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下・変異脈動

 駆動天塊アンへリアル・下


「変異脈動」




 システム再起動……リロード。


 ペントハウスの上で寝ていた。


 伊庭結弦は眠たい目を擦る。


「固い、機械が埋め込まれてるみたいだ」


 結弦は右手を見た。


 皮の下で何かが波打つ。


「……気持ち悪っ」


 寝惚けていた頭を振る。


 右手は、人間の右手に戻っていた。


「寝惚けたかな?」


 ペントハウスから飛び降りる。屋上の、屋上らしい場所へと数メートルの落下。靴伝いの衝撃と痺れ。一回転して衝撃を消す。少し無茶をした。


(学ランだってのになにやってんだか)


 痺れた足のまま軽く背中を伸ばす。


 トンビが飛んでいる。


 ぴーひょろ、鳴いている。


 結弦は陽に手をかざした。


●──●


 真面目に授業を受けて、適当な友人の輪のコミュニティに居て、可もなく不可もない成績で留年しない程度の手抜きで、それなりに快適に過ごせている。


「昼メシ食べに行こー」


「やりぃ!」


「茂登子ちゃん頼むよ〜!」


「あっ、くそ、ズルだぞ」


「ムシカンだよ」


「おい、こんなとこで言うな」


「もうちょい尻を上にしろ、もうちょい」


 伊庭結弦の学生生活だ。


 学ランのホックを閉じるほど気を張り詰めず、改造するほどには不良にならず。塩梅を見極めて……。


「本西綾乃?」


「え?」と綾乃は少し驚き、少し照れで赤くなりながら、


「う、うん。結弦くんが声をかけるなんて、珍しい、かな。驚いちゃった」


 綾乃はミディアムの髪を指先でいじる。ミディアムの黒髪に隠れていた耳から、剣のピアスが覗いた。お淑やかなようで、綾乃のギャップだ。


「雰囲気が違うから、僕も驚いただけ。引き止めて悪かったよ」


「そうなんだ。髪、ちょっとカールしてる。コテを当ててイメージチェンジ」


「パーマ?」


「ぱ、パーマ、パーマて何? たぶん違うかな」


 綾乃からは楽しげに、最近の流行りの話題、最近のニュース、最近の噂、最近の交友関係、最近の些細な笑える事件、最近をこの話し合いだけの時間に圧縮して流されていく。


「猫渡重化学工業て知ってる?」


「知らないけど知ってる!」


「なにそれ、変なの!」と綾乃は口を隠す。


 猫渡でロボットを作っているんだ。


 綾乃は、そう言って、チケットを出す。


 待っていたとばかりにポケットから。


 入場券で、猫渡重化学工業主催で地域貢献をアピールする祭り、可愛らしくデフォルメされたロボットが手を振って誘っていた。


●──●


 三メートル。


 ロボットアニメの呪いみたいな人型歩行兵器は一八メートル。比べれば六分の一くらいで小さい。圧倒的、と見上げる大きさはない。


 三メートル、成人した人間が二人分よりも小さい。


「ロボットだ」


 三メートル、結弦は見上げた。


「ロボットだね」


「うん、ロボットだ」


 ウォーキングフォークリフト。フォークの爪が上下に動いて、引っ掛けたり持ち上げたり。側には作業員がいて、レーザーポインターの指示や高等で三メートルの巨人が働く。


 ヒーロー的ではない。だからか、子供はほぼいない。大人もいなかった。マニアックなロボット好きだけが、写真を撮ったり、寡黙な話しがチラホラ、その程度だ。


「あっ!」


 少し退屈なと思っていた結弦も声をあげる驚きの声。新しくやってきたのは、もう少し漫画的で、両腕はフォークではなく『ガン』になっていた。それは正座のように膝を地面に合わせ、膝と足首の車輪を回転させて走行しながらやってくる。


「結弦くん! かっこよくない!? あれ!」

 綾乃が結弦の肩を掴んで揺さぶる。指差す先は、そのロボットこそを示している。


 興奮する綾乃。


 結弦は、少し冷めている。


(あんまりロボット好きじゃない、かな?)


 ロボットに、素直に面白い、楽しいと表現できるだけのラインを超えられない、冷静に押し付けてくるものがいる。結弦の頭上から、綾乃ほど純真になれないものがあるが、結弦にはそれがなんかなのか『思い出せなかった』。


●──●


「悪者が天使て斬新だった」


「天使て優しいイメージある」


「私は、天使て邪悪な感じだ」と綾乃はお土産のダイキャストを大切そうに抱える。裏面には、猫渡重化学工業の発泡金属とやらの宣伝がきっちり。他にも手にはプロモーションビデオのショートムービー、データの入った物とお土産。未来に触れた感覚、あるいは、知らない異世界の断片。


 見慣れた景色の車窓、継ぎ目を感じさせないから、がたん、ごとん、列車の聞き慣れたイメージとは遠い静かな車内、斜陽が赤く差し込み、町を赤い夜へ沈める。


「結弦くんは、天使をどう思う?」


 天使──。


(前にも……いや、『思い出せない』のだから、たぶん夢かなにかだろう)


 結弦は小さく、笑えた。


「天使は優しい存在になれる。残酷でも、人間から離れていても、戦っても、人間のようでなくても良いんじゃないかな、と『今は思える』気がする」


 変わった意見だ、と綾乃は言う。


 変わらないことが尊い、と結弦は言う。


 変わらなくても許されているから、と。


(隣にいなくても良かったんだ)


 夢に、結弦は答えを見つけられた。


 遅過ぎたということは、きっと無いのだ。


 違う、これからを望める、望めた。


(遅いんだよ、『俺』)


 好きよりも、愛よりも、ずっと優先してしまう馬鹿なのに、遅過ぎるんだ、馬鹿──結弦は自分のいない未来を選んだ。だって結弦はもう、同じ時間にはいられないと『思い出してしまった』から。


(覚めなきゃよかった、そう思わないと言えば嘘になるけど……うん、これで、これが良い。一番の幸せは、この道だ。変化に戸惑う僕ではない誰か、新しい友人のほうが『綾乃の最善』だ)


 青い炎が瞳のなかで燃えている。


「結弦くん……?」


「綾乃さん」


 今なら、心から言える。


 どれほどの罪であっても。


「好きです。でも、『好きだった』にします」

 世界の過去でしかなくなった伊庭結弦ゆえに。過去はいつだって未来にいるべきではないと、信じているがゆえに。


 結弦は『ずっと暴れている相棒』に応える。


 車窓からの景色が変わった。


 遠くの、名前もわからない高層ビルが爆発した。


(思えば戦うときにはいつも、綾乃がいたね)


●──●


 その日──天使が舞い降りた。


 世界の全ての人々が見上げた。


 雲の隙間から陽の光とともに降り立つ、虹色のヘイロー、天女の羽衣のようになびく衣服、完璧な肉体、微笑みと慈悲の表情のみの顔、何対もの翼をただ広げて見せる為だけに広げていた。


 初めて見た天使は、美しかった。


 細い目の瞳は、空の全てがそこにあるかのように、あるいは全ての海がそうであるように深い青を溶かしている。


 美しい女性だった。


 少なくとも、女に見えた。


 無粋な戦闘機がスクランブルして、住宅密集地上空にまで進出して、天使の周りをジェットエンジンを唸らせながら絡みつく。


 初めて見た天使は、美しかったのだ。


 戦闘機が航空燃料を破裂させ、翼に吊るしたミサイルが誘爆して火の玉になり落ちてきた、破裂した瞬間も、天使は微笑みを崩すことはなかった。


 あぁ、美しいよ。


 美しいのだろう。


 だって……こんなにも恐ろしいのだから。


●──●


 初めに見えたのは虹色の光輪、続いて落ちてくる巨大な石像のような天使、美しく、そしておぞましい。


 結弦は人間に擬態していた、人間ではなくなった身体に戻る。人間の変身を解き、ロボットに進行している姿へと。


「遅いですが」


「待たせてごめんて、綾乃Ⅱ」


「世界が上書きされましたよ。前も、天使降臨で世界が書き換わりました。アンへリアル以外で記録している存在は確認できていません」


「僕らだけじゃんそれ」


 結弦じゃ気がつく。


 綾乃Ⅱ・イカロスではない。


「ちょっと変わった? 頭にタコがいるけど」


「形態への影響は不可避なようです」


「じゃ、今から綾乃Ⅱ・スキュラ」


「……色々、レパートリーありますね」


「実はファンタジーが好きなんだ」


「来ますよ」


「来ちゃうか」


 不明の天使だ。


 複線の車道を爆進、駐車する車を次々と薙ぎ倒し走る天使だ。


「ゴリラ、サル……」


 タンクローリーが殴り飛ばされた。


「蝦蛄型だ」


「ホモ属が消えました」


 結弦の体を、綾乃Ⅱ・スキュラが覆う感覚、マシーン兵器、ロボットを着込む戦闘プログラムをダウンロードするような切り替え、そこに結弦の自我が差し込まれる。


「頭が重い……!」


「腕が多いのですから対処してください」


「タコ足ならそれぞれ制御する脳味噌があるはず、演算能力が高いとか無いか、綾乃Ⅱ」


「バランサー最適化します」


 綾乃Ⅱ・スキュラの大き過ぎる頭をふらつかせていた運動が、一歩、二歩……九歩進む頃には不慣れを消した。


 八本ある足を制御しきり、滑るように走る。


「思ったよりも勝手が良い」


「綾乃Ⅱを讃えることです」


 高架下の影で、結弦と蝦蛄型は衝突した。


 蝦蛄型が投げた軽自動車を、綾乃Ⅱ制御の腕が弾き、残る腕でさらに接近する。


 激突──衝撃波が付近の硝子窓を砕く。


●──●


 冷たい夜の田園で蛙が鳴いている。


「痛いなぁ……」


 結弦はぶん殴られた頰がひりついた。蝦蛄型天使に殴り負けた傷だ。数少ない街灯からも外れた堤防の見える土手沿いで胡座を組んで、何度めかの、痛い、である。


「何度めですか、痛いと。病院までガイドしますよ」


「大丈夫だ綾乃Ⅱ。だから、ここに座ってるだろ」


 今、結弦の近くに人影はまったくない。


「蝦蛄型は強かった」


「無様に殴られました」


「情けないけどその通り」


「単純な殴りや近接は不利でしょう」


「中距離もカバーしていた。多芸な天使だ」


「単純を極める物理的な投擲ではありますが」


 雲が多く、月明かりのない夜だ。


「天使が消えれば、世界は元に戻る、はずだよな」


「希望的観測です。世界が固定される可能性があります。世界が上書きされるという現象が確認されても、世界がオリジナルの世界に自己回復する力学までは観測されてはいません」


「まるで夢がない、戦う気を削ぐはなしだよ」


 だったら、と結弦は、


「本西綾乃が戻る可能性もない、かもしれないわけだ」


「可能性はあります」


「どっちのだよ」


「どちらもです」


 世界がまた結弦と同じ流れに戻ってくること、本西綾乃が知っている彼女に戻ること。結弦は期待を捨てていた。


●──●


 山向こうが光った。


 雷が落ちたわけではない。だが、遠雷の、大気が悲鳴するような音。立て続いたそれは人為的で、雷ではなく砲の声だ。


「こんな場所にまで砲声が届くだなんて……」

 頭上からヘリコプターのメインローター音が落ちてくるが機体は見えない。音だけが、遠く渡ってくる、伝えてくる。


「AH-1コブラ、回転翼式攻撃歩行機ですね」


「僕は初めて聞いたよ」


「大気屈折式望遠鏡でズームします」


「それもまた、聞いたことがない」


 山間部でコブラ──回転翼式攻撃歩行機、脚付きヘリコ──が天使と戦っている姿をセンサーが光学で捉える。


「やはり聞いたことがない」と結弦は言う。


 自衛隊の黒と緑の迷彩、赤い丸、だがヘリコプターに足が生え、飛びながら走る駆ける跳躍するヘリコプターのロボットなど、やはり結弦は聞いたことがなかった。


「世界上書き、まさしくだな」


 ガスタービンが夜陰を切り裂き唸る。


 コクピットのキャノピー越しに見える、暗視装置を被るパイロットたち。長く突き出たスコープが左右、天使を追った。スタブウイングからロケット弾が纏めて次々と飛び出し、空中で破裂すると鉄の鏃が無数に網を広げて、大型の昆虫のような羽音で木々を砕き薙ぎ倒す。


 天使の反撃に、足で横へ飛ぶ。


 ロボットだ。


「世界上書きは、どういう意図で結果しているんだっけ?」


「……綾乃Ⅱに対する嫌味ですか?」


●──●


「世界上書き現象を解決すれば、僕も綾乃Ⅱも世界から取り残されずに済むわけだけど──」


 結弦は神妙、


「──実際、まったくわからない。頼れて話せる相手はお前だけだ、綾乃Ⅱ」


 天使虫、世界上書き、そして本西綾乃。


 三本柱で結弦は物事を結んだ。


「綾乃だけがどうして、仮定、世界が上書きされるたびに性格が変わるのか謎だ。綾乃以外では性格が極端に変わっている人はいない」


「まだ見ていないだけ、という可能性だってありえます。世界の上書きが、どのレベルまで影響するのか未知ですから。天使虫の存在そのものが、世界の上書きでしかないかもしれません」


「だったら、この世界には『もっと色々なもの』が現れることもありえるわけだ」


 結弦は、まだ捨てずに残していた便箋を開いた。綾乃から渡された便箋、手紙には何も書かれてはいない。世界が変わってもなにかが浮かびあがるということもない。


「天使の影響で世界が改変されるのか。世界が改変されたから天使が現れたのか」


「鶏と卵、どちらが先かみたいな問題ですね」


「どっちでも良いけど、世界からどんどん置いて行かれると困る。そのうち、僕が蛆虫で、綾乃Ⅱがヌイグルミの糸くらいになるかもだ」


「ちょっと困りますね」


「困るんだよ」


 結弦は綾乃Ⅱの姿をとり、かつての自前ではない腕を動かす。上手く動かなかった。別の腕が動く、同時にいくつも動く。狙った動きが、結弦のフレッシュな脳だけでは制御が難しい。


「綾乃Ⅱ・スキュラ、苦労するな。綾乃Ⅱに制御はやっぱり任せる」


「任されました。小さな脳が腕の数だけあるので妹がいっぱいいる気分です」


「……触手の妹が八人もいるのはなんだか嫌だな」


 誰も答えを知らないなら、答えを出す他ない。


 天使は変化しているが、天使そのものは変わらない。


(もしかしたら天使がパーフェクトジーンか?)


 世界上書きに対して変わらないものが、この現象の特異点だと結弦は考えた。でなければ、延々と変化し続けるなかで根元を見つけるのは不可能になってしまう。


 だから、『希望』した。


 変わらないものだと信じた。


 元に戻すことはできると信じた。


●──●


「あ、あの……結弦くーん?」


 綾乃が申し訳なさそうな、ハの字眉と小声だ。


「綾乃! そんな奴を誘うなって、行くぞ!」


 男に連れられ行ってしまった。


「……」


 結弦を誘っていたらしい。


 放課後、天使という怪現象がありながらも、学校を停めるほどの決断ができないままズルズルと日常であろうとする時間が終わる。


(気弱な綾乃、前回のくたばれ結弦綾乃とはまるで違う)


 男ばかりの集団にあっさりと釣られて、綾乃は廊下の先へ消えた。


「……綾乃Ⅱの件もあるし、心配だからな」


 今の綾乃は心配だから。


 しかし、結弦もお節介で、ありえないと思いながら、しょうもないことを気にしているなと背中を追ったわけだが、


「綾乃、拉致されましたよ」


「……」


 わけのわからないカラオケボックスのコンテナに無理矢理、連れ込まれた。


「もう泣くんじゃないよ」


 ひん剥かれた綾乃を奪還して、


「顔、涙と鼻水でぐしゃぐしゃ。綺麗に拭くから手、どけて」


 まったく、と綾乃の顔を吹く、男がトラウマになっていようが結弦は全てを無視した。好かれるだけで済むなら苦労もない。


「あんな怪しい連中の手を握っては駄目だ。社会勉強で処女を賭けるなら別にかまわないが」


「酷い……」


「他人事だ、他人事でなければいけない」


 きっと、どこかで必ず誰かが酷い目にあっているから。考えれば、眠れなくなるから。助けられない事実にだ。


「家まで送るけど、勝手に立ち直れ。しばらく休む、相談する、何か手段があるならやれ、考えて乗り越えるしかない。誰にも心の傷は癒せないんだから」


「結弦くんて、私が思っていたよりも、ずっと、ゾッとするほど冷たい人間なんですね」


 結弦は拳に、歯の破片が刺さっていることに気がついて引き抜く。チクり、指先で転がしすぐに捨てた。


「傷害罪で刑務所送りになるだろう男に優しさを期待するな」


「…………結弦くんが訴えられたら、レイプ未遂を告白します」


「できるわけがないだろ、『弱虫綾乃』が」


「弱虫ではありません!」


「強がるものではない」


 本西家の前。


 綾乃は、蛇のように走り、引っ張られ伸びた制服を揺らしながら駆け、振り返ると『中指を突き立てて』家の中へと逃げていった。


「明日は、今日の綾乃ではないかもなんだよね」


 綾乃Ⅱは応えなかった。いつものように。


●──●


 腹を揺さぶるような音……爆発の衝撃だ。


 住宅のずっと先で、高く黒煙がキノコのような形を作りつつ地上の空気を空へと引っ張っている。


「天使を倒し続ける道しかないか」


 世界を上書きする現象も、天使が現れる現象も、なにはともあれ戦えと突き動かされる。戦う他がない、時間稼ぎには天使に倒れてもらうしかないのかもしれない。天使が一定の密度になることで世界が上書きされるなら、天使を減らさなければならないからだ。


「綾乃Ⅱ、お願い」


 綾乃Ⅱ・スキュラの姿へと還る。体がすっかり覚えてしまった、戦うマシーン兵器の感覚が神経と思考を伝わる。依存してしまいそうになる戦いたい衝動は、綾乃Ⅱが強いからだ、と結弦は確信していた。


「……依存はしない、戦う以外の可能性だって」


 結弦の熱くなった思考がフライホイールバッテリーの運動エネルギーに変換され、背中で微かに回転数が上がる。


(考えまでエネルギーになるのか。考えを『展開する』んだ、綾乃Ⅱ)


 運動エネルギーを溜めながら、走る、どこにもないゴールを探していた。


●──●


「天使人形……」


「天使が多いからな」


「事件ですよ、不謹慎になるのでは」


「天使饅頭や天使丼もあるんだから、天使人形なんて普通も普通でしょ」


「比べればそう、かも……?」


 ドールショップの主人である姉本西がすっかり模様替えしている。流行りには敏感なようだ。アンティークなドールが半分はいるというのに。


「商売人ですね」


「結弦くん、恋も金もスピード感覚が大事なのだよ。必要だと思ったときに、そこにあることがお金に繋がる」


「肝に命じておきます」


「素直でよろしい」


 結弦はドールショップの奥を気にした。


「綾乃、呼ぶ?」


「お誘いに来ましたから」


「なにがあったのか引きこもりちゃんだよ。家にはいるけど、いないって考えて」


「駄目元というやつです」


 姉本西が呼ぶ。


 綾乃から返事はない。


「今日も駄目っぽい」


「わかりました」


「もうちょっと押さない?」


「しつこいと嫌われちゃいます」


「確かに、それもそう」


 結弦は仕方がないと、あっさり。


「予定が飛んで暇だろうから付き合ってよ、色男」


「ちょっとだけで良ければ」


 姉本西は、


「天使てなんだと思う?」


 弛んでいた結弦の筋肉が僅かに固まる。表情は変わらない。ただ、驚きで力が少しだけ入った。


「未確認生物ですかね。ある日突然出てきた非日常の生命体です」


「生命体、か」


「天使なら生きているのでは?」


「ドールは生きているように思うかな、結弦」

「突然ですね。ドールは、生きていて欲しいとは願いますが、生きているとは思えません」


「生きていないではなく、生きているとは思えない、か」


「他意はありませんよ?」


 姉本西は、ドール用の椅子をカウンター台において、手近なドールを座らせた。


 蜂蜜色の髪ロング、ガーネット色の瞳。


「ドールは、魂の入らなかった器だって言う人間もいる。人間の形をしたものが、人間のように扱われ、人間だと誤解して魂が生まれることもあるのではないかと」


「付喪神もですよね、それで言うなら。年月が物を神様にする」


「精神は月日で宿るというのも不思議なものだ」

 一方で、と姉本西は続けた。


「魂がないまま、人間のようであるから人間として扱う。いや、その姿が違うものでも擬人化してしまうのだから、人間という形態をとるドールは寧ろより人間であって然るべきなのかもだが」


「なにが言いたいんですか」


「つまりは──」


 姉本西がドールの髪を撫でた。


「──人間と思うものは必ずしも人間であるとは限らず、命の有無でさえ人間らしさ足りえないってね」


「ドールを、人間の代用にしているのですね」


「そこまでロマンチストではない」


「ロマンチックでしたか?」


「あぁ、とてもね」


 呼び鈴がなる。来客だ。


●──●


「楽しそうでしたね」


 ドールショップの外では、綾乃が待ち伏せていた。


「少し話をしただけ」


「楽しげな話をです」


「有意義とは言い難い」


 よくわからなかった、とまでは言わないように結弦は濁した。


●──●


 目の前の景色が変わる。


 予兆もなく唐突に。


 結弦は、また置いて行かれた、と思った。


 世界が上書きされた。


「綾乃Ⅱ」


「地形の変動、確認できません」


「少なくともまだ知っている町か」


 何度か通り過ぎて、気にはなっていたが遂に立ち寄ることはなかった定食屋が更地になっていた。


●──●


「進展が何もない。何を見逃した?」


「……天使の変動パターンに乱れはありません」


「たった二人のアンへリアルは、この程度か」


 わからない、結弦は、わからなかった。


 何度めかの世界の上書きで、少しずつ知らない場所に変わってしまう。結弦と綾乃Ⅱで確認した世界の上書きは、既に八二回繰り返された。


 知らない町を、貯水タンクの上から見下ろす。


「戦うたび変わっていくね、知らない町だ」


 結弦は取り残されていく。


「たぶんきっと、ずっと残されていく。覚えているというのは残酷だ。本当にそう思う。忘れていれば、何も知らなくてすんだ」


 ポケットの中を探れば、まだ、意味のないあの便箋が入っていた。すっかり、萎れてしまった何も書かれていない便箋だ。


「やっぱり何も書かれてない」


 広げてあったのは、やはり白紙だった。


 便箋を書いた綾乃は、何を書いたのか、あるいは書かなかったのか。今では知る術もない。


「便箋も、世界の上書きを……」


 受けて消えたのだろうか、と結弦は考えて違和感があった。


(待て、待て待て)


●──●


「ちゃんと書いたんだけれどさ。天使について」


●──●


(便箋の内容が消えていた。病院に行って綾乃は言った、『ちゃんと書いたんだけれどさ。天使について』と!

 綾乃は世界の上書きを受けてはいない!

 もし、綾乃が世界の上書きを受けていたなら、便箋が消える世界の上書きを奇妙なこととさえ思わないのだ。世界が上書きされて、そうあることだとなるからだ。ではなぜ……本西綾乃は便箋の内容が消えたことをわかっていたのか。そして、今いる綾乃は何故、世界の上書きを認識できず世界の上書きを受けているのか。

 説一、本西綾乃は演技している。

 説二、本西綾乃は偽物である……。

 演技説はほとんどゼロだ。本西綾乃自身が、確認できないような世界の上書きでも、本西綾乃本人は認識を上書きされていた。つまりは本人の意思の外から力が加わったことで、必ず演技は破綻する。

 有力は偽物説……だが、『本物』はどこに……)


 結弦は、簡単すぎる答えにやっと辿り着けた。


「綾乃Ⅱ、君は──綾乃だったんだね」


「やっと気がついた?」


 綾乃Ⅱ。


 綾乃と付いている名前は、本物だった、ただそれだけだ。本西綾乃はずっと、『少なくとも天使を話し世界の上書きを受けない彼女は、綾乃Ⅱとしてずっと結弦の中にいた』のだ。


「はぁ〜……」


「……騙されて、怒った?」


 結弦はおかしそうに、そして首を横に振る。


「なんだよ、綾乃Ⅱはけっきょくマシーンのように振る舞うから独りで世界の上書きに取り残されて鬱々だったんだぞ。初めから、二人──」


 結弦は気がつく、


「──綾乃は──」


「──綾乃Ⅱで今までと同じように呼んで」

「綾乃Ⅱは、僕よりも前、どれだけ世界の上書きを経験した?」


「忘れたかな、そんなことは」


「……そっか」


 綾乃Ⅱがまた、変型していた。


 綾乃Ⅱ・スキュラから別のタイプだ。


「今度は私に名前を決めさせて」


「どうぞ、綾乃Ⅱに譲る」


「じゃ、お言葉に甘えて。ずっと考えてたんだ──」


 こほん、と綾乃Ⅱは意味のない咳払いで区切り、


「──綾乃Ⅱ・レガリスレックス」


●──●


 夜、猫渡重化学工業のプラント。


「小規模な世界上書き現象そのものはずっと観測されていたんだ」


「いつ頃から?」


「さぁ? 上書きされると、そうあるようになるから」


 綾乃Ⅱ・レガリスレックスがプラントの中へと侵入する。


「世界が無限に分岐しているなら、その原点、を調べて、派生を全て観測、可能性の高い未来を予測するコンピューターを開発できないかと作られたのが、天使虫」


「なんで天使なのか疑問なんだけど」


「個人的な趣味」


「なるほど……?」


 結弦は少し引っ掛かった。


「コード・アンヘル92、未来を先取りする為に四次元空間の対称性を探して……超立方体とか正八泡体とかテセラクトとか……三次元の時間を四次元に通して、相対的には歪んでいるように見える三次元の未来を観測しようて計画」


「SFのオンパレードだ、難解」


「SFは好き?」


「嗜み程度は。……古典的な宇宙でのワープ、平面の紙を曲げれば、捻れた世界の先に端と端が繋がる。この場合は空間ではなくて時間だけど」


「わかりやすい」


「そうかな?」


 プラントの警報装置が作動しない。要塞のようなプラントは稼働している筈なのに、不気味な沈黙を感じた。完全に無人で運用されているにしても……。


「未来は見えた。で、厄介なことにも未来は無限の可能性があって未来予測は困難を極めた」


「それが世界の上書き?」


「うん。原因を突き止めようとアンヘル92は天使の研究を進めていたのだけれど、『天使虫』に変異した。あとは結弦も知る天使虫が起源のアレの発生だよ」


 鳥型、海月型、蝦蛄型、天使が破壊する町の光景。


「アンヘル92は、未来を見る計画でしょ。なんで怪物天使が生まれるの」


「さぁね。ただ、天使は元々、粒子を低次元に展開して作られた。粒子の中になにがあるのか、それを展開すれば小宇宙があり、知的生命体もいる可能性云々で粒子加速器での破壊実験に警鐘する学者もいるわけで、天使の中身になにがいるかなんてさっぱり。

 対話なんて不可能なレベルで意識が違う」


 でも、と綾乃Ⅱは区切る。


「どういうわけか、伊庭結弦と天使がコミュニケーションをとった。前例はそれだけ。でも異常で、解決の手段かも知れない」


「待って、天使と話したのは綾乃Ⅱと合体したあとのことで……あぁ、そうか未来!」


「そう、『知っていた』のさ」


 綾乃Ⅱがガイドを出す。


 結弦は従って先へ進む。


「天使は粒子として振る舞うけど、それは人間のテクノロジーだとそう見えるだけで、低次元で展開するとまったく違う別種の粒子、驚くほどの領域へ広がる容量があるんだ。過剰な密度の情報体、でも所詮は粒子程度の質量で、直接何かできるわけではない」


「だから、天使虫は実体を他の生物から借りているんだ」


「話が早いね。でも、天使虫が実体に影響を与えられたということも実は想定外、できないものと考えていた。結果はご覧のありさま」


 綾乃Ⅱが赤外線ライトを照射する。虫食いされた木のように変えられた建屋が見えた。


「ライトなんて大丈夫なの?」


「天使は地球の法則を理解できない。赤外線も知覚ができないから安心して。


 さて、地獄の底へ行ってみよう。未来の終わる場所だよ、正確には観測できる範囲では、だけど」


●──●


 まるで死体の山のようであった。


「ロボットの、墓場?」


「あるいは集団自殺の現場」


 ある点を目指すかのように一心不乱に腕を伸ばし、積み重なり山となり、ロボットがどこかへと『何か』を渇望するようにいた。


「猫渡重化学のロボットは覚えてる? 正確には、ロボットを設計したのではなくて、様々なものが『ロボットに変質したことへの世界上書きの整合』の結果なんだよ」


 結弦は『その先にあるもの』を追う。


「なんだ、あれは」


 結弦は“それ”が『わからない』、三次元の存在ではないし、その次元で知覚することを前提にしたホモサピエンスとしての感覚器官では“それ”は、揺らぎのある『何か』と知るのが精一杯だ。それでさえ、常人よりは知れ過ぎている。


「まったくわからない。だけど、ある種の観測器官で見れば、例えば四次元とかで発達するものだと、とても意味のある何かだよ」


「ロボットは、その何かを求めていたわけだ。でも、異常だ。まるで……」


「『意思があったみたいな』、かな。その通りだよ」


 結弦は過ぎ去るロボットを見る。


 無機質な構造なのに、まるで最後の希望を死に物狂いで求めているような必死があった。ロボットのセンサーはぶれることなく何かを見つめ、同型機を押しのけ、傷つき壊れてもまったく止まらずに波となって動き、ひたすらに鉄の津波とアームを伸ばして止まっている。


「不気味だ」


「お化け屋敷」


「それだな」


 まさか、と結弦は、


「動かないよな」


「活動は完全に停止してる。最初の……」


「音楽が……?」


 鉄の心臓が動き始める、エンジンがピストン運動を始める爆発音。腐った燃料が割れたピストンから火を吹き、同型機に押し潰し、押し潰された体を引き千切りながらうごめく。


「生きてるぞ!」


●──●


「まるでゾンビ映画みたいだったな」


「ちょっと楽しかったですね」


「綾乃Ⅱはちょっと馬鹿になってるだろ」


「失礼すぎますよ」


 地上へと脱出した結弦は、仄暗い穴底を見る。マシーンゾンビが這い上がってくる気配はないが不気味は駆動音が反響していた。


「元々、ロボットはロボットではありませんでした。ただの探査マシーン。

 いつ頃からかロボットに変わり、これを利用してグリッドを理解する為に、擬似精神と擬似四次元センサーを取り付け探査ロボットにしただけなのです。それが、あの末路ですよ」


「マシーンは何かを見たわけだ」


「人間や生物では、まだ再現できていないものをですが」


「天使の化け物に続いて、ロボットゾンビか」

「わくわくします」


「楽しまないで、綾乃Ⅱ」


●──●


 すっかり馴染みになったペントハウスの上、貯水タンクの隣。結弦は綾乃Ⅱと情報の整理をしていた。


「天使は、天使虫になった四次元存在が実体を持ったものである。猫渡重化学のプラント地下にはグリッドなるものと、それを探査するロボットの慣れ果てゾンビがいる。グリッドもまた四次元存在で、ロボットは四次元存在を知覚する擬似システムがあった。

 発端は、アンヘル92の未来観測」


 結弦もそれは良いとして、綾乃Ⅱが謎で気になった。アンへリアルの存在も、組み込まれてはいない。


(人間にグリッドをより深く認識させる為の後付けロボットみたいな理由付けは予想できるけど…………まあ、いいか)


 問題は、と結弦は言った。


「なんで世界が上書きされるのか、さっぱり」

「私もさっぱり。もしかしたら、上の次元からだと下の次元は、観測の圧力で結果が変わるのかも。量子みたいに」


「上から見られた数だけ世界が変わるわけだ」


「あくまでも私見だよ」


「私見でも、そうだとしたら、上位の次元からはもう何度も見られているんだよねー」


「世界が何度も書き換わっているから、私見とあっていれば、そう」


「継続的に観測されたら、世界が丸々異世界だと思うけど、そうはなっていない。観測と変化に気がついていて、影響を最小にするよう観測しているとか」


「想像力が豊かだ」


「頭がよろしくないぶんは、想像力で補佐」


「あら、私といっしょ」


 結弦は聞かなかったことにした。


●──●


 天使の存在など忘れられたように変わらない市街。スーツを着た社会人。銀行へ買い物へ向かう子供連れの親子。横断歩道の信号が切り替わるたび、流れを自動車と交互にしながら、人間が血流する。


「あっ、結弦くん、奇遇だね!」


「綾乃さんも! おしゃれな服で買い物……おしゃれすぎませんか?」


 町でばったり偶然に、綾乃と会った結弦は、彼女のセンスにとぎまぎした。肩出しのオフショルダー、手首までの長袖だが腕までに多くが開かれてリボンで結び袖を作る、露出の大胆な服だ。ショートパンツは太腿のほとんど付け根まで短い。


「大胆すぎるのでは」


「そう? ファンキーで好きなんだ」


「ファンキー」


「うん」


「ファンキーというよりエロでしょ」


「もう! 結弦くん、それは変態だ」


 結弦の中の綾乃Ⅱが揺れていた。


「でも偶然に会ったのだからきっと──今日の運命だったんだ。というわけで紳士の結弦くんはショッピングにお付き合いしてくれますかな? 対価は、結弦くん好感度一位とのデートだ」


「喜んでお付き合いしましょう」


 いくらかのお店を結弦と綾乃はめぐり、しかし男だからと荷物持ちにされることも、長い悩み楽しみの時間を否定されることもなく、緩やかなデートはお互いの歩幅を気にし過ぎるあなり、ちょっぴりチグハグでそれさえもおかしいと話のタネになる時間であった。


「ありがと!」と綾乃との別れに後ろ髪を引かれた結弦を、綾乃Ⅱが刺々しく突く。


「痛いて」


「鼻の下が長いです、象ですか貴方は」


「とてもセクシーな感じでドキドキだ」


「……」


「痛い」


●──●


 足元が、揺れた。


「回避してください」と綾乃Ⅱの警告直後だ。


 結弦の両側を巨大な顎門が挟んだ。


 そして──閉じる。


 結弦と同じように顎門にかかったトレーラーが無残な歯型と両断され、破片を撒き散らした。柔らかい水とタンパク質のソフトスキンである結弦は、その破壊の中にはいない。


「危なかった」


 綾乃Ⅱ・レガリスレックスを部分的緊急解除することでコンマの瞬間で顎門から抜け出している。受け身を無視した加速は、結弦と綾乃Ⅱ・レガリスレックスを全国展開するファミリーレストランへ突っ込ませたが、未知の攻撃をした天使の全貌を見た。


「土竜型天使だ」


「登録しました」


 綾乃Ⅱ・レガリスレックスの拍車状グランドグラインダーホイールがアスファルトを砕きつつ高速回転、土竜型へと急迫する。


 会ってしまったのであれば倒さないとならない。土竜型のすぐ近くに、逃げ遅れている人間がまだ数多くいる。もし、僅かでも動けば、決して少なくない数の人間が潰れるだろう。


「インパクトボルター展開!」


「インパクトボルター展開」


 綾乃Ⅱ・レガリスレックスの両肩が開き、非実体砲身を形成、エネルギーをチャージ……。


「一〇パーセントで良い、撃つぞ」


 重力子の結束が揺らぎ小石が浮かぶほどのエネルギーを投擲、インパクト。ゼロエネルギーの真空を潰す内向きの爆発が土竜型の半分を吹き飛ばす……いや、捩じ切った。


「活動停止」


「あっけないな……油断しないでモニター」


「言われるまでも……活動再開。しかし……複数の反応に分裂」


 直後──。


 土竜型がぬるり、結弦に向いた。


 散弾、金属片の散弾が炸裂した。


「!」


 結弦の対処が遅れる。ただの火薬による反応というには破片が速すぎる、そして広大な範囲にすでに網を掛けられていた。あらゆる方向に対して回避マニューバをとろうとも直撃する。


「パージ」と綾乃Ⅱは『脆弱な生肉』を吐きだす。結弦は綾乃Ⅱの背へ逃がされ、硬く装甲されてきた綾乃Ⅱのそれが今は醜く変形するほど打ち付けられている。内側から波打ち、膨れ、しかし決して貫通を許さなかった背中が崩れたとき、天使は消えていた。


●──●


 綾乃Ⅱは沈黙したままだ。


 結弦の意思で、綾乃Ⅱでもレガリスレックスのロボット装備は展開できる。だが、『綾乃Ⅱは完全に沈黙している』、ずっと。


 答えたくないときの『いつもの』黙秘とは違った。


「……」


 雨が降っていた。


 霧のようにたちこめる中で、天使が、人間ではない存在が闊歩している。


「綾乃Ⅱがいなくなってから、世界上書きなんてやるんじゃないよ。僕が独りぼっちになるじゃないか」


 世界は『天使を前提にした世界』に変わった。綾乃Ⅱ・レガリスレックスの存在は不要だ。少なくとも、天使に対抗する手段としては。


「おっきいね。ロボット?」


「うん、レガリスレックス」


 本西綾乃が、ロボットというには小さく、人間よりは少し大きいレガリスレックスを見上げる。


 不思議そうな顔で、


「なんだろ、猫渡重化学のロボットと『似ている』けれど、レガリスレックスてシンパシーを感じる! 不思議だ」


「似たような性格をしているのかもね」


「結弦くん、それどういう意味かな!? バストの話? アーマーバストて言った今!」


「言ってないよそんなこと……」


 変態だ、と綾乃は胸を隠した。手で潰しているが、まったく潰れていない。


 本西家の裏庭に置かれた、レガリスレックスというガラクタ。広い意味でドールだということで、面白がられている。


●──●


「姉さん……このロボット、庭を貸して」


「なんで?」


「置き場所がないから」


「捨てりゃいい」


「結弦くんの大切なのだから」


「うち、何か関係ある?」


「私の花壇を潰すから。場所は困らない」


「もう一度言うけど、なんで? あんた、あの花壇気に入ってたでしょ。暑いのに飽きもせずに作って、芽が出た花が咲いたって」


「……大切だと思ったから」


「どっちが?」


「……どっち?」


「はぁ〜、いいよ、花壇潰しちゃ花が可哀想だ。ロボットじゃなくてドールだと思えば、庭にいても良いよ」


●──●


「……姉さんがドレス着せてるけど、それはごめん」


 レガリスレックスは、未完成のドレスだかマントだかわからないものを着せられている。フードのように頭にも被っている。


「ロボットなんだけどね。ちょっと女の子みたいだ」


「あら、ロボットにだって女の子はいるでしょ」


「ロボットに?」


 本西家の縁側、腰掛ける二人、結弦と綾乃の間にはスイカが切ってある。どこかの木に止まる蝉が鳴いていた。


「女の子だってロボットは好きな子はいるし、ロボット自身にも女の子型がいるの知らない?」


「知ってるけど、邪道でしょ」


「あー! ハードなのだけがロボットと思ってる」


「違うんです?」


「違うんだよ、違っても良いと思わない?」


 天使が塀よりも高い背丈で歩いていく。百眼型天使、結弦はそんな風に名付けた。目がいくらかあって、人間よりも大きいだけの天使。


 だが、天使が歩いていた。


●──●


 天使と人間の共存する世界に変わった。


 結弦は、まだその世界に馴染めない。


 戦う必要性がなくなった。


 戦う必要性がなかった。


●──●


 傘を差して、結弦はあてもなく歩いて行く。


 彼の家は世界上書き現象で消滅してしまった。


 行くあてなんてものは存在しなかった。


 伊庭結弦──独りだ。


 迷宮のように壁が入り組む猫渡重化学工業のプラント前、ロボットが働いていた。ゾンビのように徘徊するわけでなく、普通に。


 結弦の目とロボットのセンサーが交われば、空いた手を振るくらい友好的だ。


 帰ってきたのは、ペントハウスだった。


 学校の屋上、貯水タンクの隣、他に居場所がないからここにいる。


 結弦は、レガリスレックスを展開した。本西家から転送されたロボットの一部が腕にある。ロボットというにはスーツで、軽い。


(ロボットがあったから、最近の僕は、僕だったな)


 ロボットに乗っていた。


 着ていたわけではない。


「僕って……」


 答えのない質問に、結弦は沈む。


●──●


 恋人同士なのだろう。男女のペアが過ぎた。


 本西綾乃と、いつぞやの自称彼氏に見えた。


●──●


「レガリスレックス、来て」


 どこからともなく、本西家の庭からやってきたロボット、レガリスレックスが後ろを歩く。制御システムと歩行プログラムが優秀ですぐ後ろにいてもほとんど足音はない。


「プラントの探検に行こう。僕が僕でなく消える前に、根っこ探しといこう」


 無人のプラントには天使だけがいた。


(あるいは元は人間で、天使虫の影響で天使に変わっているのか。天使は世界上書きでも天使から戻らないというわけか)


 レガリスレックスの背中が開き、結弦は乗りこむ。


「行こう……けっきょくは、僕は、僕にしか動けなかったのか」


 結弦の脳裏には、綾乃を浮かべなかった。


 レガリスレックスが疾駆する。


 侵入者に対して素早い反応、真っ先に感知して飛び上がる鳥型が複数。警報代わりにとばかり、甲高い声を悲鳴した。


「なにだかはわからない。だが元凶であるのなら破壊する。破壊すれば良いことだけだ。もはや後戻りもなく、ただ残されるだけなら、破壊してしまおう」


 鋭い鳥足の爪を手刀で落とし、天使の首を掴んで地面に叩きつける。『敵』の侵入に対して膨大な天使が噴出する。レガリスレックスは天使の滂沱をかきわけ、“それ”を目指した。天使は嫌いだ。


●──●


「なんだ、『見える』じゃないか」


 結弦は、かつて四次元の夢を見ていた可哀想なロボットたちと同じものを見ていた。


 レガリスレックスの装甲は破壊され、コンプレッサーから空気を漏らし、オイルをまるで流した血のように濡らしている。


 目、巨大な目だ。


 結弦とレガリスレックスがどの場所にいようとも、真っ直ぐに見つめ返してくるその目は、空間が捻じ曲がった隙間から燃えるような瞳の色で心の奥底まで貫いた。


「ありがとう、綾乃Ⅱ」


 綾乃Ⅱ・レガリスレックスから降りた結弦は、独りでそれと会った。


「世界をこれ以上、見つめることをやめてはくれないかな。気になることはわかるのだけれども」


 返事はなかった。


 結弦は、“それ”を見つめかえした。


●──●

 世界から取り残された男、伊庭結弦。


 誰が苦悩を知っている、知る必要はない。観測する人間は、読みたい世界だけを見るのだ。であるならば、結弦という男が苦悩したという事実は全て、消されてしまうだろう。


 それが、『あるべき世界』と望まれれば。


 ペントハウスの屋上で結弦が寝転がる。


 小さな世界の主人公だった男が眠った。


〈了〉

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