第五章 2
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遂に恐れていることが起こった。
八月二日、時刻は午後の四時頃、エアコンを効かせたリビングで塚本が読書をしている時だった。
「こらっ、やめなさい。―――シッシッ、―――向こうに行って」
という平田さんの声とクエッという短い鳴き声がベランダ側の窓の外から聞こえた。
「怖い。やめて」
今まで聞いたことのない平田さんのハイオクターブの声が響き渡る。一瞬にして、塚本の頭の中にその光景が描かれる。
平田さんの手にはピンクの猫、レンのハーネスから伸びたリードが握られている。
襲いかかる痩せたカラス。ゴンジロウの姿は、そこにはない。
助けに行かねば。
塚本は、ソファから立ちあがり、玄関に急ぐ。
靴を履いていると、部屋の隅でじっとしていたはずのカミクズが、タタキに飛び降りた。ドアが開くのを待っている。
「戻れ。狙われるぞ」
塚本は、カミクズに強い口調で言ったが、動かない。
「行きなさい」
平田さんの叫び声が、再び聞こえた。カミクズを戻す余裕はない。
ドアに手を掛けた塚本だったが、武器を持たねば、とその手を放す。最初に掴んだのは傘だったが、父親の形見の杖に持ち替えた。
ドアを開ける。
塚本がカミクズの後を追う形になった。
自動ドアのセンサーにキャッチされカミクズが表に出る。塚本も続いた。
リビングで塚本が頭に描いたのと違う光景があった。
平田さんは、ゴンジロウとレン、二匹の猫それぞれにベストのようなハーネスを装着し、二本のリードを手にしていたのである。掌の甲と手首に血の色が見える。大事になっている。
平田さんと二匹の猫は道の向こう側、痩せたカラスは、平田さんの部屋のベランダに止まり羽を広げ威嚇している。
塚本は、痩せたカラスに向かって空中で「行け」と杖を振ったが、痩せたカラスは全く動じることがない。
羽を大きく広げ、身を乗り出して来る。その迫力に塚本は思わずひるんだ。
ピリピリ感を伴った空気の波動を塚本は顔の正面から感じた。心理的な波動とは思えない。
カミクズが斜めに転がった。平田さんとゴンジロウとレンから少し離れた場所で楕円を描き始めた。誘っている。自分を襲って来いと言わんばかりである。自らが犠牲になるというのか?
痩せたカラスの首が角度を変えた。カミクズを狙っている。
恐怖を感じさせる血走った目だ。カラスじゃない。塚本は、思った。じりじり、カミクズの方に下がり、飛んだら一撃喰らわしてやると、杖を握る掌に力を込めた。




