眠れる人質
『だけど、おまえには万能薬を作れるような魔力を感じないわねえ……』
「一時的に魔力を使い切っているんです! そうしないとここには侵入できなかったので!! ――ペガサスさんはどうやってここに入ってきたんですか? ペガサス、ですよね?」
『私も同じようなものよ。魔力を切り詰めて、無理やりこの階層の、この場所に押し入った……攫われた我が子を死よりもむごい運命から助け出すためにね。ダンジョンは壊れてはいないから安心するといいわ』
賢いペガサスはカレンの懸念を言い当てながら卵を舐める。
その姿はよく見れば、絵画や紋章で描かれている姿よりもやつれ、痩せ細り、羽は抜け、体中の体毛は薄くなり、剥げているところもあった。
ダンジョンが壊れていないなら、壊れているのはきっとこのペガサスの方なのだろう。
我が子のために。
この魔物は、我が身を犠牲にしてでも子を救おうとする母親なのだ。
そう思うと、カレンの体の震えは次第に治まっていった。
「とりあえず、お子さんについてお話を伺えますか?」
『万能薬を作れるんじゃないのかしら? 話をして時間を稼ぐつもり? ……その場しのぎの嘘だったの?』
ペガサスが長い睫毛を生やした目をスッと細めると、また息苦しくなってくる。
カレンは息苦しさに顔を引き攣らせつつ言った。
「作れますよ。けど、闇雲に作るのではなくて、お子さんの状態に合った万能薬にしたいです。使う素材にかかわりますので、できるだけ情報をいただきたいです。それとも、一秒をも争う状態なのですか? わたし、それすらもわからないんです。『理解』していないんですよ」
『確かに理解は大事だわね……』
恐いぐらい話の通じる魔物である。
高ランクの魔物は頭がいいから恐いという話は聞いたことがあるカレンだったが、これほど知性を感じられるとは思っていなかった。
『この子は、腐りかけているの。でも、私が助けたから一秒を争う状態ではないわ。むしろ、もう手遅れと言う方が正しいかしら』
「手遅れ、ですか……?」
『本来私たち魔物の卵は成長するために大量の魔力が必要なの。けれど、魔力がない場所に連れてこられて、魔力を奪う妙な道具を使われて、十分な魔力もないのにこの子はもう生まれかけているわ。もう、ちゃんとした体に育つには時間が足りない。間に合わないの』
治すと豪語した手前、何か言わなくてはと焦るカレンから、ペガサスは気絶しているヴァルトリーデへと視線を移した。
『だから生まれたらすぐに高魔力を持った新鮮な生き物を食べさせてあげないといけないわ。ちょうどよく、とても濃密な魔力を持った生き餌がやってきたの。卵の中で手に入らなかった魔力を、これなら補ってあげられるかもしれない』
カレンはごくりと生唾を飲んだ。
ヴァルトリーデだけがどうして生かされて、ここに連れてこられているのか。
それは、生まれてくるペガサスの子のための生き餌にするためだったのだ。
「わ、わたしの万能薬でお子さんの状態がよくなったら、その人を解放してくれませんか?」
『ええ、いいわよ。治ったら解放してあげる』
ペガサスは酷薄に目を細めた。
『この子が空を翔るための立派な翼と、草原を駆けるための立派な蹄を持つペガサスとして育てるようにしてくれるのなら、他には何も望まないわ』
錬金術師をしていると、時折見ることのある眼差しだった。
今思えばヘルフリートもこんな目をしていたことがある。
ペガサスは、我が子を本当に治せるとは思っていない。
それでも、一縷の希望にかけてみずにはいられない――切迫した目をしている。
これまでのカレンは自分の仕事に自信があった。
だけど、今回は違う。自分が何をしなければならないのか、何もわからないうちに引き受けてしまった。
カレンは自分が恐ろしい安請け合いをしたことに気づいてゾッとしたが、後戻りはできない。
『ここで何が行われていたかわかる? 人間のお嬢さん。魔物の卵を集めて、魔力を奪っていたのよ。魔力をすべて奪われても、しばらくは死ねないまま、魔物の子たちは恐ろしい空腹に苦しんで、苦しんで……最後には死んで真っ黒に腐ってしまうの。そこに並んでいるのはみんなそういう哀れな卵のなれの果て』
「もしかして……黒くなってしまった卵に魔力を注いだら、もうすでに死んでしまっているはずなのに、卵は魔力を手に入れようと魔力を注いだ人を殺すでしょうか?」
『そうね。殺すつもりなんてなく、ただ魔力が欲しいだけだけれど』
イザークが黒い石に魔力をこめて、魔物を呼んだ話をカレンは思い出した。
「もしも黒く染まってしまった自分のお子さんの卵に魔力をこめられたら、あなたは気づきますか?」
『気づくでしょうね。たとえダンジョンの最下層にいようとも気づいて、取り戻しにいくわ。私がそうよ。ずっとずっと探していたの。おまえたち人間が騒がしくしてくれたおかげで、この辺りにいるとわかったのよ』
だからダンジョンがおかしくなっていたのかもしれない。
本来なら四十階層にいるはずの魔物が自身を壊してでも越境して、異質な階層に現れていたのだ。
そして、イザークが持っていたという黒い石はトレントの卵だったのだろう。
だからトレントが現れた。エルダートレントが越境してでも取り戻そうとした。
我が子のなれの果ての助けを求める声を聞いたから。
カレンは魔物を呼び寄せた黒い石の仕組みを理解して頭が痛くなった。
魔物が人間に敵討ちをするだなんて話は聞いたことがない。
「魔物がそんなに情に厚い生き物だなんて――いや、その、人間が魔物を殺しまくっててすみません」
カレンもスライムくらいならば殺ったことはある。
つい頭を下げるカレンに、ペガサスはきょとりとした。
『殺されるだけならいいのよ』
「へ?」
『戦って負けたということだもの。それは仕方のないことだわ。弱い者が負けて死ぬのは女神の摂理だものね』
ペガサスは人間のカレンには理解し難い独自の倫理を展開した。
はじめて知る、魔物の語る魔物の倫理だった。
『だけど、これは違うわ。最悪の苦しみの中に死してなお魂ごと囚われたまま、取り残されるのは違うわよ』
ペガサスは壁際に並んだ卵を嫌悪感を込めて見つめた。
ユリウスが味わわされている飢餓感は、卵たちの飢餓感なのだろう。
死してなお残る『とある魔物たちの悪夢』――その正体を見ていられずに、カレンは壁際から目を逸らした。
「つまりは魔力を失ったせいで著しく発育不良ということですよね。効果がある可能性が高いのは、やはり万能薬かと思います。解毒のポーションという手もあるかと思いますけど、万能薬に解毒の効能は含まれていると思います。卵から魔力を奪うために使っているこの装置のこの液体が何にせよ、卵に染みついているのなら解毒して、魔力を補給する。生まれたあとは栄養のあるものをたくさん食べさせる、ですかね」
『栄養のあるものを、ね』
ペガサスがちらりとヴァルトリーデを見やる。
そんな目でヴァルトリーデを見ないであげてほしいものである。
「ひとまず、ここから出ませんか? 魔力がないこの場所に留まるのは、お子さんのためによくないと思います」
『そうしたらおまえの仲間たちが私たちを捕らえるでしょう? 人間が私たちを見て目の色を変えることぐらい、よく知っているのよ。おまえ一人ならともかく、今の私は大勢を相手には戦えない。だから、この子が生まれるまで私はここから出るつもりがないの。この子のことは私が魔力で覆って守っているから、この子に悪い影響はないわ』
誘き出そうとしたつもりはなかったものの、確かにカレンが止めようと、ペガサスと見れば生死を問わず欲しがる人間はいるだろう。
「すみません。考えが浅かったです」
『……別にいいのよ。頭脳戦も戦いのうちだもの。だけどおまえは本当に、私の子を治したいと思っているようね』
「わたし、錬金術師ですからね」
『錬金術師……』
ペガサスは呟くように言って目を細めた。
『おまえの名前はなんと言うの?』
「錬金術師のカレンと言います。ペガサスさんのお名前は?」
『そんなものはないわ。それで、錬金術師カレン? 次はどうするの?』
「一度帰ります」
『は?』
ペガサスが間の抜けた顔をしたあと、じわじわと魔力の圧を上げてくる。
カレンはどうどう、とペガサスを宥めてから言った。
「落ち着いてください。必要だから帰るんです。そもそも、ここじゃ万能薬は作れませんよ。素材もないし、魔力も回復しないし」
『……それはそうね』
「だから一度天幕に戻って、一眠りして――」
『一眠りして??』
「人間、寝ないと動けないんですよ! ご飯も食べますからね! 体も洗って着替えますよ! 精進潔斎ってやつです!」
『それが万能薬を作るために必要ならば、仕方ないわね』
「では、あちらで万能薬を作ったら持ってきますね。また後で」
と言って、カレンはさりげなくヴァルトリーデを抱えようとしたものの、ペガサスがタシッとヴァルトリーデのドレスの裾を押さえて止めた。
『この人間は置いて行きなさい? ね?』
「はい……」
『日が昇って沈むまでは待ってあげるわ』
それぐらいあれば、万能薬を作るための時間は十分に取れるだろう。
カレンはうなずいた。
「この人、ヴァルトリーデ様、って言うんですけど……もしも起きちゃったら、そのうちわたしが戻ってくるって伝えてあげてください」
『ヴァルトリーデ、ね』
目が覚めてしまったら、ヴァルトリーデには気の毒なことである。
できればヴァルトリーデが眠っているうちに戻って来られればいいのだが、中途半端な回復具合で出来の悪い万能薬を作って期待通りの効果を得られない場合も、死の未来が待っている。
ここはヴァルトリーデには悪いが、全力で休息を取って万能薬を作って戻るしかないだろう。