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老害対策 (2017z)

作者: 長矢 定

 孤立死がニュースになります。

 各種メディアも、どうすれば孤立死を避けることができるか、というテーマで取り上げますが、誰にも迷惑をかけずに死ぬのは難しいことのようです。

 先日読んだ雑誌の特集でも、迷惑をかけないために生きろ、生きていろいろ準備しろ、孤立死しそうになったとき助けてもらえるようにしておけ……という流れになります。

 しかし、誰しも死から逃れることはできません。孤立死を避けろ避けろと言うばかりで、最期をどうするかという点については踏み込みません。踏み込めないのでしょう。

 高齢者が増えるなか、孤立死の問題は更に切実なものになるでしょう。やはり、迷惑をかけない最期への手法を社会が確立すべき……というのは現実離れした危険な発想なのでしょうか。

 そうなると、誰にも迷惑をかけない孤立死を望む者はどうなるのでしょう……


●登場人物

■森野 忠弘(65)自決志願者

□田沼 自決志願者

□川島 船長

□浅岡 国際人道支援機構・日本支部


    プロローグ

   

 黒いスーツを着た五十歳前後の男性が受付を済ませた。

 その後、彼は葬儀会場に入るのではなくロビーの壁際に集まる集団に加わる。

「びっくりしたよ。ガンだって?」

「ああ、転移が酷くて手が付けられなかったそうだ」と一人の男性が答える。

「知らなかった……」

「地元にいる奴は知ってたが、連絡して広めるようなことはしなかったからな。遠くから見舞いに来られても困る、家族が敬遠したんだ」

「そうか……。お前は、見舞いに行ったのか」

「入院した当初に、一度行ったよ。まだ、そんなに酷いとは知らなかった頃だ」

「入院した当初? どれぐらい入院してたんだ?」

「半年ほど」

「半年か……、長いな」

「中に入って、死に顔を見ればわかるよ。骨と皮だけ、どこかの爺さんみたいだ。面影は一つもない」

「……」

 男は葬儀会場の入り口に視線を向けた。だが、足は動かない。壮絶な延命治療の様子を想像していた。

「酷いな……」壁際の男が呟くように言う。

「医者も、家族も。あんなになる前に、死なせてやればよかったんだよ」

 集まった男たちが、その男に視線を向けた。

「そんなことを言うなよ……」

 悲しげな表情の壁際の男が言葉を続けた。

「わかっていても、決断できない。何もできず成り行きに任せ、苦しみ、もがく姿を見るしかないんだ。当人が終わりにして欲しいと願っても、みんなでそれを無視する。取り合わない。無責任な惨い仕打ちだよ」

 その話に何人かが顔を顰めた。

「しかし、そんなこと言ってもな……」

 その男は、大きな息を吐いた。

「そうだな……。悪いが、先に帰らしてもらうよ。とても式には立ち会えない」

 そう言って出口に向かって歩きだす。

「おい、森野。ちょっと待てよ」

 と呼び止めたが、その男の歩みが止まることはなかった。出口から外へと姿を消した。

「どうしたんだ、あいつ……」

「まだ引き摺っているんだよ。仕方ない」

「引き摺る? 何の話だ?」

「二年前…、いや、もう三年になるか。森野の一人娘が病死したんだ」

「一人娘……」

「ああ、白血病だ。同じだよ、長く入院し延命治療を続け、衰弱して亡くなった。長く苦しませたことを悔やんでいるのだろう。親として決断できなかった、苦しませただけだった……」

「一人娘か……」

 その場に集まった全員が暗い表情になる。

「気の毒だが、どうすることもできないな……」と一人が呟いた。




    一

   

 狭い部屋に入ると一人の男性職員が机の向こうに座り、パソコンの画面を見ていた。

「どうぞ、お座りください」

 そう言われ、対面の椅子に座り、肩に掛けていたカバンを足元に置いた。職員が顔を向け、ほんの一瞬、目が合う。

「この面談の様子はビデオに記録しますので、ご了承ください」

 職員の背後にビデオカメラがあり、レンズがこちらを向いている。

「審査に使うのですか」

「ええ」と彼は短く答え、頷く。

「お名前と年齢をお願いします」

「森野忠弘、六五歳です」

 彼は小さく頷き、新たな質問を口にした。視線はパソコンの画面に向いたままだ。

「ご職業は?」

「無職です。三カ月前に定年退職して直ぐに申請したのですが、なかなか連絡がなくて……」

「すみません。申請者が多く、手続きに時間が掛かっています」と疲れた表情で言う。

 森野は無言で頷く。そうしたことに文句を言うつもりはなかった。

「ご家族は?」と次の質問が飛んだ。

 森野は小さな溜め息をついてから、それに答えた。

「二十年以上前に一人娘が亡くなり、その後、妻とは離婚しました。現在は独り身です」

 職員はパソコンの画面を見ながら頷く。

「ご両親は?」

「既に亡くなっています。一番近い身内は妹になりますが、遠くに住んでいることもあり疎遠になっています。もう、何年も会っていません」

「妹さんに、今回のことを伝えましたか」

「いえ、まだです。でも、事後報告でいいと思います。余計な面倒は掛けたくないですし……。承諾が必要なのですか」

「ええ、まあ。財産の扱いなど、はっきりさせておかないとトラブルになりますから……」

「財産と呼べるようなものは、ありませんよ。それに借金もありません。安楽に逝くことを望んでいるだけです」

 職員はパソコンから視線を移し、チラリと見る。

「自死を希望する理由は何ですか」

 森野は、大きく息を吸った。

「長生きする理由が、何一つありません……」と溜め息混じりに言う。

「娘が生きていて、孫がいたら話は違うでしょうが、独り身で仕事が定年になると、これといった目的もありません。ずるずると長生きして病気で苦しみ死ぬより、今、安楽に逝くほうがいい。そう思います」

 職員が森野の顔をじっと見ていた。

「決意がある、ということですね」

「ええ、長く生きて厄介事を起こしたくはありません。認知症で自分が誰だかわからなくなってから死ぬのも悲しいものがあります。自分が自分であるうちに、自分の意思で最期を迎える。それが一番正しいと思います」

「そうですか……、わかりました」と職員が頷く。

 森野はあっさりとした対応に少々驚いた。彼の疲れ切った表情から察すると、日々こうした話を聞き、うんざりしているのだろう。仕事とはいえ、気の毒に思う。

「ご存じだとは思いますが、この取り組みは社会負担軽減の目的もあります。従って、年金などに特別処置はありません。これまでに納付した金額の一部を返金するようにと要求される方もいますが、そうした対応はしていませんのでご了承ください。また、民間の生命保険についても、死亡給付の適用外となります。詳しいことは契約している保険会社の窓口にお尋ねください」

 森野はその話に黙って頷いた。

 職員がパソコンを操作しながら話す。

「この先、審査に進みます。それに伴い健康診断と精神診断を受けていただきますが、平日に都合の悪い日などありますか」

「いえ、特にありませんが、いつ頃になりますか」

「今、かなり混んでいますので……、三カ月待ちになりますね」

「三カ月ですか……」

「ええ、すみません。予約日が決まりましたら連絡しますが、キャンセルがあった場合に対応できるようなら、キャンセル待ちにも登録できますが……」

「お願いします。ずるずる引き伸ばしても仕方ありませんので……」

「わかりました。健康診断と精神診断のキャンセル待ちに登録しておきます」

「それは一日で済みますか」

「いえ、それぞれ別の日に受けていただくことになると思います。また、その結果によっては二次診断を受けていただくことになりますので、ご承知おきください」

 森野は気の抜けた息を吐いた。

「そうですか」と顔を顰める。まだまだ手間が掛かりそうだ。

「それと平行して個人資産の調査が入りますので、預貯金や有価証券、不動産の関係書類などを用意しておいてください」

 森野が頷く。

「でも、貯金が幾らかある程度ですよ。株はやっていませんし、土地も家もありません。賃貸ですから……」

 職員が頷き返した。

「そうですか。ただ、アパートの賃貸契約も解約することになりますし、車を所有していたらその処分もしなくてはいけません。携帯電話なども同様です。ですから、そうした契約関係の書類を用意していただけると、処理がスムーズにいって助かります」

「そうですね、用意しておきます」

「お願いします……」

 職員がパソコン操作を再開し、会話に間ができた。

 森野が居心地悪そうに身じろぎをして、口を開く。

「あの……、審査の結果が出るのは、いつ頃でしょうか」

 彼はパソコンから視線を外し、頭を掻いた。

「そうですね……、健康診断と精神診断をしていただいて、必要な書類が整ってから審査のスケジュールに加わりますので、そこから二カ月か三カ月後に審査結果が通知されると思います。それから、実際に安楽死が処置されるのは審査が通ってから何カ月か後になります」

 森野はそれを聞き、肩を揺らして溜め息をついた。

 安楽に逝くにも手間と時間は掛かる。それでもそういう時代になったことに感謝すべきだろう。

 よくこのような法案が通り、施行されるまでに至ったと思う。やはり、実権を握り始めた少子世代は、この衰退を引き起こした高齢世代とは問題意識の深刻度が違うということだ。都合の悪いことに蓋をするのではなく、真正面から問題の本質に切り込む。少子高齢社会の人口減少を食い止めるには、少子対策よりも効果のある高齢者対策に取り組み、現役世代の負担を軽減することだと判断、様々な政策を打ち出した。高齢者安楽死法は、その中核となる制度だった。

 少子世代の中に大胆で行動力のある人たちがいる一方、高齢者の中には気力をなくして諦める人も少なくない。森野は、自分はその中の一人だと自覚していた。

 長生きする理由など、何一つない……




    二

   

 森野忠弘は港町の埠頭に立った。大きな船が接岸している。

 長い船体の中央付近からタラップが下りていた。その搭乗口の手前に一台のバスが止まり、人影があった。森野はそこに向かって歩く。

 その船は、経営不振に陥った船会社から買い取り、改装した大型旅客カーフェリーだった。

 船尾側面には車両用スロープがあり、船の薄暗い車両デッキが見えた。動きはない。そして上部甲板から船の後方へと突き出ている小振りの煙突が目に付く。それはエンジンの排気口ではなかった。他の船にはない、この船特有の設備だ。

 近隣住民から迷惑がられる安楽死施設の建設地選定が難航するなか、代替案として浮上したのが船舶の利用だった。大型船を改装し、安楽死志願者を収容する船室と処置室、火葬用の焼却炉を組み込み、日本各地の港を巡りながら審査を通過した志願者を乗せ、安楽死処置をし、火葬する。

 船尾の小振りの煙突は、火葬用焼却炉の排気口だった。

 森野は、ナンバープレートのないバスの前に立つ男に声を掛けられた。

「志願者の方ですか」

「はい」と頷く。

「乗船書類をお持ちですよね」

「ええ……」

 森野は肩に提げたカバンから通知書類を出し、男に見せた。男が頷く。

「バスの中に入って受付に提出し、手続きをしてください」と出入り口を指さす。

 森野は頭を下げ、巨大な船を見上げてからその指示に従いバスの前方から乗り込んだ。

 中は乗客用の座席が取り外され、受付作業をするスペースに仕立てられていた。内装は新しかったがバス自体は使い古しの印象を受ける。運転席周りの塗装の剥げが目についた。船の車両デッキに積み込み運んでいる専用バスだ。

 森野は運転席の背後に作られた小さなカウンターに書類を出した。そこに座る男が受け取る。

「森野、忠弘さんですね。本人確認をしますので、このパッドに手のひらを当ててください」

 森野は指示に従い、手のひらを当てた。瞬時に森野忠弘と確認される。これまでの申請手続きで手のひらの静脈パターンを登録し、何度も本人確認をして様々な個人情報を取り扱っていた。

「はい、では、そちらの椅子に掛け、しばらくお待ちください」

 森野は頷く。その待ち合いスペースには年老いた夫婦がいた。二人の視線を受け、森野は軽く会釈し空いた椅子に腰を下ろした。肩を揺らし息を吐き、待つことにする。

 やがて、夫婦が順に呼ばれ、バスの後部へと向かう。その後で森野が呼ばれた。対応した男が顔写真が載った認証カードと森野の顔を見比べる。

「こちらへどうぞ」

 バスの後部は仕切られた小部屋が並ぶ。その一つに入った。更衣室だ。

「用意した服に着替えてください。今着ている私服や私物はその箱に入れてください」

「カバンも、ですか」

「ええ、全てです」

「中の必要なものは、どうすればいいですか」

「一旦、私物は全てこちらで預かります。どうしても必要な物は、こちらの書類に記入してください。認められれば後でお渡しします」

 手荷物は極力少なくするよう事前に指示されていた。替えの下着なども持っていない。そうした物は船に乗ると支給される。事後の私物処分を簡略にするためだ。

 森野は用意されたスエットに着替えると認証カードを首に掛け、パイプ椅子に座りカバンを開けた。どうしても必要な物は……

 この状況にあって必要な物など、何があるというのか。これまでの柵をきっぱり断ち切らないといけない。これらは全て必要のない物だ。

 森野は書類に記入することなくカバンを閉じた。手ぶらで小部屋を出て後方の出入り口からバスを下りる。また別の男がそこにいて、森野をタラップの上り口へと促した。

 森野は船体に沿うタラップを登り始めた。

 真ん中辺りで足を止める。運動不足の六五歳には辛い。エレベーターはないのか、と思う。呼吸を整えるようにして高い位置から港の風景を眺めると、もう、大地に足を着けることはないのだと気付き、寂しさを覚えた。

 森野は心細さを振り払うように足を進めた。これを登らないと船には乗れない。別の手続き、手法を取ることになる。その面倒は避けたい。森野は、もう立ち止まることはなくタラップを登りきり、船内へと入った。

 広いエントランス。

 一部が三階までの吹き抜けになっており、優雅な曲線を描く幅広の階段が繋いでいる。旅客フェリーの名残だろう。ただ、他に派手な装飾などはない。質素な印象の船内だった。フロアには幾つかのテーブルと椅子が並び、同じスエット姿の年配者がポツリポツリと座っている。話をするわけでもなく、どんよりとした雰囲気で、ただ時間を潰しているようだ。船内での過ごし方を察する。

 森野は小さな溜め息をつき、壁際のカウンターに歩み寄った。中にいた中年女性が軽く会釈をする。笑顔はない。

 胸の認証カードを確認し、割り当てられた個室の番号を告げてエントランスの先にある通路を指し示した。森野は頭を下げ、その通路に向かう。壁の船内案内図を見てから割り当てられた個室へと進む。

 狭く質素な部屋。

 小振りな寝台と机があるだけ、それで部屋は一杯だった。森野は寝台に座り、肩を揺らして息を吐いた。別に豪華な船旅を期待していたわけではない。自分が置かれている状況を見つめ、この先に備えるためには、こうした狭い部屋に籠もるほうがいいのだろう。

 机の上に冊子がある。

 森野はそれに手を伸ばした。見ると、一日のスケジュールや注意事項が細かく書いてあるようだ。規則正しく、厳格な場所であることは事前に知らされていた。森野は余計な手間を掛けないよう、その冊子に目を通そうとしたが老眼鏡がない。バスに置いてきたカバンの中だ。顔を顰める。

 机の引き出しを開けてみると拡大鏡があった。用意がいい。それを使って冊子を読み始める。

 直ぐに肩が凝り、息が詰まる。

 冊子を投げ出し、森野は立ち上がった。広い場所に行きたくなる。

 森野は個室を出て、ぶらぶらと船内を歩き、オープンデッキに出た。潮風が心地よい。手摺りに肘を載せ、その先に広がる大海原を眺めた。一艘の漁船が港を出て行く。

 長閑だ。平穏な世の中……

 高齢者がひっそりと息を引き取っても、何の支障もない。それよりも社会負担が減り、喜ばれるのだろう……

 森野はまた一つ、小さな溜め息をついた。




    三

   

「今日、乗船された方ですか」

 オープンデッキで海を眺めていた森野忠弘に、背後から声が掛かった。同じ服装の年配の男性だ。幾つか年上に見えた。

「ええ、今し方、乗ったところです」と答える。

「もし、よろしければ、お話しをさせてもらってよいでしょうか。その……、時間を持て余しているものですから」

 森野は一瞬戸惑ったが、エントランスで見た人たちの雰囲気から、その気持ちを理解した。

「ええ、いいですよ。この船のことを教えてください」と応じる。

 その男は微かな笑みを浮かべ、森野の横に歩み寄った。

「田沼と言います。一つ前の港で乗船しました」

「森野です」と会釈する。

 前の港から乗ったということは、今度出港したら安楽処置を受けることになる。

「やはり、暇ですか」と森野が尋ねた。

「ええ、そうですね。最期を迎えるまで自身を深く見詰め、覚悟を決めないといけないようですが、正直言って疲れましたね。もう考えるのは止めにしたいです。さっさと処置してくれればと思いますが、お役所仕事ですからきちんと手順を踏まないといけない。最後の最後まで、もどかしいですね」と口元を緩める。

 森野は頷き返した。どうやら深刻に考えるのはやめたようだ。だとしたら話し相手として申し分ないと思う。

「しかし、この先この国はどうなるのでしょうね。私にできることといえば、社会に余計な負担を掛けないよう早めに自決することぐらいですが、国の将来を想うと心配になります」

 田沼は、そう言って広がる海に目をやった。

「元凶は、少子高齢による人口減少ですか」と森野が言う。

「ええ、そうですね。国力が衰える一方です。若い人たちの活力もありません」

「確かに元気がないですね。昔のような活気溢れる国に戻ることができるのでしょうか」

 そう問われ、田沼は低く唸った。

「どうでしょう、難しいのは確かですね。もしかすると、このまま人口が減り続け、この国は人の住まない荒れ地になるかもしれません」と顔を歪めた。

「そんな事になると、ここに攻め込み占領しようとする国が出てくるでしょうね。近隣に領土を広げたいと考えている国があるようですから」

 その話に田沼が頷く。

「更に国力が低下すると、狙われるでしょう。怖いですね。そうした事態を避けることができればいいのですが、それには国力を取り戻さないといけませんね」

「国力を付けるには、国民を増やさないといけません。まあ、そんなことはずっと前からわかっていたはずですが、残念ながら人口減少に歯止めを掛けることができない。失策続きです」

「少子化対策ばかりでしたからね。高齢化対策には手を付けなかった。問題の一つは、高齢社会になり現役世代への負担が増えたことです。子どもを産み、育てようという気力が削がれますからね。高齢者の数を減らし現役世代の負担を軽減することは、国力増強、社会の安定のためにも必要なことだと思います」

 今度は森野が頷く。

 森野自身も子どもは一人だけだった。様々な理由から二人目を断念している。それに一人娘も、子を産むことなく他界していた。これでは人口が減り続けてしまう。歯止めが掛からない。

「世代交替が活発な社会は一つの理想でしょう。若い世代に活力が漲れば、自ずと子どもが増える。役目を終えた年配者は、早めに自決して社会負担の軽減に努める。太く短く、ですよ」と言った田沼は自分自身に頷いた。

「私は、生涯未婚ですからね。もっと早くに決断すべきなのですが、自殺する勇気や根性がなくてズルズルと生きながらえてしまいました。高齢者安楽死法が施行されてホッとしましたよ。何とか間に合いました」

「法整備に手間取りましたからね」と森野が返す。

 深刻な少子高齢に悩む日本が、追い詰められた末に出した苦肉の策だ。尋常ではない。

 当然、人命尊重を叫び抗議を重ねる海外の国は少なくない。それに対して日本は、人には生きる権利とともに死ぬ権利もある。高齢者に安楽な死を与えることは人権侵害でも人命軽視でもない。人間の尊厳、使命を終えた人々が安らかな最期を迎えるために、厳格な法律の下で慎重に進めていると訴えていた。

 同様に少子高齢化に悩む国の中には日本の取り組みに関心を示す所もあったが、未だに国際社会の理解は得られていなかった。

「この国が立ち直ってくれれば、いいのですが……」と田沼が溜め息混じりに言う。

「そうですね。それを願いましょう」

 森野も、そう返した。

 高齢者負担が減り、若い世代に活力が戻り、数十年先の未来では世界の国々と渡り合うかつての日本が蘇る。そうなることを願うしかなかった。

 会話が途絶え、二人は水平線の彼方を見詰めていた。

 船内放送からチャイムが流れる。

「夕食の準備ができたようです」と田沼が言う。

「早いですね。まだ明るい」

「早い、遅いは私たちには関係ないですからね。船員は、さっさと済ませて自分たちの時間に当てたいのでしょう。さあ、行ってお腹に詰め込みましょう。あと数日の命ですが、お腹は減りますから」

 余計な面倒を掛けたくないのは誰もが同じなのだろう。森野は頷き、田沼に続いて船内に入った。

 食堂にぞろぞろと人が集まってくる。皆、同じ服装だ。森野は思っていた以上の人の多さに驚いた。

 戸惑っている新参者もいたが、手順はシンプルだった。列に並び、トレイを取り、順に食べ物を載せていく。メインディッシュ、小鉢、ご飯にみそ汁。メニューは一種類、老い先短い高齢者向きの食事。特別な料理はない。在り来りの食べ物ばかりだ。

 広い食堂には細長い机が並び、全員が一方向を向いて座ることになる。男性、女性、夫婦とエリアが別れていた。監視する乗員の指示で詰めて座り、会話もなく黙々と食事をする。薄味で、それ程美味しい物ではない。

 それでも文句なく食事をする。もはや美味しい物を食べるような状況にない。暇を持て余す高齢者がお腹を満たすだけの食事だった。食べ終わったらトレイごと返し、さっさと食堂を出ていく。

 大きな船だが、安楽死志願者が出入りできる場所は限られていた。テレビも娯楽設備もない。結局、ぶらぶらと歩き回り、空いた椅子を見つけては、ぼ~っと座ることになる。

 唯一、気が紛れ安らぐことのできる所が大浴場だった。清掃時間を除き、昼も夜も真夜中も入浴できる。ただ、他にやることがないので何度も入る人が多く、常に混雑するようだ。のんびりと大きな湯船に浸かる贅沢も、もはや叶わない。

 狭い個室に戻り、静かに己を見詰めることになる。

 眠れぬ夜を過ごし、日が昇り、お昼前に船は出港した。大海を進む。

 森野は船内を歩き回り、オープンデッキに出て昨日話した田沼を探したが、その姿は見当たらなかった。

 明日は処置日だ。

 やはりナーバスになって部屋に籠もっているのだろう。最後の一日をどう過ごすか。それは自身にも訪れる。森野は海を眺め、見苦しい真似だけは避けようと心に誓った。

 その夜、エンジンの騒音と振動が伝わる寝台で、船の揺れに身を任せていると、どこからか泣き叫ぶ声が聞こえてきた。土壇場で怖くなったのだろう。覚悟を決めて乗船したはずなのに騒ぎ出すとは……

 それ程、死の恐怖が強大だということなのか。生への未練が断ち切れないのか。

 しばらく騒いだ後で静かになった。おそらく鎮静剤を投与され、眠ったのだろう。

 自分もあのようになるのだろうか。その不安が心に広がり、森野はあれこれ考え、眠ることができなくなってしまった。




    四

   

 朝がきた。

 森野忠弘はオープンデッキに立ち、周囲を見回した。ぐるりと水平線、陸地も他の船影も見えない。ポツンと一隻だけが広大な外洋を進んでいる。どこに向かっているのだろう?

 船員の動きが慌ただしい。予定通り、安楽死の処置が行われる。

 新参の志願者は、その様子を見届けることができた。自身が受けることになる処置を事前に確認し、決意を強固にしなくてはいけない。そう、これは強制ではない。個人の意思によるものだ。自ら安楽な死を選択したのだ……

 その日、立ち入りができなかった一つの扉が開放された。そこを進み階段を降りると細長く伸びる部屋に出た。一方の壁がガラス張りで広い処置室を見下ろすことができる。幾つものキャスター付きの寝台が整列していた。

 時間が迫ると、大きなマスクで顔を覆った何人かが処置室に入ってきた。安楽処置を担当する係員だ。ずらりと並ぶ寝台を回り、それぞれの横にある小さな作業台に置かれた心電モニターの電源を入れる。しばらくするとその上部に組み込まれたランプが青白く輝く。

 準備作業を終え、マスクの処置係は奥の部屋へと引っ込んだ。誰もいなくなった寝台が並ぶ広い部屋から身も凍るような冷たさを感じ、森野は体を震わせた。周りを見ると細長い部屋には数十人の志願者がガラスの向こうを見下ろしている。皆、表情を強張らせていた。

 時間だ。

 マスクの処置係とともに白装束の志願者が次々と処置室に入ってきた。二十人ほどだ。それぞれ決められた寝台に向かい、その上に座った。処置係が作業台の心電モニターのセンサーを志願者の指先に装着する。ランプが青白い点滅を始めた。志願者によって点滅周期が異なっている。それは、生きている証しだ。

 森野は乗船した日に話した田沼を探したが、寝台に座る人の中にはいなかった。最初のグループではないということだ。

 やがて処置室に、どっしりとした頑丈そうな大型装置が入ってきた。底部に大きなタイヤがあり、数人の処置係が取り囲むようにして寝台の列の端まで押していく。志願者がその装置に組み込まれたパッドに手のひらを当てると、その横の取り出し口から小さな色違いの二つのカプセルが出てきた。

 一つは即効性の睡眠神経薬。もう一つが強力な致死剤、毒々しい色のカプセルだ。

 志願者と繋がった心電モニターのランプの点滅が速くなる。数人の係員に見詰められ、震える手で二つのカプセルを手に取り、口へと運び、手渡されたコップの水で流し込んだ。

 薬を飲んだ志願者は寝台に横たわり、大きな呼吸をした。目を閉じる。やがてランプの点滅がゆっくりになり、深い眠りに落ちていく。最期のその時を知ることはない。

 薬物配給装置を押して並んだ寝台を順に移動し、薬を与えていく。静かに行われる儀式のようだ。

 処置室の志願者の全てが薬を飲み、寝台に横たわった。それぞれの青白いランプがゆっくりと点滅を続ける。

 時間だけが過ぎていった。

 森野の周囲で細長い部屋を出て行く人がいた。階下の人たちの命が潰える場面を見るのが辛いのだろう。その気持ちもわかるが、森野はその場に留まった。じっと処置室を見下ろす。マスクの係員が壁際に並んで座り、ランプの点滅を見渡していた。

 突然、一つの心電モニターのランプが赤色の激しい点滅を始めた。

 一人の係員が立ち上がり、その赤色ランプの寝台に向かい、横たわる高齢者の様子を確認する。その間にも他の青白いランプが次々と赤色の激しい点滅に切り替わり、待機していた処置係が慌ただしく動き回った。

 奥の部屋から別の人物が入ってきた。同じように大きなマスクをしているが白衣を纏った二人だ。左右に別れ、赤色ランプの寝台に横たわる人の顔を覗き込み、首筋に指先を当てる。そして白衣の人物とその側に立つ処置係が直立姿勢をとり、寝台の高齢者に向かって深々と頭を下げた。

 その後で白衣の人が書類に何かを書き込み、処置係が赤く点滅する心電モニターの電源を切る。そして別の寝台に移り、同じ作業を繰り返した。

 あっけない。

 その体を震わすこともなく、安楽に逝ったのだ。次々と、処置室に横たわる人たちが……

 全ての赤いランプが消えると、マスクの係員が寝台を順番に処置室から運び出す。安楽に逝った人たちは別室で二日間、安置される。

 その日は、午前と午後に二回ずつ、計四回処置が行われた。森野は意地になって、その全てに立ち会い見届けた。乗船した日に話した田沼は、三回目にその姿があり、穏やかな表情で人生を終えていた。

 森野は繰り返し自身に言い聞かせた。

 死から逃れることなどできない。誰もが命を終える。ならば、苦しみながら死ぬよりも、自分がどこの誰かわからなくなる前に、己の意思で安楽に逝きたい……

 皆、それを願った。自分もその一人だ。

 未練などない。後悔もない。安らかな最期を迎えよう……




    五

   

 安楽処置された遺体は、待機する志願者が行くことのできない安置室に二日間置かれ、朝晩に乗船している僧侶がお経をあげていた。その間、船は外洋に留まっている。

 三日目の朝、船尾の小振りの煙突から煙りが上がっていた。陸地の見えない海の上で、遺体が荼毘に付されている。

 森野忠弘は何度かオープンデッキに出て、船尾の煙突から棚引く煙りを見詰めていた。自分もやがて、あの煙りになるのだ。物悲しいが、それで心が揺らぐことはなかった。ここで、けりを付ける。それが一番望ましいことだ。それは間違いない……

 その日、暗くなっても船尾の煙突から煙りが消えることはなかった。

   

 翌々日、船は港に入り接岸した。どこなのか? 遠くに林立する建物が見える。大きな街のようだ。

 係留が済むと船尾の車両スロープが展開し、数台の作業車が走り出て港を後にした。荷台が完全に覆われたダンプカーは、燃え残った遺骨や灰を運び出しているのだろうか? トラックやバンは食料や消耗品を仕入れに出たのかもしれない。

 次の日、受付と更衣室が仕立てられた専用バスが船の横に止まり、タラップが下ろされた。

 もし、気が変わったのなら、ここで船を降りることもできる。ただ、そうすると、もう一度志願する時のハードルが格段に上がるようだ。おそらく、再びこの船に乗ることはできないだろう。

 今回、船を降りた人がいたのか? それは乗船している志願者には、わからなかった。

 やがて、ポツリポツリと船に乗り込んでくる高齢者の姿があった。数日前の自分と同じだ。森野はオープンデッキに出て景色を眺めていたが、新しく乗り込んできた人に声を掛けることも、声を掛けられることもなかった。田沼のように話し相手を求めてはいない。静かに時を過ごしたかった。

 森野は、最期のその時がヒタヒタと迫っているのを全身で感じていた。




    六

   

 個室に係員が呼びにきた。

 返事をした森野忠弘は、数日を過ごした狭い部屋を見回してからドアを抜けた。揺れる通路を進み、閉ざされていたドアを通り、第二グループと書かれた大部屋に入った。二十人ほどの高齢者が集まり、係員の説明が始まる。

 しばらくは、ここで待機だ。

 大部屋の隅には食べ物が置かれている。お菓子が多い。数種類の洋菓子、和菓子、おにぎりや飲み物もある。これが最後の食べ物だ。だが、くつろぐことなどできない。甘いお菓子も喉を通らなかった。

 一方の壁にはドアが並ぶ。トイレだ。森野たち志願者は、この大部屋から出ることはできなかった。皆、深刻な表情をしていたが、ここで気を変える者はいない。これまでに考える時間は十分過ぎるほどあったのだ。覚悟を決めている。

 時間になると白装束を渡された。スエットを脱ぎ、簡素なつくりの白装束をスッポリと頭から被る。これで準備は終わりだ。

 一列に並び、別のドアから大部屋を出る。通路を進み、その先のドアの手前で本人確認のためパッドに手のひらを当てた。間違いがあっては大変だ。

 係員に促されドアを抜けると、そこは寝台が並ぶ処置室だった。見上げると、壁の上方に窓が並ぶ。ただ、ガラスに処置が施され、こちらから窓の向こうは見えなかった。マスク姿の係員に指示され所定の寝台に座る。心臓が高鳴り、体が小刻みに震えた。

   

「船長、ヘリコプターです。何機か本船に向かって飛んできます」

 船長の川島は眉を顰めた。

 ここは陸地から遠く離れた外洋だ。ヘリコプターが飛び回るような場所ではない。

 川島はブリッジの端に立ち、右舷より接近する機影を見詰めた。確かに何機か飛んでくる。

「あの方向に船舶はあるのか」

「いえ、見当たりません」

「無線は? 何か入っていないか」

「いえ、ありません」と別の船員が答えた。

 何事か? こんな海の真ん中で何かあったのか?

 しかし情報がない。このまま船を進めるしかなかった。

 真っすぐに接近してくる。機影がはっきり見えた。大型軍用ヘリだ。

 数機のヘリコプターが船の上空を旋回し始める。目的が本船であることは明らかだ。

「何があったんだ?」と川島が呟く。

「ヘリパッドに降りるようです」後方を監視していた船員が叫ぶ。

 船の最上デッキにはヘリパッドがあったが、何の連絡もなく降りることなどない。常識外れの行動だ。

 川島が覗くと、大型ヘリがヘリパッドの上空にいた。大きな機体だ、降りれるのか?

 その時、上空の大型ヘリのドアが開き何本ものロープが垂れ下がった。戦闘服姿の兵士がそれを使ってヘリパッドに降下する。訓練を積んだ素早い身の熟しだ。

「こちらに来ます」

 あっという間に小銃を構えた兵士の一団がブリッジに傾れ込んできた。外国人だ。

「抵抗するな」と川島が言い、両手をあげる。

 丸腰の船員が小銃を持つ兵士に抵抗などできない。テロなのか?

 もう一機の大型ヘリからも兵士が降下していたが、その一団はブリッジではなく船の別の場所を目指して駆けていった。

   

 処置係が重厚な造りの薬物配給装置を押してきた。いよいよだ。

 !!!

 その時、大きな音。

 ドアを蹴破るようにして大声で叫ぶ一団が処置室に突入してきた。武装している。

 小銃を向けられ、処置係は凍り付いた。

 兵士の一団が難無く処置室を制圧する。後から入ってきた装備の軽い兵士が拳銃をホルスターに仕舞い、大声で言った。

「動かないように。この部屋の責任者は誰ですか」

 日系人のようだ。発音に少々難があった。

「私です」マスクをした一人が答えた。

 その処置係と日系人の兵士が話しを始める。マスクの処置係が部屋の隅に集められ、薬物配給装置を数人の兵士が取り囲んだ。

 森野たち志願者は、そのまま寝台に座り呆然としていた。安楽処置が妨害されたことに気付いたのは、しばらく経ってからだった。




    七

   

 高齢者を集団収容し、まとめて命を奪う行為を国際社会は認めるわけにはいかない。我々は、日本のこの暴挙を阻止する……。ほどなく、声明が発表された。

 警告を何度も無視されたため、国際社会が行動に出たのだ。船に突入し制圧する精鋭部隊が編成され、その部隊を送り届けるためにヘリ空母が派遣された。

 また、ターゲットとなる安楽死処置船の動向を掴むために潜水艦が使われたという。

 船のスクリュー音は、人の指紋のように一隻ごとに異なる。海中の潜水艦が海上を航行する船のスクリュー音を解析することにより船舶の特定が可能だ。潜水艦はこの作戦のために何日も前から処置船を追尾し、その所在をヘリ空母に伝えていたようだ。

 日本政府はこのような国家を侵害する軍事的作戦の実行に反発し、内政干渉だと抗議するが、国際社会はこれを取り合わなかった。社会通念、倫理、文明人としての本質に反すると厳しく非難する。

 国際社会がその力を行使したら、国力の弱まった日本は太刀打ちできなかった。

 船は日本の港に戻り係留された。

 特別編成の精鋭部隊は船を去ったが、代わりに専門家が加わった外国人の監視団が乗り込んできて危険な致死剤を全て回収した。

   

「国際人道支援機構?」

 森野忠弘は対面に座る男性の言葉を繰り返した。

「ええ、その日本支部の浅岡といいます」と、にこやかな笑顔を見せた。

「その組織が何の用です?」

 大体予想はついたが、そこから尋ねるのが礼儀だろう。

「森野さんの今後の生活について、お手伝いをさせていただいたいと思います」

 高齢者安楽死法が施行されてから、日本にある人命尊重を謳う団体は肩身の狭い思いをしてきたようだ。外圧によって安楽処置が止められ、法の失効を迫られている今を活躍のチャンスと捉え、幾つもの支援団体が動き出していた。

「住む所もない、と伺っていますが……」

「ええ、全て処分しましたから」

 森野の答えに、浅岡が頷く。

「当分は、この船の中で暮らす予定ですか」

「そうなりますね。食事も提供してもらえますし、寝る場所もありますから。ここを追い出されたら、どこかで路上生活をするしかないですね」

 さらりと言う森野に対し、浅岡は深刻な表情で何度か頷いた。

「それはお困りですね。お仕事のほうは、どうですか。探されていますか」

 そう問われた森野は眉を顰めた。

「六五歳の老人ですよ。不景気ですし、難しいでしょうね……」

「どうでしょう、視野を広げて海外のほうに目を向けてみては。世界は広い。森野さんのような仕事の経験のある方を求めている国もあります……」

「この歳で海外に行けと仰るのですか。日本を離れろと……」森野は唖然とした。

「そんな大変な話ではありませんよ。そのようにして海外に出て、経験のある仕事をしながら暮らしている方が沢山いますから。それに私たちも生活支援のお手伝いをします。仕事と住む場所の手配ができますし、日々の暮らしで困ったことがあれば、相談にも乗ります」

 森野は目を細め、浅岡の顔をじっと睨んでいた。

「あなたも、生きろと仰るのですね……」

「ええ、もちろんです。森野さんは健康ですから、まだまだ働けます。きっと生き甲斐も見つかると思いますよ」と笑う。

「生き甲斐ですか……」そう呟く森野の表情は暗かった。

 長生きする理由は何もない、そう考えて身辺を整理してきた。申請手続きに手間取り、ようやく安楽に逝けるところだったのに、寸前で邪魔が入ってしまった。

 世界の国々は、たとえ老人であっても命を投げ捨てるような行為を認めないのだ。宗教が関係しているのだろうか。同様に少子高齢に悩む国々が、日本を追従するようになったら大変だと体制崩壊を恐れたに違いない。

 何としてでも止めさせようとした国際社会の常識では、生を受けたらそれを全うしなくてはいけないようだ。自ら命を絶つような行為は許されない。今度は手のひらを返したように、生きろと言う……

「わかりました。少し考えてさせてください」と森野は立ち上がった。

 まだ話し足りなかった浅岡だが、最初から強引になっては反感を買うだけだと思う。笑顔をつくった。

「そうですか。では、こちらの資料をお持ちください。何か疑問などございましたら、どうぞ遠慮せずにこちらの連絡先までお電話ください」

 浅岡も立ち上がり、これから説明しようと思っていた持参の資料を手渡した。

「ご検討ください」

「わかりました。ありがとうございます」

 森野は資料を受け取り、頭を下げてから部屋をでた。通路を進み、狭い個室に向かう。

 おそらく、活発に動き組織の存在意義を世間に知らしめたいのだろう。生き残った安楽死志願者に新たな生活の場を与え、生き甲斐を見出し前向きに生活するようになれば、一つの実績としてアピールできる。組織の運営にも弾みがつく。

 森野は溜め息をついて個室のドアを開けた。小さな机の上には、今後の生活を支えるための資料が幾つか置かれている。今受け取った冊子をそこに放ると、森野は直ぐに個室を出て行った。




    エピローグ

   

 森野忠弘はオープンデッキの手摺りに肘を載せ、港から見える大海原に目をやった。夕日が水面を赤く染めている。

 どうやって死ねばいいのか……

 一思いに自殺できたら簡単なのだが、その勇気がない。どうしても、あと一歩が踏み出せなかった。身が縮み、動けなくなる。どこかの誰かに……、あるいは病気か事故か、何かに命を奪われるまで死ぬことはできないのだろう。

 自分では、自身を始末することのできない情けない男だ……

 森野は肩を揺らして息を吐き、ぼんやりとする水平線の彼方をいつまでも見詰めていた。


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