも呪われた卵の気配を感じたわ。空腹を訴える哀れで、ここにいる子たちよりももっとずっと弱々しい声が……でも、今はもう聞こえなくなってしまったわね。あの子もきちんと終われたならよいのだけれど』
ペガサスが鼻面で指し示した方角は、ユリウスが入れられていた牢があるあたりだった。
ユリウスはとある魔物の悪夢――恐らくは卵のカケラを飲まされていたから、ペガサスに魔物の卵と誤認されていたらしい。
『あの子たちをきちんと死なせてあげるには、どうしたらいいのかしら』
憂うペガサスの言葉を聞きつつカレンは黒く腐った卵を見て、ふと思いついたことを訊ねた。
「燃やしたら、卵たちは痛みや苦しみを感じるでしょうか?」
『そんなことはないわ。もう死んでいるんだもの。燃やせばあの子たちは助かるの?』
「錬金術の考え方で言えば、腐敗したものは燃焼と過熱、冷却を経て浄化されます……それで助かるかどうかはわかりませんが」
これは前世の知識だが、賢者の石を作る大いなる作業には四つの工程がある。
まずは『硫黄』と『水銀』を『精気』によって結婚させる。次は『黒化』させ、次に『白化』させ、最後には『赤化』させることによって『賢者の石』は完成する。
この作業を行う丸い形をしたフラスコを、『哲学者の卵』と呼んでいた。
卵からはまったく違う形の様々なものが生まれてくることから、卵の中には賢者の石を作るために必要な重要な要素が含まれていると思われていたからだ。
黒化とは、死であり、腐敗だ。
卵を殺し腐敗させるこの光景は、まるで出来の悪い錬金術を見ているかのようだった。
『浄化ね……』
ペガサスは重たい体を引きずるように起き上がると、翼を広げてカレンたちに背を向けた。
『おまえたち、私の背に乗りなさい』
「よいのか!?」
ヴァルトリーデは意気揚々と巨大ペガサスの背に乗り、カレンを見やった。
「乗っていいらしいぞ!」
「乗ってもいいとして、この窓のない研究室のどこから飛び立つつもりだと思います? とっても嫌な予感がするんですけど」
と言いつつも、カレンは空になった鍋と魔道具をしまって背嚢を背負い、子ペガサスを抱えるヴァルトリーデの後ろに乗り込んだ。
ヴァルトリーデの背が高くて前方は何も見えない。
『では、しっかりと掴まっているようにね』
カレンが鬣を手に巻いて掴まった途端、浮遊感。
次の瞬間、ペガサスが咆哮した。
「クォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!」
耳を劈くような咆哮が放つ衝撃波によって、天井が破壊されて崩壊した。
その咆哮と衝撃波には指向性があるのか、不思議と鼓膜が破れるようなことはなかった。
ペガサスは、あっという間に空いた天井から飛び立った。
「わあぁあ!」
「うきゅー!」
ヴァルトリーデが歓声をあげ、ヴァルトリーデの腕の中にいるペガサスの子も起き出したらしく楽しげに鳴いている。
この空間に入るために魔力を使い切っているカレンの腕力でロデオをするのはかなりの苦行で、カレンとしては生きた心地がしなかった。
ペガサスはふわりと飛び、集落から離れた高台でカレンたちを下ろした。
そして、ペガサスはくるりと踵を返してその場を立ち去ろうとした。
子ペガサスと共にはしゃいでいたヴァルトリーデは、慌ててペガサスを引き留めた。
「待て! この子はどうするのだ!」
『どうもしないわ。置いていくから、おまえたちが好きにするといい。呪いに変えようとするのでなければ、殺されようとも関知はしないわ』
「どうしてそんな冷たいことを言う!? そなたは母親なのだろう!?」
馬の姿でも、ペガサスが苦笑を浮かべたのがカレンにはわかった。
『私、もうすぐ死ぬのよ。だからおまえたちが何をしようとも、私にはどうすることもできないの』
「あ――」
『私は四十階層の魔物だもの。ここには本当なら来られないの。来てはいけなかったの。でも来たわ。代償を払って。払いすぎたから、もうすぐ死ぬのよ――どうしてそんな顔をするのかしら? 我が子を呪いに変えようとした人間と戦って、勝って死ぬのだから、私の死はそれほど悪いものではないというのに』
魔物にとって死は忌むものではなく、ヴァルトリーデたちの表情が不思議らしい。
だから我が子を殺されてもいいなどと平気で言えるらしい。
死の概念が違っているのだ。
そして、そんな魔物にとってすらおぞましく、命の危機ぐらいでは助けることはない我が子を助けに来るほど、ひどい仕打ちがこの世には存在していて――ペガサスは、その存在が我慢ならないようだった。
『さて、浄化できるかどうか、最後の力を使ってやってみるわ』
そう言って、ペガサスはひとりで飛び立った。
カレンたちが止める間もなかった。
集落の上空に舞い戻ったペガサスは、集落に向かって咆哮した。
「クルォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオン!!」
その瞬間、ペガサスの足元――集落の上に巨大な黄金の魔法陣が浮かんだ。
黄金の魔法陣から、無数の火の玉が降りそそぐ。
集落は一瞬にして炎の海へと変貌した。
こんな魔法を使う魔物を相手にとって戦う冒険者とは、一体どういう存在なのだろう。
ユリウスは、トールはこれまで、どれほど危険な戦いに身を置いてきたのだろうか。
畏敬の念に打たれて茫然としていたカレンたちが見届ける中、魔法を使い終えたペガサスは、不意に浮力を失い墜落していった。