暗殺任務
カポネ・アルクは、死ぬ気の全力で深夜の路地裏を疾走していた。
夜闇を疾駆し、何度も道の角を曲がり時折後方を振り返り、追跡者の存在を確認する。視線の先は暗闇が細く伸び、ひどく不気味だ。追っ手の姿は見えないが確実に追って来ている。
荒い呼気が忙しく口から出てくる。すでに五キロは逃走している。両脚の筋肉は乳酸が途轍もなく溜まってパンパンになり、今にも破裂してしまいそうだ。額からは瀑布のように汗が流れ落ち、空中に大量の水滴となって飛散していく。服は汗を吸って重くなり、肌に張り付いて気持ち悪いことこの上ない。
「大丈夫? カポネ」
カポネは隣を並走する少女をチラリと見遣る。フード付きの黒いケープを羽織るのは年端もいかない少女で、息一つ上がっていない。深い蒼色の瞳が気遣わしげな視線を送ってくる。
自分より五つも下の少女に心配されるとは忸怩たる思いがあるが、かすかに微笑み返す。
「だ、大丈夫だ……! エ、エルサこそ、平気、か?」
額から噴き出す汗を拭いつつそう問い掛けると、エルサは小さく頷き返してきた。ただの人間ではない彼女にはいらぬ心配ではあろうが、それでも女の子であることに変わりはない。
崩れて折れそうな膝を支え、歯を食い縛って踏み込む。ここで死ぬわけにはいかない。この国のために、自分は生きねばならない。
そう思っているのに。
「なっ……!そ、そんな……」
眼前にはのっぺりとしたコンクリートの石壁が無表情に二人の進路を阻んでいた。見事なまでの袋小路、誘導されていたと気付いた時には走る時とは違うゆっくりとした足音が近付いてきた。弾かれたように振り返る。
見通せない深い闇から人影がぽつり現れる。背丈はそれほど高くない。エルサと似たような装いの追跡者は自然な動作でフードを取った。
「ここは、幼い頃に俺がよく使っていた逃げ道なんだ。ここは人通りが少ないから食い逃げした時はすごく店主を撒けるんだ」
清冽な響きを持つ声は少年のそれ。露わになった容貌もまたどこか女性的な線の細さがあり、少年めいた印象を受ける。長めの前髪の下の黒い双眸はナイーブそうで、17歳であるカポネより年下のように見える。
だが、その落ち着いた物腰と全身から発散される圧力から年上かもしれないとも思う。そこまで相手を観察したまさにその時。
発砲。眩い発砲炎が暗闇を一瞬だけ照らした。
「え?」
間抜けな声が思わず洩れた。ゆっくりと右手を自分の腹に当てて状況を把握する。掌にはべったりと血液が付いていてそれを自覚した瞬間、思い出したように灼けるような激痛が腹部から全身に広がった。
ケープを翻して腰のホルスターから拳銃を抜き撃ち(クイックドロウ)。抜き出す手際、照準を定めるスピード、どちらも異常かつ尋常であった。気付いた時には撃たれていた。
「カポネっ! お前っ!!」
傍らのエルサが犬歯を剥いて、コンクリートの床を踏み砕かんばかりに敵に飛びかかる。襲い来るエルサを眼前に、追跡者は静かに腰を落とし――
「フッ!」
鋭い呼気と共にエルサの頬を殴り付けた。滞空していたエルサは地面に叩き付けられ、陥没したコンクリートの破片が飛散する。エルサは口の端から血を流し、激しく咳き込む。
カポネはカッと頭に血が上り、左手を閃かせて拳銃を抜いた。
再び銃声。無情にも拳銃は弾き飛ばされそれを意識した時には、右胸を撃ち抜かれていた。血が噴き出しカポネは膝から崩れ落ちる。地面が迫ってきたと思った時には前のめりに倒れていた。噴き出す血が床を蚕食していく。
「人間と獣人のハーフか……」
追っ手は銃口から硝煙を燻らせつつ眼下のエルサを無感動に見下ろした。そして泰然とエルサの頭部に照準し、引き金に指をかける。
伏臥したカポネは激痛に悶えながら叫んだ。
「エルサッ! やめろ、彼女だけはやめ――」
「女、子供だろうが容赦はしない。それが俺の流儀だ」
懇願は死をもたらす銃声によって遮られた。漆黒の銃口から火炎が迸り小さな少女を射殺した。真鍮色の薬莢が冷徹に床を跳ねる音がやけに大きく響いた。
少年は悠然と屍を乗り越えてカポネの前に屹立した。カポネは両目にあらん限りの憎悪を宿らせ、闇色の双眸を睨み上げた。全身から熱が抜けていくのも気にせず、怨嗟の叫びを迸らせた。
「貴様ッ!! この戦姫の犬め!! お前もこの国の民であろう! ならこの国がおかしいことに気付いているはずだ、戦争をビジネスにしているこの国の現状を貴様は――」
銃声。カポネの訴えは無慈悲な弾丸によって途切れた。
夜闇の惨状を見回した少年はおもむろに空を見上げた。満天の星空にぽっかりと月が浮かんでいる。少年は誰に聞かせるわけでもなく一人ごちた。
「それでも……俺は彼女に忠を尽くす。例え国中の人間を敵に回したとしても、俺は恩義を果たす」
少年の独白は冷たい夜風に静かに溶けていった。
「ただいま戻りました、アリア・ホーネット様」
縦五メル、横三メルの大扉を静かに二度叩き返事を待たずに入室する。
まず視界に入ったのは、部屋の壁であった。円形の大部屋の壁には等間隔に黄金の柱が並び、それらの間に曇り一つなく磨かれた巨大な板硝子が嵌め込まれている。しかしこれは壁というより連続した窓と言ったほうが正しいかもしれない。
透明な総硝子張りの壁の向こう、視線を持ち上げていくと夜空の一角に青白い満月が浮かんでいた。その周囲では、数えきれないほどの星々が煌々と静かに瞬いている。
続いて真上に振り仰いだ。遙かなる高みにある天井は完全な真円を描いており、精緻な絵が色鮮やかに描き出されている。それぞれ東西南北に霊獣の姿が描かれ北には脚の長い亀に蛇が巻き付いた姿、南には翼を広げた紅蓮の鳥、東には長い舌を出した蒼き竜、西には細長い体をした白い虎が互いにいがみ合うようにして描かれていた。
眼を細めてその見事な絵を眺めた少年は、顔を戻しこの部屋の主の元へ歩み寄る。足元の深紅の絨毯は驚くほどに毛足が長く、精緻な紋様が描かれ足音を吸収していく。
眼前には部屋と同じく途轍もなく巨大な円形のベッドが設えられ、差し渡しは十メル近くはあるだろう。四本ある黄金の柱は金張りの天蓋を支え、幾重にも半透明の薄紫色の薄布が垂れ下がっており、内部は薄闇に包まれている。寝台は窓から差し込む月明かりを受けて仄かに神秘的に輝き、汚れ一つなき純白の敷布に覆われていた。
「ご苦労様、イーグル。入ってらっしゃい」
絆すような優しさ、とろりと甘い響きを内包した囁き声が天幕の奥から聞こえてきた。イーグルは甘い蜜に惑う羽虫のようにベッドを取り囲む天幕の合わせ目を引き開ける。
瞬間、憶えのある甘い香りが誘いかけるように漂ってきた。その匂いを嗅いだ途端、ねっとりと重い眠気のようなものが頭の中に忍び込んできて、意識を濃密な霧が包み込んでくる。
半ば混濁した意識の中でイーグルは、そっとベッドに右膝を乗せる。白絹の敷布が、淡雪のようにぼふっと深く沈み込み、小さく感嘆の息を漏らす。しかしそれも一瞬、巨大な寝台を四つん這いで慎重に這い進んでいく。両の膝と手が滑らかな布地に深く沈み込み、ひたすら敷布の手触りだけに集中して前進していき、やがて最奥に行き着いた。
「ちゃっと始末してきた? 実はトドメを刺し損ねてましたなんてこと、まあ君のことだからただの杞憂ではあると思うけど」
くすくす、と喉の奥で密やかに笑いながら蕩けるような甘い声で囁きかけたのは、暗部の工作員であるイーグルの主にしてビャッコ皇国の戦姫、アリア・ホーネット。皇国の最高戦力にして、裏で皇帝を操り人形にしている実質この国の頂点に鎮座する女性である。
アリアはまっすぐに伸ばしていた両脚を揃えて左に折り、重心が右に傾いだ華奢な体を右手を敷布に突いて支え、その艶めかしい姿勢のままじっとまっすぐにイーグルを見詰めてきた。
純銀の虹彩を、虹色の燐光が、水面のようにたゆたいながら彩っている。瞳孔の存在せぬ純銀の瞳は鏡のように全ての光を反射し、神々しく煌いており、内心を一切覗かせない。
銀色の睫毛をかすかに震わせ、イーグルの魂の奥底まで見透かそうとするかのようにまっすぐ瞳を合わせてくる。やがて少し幼さの残る相貌に憐憫を浮かばせ、慈愛の込められた眼差しを送ってきた。
「君はまた嫌悪しているの? 自分のことを」
可憐な曲線を描く艷やかな真珠色の小さな唇が動き、水晶のような清らかさの中にひと垂らしの艶めかさを持ち、そして蜂蜜のように甘い声で囁きかけてきた。
「! い、いえ。そのようなことは……」
見事に図星を突かれ半ば動揺した声音で答えたイーグルを、アリアは慈しむように眺め、ゆったりと滑らかな動きで左手をイーグルの頭上にかざした。叱責されると思い、イーグルは僅かに俯いてぎゅっと眼を瞑った。
しかし降り注いだのは柔らかな掌の感触であった。小さな手は大人しいスタイルの黒髪を優しく撫で付け、そして滑るように頬に移動し、やがて顎に据えられ持ち上げた。
顔を上げさせられたイーグルの数センチ先に、超然とした美貌があった。もはや人とも思えぬ完璧な造形であった。ビャッコで最高の腕を持つ彫刻家が一生を費やしても、果たしてこれほどの造形美を生み出せるかどうか。顔の一部分ですらイーグルには、形容する言葉が見つからない。
淡い七色の輝きに縁取られる瞳も、細い体を纏う淡い紫の薄物に流れる癖のない長髪も純銀を鋳溶かしたようだ。それらは月光の白と薄闇の蒼を映して、冷たく煌めいている。
二つの小さな鏡にぼんやりとした表情の自分が映り込んでいる。人形のように細い指はイーグルの顎を弄ぶように撫でると、今度は胸元に移動してすーっと艶めかしく動く。
「引き金を引く時、心と指先を完全に切り離せる。それは才能であり、君の個性だと思うわ。私はその才覚に惚れ込んでいるの。だから君自身がそれを卑下すると、悲しくなってしまうのよ」
左手をイーグルから離し、自分の胸元に持っていく。そして開いた掌を静かに胸に当て、きゅっと握る。全体的に細いアリアではあるが、左手の下の薄い布を押し上げる二つの膨らみは豊かで、広く開いた襟ぐりから覗く肌はぞっとするほど白い。
と、そこまで観察したところでイーグルは慌てて目線を逸らした。その様子にアリアはくすりと笑い、柔らかなシーツに沈み込んだ脚を動かし、上体をまっすぐに伸ばす。
そして両手をゆっくりと持ち上げ、誘うように極上の絹で編まれた寝巻きの胸元を留めるリボンを思わせぶりに弄る。しなやかな指で銀糸を編んだリボンの端を、少しずつ、少しすつ引っ張っていく。
数秒かけてリボンは解かれ、しっとりと白い膨らみが広い襟ぐりから半ば以上露わになった。白と蒼の光に照らされた双丘が蠱惑的に誘うように揺れる。
「さあ、いらっしゃい。私が君の荒んだ心を癒してあげる」
蜜をたっぷり含んだ果実から漂う芳香の如き蠱惑的な声が、イーグルの耳にとろりと流れ込んだ。その声は思考の鈍麻したイーグルの意識を粘性の液体の中にどっぷりと引き込んでいく。
恐ろしく細い腰の周りに、薄紫の薄物がふわりとまるで花弁のように広がり落ち、女神の如き美貌を持つ少女は自身の胸を覆っていた両の腕を焦らすようにゆっくり、ゆっくりと外した。支えを失った双丘が、熟れた果実のように柔らかく弾んだ。
すでに思考が霞のように四散していたイーグルはゆっくりじり、じり、と這い進み始めた。そして滑らかな敷布をかき分け伸ばした指先が、ひんやりした肌に触れた。濃密な甘い香りを放つ蜜の泉は、その手を取って自身の中に引き込んできた。
前のめりに倒れたイーグルを、一糸纏わぬ体が受け止め蕩けるような柔らかさで包み込む。そして耳許で、甘い吐息混じりの声が囁いた。
「イーグル、君にお願いがあるの。聞いてくれる?」
「……はい」
素直な返答は間近の魔性の花に意識を絆された、だけが理由ではない。
アリアはイーグルの命の恩人であった。イーグルは幼き頃に両親を内戦で失くし、それから十三才まで独りで生きてきた。毎日食う物に困り、食い逃げや金品の窃盗など日常茶飯事だった。初めて人を殺したのは十一の頃だった。暑さも寒さも凌げぬ崩れた煉瓦の家の片隅で眠った。時には絶食することもあり、一週間はまともな物が食えず背中と腹の肉がくっつきそうなほど薄くなったりもした。寝ていると、ネズミが死体かと勘違いして齧ってきたこともあった。
そんな貧困の最中、アリアが現れた。ちょうどその頃、彼女は自身の手駒たる暗部の構成員を編成していた。彼女はイーグルを一目見て、決断した。アリアは予期したのだ、イーグルが有望な工作員または暗殺者になるであろうことを。
「実はね、殺してほしい人がいるのよ。標的はスザクの王女、できる?」
科学の進歩により発展した西の大国ビャッコは、南の小国スザクと六年に及ぶ戦争状態にある。しかし今は休戦中であった筈。
イーグルのその思考を読んだかのように、アリアは頷くと弾んだ声で囁いた。
「近い内に皇女がスザクに参るみたいなの。なんでも和平が目的みたい。それは困るわ。戦いができなくなるなんて、全くもってつまらない。だから殺して、ね?」
嗜虐的な笑みを浮かべていることを、イーグルは見ずとも察知できた。この時期に暗殺とあらば、真っ先にビャッコの仕業だと思うだろう。アリアは弔い合戦になることを望み、再び闘争を引き起こそうとしている。
きっと数時間前に殺したあの男と少女を含めた組織も、そのことを危惧していたのだろう。アリアの戦闘嗜好は折り紙つきであることは、戦の世界に身を置く者にとって周知の事実であった。
戦争が起きればまた多くの人間が死ぬこととなろう。しかしそのことはイーグルにとっては粗末なことであった。アリアに忠を尽くす、それが最優先事項である。
「はい、畏まりました」
アリアの胸に抱かれながらイーグルは例の如く、二つ返事で了承した。