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第一章 3

              3

 ニャア

 榊コーポの前まで来た時、101号室の平田さんの家の猫のゴンジロウがベランダの縁の上から声をかけて来た。

「ヨウッ、ゴンジロウ元気か」


 塚本が、この言葉を言い終わらないうちにゴンジロウが、ひらりと地面に降り立った。ゴンジロウは、キジ猫で、平田さんの家にもらわれてきた時はスマートだったが、今は、すっかりメタボな体型になっている。ただ、年を重ねてもスマートだった頃の敏捷さをほとんど失っていないのは立派だった。


 ニャア

 地面に降り立ったゴンジロウは、尾っぽを立てて、塚本のポケットを見上げている。

「鋭いな、お前。これは食べ物じゃないんだよ」

 塚本は、ジャケットを指で広げ、身体を屈めてゴンジロウの方に紙くずが入ったポケットを近づけた。

 

 途端、ゴンジロウは、シッっと棒で追い払われたかに、塚本から走るかに離れたのだった。これまで、一度としてこの猫がそんな態度を示したことはなかった。


 逃げておいて数メートル離れた位置から、ポケットを見上げている。塚本に、やっぱり、何かあるのかと思わせるゴンジロウの動きであった。動物の本能がそうさせたのか。嫌な予感が頭を横切っていった。


「じゃあな」

 塚本は、立ち止まったままのゴンジロウに片手を挙げて、榊コーポの中に入ろうとした瞬間、ニャアというひと際大きな鳴き声が塚本の耳に届いた。


二DKの部屋は、男のひとり暮らしとしては、整理整頓されていた。南向きのベランダに面する萌黄色のカーペットを敷いたフローリングの部屋をリビングとして使用している。

 そこにこじんまりした応接セット、三十六インチの液晶テレビ、机と椅子、パソコンと印刷機、ファクス付き電話、本棚などがあった。

 

 家具は多いが、十分な広さがあるので、狭苦しい感じはなかった。 

 

 散歩から帰って来ると、塚本は、まず、手を入念に石鹸で洗い、うがいをする。今、身内と言えるのは、静岡にいる七十六歳になる兄貴とその家族だけである。それとて、そう簡単に頼れるわけではない。病気にならないために最大限の努力をする、を心がけているのである。

 

 彼はジャケットをリビングの壁際のハンガーにかけるとカーディガンに着替えた。エアコンの暖房を入れ、ダイニングに移動した。


 インスタントコーヒーを入れる。いつもだったら、そのままリビングに移動するのだが、ちゅうちょした。料理を作る際の生ごみを捨てるボックスを見た。足でペダルと踏むと蓋が開く物である。やはり、ジャケットのポケットの中の物を処分した方がいいように思える。

 

 けれど、「捨てないよ」と言ってしまったのだ。無論、一方的な約束なので、破ってもかまわないのだがーー。

 塚本は、コーヒーを八分目ほど飲んだところでコーヒーカップを持ってリビングに移動した。

 

 ソファの長椅子に座り、コーヒーカップを膝と同じ程の高さの分厚いガラス板を乗せたテーブルの上に置いた。そうして、塚本は、公園で起こったことを頭の中で整理してみた。


 足元に風を感じることはなかったのに、ベンチの下から転がり出た紙くずは、地面の上で左右に揺れた。それを屑かごに入れようと拾いあげて、歩き始めたら抵抗するかに掌の中で蠢いた。

 間違いなく、不思議な現象である。だが、不思議な現象、では納得出来ない自分がいる。家電メーカーの研究所に勤務していたプライドが塚本にはあったのだ。


 科学的に考えるとしたらどうなるだろう?

 悪戯好きの人間が、誰かをからかってやろうと、リモコン操作が出来る紙くずを作った。イメージ的には若い男だ。毎日公園に来るあの老人を驚かせてやろう、と彼は思った。そうして、こちらが、ベンチに座ったのをどこかから見届け、あらかじめ、ベンチの下に用意して紙くずを動かした。そこから先の計算が狂った。こちらが、落ちた紙くずを拾いあげてジャケットのポケットに入れてしまったことだ。


 彼は、どうしよう、と思った。「これ僕のです」と言い出せないままに取り戻すのをあきらめてしまった。絶対にないとは言えないストーリーだ。拾った物をジャケットのポケットから取り出す勇気が少し湧いて来た。


 外部からの操作なしに動くはずがないのだ。自らに言い聞かせる。それでも、緊張の中でジャケットのポケット手を入れて、先刻拾った物を取り出した。


 何の変哲もない紙くずである。

 超小型カメラが、どこかに仕込まれていたら?若い男は車の中で、送られてくる画像を観てリモコンを操作した?

 

 しゃがみこみ、塚本は、紙くずを手に持って回転させた。豆粒ほどのレンズも存在すると聞くが、それらしき物はなかった。

 そもそも、小型カメラをつけた足裏で踏まれる恐れのあるそんな物を作り、老人をからかおうとするような物好きな人間がいるだろうか。可能性は、極めて低くなる。


 念のためだ。ベランダから、外の様子を見ることにする。

 木々の模様が入ったカーテンを身体の分だけのけると、曇りガラスの戸を開けた。床に置かれたサンダルを履いて、前の道の左右を眺め渡した。人の姿は見あたらなかった。ゴンジロウの姿も今はない。

 

 ガラス戸を元通りにすると、ほんの冗談のつもりで紙くずを見て塚本は、声を出して言った。

「動いてごらん」

 一秒、二秒、―――十秒、何も起こらない。あたりまえだ。

 公園での出来事は、錯覚だ。万が一、この紙くずの中に何かが仕組まれていても、ここまで影響は及ぼすことはないのだ。そう思い、紙くずを拾おうとした時だった。





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