依頼の成否
「ただいま戻りました! ヴァルトリーデ様、起きました?」
『先程目を開いて私を見たあと「これは夢だな」と言って目を閉ざしたので、おまえからの伝言を伝えてあるわ。おまえたちの運命もね』
ということは、紙のように真っ白な顔をして横たわっている眠れる美女ヴァルトリーデはすでに目を覚ましているということだろう。
カレンは鍋を置くと、ヴァルトリーデに近づいた。
「起きてます?」
「夢だと思いたかった……!」
ヴァルトリーデは目を閉じたままるると涙を流した。
攫われて魔物の生き餌にされかけて、踏んだり蹴ったりでお気の毒なことである。
『おまえだけは逃げることもできたのに、戻ってきたのね、錬金術師カレン』
「治せるかもしれない患者さんがいるんですから、戻ってきますよ」
「友人である私のためではなく??」
それを物騒な母親と患者であるその子どもの前で言うべきではないだろう。
カレンはヴァルトリーデの頬をぷすりと突いた。
「さて、万能薬を持ってきたわけですが……卵にどうやってこのポーションを摂取させようかと悩んでいるんですけど、どうします? 中に入れます?」
絵面は完全に巨大ゆで卵入りのカレーである。
『これはすごい香りだけれど、経口摂取用のポーションよね? そのようにおまえが作ったなら、そのように使うのが一番効果があるはずだわ』
「わたしもそう思いますけど――」
『もうすぐ孵化するわ。生まれた子にそのポーションを飲ませてちょうだい』
生まれたばかりでカレー。
中々ハードな食生活のはじまりだと思ったのはつかの間で、第一候補はヴァルトリーデだったので、マイルドになった方だろう。
だが、そこからしばらく待ったものの、卵からペガサスの子が出てくることはなかった。
『――ああ、卵から出てくることもできないほど弱っているのね』
ペガサスはうなだれた。先程見た時よりも、ずっとげっそりと痩せ細っているように見えた。
「ペガサスさん、あの、卵をカレーの中に入れてみますか!?」
生まれることもできないまま死なせてしまったら、一巻の終わりである。
カレンが必死になって提案してみるも、ペガサスはゆっくりと首を横に振った。
『生まれることさえできないほど弱いなら、もう無理よ』
「ですがわたし、諦めたくありません! なので挑戦させていただきたい!」
『もういいのよ――もうこの子には食べ物も必要なくなったわ。だから、おまえたちも解放してあげる』
「え……?」
ここで諦めれば死あるのみである、と思っていたカレンだったが、ペガサスは静かな目をして言った。
『私はもう食べ物はいらないの。この子にもいらないわ。だから、もういいのよ。おまえたちは、どこへなりとも行くがいいわ』
ペガサスの諦めのよさは、カレンとヴァルトリーデにとっては幸運だった。
カレンはこのままヴァルトリーデを連れて、この場から脱出するだけでいい。
そうしたら、ユリウスのもとへ帰ることができる。
――だが、まだ生きている子どもを前に諦める母親という存在を見ると、相手が魔物であろうとなかろうと、カレンとしては錬金術師としての性がうずく。
まだ寝たふりをしているヴァルトリーデと卵を抱えて目を閉じるペガサスを見比べたあと、カレンはペガサスに近づいた。
「まだお子さんは死んでいないじゃないですか? ですからわたし、諦めたくありません。錬金術師ですので!!」
「つまり、魔力が足りないということなのか? 私が魔力を注いでみてもいいだろうか?」
いつの間にか起き出していたヴァルトリーデが、気づくとカレンの隣にいた。
状況は把握しているらしい。寝たふりをして聞いていたのだろう。
「大丈夫なんですか、ヴァルトリーデ様? 魔物はスライムでも恐がるくせに」
「ペガサスは幼い頃から絵画やタペストリーでよく見ていたし、ご先祖様の出てくる物語にもよく登場し、慣れ親しみ憧れてきた存在ゆえ、カレンが普通に話しているのを聞いていたら、意外と平気になってきたのだ」
Sランクの魔物の方がスライムよりもマシなヴァルトリーデは、いそいそと卵の側に寄っていくと、畏れと憧れの籠もった目でペガサスを見上げた。
「そなたの子に魔力を注いでもよいだろうか?」
『この場にいるだけでも魔力を奪われているはずだけれど、まだ身のうちに魔力が残っているのかしら?』
「うむ。残っている。何なら適度に吸われるおかげで快適なくらいだな」
どうやら、魔力が多すぎて体に問題が起きていたヴァルトリーデにとっては、魔力が多少奪われる環境の方が楽まであるらしい。
ユリウスはこの場にいるだけで辛そうだったのに――あるいは、あれは黒い卵のかけらのせいだったのだろうか。
『本当に、魔力の密度が高いのね。じゃあ、お願いしてみようかしらね。この子も魔力はあればあるほど気持ちがいいでしょうからね』
諦めきった口調でペガサスは卵を舐める。
ヴァルトリーデは、ペガサスの卵に触れて魔力をこめはじめた。
まだ腐りきっていない、生きた卵はヴァルトリーデから魔力を奪い取ろうとはしなかった。
降りそそぐ分だけ、健気に魔力を吸収していく。
「むっ!? 内側からコツッと音がしたぞ!」
『辛うじて、生まれることはできたとしても……生まれたところで、これじゃあ戦えないわ』
「戦わなくてもよいではないか?」
『でも、私たち魔物は戦うために生まれてくるのよ? 勇敢に戦って、どれだけ華々しく死ねるかが、女神によって試されているのよ?』
「私も身に余るほどの魔力を持って生まれてきたゆえ、戦う宿命を背負っていると幼い頃から言われてきた。だが、私はその宿命に全力をもって抗うつもりだぞ。そなたの子も、それでよいではないか!」
ヴァルトリーデは卵に魔力を注ぎながらキリッとした面持ちだ。
カレンはペガサスが語る女神像にドキドキしていた。
魔物が語る女神像。こんな情報、一体どこでどんな方法を使えばアクセスできるだろう。
女神は魔物を戦わせ、死なせるために生みだしたという。
ペガサス個人の思想なのか、魔物とはそういう存在なのか。
ヴァルトリーデはそういう世界の神秘についてはちっとも気にならないらしく、熱を込めて我が子を死に駆り立てる母親に抗議している。
『人間はそれでもよいだろうけれど、魔物はダメよ』
「ダメなどということはないぞっ! 頑張れ!」
ペガサスとヴァルトリーデは微妙に噛み合わない言葉を交わしながら、卵を見守り応援している。
諦めきった目をしたペガサスだが、ヴァルトリーデのしていることを止めようとはしなかった。
やがて、卵が内側からひび割れた。
「カレン! 生まれそうだ! 万能薬をここにもて! 首を出したらすぐに食べさせるのだ!」
カレンがカレーを卵の近くに運び込むと、本格的に卵が割れはじめた。
「そなたの母がなんと言おうと、戦えないからといって、生まれてきてはいけないわけではないのだぞ! 頑張るのだ、ペガサスの子よ!」
ヴァルトリーデに応援され、卵のカラがひとかけら内側に落ちていった。
カレンは心の準備をした。
ペガサスの母親は、育ちきらなかった、と言っていたのだ。
どんな姿であってもおかしくない――身構えたカレンだったが、卵の割れたカケラの隙間からヒョコッと頭を出したペガサスの子は、カレンが思っていたような姿ではなかった。
「これは――」
ヴァルトリーデが何かを言いさしたが、何かを言う前にペガサスが反応した。
『ウゥッ』
見ていられないとばかりに卵から出てきた我が子から目を背けるペガサスを見て、ヴァルトリーデは口を噤んだ。
だがカレンにとってもおそらくはヴァルトリーデにとっても、ペガサスの子の姿はひどいものには見えなかった。
卵から顔を出したのは、ぬいぐるみのようにふわふわとした丸っこい小さなペガサスだった。
小さな体にはさらに小さな飾りのような翼に、ピンク色のやわらかな肉球のような蹄底に、小さな蹄がついている。
カレンの目には、可愛らしい姿に見えていた。
だが、よくよく卵を覗き込めばその下半身は真っ黒に染まっていて、ペガサスの子はぐったりとしていた。
「きゅぅ……」
「カレン、万能薬を!」
「はい、ヴァルトリーデ様!」
カレンはスプーンですくったカレーをペガサスの子の口許に持って行く。
ペガサスの子はふんふんと匂いを嗅いでいたかと思うと、ぱくりと食べてくれた。
「きゅうっ!」
「美味だったようだぞ、カレン」
「もっと食べられるかな?」
ペガサスの子はよく食べた。そして、食べるごとに体の黒く染まった部分が薄くなっていき、白さを取り戻していった。
明らかに体積以上あるカレーをすべて食べ終えると、ヴァルトリーデの膝の上で丸まって眠りについた。
その姿に、カレンとヴァルトリーデはほっと顔を見合わせた。
「ペガサスさん、これで――」
『魔物として、あまりに未熟すぎるわ』
真っ白な姿を取り戻した我が子を見てもなお、ペガサスは少しも嬉しそうではなかった。
最初にカレンが感じた違和感通り、ペガサスは我が子が黒く染まっていることに目を背けたわけではなかった。
このふわふわでやわらかそうな姿を見て、失望していたのだ。
眠った我が子を見るのも辛そうにしながらも、ペガサスは生まれたばかりの子を舐めてきれいにしていった。
カレンは、ペガサスの子の命を救うことはできた。
だがこの子は空を自由に飛ぶことも、大地を駆けることもできそうにない。
錬金術師として――カレンはペガサスからの依頼を達成できなかったのだ。
日が傾いて、奥まった研究室にわずかに入ってきていた陽光は遠ざかっていった。