異質な飢餓感
どれほど時間が経っただろうか。
長く荒々しい口づけの時間が終わり、ユリウスが離れていく。
カレンはしばらく茫然としていた。
息が苦しくて死ぬかと思う瞬間もあったものの、心地よさで陶然としている時間の方が長く、その余韻で頭がぼうっとした。
だが、視界の端にユリウスの足が入り、ここがどういう場所なのか思いだした。
溶け出した思考をかき集めると、カレンは押し倒された格好のまま、肩で息をしながら話を進めた。
「ユリウス、さま。これでわたしの気持ち、信じてくれましたか?」
「……君に求めることは何もない」
低い声で言うユリウスに、カレンの目からポロッと涙が零れた。
普段ならこんなことでは泣かないものの、カレンを試すような激しい口づけで酸素不足になって元から涙が出ていた。
それに、ユリウスの口づけを受けながらユリウスにとっての口づけの意味をずっと考え続けていたから、ユリウスに求められていないという事実が今のカレンには堪えた。
「カレン、泣かないでくれ。……もう大丈夫だ、という意味だ」
「だいじょうぶ、なんですか?」
「ああ、君と口づけを交わしている間に、少しばかり飢餓感は落ち着いたから――」
「飢餓感?」
カレンがきょとんと復唱すると、ユリウスが息を呑んで己の口を手で塞ぐ。
青ざめるユリウスはやがて、諦めたように口から手を退けた。
「――これ以上、君に隠し事をしても仕方がない、な」
ユリウスは苦い苦い笑いを浮かべた。
暗い笑いを浮かべて未だに力なく横たわるカレンを見下ろした。
「そうだ。私は、魔力の欠乏によって飢餓感を覚えていた。これまでは、魔力が足りなくなったところでこんな感覚を覚えたことがなかったのだが、いよいよ私はおかしくなってしまったらしい」
ユリウスはくしゃりと顔を歪めた。
髪をかきむしり、怯えたような目は宙を見すえ、何も見ていなかった。
あえて見ないようにしていた――カレンを。
カレンは岩に手をついて起き上がり、ユリウスの顔を覗き込んだ。
「現れた君を見て、私は君を喰ってしまいたいという強烈な欲求に苛まれた。君を喰らいさえすれば魔力が回復すると直感し、その首筋に喰らいつきたい衝動を覚えているのだ――今もまだその欲求は完全には治まっていない」
「えっ、と。その、こんな場所じゃなければ……!」
「恐らく君の想像している意味ではなく、食欲としての話だ」
もじもじとしながら言ったカレンにユリウスが気まずげに訂正する。
勘違いを指摘され羞恥のあまり真っ赤になったカレンは恥ずかしさを誤魔化すために「あ~ね!?」と適当に返事をしたあと、ぎょっとした。
「えっ、食欲!?」
「私から逃げてくれ、カレン。……私の足がこうなっていて、むしろよかった」
ユリウスは砕かれた膝を見てつぶやくように言う。
ホルストがカレンをやすやすと行かせた意味を理解して、カレンはゾッとした。
もしもホルストの思惑通りにいったなら、カレンはユリウスに喰われていたのかもしれない。食欲的な意味で。
そこで、カレンは怪訝な顔になる。
「ユリウス様、今はその物騒な欲求は落ち着いてるんですよね? だったらなんでそんなに落ち込んでるんですか? 多分、そんな欲求が湧いているのって、ブラーム伯爵のせいですよね? だったら仕方ないですよ。帰ったらその欲求をどうにかする方法を探しましょう」
「確かにあの男には何かを飲まされたが……これは私の身のうちから湧き出る欲ではないのか?」
「明らかに怪しいものを飲まされてるのになんでそんな考え方になるんです?」
カレンは呆れつつ、ポーチからポーションを取り出した。中回復ポーションだ。
中回復ポーションでは欠損は治せないが、斬り落とされた腕ぐらいなら、切り口が綺麗ならくっつくこともある。斬り落とされた首がくっつくかは博打なので、大回復ポーションがおすすめだ。
カレンはユリウスの膝を見て、惨たらしいと思うと同時にホッともしていた。
ホルストが自分に降りかかった災いにこだわってくれたおかげで、ユリウスの膝は砕かれているだけで、斬り落とされたりはしていない。
そこには砕けたすべての骨がそろっていて、四散しているわけでもない。
中回復ポーションで、十分に治る怪我だった。
だが、膝にポーションをかけようとするカレンの腕をユリウスが掴んで止めるので、カレンは言った。
「ユリウス様がいなくなったあと、トールに教えてもらってブラーム伯爵のところに話を聞きに行ったんです。そうしたら、妙だったんですよ。完全にそらとぼけるわけでもなく、自分の犯行を示唆しながら、結構ヒントをくれるんです。まるで、わたしをユリウス様のところに行かせたいみたいに。そうしたら、もっと酷いことになるってわかっていたのかも」
「私が君を喰らいたいと思っていると、わかっていた、か」
「そう仕向けたんだと思いますよ。そうじゃないと、すんなりここまで来られた意味がわからないので……だから、解毒さえすればユリウス様は元通りになれます。早く治して、戻って解毒のポーションを試しましょう?」
ポーションを持つカレンの腕を掴んで治療を拒絶していたユリウスが、その手を離した。
カレンは中回復ポーションを半分ユリウスの膝にかけ、もう半分を飲ませた。
ユリウスの怪我が治るのを見届けると、カレンは言った。
「さあ、とっととずらかりましょう! ここは未だ敵地ですよ!」
「ああ――」
「それにしても、そんな毒もあるんですねぇ。興味深いですねっ」
怪我を治したユリウスは立ち上がると、カレンに呆れた目を向けた。
「君に危害が及ぶ毒だというのに、楽しそうな顔をしないように」
「えへへ。職業病、ってやつですね!」
照れ笑いを浮かべるカレンを見下ろしていたかと思うと、ユリウスが不意に顔を近づけてくる。
カレンの顎を掴み、頬を大きな手で覆い、そこで止まった。
焦点の合わない目をしてカレンを見すえながら何かに耐えるように汗を流しはじめたユリウスを見て、カレンは目を閉じて自らユリウスに口づけにいった。
唇が重なると、ユリウスはカレンの口に舌をねじ込んだ。
しばらくして、ユリウスはカレンの舌を吸うと離れていった。
「……飢餓感、癒やされましたか?」
「すまない……このようなおぞましい欲求に君を晒してしまって、あまりに申し訳ない」
「お気になさらず。恋人なんだから、口づけるくらいいいじゃないですか。はじめての口づけでもないですし」
カレンは落ち込んでいたが、それを感じさせないように笑顔で応えた。
落胆の理由はユリウスに食欲を向けられたからじゃない。
先程のユリウスの貪るような口づけは、ただたんに食欲のためだと突きつけられたからである。
だが、こんな時にこんな場所で恋愛脳を炸裂させるわけにはいかない。
カレンは気を引き締めると言った。
「この場所では魔力を持った人は道に迷う可能性が高いので、手をつなぎましょう、ユリウス様」
「ああ――世話をかけるね」
暗い面持ちのユリウスに、カレンは努めて明るい笑顔を浮かべて見せた。
「では、いざ脱出!」
空元気を出すカレンに手を引かれるユリウスは、カレンの背中をじっと見つめながら、もう片方の拳を握りしめた。
帰り道もやはり人の気配はなかったが、カレンもユリウスも牢を出たあとは口をつぐみ、気を張りつめさせ、身を隠しつつ集落を後にした。
幸い、今度ははぐれることはなかった。
魔力のない場所からある場所へ移動する分には、目的地を見失わずに済むらしい。
空白地帯を脱して一旦窮地を脱すると、カレンはユリウスに訊ねた。
「ユリウス様はブラーム伯爵に何をされたんですか? 仲間を大勢連れてこられて、囲まれたとか?」
「いや――何か、粉のようなものをかけられた。黒い粉だった」
「黒い、粉?」
カレンの脳裏に思い浮かぶのは、集落を囲んでいた砂利のような黒い砂だ。
「私は話がしたいとブラーム伯爵を呼び出して、ひと気のない場所で対峙した。そこで、イザークの件について問い質すとブラーム伯爵は憤慨し、それを投げつけてきた。その瞬間、全身から魔力と力が抜けていき、立っていることさえできなくなり――気づくと、膝を砕かれてあの場所に囚われていた」
「対策方法はありますか?」
「他愛ない意趣返しの砂か何かと考えることなく、あれを攻撃だと思ってきちんと避けること、だね。情けない話だが、私に積年の恨みを吐露するブラーム伯爵に、私は油断していた。避けようと思えば避けられたが、避けなかったのだ。あの男に、何かができるとは万に一つも思っておらず、傲慢にも甘んじて受け入れてしまったのだ」
ホルストは、あの恨み辛みをユリウスにもぶつけたらしい。
一方的で理不尽で、哀れを誘うくらい情けない姿をさらすことで、ホルストはユリウスを油断させたのだ。
カレンたちも、愚かなほど口数が多く、己の犯行を自供するかのように手柄を誇るホルストの、ちっぽけで情けない姿を目撃した。
そんなホルストに、カレンたちは油断しなかったと言えるだろうか?
――カレンはごくりと息を呑んだ。
「ユリウス様、急ぎましょう。胸騒ぎがします」
ユリウスはうなずき、カレンに急かされるまま足を速めた。
まだ野営地が見えてくる前から、野営地のある方角からは怒号と嘆きの声が響いてきた。