岩の湯治場
ダンジョン調査隊は順次八階層に移動した。
七階層の森の中にある門をくぐると、山の中腹に位置する岩場に出る。
八階層『岩の迷宮』である。
まずカレンの鼻先をどこかで嗅いだ覚えのある匂いがくすぐった。
ゆで卵のような香りだ。硫黄の匂い――ここには温泉が湧いているのだ。
そして、視界いっぱいに広がるのは岩の林だった。
岩は縦長で地面に突き刺さるようにそびえていて、それぞれ大きさは違うが、一番小さな岩でも五メートル以上の高さがある。
岩は二列に並んでいて、その間に数人が横並びになって通れるぐらいの道が作られている。
空は見えるものの不思議な力でこの岩を飛び越えることはできないし、登ることもできない。
なので、岩でできたこの迷路を抜けるしかない。
この岩の迷路のどこかに、何かがある。
その何かによっては、カレンたちは命がけの戦いに巻き込まれることになるだろう。
ごくり、と息を呑んで岩の迷宮を見上げていたカレンたちの後ろに、不意に気配が現れた。
誰よりも先に気づいたカレンはとっさに身を引いた。ユリウスかと思ったのだ。
カレンはここ数日、ユリウスを避け続けている。
防音機能をはじめとした各種の魔法効果を持つ王族御用達しの天幕に引きこもり、ヴァルトリーデと共に暮らし、ヴァルトリーデを盾にしてきた。
いかなユリウスといえど、王女の天幕に許可を得ずに入ることはできない。
カレンから事情をすべて聞き出したヴァルトリーデは面白がってカレンの味方をしてくれるため、今のところカレンとユリウスの攻防はカレンの連戦連勝である。
だが、背後にいたのはユリウスではなかった。
「おやおや、これは奇遇ではないか?」
こんなところで聞くはずのない声だった。いるはずのない人物だった。
「ブラーム伯爵――何故ここに?」
ユリウスが警戒もあらわに疑問を問う。
ホルスト・ブラーム。エーレルトの元老界を牛耳る、エーレルトの貴族だ。
エーレルト伯爵家とは対立していて、カレンも喧嘩を売ったことのある相手。
そんな人物が、護衛を一人連れていつの間にか忽然と、そこにいた。
「湯治だよ、ユリウス殿」
「湯治?」
「私の膝はかつてダンジョンで壊して以来、ポーションを飲んでも完治せずに動きが悪くなったばかりか、時折ひどく疼いてねえ」
ホルストは杖を揺らしてみせる。右足の膝が悪いようで、小さな体の体重をほとんど杖にかけるようにして言った。
「アースフィル王都ダンジョンの八階層にある温泉が、ポーションでも癒やしきれなかった古傷によく効くというのでね。時折訪れているのだよ」
「……ユリウス様、ブラーム伯爵のお言葉は事実だと思いますわ」
「ああ。私も八階層の湯治場の話と、そこにブラーム伯爵が通っているという噂は聞いたことはある……だが」
「ええ、ユリウス様がおっしゃりたいことはわかりますわよ」
テレーゼの言葉にユリウスが応える。
言葉を皆まで言わずともの、阿吽の呼吸である。
エーレルトの者同士、わかり合うところがあるのだろう。
その光景に鼻白んだカレンはヴァルトリーデの影に隠れた。
無表情を取りつくろえない自分の表情を、なんとなくホルストに見られたくなかったためだ。ただ拗ねているだけではない。
「ブラーム伯爵、今ダンジョンは騒がしい。ダンジョンに入ることをやめろとは言えないが、おすすめはしないとお伝えしておく」
「ご忠告いただきありがたくて涙がでるよ、ユリウス殿。護衛がいるから心配はいらないさ。だが、あまり長居はしないでおくこととしよう」
ホルストはにやりと笑って言った。
「もうそろそろ私の用事は終わるだろうからね」
ユリウスは眉を顰めた。
「用事? 湯治ではないのですか?」
「もちろん、私が湯治以外でこのようなところに用があると思うかね? この役立たずの足で、老いた体で、八階層の魔物相手に何かできるはずがない」
ホルストは妙にニヤニヤ笑いながら言う。
本人の言う通り、一階層の魔物とさえやり合うことなどできなさそうな、そんな貧弱な体つきだった。
それなのに、何かあると示唆するかのように、厭な笑みを浮かべてホルストはユリウスを見上げている。
「もし私にもできそうなことがあれば教えてくれないかい? ユリウス殿。できることがあるのなら、喜んで君たちの手伝いをさせていただこう」
「……いえ、お気になさらず。膝の湯治に専念されるのがよろしいでしょう」
「そうかい? それは残念だ。国家事業に携われるかと思ったのだがねえ」
何かある、と気づいて欲しがっているかのように意味深に言うと、ホルストは杖をつきながら、岩ばかりで足場の悪いダンジョンの道をヨタヨタと歩いていった。
声が届かない距離まで離れると、テレーゼはユリウスにささやいた。
「ユリウス様、ブラーム伯爵が此度のダンジョンの異変に関わっていると思われますか?」
「可能性はある。そうなると、今回の事件にエーレルトが関わっているとみなされるだろう」
この場にいるヴァルトリーデの護衛がテレーゼでよかったと、カレンでさえ思わずにはいられない。
これがエーレルトの人間でなかったら、真実が明らかになる前から、すぐさまボロミアスに不利益な注進をされていたかもしれない。
この度の騒動はエーレルトのせいである、と。
とはいえ、この場にはエーレルトの人間ではない者もいる。
カレンがヴァルトリーデを見上げると、ヴァルトリーデは小首を傾げて言った。
「あの小男がダンジョンに何かしたとはとても思えぬが。私もブラーム伯爵のことは知っているが、陰謀を巡らすことはできてもダンジョンでは無力であろう?」
「確かに……あの意味深な言葉は我々に対するただの嫌がらせという可能性もございます。何もないにも関わらず、あたかもあるかのように見せかけて、我々を攪乱している、とか」
「それぐらい関の山であろうな。あの者に何かができるとは思えぬ」
ヴァルトリーデはそう言って切って捨てた。
それなりの期間をエーレルトで過ごして来たお姫様なので、カレンよりもずっとホルストに詳しいだろう。
そんなヴァルトリーデから見て、ホルストに大したことができるとは思わないらしい。
傍らに控えるイルムリンデとドロテアも、ヴァルトリーデの言葉に異論はないようだった。
テレーゼもそれにうなずいた。
「まあ、そうですわね。ダンジョンを揺るがすようなこと、あの方にできるとも思えません」
「たまたま時期が被っただけ、か。確かに、ブラーム伯爵にできることがあるとは思えないね」
ユリウスの意見までも、ホルストの嫌がらせだったろうということで一致した。
カレンよりもずっとエーレルトの貴族に詳しい人々の意見である。
一抹の不安を覚えつつ、カレンもそれが正しいのだろうと納得した。