第3回
3 孟子とか
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今日のフードコート、子どもの姿が多いような気がする。平日の日中だからほとんどが未就学児だろう。隠者もどきの身にも子どもは愛らしいと野狐は思う。して、この反応、遺伝子レベルのものなのか、社会的に刷り込まれたものなのか。いずれにしても、自然淘汰の結果として今ある人間社会の一員としての必然であろうから、問い自体が無意味なのかも。
ふと、『孟子』を想起する。”人に忍びざるの心”である。その例として、井戸に落ちそうになっている幼児をかわいそう(そして助けたい)と思う心を持ち出しているのは侮れない。しばらく前まで熱心に読んでいたアメリカの正義の哲学、いろいろもっともらしい理屈を積み上げているが、大前提にあるのは立憲民主主義であり、結局は他者を思いやる心であるなあ、と思い至り、冷めてしまった。同じレベルで他者を思いやる心を共有できない相手とは正義も共有できない。
高校の漢文の授業でその一節を読んだときは、『孟子』、古臭い! という感じしかなかったが、今になってその深さが味わえる。歳は取るものである。
あ、転んで男児が泣き出した。元気でけっこう、野狐はゆっくりコーヒーをすする。
[覚書/非公開]
平日の日中のフードコートに多いのは老人と子連れの母親。ゆったりした時間が流れている。その中にちらほら、ノートパソコンに向かう現役世代、参考書を広げて勉強に励む高校生たち。能率が上がりそうである。自分は経験してこなかったので、ちょっと羨ましい。ともあれ、平和である。テーブルのアクリル板もいつの間にか消えていて、空間が柔らかくなったと感じる。