第2回
2 孤独とか
[本文]
“ああ、寒いほど独りぼっちだ。”
野狐は独りごちてポテトをつまむ。客観的には一人とはいえまい。フードコートでは20人くらいの客がばらけて飲食をしている。賑やかなグループも三組。山椒魚のセリフは中学校の国語で読んで忘れ難い。今の状況でこそ、使ってみたくなる。もっとも、それなりに知恵がついた還暦男だと、独りぼっちは孤独であろうが、孤独感はまた別のものであろうと考えてしまう。リタイアして一人暮らしの現在は、これまでの人生で最も人との交流が少ない、すなわち孤独であろう。されど、孤独感、淋しさに近い負の感情は全くないのだ。
“咳をしても一人”。好きな句だ。味わい方はいろいろあろうが、野狐的には、一人だと思う存分に咳ができて楽だなあ、という解釈の一択である。コロナ禍を経た今こそ光る句であろうか。思えば、子どもの頃から一人が好きだった。物心ついて好きだったのは一人での積み木遊び、文字が読めるようになってからの趣味は一貫して読書であった。
“世の中にまじらぬとにはあらねどもひとり遊びぞ我は優れり”。良寛は同志である。存分に独りぼっちを堪能する環境を得るには、凡人の哀しさ、60年の歳月を要した。やれやれ、と野狐はコーヒーを啜る。ポテトを添えたのでサイズはM、ブラックである。
[覚書:非公開]
孤独好きは常に一定割合存在するだろう。ただ公言するには変人視されるというリスクはあるかも。自然淘汰を経た社会の当然の状況か。孤独好き20%社会と孤独好き80%社会があれば、まず淘汰されるのは後者であろうから。群れをなさないと他の動物との生存競争を勝ち抜けなかったという人類の宿命。そういえば、ネアンデルタール人の復元図、そこはかとなく隠者の雰囲気を纏う。