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母と僕

会いたい

作者: 一一零

 父は、リビングのいつもの椅子に座り、両手で顔を覆うと撫でながら、鼻の手前で手を合わせるようにして言う。


 「どうしようもないとわかっていても、落ち込んでしまうな……」


 僕は、斜め手前の椅子に座りながら、そんな父を眺めていた。

 父は、祈るように手を合わせたまま、目を瞑っている。


 何も言葉が出てこない……。


 「可哀想だ……」


 父は小さく呟いた。

 その言葉に、僕は目頭が一気に熱くなった。


 父も僕も、病院では、母の前ではずっと笑っていた。

 だから、こうして家にいるとそれとは真逆の感情が表出してしまう。


 母に告知をするのか、弟や姉にはいつ言うのか……。

 昨日の今日で、頭が真っ白になっている。

 それなのに、医者は今の時代はどうのと、ケ―スワ―カ―が、こんなホスピスがありますよと、言ってきた。

 何も考えられない状態なのに

 「諦めろ」そして「今すぐ決めろ」と言われてる気がした。

 もちろん直接そんな言い方をされたわけじゃない。

 それでも、そう言われたようにしか僕には聞こえなかった。

 僕は、今の自分の気持ちを素直に話す。


 「姉さんは、来週いっぱいまで、忙しいよね。弟はお母さんっ子だから心配だよ……」

 「……そうだな」

 「母さんは……告知は……」


 言いかけるけれど、言葉に詰まる。

 告知など、そんな残酷なことが出来るわけがない。

 母は、頑固で意地っ張りで強気に見えるけれど、実は気が弱く寂しがり屋で怖がりだ。


 そんな母に、もうすぐ死ぬよと伝えろと言うのか!


 医者はいつ何があってもおかしくないと言って、緊急な時に家族と相談などと言われると困ると話す。その「何か」の時に、相談なく決められる人はいるのかと言って来る。

 心肺蘇生は今はあまりやらないのだとか、そのまま逝かせていいかとか聞いて来る。


 いいもなにもない!!!

 そんな事、昨日の今日言われても考えられないだろ!!!


 しかし、時間はあまりない。決めなければいけない。


 「父さんは、どう思ってるの?」

 「……難しいな……」

 「迷ってる?」

 「ああ……」


 僕は、余り迷いはない。母に告知はしない。それが僕の答えだ。

 けれど、家族たちの答えはまだわからない。

 僕は、母が告知されて、余命いくばくもないと知ったらどんな思いをするんだろうと考えるだけで発狂しそうになる。

 「あなたはいつ死んでもおかしくない」と聞かされて、その恐ろしさに、不安に苛まれながら、残りを生きろというのか?


 「母さんは、そんな強い人じゃないよ……」

 「普段は虚勢を張ってるからな」

 「うん……」

 「そこが可愛くもあるんだ」

 「はは……」


 父が母を可愛いなどというとは驚きだ。元々不器用な人だから、母への愛情を直接伝える事もなく、僕たち子供にもあまり見せない人だった。

 それが、ここに来て自然と出た本音……。

 けれど、そんな事を今母に向かって父が言ったら何を急にと思われるだろう。

 そして、そんな父の変化を知れば自分の身体の状態がどうなのか、確信を持つかもしれない。

 医者の話では、今ですら相当きついはずだと言っていたのだから、勘ぐっているに違いない。まだ、検査の結果が出ないのだと言ったけれど、不安で仕方がないはずだ。


 だから僕は、何も知らないといった顔で、そうゆう感じの話はあまりしないで、軽口をたたいて笑いあう。

 少しでも母の気がまぎれ、不安が少なくなるように。

 もしかしたら、淡い期待を抱いているかもしれない。

 駄目かもしれないと不安に押しつぶされそうになってるかもしれない。


 母の気持ちを考えれば考えるほど、どうしていいのかわからなくなってくる。

 ただ、一緒にいたい。話をしていたい。手を握っていたい。


 「あんなに細い母さんの足が、家族の誰よりも太くて……お相撲さんもみたいになっていたね……」

 「そうだったのか? 俺は見なかったから……」


 そうか……父さんは意外と母さんを直視できていないのかもしれない……。

 僕だって、映像やら何やら見せられても、目が泳いでしまっていたと思うし……。


 「驚いてね。揉んであげたの。そしたらね、痛いってお前力強いよってね……触った感じでは感覚がなさそうに見えたから、ついつい力が強くなったのかもしれない……」

 「そうか……」

 「だってあんなになってるんだから……」


 しばし、無言が続いた。父は、相変わらず鼻の前で手を合わせている。時々、両手で顔を撫でてまた同じ姿勢になる。

 僕は、父が今心の中で何を考えているのか、わかる気がする。

 昨日、僕がその現実と戦いながら、祈っていたのと同じだろう。

 ただ、祈っていた……。


 ああ、それしか僕らには出来ないよ。

 明日も明後日も、家にいる時はそれしか出来ない。

 こうゆうのを無力感というのだろうね……。


 けれど、先にも言ったように時間はない。決めなければならい。 

 僕は、仕事から帰ってくる弟に今日言うのかどうか訊ねた。


 父は、答えない。


 「あいつはあいつなりに心配しているようだけれど、若干考えが甘い気がするね」


 父は答えない。


 「母さんが、この数年少しずつおかしくなってきていたけれど、あいつは心配し過ぎだとか言って……」


 父は答えてくれない。相槌もうたずただ黙して目を瞑っている。


 「父さん!」


 少し語気を強めて呼ぶと、父は静かに目を開けて俺を見た。

 目が赤い……。


 「き……決めないと、覚悟を……」

 「言うか……」

 「ま、待って……」


 駄目だ。急に怖くなった。弟のその時の顔を浮かべると、怖い。

 言えない。でも言わなければならない。

 待てといった僕を、父は赤い目で見つめて来る。

 自分で覚悟と言っておきながら、覚悟が全く決まってない事に改めて気づかされる。


 「今日はよそう……」

 「……そうか」


 何を言ってるんだ! 隠したって始まらないんだ! 母はいつどうなるともわからないのに、迷ってる場合じゃないのに!!


 「姉さんはどうする?」


 どうするも何もない。言うしかない。いつ言うかなどと足踏みしている場合じゃない。先延ばしにしたって何もない。一刻も早く家族で共有して最大の事を決めなければならない。

 それを、忙しいからと、ショックだろうからと姉弟を気遣う振りをして、現実から逃げようとしている。


 僕は、臆病者だ……。


 しばらくして、弟が帰ってきた。

 さっそく母が入院したことを聞いて来る。

 僕は言った。


 「まあ、検査結果が一週間後だから、まだわからない」と……。


 それから、他愛もない話をし出す。病院で母はこんな事言っていたとか、軽口をたたいて「母さんらしいでしょ」と笑った。

 こんな話で誤魔化して一体何の意味があるのだろうか……。

 レントゲンなりスキャンなりでMRIなどで、ほぼすべてが明らかなのに……。


 医者からは終末期医療を進められたというのに……。


 父は、僕が軽口をたたいている間も、ただ黙している。

 元来、無口な人だし、顰めっ面もよくしているから、弟は父の様子には変わりがないと思っているようだ。僕も、軽口をたたいて明るい性格だから、悟られてないかもしれない。


 そんな事を考えて、ほっとしている自分がいる。


 馬鹿か! 言え! どうせ、数日も経たずに言わなければならないんだ! それなら早い方がいい! 言うんだ!!


 「検査結果が一週間後なら、その日のうちには帰ってくるの?」

 「何でもなければな……」


 父が、重たい声を出した。弟はそんな父の声に反応して、顔を父に向けて覗き込むように凝視した。

 僕は、内心慌てた。不味いと思った。そして、無駄に口を挟んだ。


 「父さんは心配性だからね、はは」


 この言葉に何の意味があると言うのだろう……。

 けれど父は「そうだな」と、ここで始めて微笑んだ。

 父が僕に調子を合わせて来たのだ。


 二人で何をやっているんだ……。


 無駄なあがき。そう、無駄なあがきをしているんだ。

 格好悪くも大の大人が無駄なあがきをしている。

 父も、僕ほどではないかもしれないけれど、それでも同じようにあがいているのだ。


 でなければ「そうだな」などと言う必要はない。僕を無視して事実を告げればいいだけだ。しかし、僕に調子を合わせた。

 きっと、父も僕と同じなんだ。


 夢ではないか?

 自分はきっと夢を見ているに違いない。

 夢を見ている最中に、これは夢だと思った事があるように。

 今、目を覚ませば何もかもが、いつも通りになってるんじゃないのかと……。


 そうやって、あがいている。


 けれど、これは本当に無駄なあがき何だろうか?

 医者がさじを投げたからと言って、家族も一緒にさじを投げるべきだろうか?


 そのさじの中に万が一、億が一の可能性はないのだろうか?


 決して夢だとか、嘘だとか、現実から逃避することではなく、最後まで生にしがみ付いて、格好悪くてもあがくべきなんじゃないだろうか?


 問題は、母に告げるべきなのかどうかという事だ。

 告げた後、母は、それでも、何の手も打てないと言う医者を相手に、家族と共にそれでも死にたくないと、生きるつもりだと、治るんだと思ってくれるだろうか?


 その現実に絶望し、自暴自棄にはならないだろうか?


 表面上の性格とは違って内面は臆病な母が、その現実に立ち向かえるのか、僕にはわからない。僕の臆病さは、きっと母の遺伝に違いない。

 自分がその立場になった時の事を思うと、怖くて怖くて仕方がない……。


 人間はいつか必ず死ぬ。その現実を普段はわかっていても誰も意識しない。

 意識すれば怖くなる。

 簡単に受け入れられるものではない。


 その時になって、仕方がないと言えるのかどうかも、その時にならなければわからない。


 だから、日々考えないようにしている。

 七十、八十を過ぎればそうではないのだろうか?

 或いは百歳になれば、もういいと思うのだろうか?


 わからない。わからないけれど、一つだけ言える事がある。


 母は、まだまだ、やりたい事、やり残している事があるということだ。

 本人は、来週の歌のレッスンはとか、子供たちの書道はと言うし、来年はどこどこに行く予定だと言って病室ではしゃいでいる。


 「あんた早く結婚してよ」「孫の顔が見たいわ」と、言って来る。

 こればかりは、どうにもならないけれど、とにかく母は死にたいとは思っていない。


 僕はこんなことを頭で考えながらも、弟に今の今も軽口をたたいている。


 弟が席を外した時、父は言った。


 「どんなに遅くとも来週だ」

 「うん……」


 僕は、その言葉を聞いて、立ち上がると自室に籠った。本来ならば一緒に居て気を紛らわしたい。けれど、涙が止められなくなって、それを弟に見せないために、その場から逃げたのだ。


 僕は、パソコンの電源を入れた。

 検索サイトを表示しながら、文字を打とうとし、そして止めるを来る返している。


 もしかしたら神の手を持つ医者が見つかるかもしれない……。

 でも、そうではなく諦めろいう現状をさらに確認するだけだったら……。


 そう思うと、躊躇われてしまって指が動かない。


 しばらくしてパソコンを閉じた。

 そして、酒を持ってきて飲もうとした。


 けれど、いつ何時連絡があるか分からない……。

 今は弟が家にいるからいいが、いない時は運転は僕が運転しないといけない。


 父は、高齢なこともあって、夜の運転が出来ないからだ。

 それに、酒をあおる事は正しいのだろうか。そんな気持ちになるのもある。


 けれど、飲まずにはいられない。

 ビ―ル缶を眺めながら葛藤が続く。


 僕はついに缶を開けてしまった。


 弱い……。僕は本当に弱い人間だ……。


 午後の八時半。あまりにも早いが布団に入った。

 けれど、結局夜半には目を覚ましてしまった。


 誰もいないリビングで、一人何をするわけでもなく座っている。

 父はまだ起きてこないだろう……。

 弟は何も知らずにぐっすり寝ているだろう。


 母さんはどうしているだろうか? 同室の人におかしなことを言われていないだろうか? 不安になって寂しくなって、震えていないだろうか?


 僕は臆病者だ。死にたいなんて思わない。けれど、出来る事なら代わってあげたい。

 そう思うことは矛盾だろうか?


 母さんに会いたい……。

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