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3章 おしまい

  警察の事情聴取を終えたのは事件から数時間後だった。私の目撃情報により暴漢は知り合いのスナックに潜伏しているところを2時間後に逮捕された。

犯人は編集長がコラムで批判したショットバーの経営者と店員だった。料理や酒が不味いのに料金ばかり高く、そのくせ店員は皆お高く止まって客を選ぶような店なので当初から評判は良くなかった。編集長の批判は正しいのだが、やはりタウン誌が書くべきではなかった。店の名前をぼかしてたとはいえ誰にでもすぐにわかる書き方。店は客がつかず3ヶ月持たなかったのを編集のコラムのせいだと逆恨みしていて以前から襲撃の機会を狙っていたそうだ。

 犯人が逮捕されたと聞いて安心して署を出た時に表で待つ匠平の姿が見えた。どういう態度をとったらいいのかわからずまごついている間に近寄ってきた。

「大丈夫なのその怪我」

匠平の頭に白い包帯が痛々しい。私をかばって暴漢の間に飛び込んだ時の怪我だ。

「ああ病院で大げさに巻いただけだよ。ヘルメットを被っていたからなんともないさ」

精密検査も異常なしだったと静かに告げてから、手に持っていた包みを私に差し出した。

「忘れ物を届けに来たんだ」

紙袋を開けてみるとストールが現われた。あの晩あわてて出てきたので工房へ置きわすれてしまっていた。

「電話とか迷惑だったみたいだね。ごめん」

何か言わなくちゃと思いながらも言葉が出ない。

「あの、私ね……」

素直に謝ろう、そう心に決めて匠平にむかって話し始めた。

「春奈さ~ん」

その時、必死で駆けてくるアキナの姿が見えた。

「大丈夫だったの?」

アキナは息を切らしながら、警察が自宅まで事情を聞きに来て、はじめて事件を知ったのだと説明した。

「もうびっくりしたのなんの、病院も寄ってきたんだけど編集長は手足だけじゃなくて、頬骨も骨折していて神経に触るからって手術中だったの」

とりあえず命に別条はないのだと説明してからやっと匠平の存在に気が付き、あわてて一歩下がった。

「じゃあ僕はこれで」

匠平が駐輪場まで足早に去っていった。

「ねぇ、いいのあれ。追いかけなくっていいの」

なんとなく事情を察したアキナが私の顔と彼の寂しそうな後ろ姿を交互に見ながら叫ぶように言った。

「しかたないじゃない。年下の男の子に素直に謝るなんてできないでしょ」

「もう、そんなのくだらないからね」

 私達は点滅する自転車のテールライトが見えなくなるまで黙って立ち尽くしていた。


 月が変わって編集長の席に座ったのは柳沼副編集長だった。そして副編集長に神崎主任が指名され、私とアキナ、及びアルバイト二名はそのままだった。

「事情が変わったからね」そう言って眼鏡の奥から冷ややかに見つめる柳沼に私は納得がいかないと迫った。もはや編集長の座などどうでも良かった。今回のが妥当な人事であることも納得していた。私はただ事の真相を知りたかっただけだ。

 「誰にも言うなよ」と前置きして柳沼は二人になった時に話してくれた。

「あの犯人たちは以前から本社相手に脅迫していたんだ。ショットバーの出店費用くらいはふっかけたらしい。最初は賠償金請求だったが相手にされないとわかると脅迫まがいのことを言い出して出版社に火をつけるとか編集長の身の危険をほのめかしたりエスカレートしたようだ。それで仕方なく編集長を馘首して大河原編集長には一旦引いてもらい、本社はこの件を収めるつもりだった。ほとぼりが冷めた頃に復帰させるつもりでな」

「復帰って、私をどうするつもりだったんですか」

「だから君を選んだんだろう。君はあの編集長によく思われていなかったから、追い出す良いチャンスだとでも思ったんじゃないか」

「そんな勝手なこと」

「前編集長と<本社>の指示なんだ私も従うしかなかったんだよ。しかしこの事件だ。彼もこの地には居づらいだろうし、会社としてもトップを変えて刷新する形じゃないと対外的に具合が悪いだろう。一時的なポストならともかく、そうでなければ私が編集長をやるのが筋だろう、少なくとも上はそう判断したわけだ」

「市政への批判は? 私のコラムを使った批判にも問題あるんじゃないですか」

「ああ、あれもあったな」柳沼ははたと思い出した顔で「あれはとっくに片がついてるよ。本社社長が直々にわびを入れたそうだよ各方面に。まあ幾らかの金や便宜もはかったんだろうが…とにかく息子のためには何でもするんだから」

言ってから不味いと思ったのかあわてて人差し指を口にあててオフレコのサインをした。

なんて身勝手な会社なんだろう。息子のために社員の気持ちなど考えなく勝手な人事とか。私なりに精一杯やってきたつもりなのにーー会社なんてそんなものだと30女になれば理解はできるが、いざこんな仕打ちを受けるとやるせいない怒りがこみ上げてきた。

ーー辞めさせてもらいますーー口まで出かかった言葉を飲み込み、編集長に一礼して下がる。ここを出てどうする、いまさら行くところなど無いのだ。

「またチャンスはあるさ」

 最後にそう声をかけた柳沼の言葉が頭のなかでうつろにひびいた。


 「君か……」

夕方の病室、私が個室のドアを開けると大河原元編集長はそう言ったきり、目をそらすように窓の外へ目を向けた。

「その後いかがですがか怪我の方は」

「ふん、最悪だよ。あちこち痛むし動くだけでたまらん。それにここの看護士ときたら」途中でやめて「いや、やめとこう。、また襲撃されたらかなわん」と、自嘲気味に鼻で笑った。

何も言わないで立っている私に皮肉めいた声で

「いいのか編集長がこんな時間にのんびりして」

「編集長は私じゃありません。柳沼さんですよ」

大河原は意外な顔をしたあとに「そうか」とだけ言ってうつむいた。そのあと「残念だったな」とポツリと呟いた。

「いいえ。どうせすぐに引きずり降ろされて放り出される身なら、編集長などならないほうがいいんです」

 大河原は驚いた顔を見せた後、仕方ないといった表情で「そうか、柳沼に聞いたか。おしゃべりなやつだ」と静かに言った。そしてまたゆっくり話し始めた。

 「しばらくは関連会社の埼玉の印刷所で過ごすつもりだったよ。この歳になれば自分に何ができて何ができないかわかってくるものだからね。幻想も見ない、俺の居場所はここにしか無いんだとわかっているから何としても編集長の座を手放すわけにいかなかった。柳沼や神崎にあとを任せたんじゃ俺が戻るどころか乗っ取られるかも知れない。だから君を利用するしかなかったんだ。俺だって今の会社で何かしたかった。軌跡を残したかったんだ」

 大河原の懺悔のような言葉を聞きながら匠平の忠告はほとんど当たっていたのだと思った。会社にいいように利用され、振り回されそうになったのは間違いなかったのだから。

おめでたい私…それなのに彼にあんな言葉を…

「悪いがもう出て行ってくれないか」

そう言った大河原の声が震えていた。目が涙で滲んでいるのが見えた。私はドアを向いて歩き出した。

ふと呼び止められて振り返る。

「あの時君が追いかけてきてくれなかったら、もっと酷いことになっていたかもしれない。助かった。礼を言うよ」

「いいえ。財布を届けようとしただけですから」

軽く微笑んでそう言うと病室を後にした。

 この人もかわいそうな人だったんだ。自業自得とはいえ、自分の親の会社でありながら何も自由にならない悔しさはわからないでもない。まるで飼い殺し。自由であるだけマシかなと自分を慰めた。


 ある土曜日。私はいくつかのダンボールを車に積み込んでいた。母がその様子を不満そうな表情で見守っている。大きさのわりには軽い段ボール箱をトランクと後部座席に積み込むと「いってきます」と母に声をかけて車を走らせた。細い通りを2本挟んだ先の幼稚園で車を止める。来週のバザーの準備で先生たちは出勤している。車から降りた時に携帯が鳴った。

 「この前はありがとう。お礼をいい忘れてたわ、今日はどうしたの」

 電話は斉藤からだった。わざと少し明るめに話した。

「いやあ今頃何なんだが君の事件、ついさっき知ったんだよ。大変だったそうだね」

地方の小さな事件だが全国ニュースになったはずだ。本当だろうか。

「気にしてくれたの、ありがとう。でも大丈夫だから普通に仕事も続いてる。そう、編集長にはなれなかったけどね」

「そうかそれはちょっと残念だったな。君なら適任だと思ったのに」

「いいのよ。気にしてないから」

強がりじゃなく今の本心だった。もう憑き物が落ちたようにサバサバしていた。

「そうか。もし居づらいようなら辞めてこっちへ来ないか。仕事も君ならなんとか探せるだろうし、俺達なんだったらやり直してもいいし…」

彼女にでも振られたのかしら? いまさらよりを戻そうなんて、どうせまた同じことの繰り返しで年だけとらせるつもり? 私は車内のダンボールに目を移すと電話の言葉を遮るように言った。

「ごめん、そこまでにして。これ以上着るものが無くなったら私裸で暮らさなくちゃならなくなるから」

「え、なんだよ裸って、もしもし」

食い下がる彼にさよならを言って電話を切る。車からダンボール箱を引き出す。ストールが箱にかかって邪魔臭い。「もう暑いな」巻いていたストールを外して箱のなかへ入れた。中途半端は良くない、思い出はすべてバザー行きだ。

 匠平と過ごした時間は少ない。だが、デートの時に着ていた服、感想を語り合った小説本、工房の裏で遊んだバドミントンラケット、なぜかフラフープも。思い出の品はそれなりにあった。

ダンボールを抱えて幼稚園の中へ入っていくと、顔見知りの先生が気付いて出迎えに走ってきた。


 事件から数週間が過ぎていた。社内ではすでに何年も前からそうだったように、柳沼新編集長の新体制のもとで毎日の日々が平穏に過ぎていた。

私も以前ほどでは無いものの、わりと精力的に仕事に向かっていた。私の編集長がポシャったせいで残念がっていたアキナも、最近は以前の朗らかさを取戻しつつあった。

「柏倉さんちょっといい」

神崎が呼んでいる。

「はい、なんでしょう主…じゃない、副編集長」

いまだ気を抜くと呼び方に戸惑う。神崎はちょっと嫌な顔をしたが、すぐに事務的に話し始めた。

「今まで連載した『地元の天才クリエーター達』のコーナーが有るでしょ。今度あれをまとめて一冊の本にして出版する話があるの。このコーナーは元々があなたの発案だし、今まで書いた紹介記事もあなたが半分以上担当してるわね。だから柏倉さん、あなたが責任持ってやってくれない」

「私が…ですか」

「そうよ。もちろん出版するには記事の内容をもう少し掘り下げたり、新たなクリエーターの記事もいくつか追加して、ただまとめただけじゃダメ。そういったこともすべてあなたにまかせるからやってみない?もちろんみんなでサポートもするし」

 私が一冊の本を任される……

神崎の言葉が信じられずに呆然としながら不安気に廻りを見渡すとアキナがこっちを見てガッツポーズをしていた。編集長はゆっくり頷いていた。

「ありがとうございます。がんばります」

私は気を取り直してようやく返事をすると深くお辞儀をした。

「そんなにかしこまらなくてもいいわよ<本社>の指示なんだから、ぜひあなたにって。元編集長のご推薦があったようよ」そして少し躊躇してから照れたように付け加えた。「それに私もあなたの文章のほうが読者受けすると思うの」

 私は目頭が熱くなって神崎の初めて見せる優しい微笑みと柳沼編集長の満足そうな笑顔にむかって、もう一度入社以来であろう深いお辞儀をした。

アキナが小さく手を叩いていた。つられてバイトの子も小さな拍手をし始めた。

 午後の日差しが社内に陽だまりを作り出していた。


 梅雨があけて、あたりはすっかり夏の匂いがしていた。庭先のひなげしが勢い良く天に向かって伸びている。季節の移り変わりとともに、私の心もどんよりした空模様から暑い日差しが差してきたような晴れやかな気持ちに変わっていた。

 通常業務に加えて新しく出版する本の追加取材やデザイン、校正などフルに動いていたせいかハリのある生活が続いていて、毎日を楽しく過ごしていた。時折思い出す彼のことを除けば。

 「春奈ちゃん、こっちよ」

 大きく手を振る先生の姿が見えた。バザーへの強い誘いを受けていて幼稚園に顔を出したのだった。自分の出品したものが売れているかどうかも気になった。

「よかった、来てくれないのかと思ったわよ、今電話しようとしてたとこなの。ゆっくりしていってね、後でお茶しましょ」

軽く頷いてからバザーを見て回る。子どもたちの遊び場いっぱいにテーブルが用意されて種種雑多な品物が並んでいる。この手のバザーとしてはかなりの規模だろう。来客も多い、よほど真剣に取り組んだようだった。

「春奈さんが記事書いてくれたおかげよ」別の先生が声をかけてくれた。バザーのお知らせはタウン誌の仕事だ。

 お母さん方の出品が多いのだろう、洋服も若い感覚のが多かった。その中でもわりとおとなしめで仕事にも使えそうなブラウスやジャケット、カットソーを見て回る。有名ブランドものではないが、質の良い品物を丹念にチェックした。30分ほどで大きな袋ふたつを下げて歩くことになった。夏のスーツも一着ゲット、これで当分、週のローテーションには困らなさそうだった。

「いっぱい買ってくれたのねありがとう」

お茶を出しながら先生が「春奈ちゃんのもね評判良くって午前中でだいたい売れたみたいよ」私の出品物が売れたことを知らせてくれた。誰も買わなかったらどうしようと心配していたのでホッとした。

「ほら、朝イチできた人もいたわよね」と、年配の先生が口を挟む。

「前日に来た業者の人がね、準備していた商品に目をつけて譲ってくれて言うから、不公平になるから明日来てくださいって言ったの」

「そしたらほんとに朝から来たのよ」

先生方はその情景を思い出しながら笑っていた。

「でもちょっといい男だったわよね」

と、年配の先生の言葉にみな頷き合ってた。


 戦利品を車に積み込むと、私はもったいないくらいの天気なので4号線を南へ向かって車を走らせた。

途中で香々美町内へ入り、運動公園へと寄った。彼と初めて会ってオークションの品物を渡した場所。自転車で遠くから走ってきたせいで汗だくだった彼、その香りが心地よかった。

良い匂いとは遺伝子の匂いなのだというのは本当だろうか。もしかしたら彼は最高の相性と強力な遺伝子の持ち主だったのか。それとも私が単なる匂いフェチなのだろうか。

 「自転車に乗ると汗腺が発達するから」

 いつだったか人気のラーメン屋でふたりで食べていた時、文字通り滝のような汗をかいていた彼が言い訳するように言っていた。サラリとした汗でべとつかない、すぐ蒸発して匂わないから体にいいんだと真面目な顔でそう言って、ラー油を入れすぎたことをごまかす彼の様子が微笑ましかった。

 自然の風景が好きだった彼。

「一面の菜の花畑を見せてあげるよ」

丘に登った所から眺める景色が最高だよ、と自慢気に話して車を走らせていた彼、ところが目的地に着いてみると、その年から菜の花畑はミニ水仙に取って代わっていた。がっかりして私に済まなそうな顔を向けた彼の表情が印象的だった。

 運動公園と隣町の境くらいにある場所だ。裏道を通り、その時と同じ場所に車を止めて丘を眺めた。すでにミニ水仙も出荷されていて刈り取られた跡が見えるだけだった。

 ここまで来たら、今日だけは彼との思い出に浸ろう。そう思って再び車を走らせた。

思い出の品物は処分することができる。だが風景はそうはいかない、その場所を通るたびに否応なしに頭に浮かんでくる思い出。風景は消し去るわけにはいかない。

ひとつ救いなのは彼が自転車でよく行くルートを通ったこと、普段私が通らない裏道を好んで走ったことだ。

それから進路を西へとり、4号線を横切って川沿いに走ると、やがて川べりの桜並木が見える。もちろん桜はすでに無いがその川べりを一人歩いてみた。さくらの花びらが舞って見えた。その向こうに楽しげに笑う匠平の姿……はっとして一歩踏み出した途端、幻想は消えた。

 主要幹線道路よりも裏道系に詳しい彼は、その日、私の知らない道を走りながら桜の名所を紹介してくれた。景勝地にくらべれば見劣りするだろうが、人混みや車の喧騒に邪魔されること無くゆっくりと見られる桜並木のほうが私には価値があった。彼はそうした静かな場所が好きだったし、私もそうした彼と一緒に過ごす時間が大好きだった。

 あの日は幾つの桜を眺めたのだろう。そこから再び南下して幾つもの桜を見て桜並木を通り国道に戻ったはずだ。私はその道を再び忠実にトレースしていった。

 その日最後に見た桜並木は美しかった。国道に向かって走る道路沿いの桜並木、片側だけで距離も短かいが「B級ご当地桜」ということで雑誌に紹介したいくらいだった。もっとも私の提案したその企画自体がボツになってしまって実現しなかったっけ。

 桜並木が終わった少し先に、堂々とした枝垂れ桜を持つ神社があった。あとから建てられた民家の陰にひっそり隠れるようにある神社。樹齢120年の桜が無ければ見落としてしまっていただろう。

民家の間に入るようにして鳥居の前に車を止める。

 あの日はここが最後だったっけ。頭上いっぱいに若葉を垂れた桜の木の下を通ってあの日と同じように石段を登り始める。

40段も登ったところから石段は狭くなり、角度も急になってくる。確か残り140段、手すりさえもない急な石段を這うような姿勢でゆっくりと登る。ただでさえ狭いそれは、落ちた杉の葉や土くれで石段が隠れて足元がおぼつかない。両脇に等間隔に植えられている木はまだ細く頼りなく、手すり代わりにもならない。

 よくまあこんな場所に女の子を連れてくるなんて、と思ったが女の子って年じゃないのに気付いてほくそ笑む。

毎日この場所を登ったらどのくらい痩せられるだろう、年齢に逆らわず素直に従ってきた体型を思い考える。今日買った服は大丈夫だろうかと心配になる。

途中二度ほど休憩してようやく頂上にたどり着いた。

玉のように吹き出した汗を見て、ああ、汗腺が少ないんだと思った。

 奥の方は木が茂って鬱蒼としているが、朝日の登る方向は開けていて見通しがよく、そこにひろがる豊かな田園風景にしばし見とれた。あの日と同じように……だがいまは一人、隣に彼はいない。

 登りきって正面にある愛おしいくらい小さなやしろの中には観音像だろうか、小さな石仏がひっそりと鎮座している。その前に並んでいる2本の透明な瓶のなかへ小銭を探しだして入れる。瓶の口は狭く、注意深く入れては、なんとなく拝んでみた。桜の時期よりいくらか中身が増えたような気もする。こんなところへおとずれる人も居るのだろうか。

 「子供の頃はこんな場所が秘密基地だったよ」

彼は子供の頃に近くの神社でよく遊んでいたそうだ。昭和の子供かと突っ込むとツボにハマったのかいつまでも笑っていた。社のそばに掃除道具などの保管庫があって、そこへ子供なりの宝物や暗号文をしまっていたのだと。

 ここにも社の奥に小さな保管庫がある。掃除道具を持ってここまで登るのは大変だ。中には使い古されたホウキが2本と塵取りが入っていた。

「暗号文を入れておこうか、宝の地図とか」

それを見て子供のように喜ぶ彼に、そんな年じゃないよと真顔で答えた。

「でも緊急時の連絡とか使えるかも、ほら、この間の震災とか携帯もつながらなかったし」

いつまでも少年の心を忘れない男を単なる幼稚な子供だという人がいるが、少なくとも彼は違う。少なくとも夢を追って強い意志でもって実現しつつある。

「伝言ダイヤルとかあるじゃないの」と答えると、「それもダメなときにはここを使おう」と、どこまで本気なのか、ものすごい発見をした子供のように目を輝かせて中を覗いていた。

 しばらく前から着信拒否は解いてあったのだが彼から電話がかかって来ることはなかった。

せめてあの時に謝っておけば……警察署での最後の別れが思い出された。謝るだけなら今からでも出来るのに、人はそう言うだろう。 歳を取るとフットワークが重くなる。 そんな簡単そうなことができない自分が情けなくなった。

「秘密基地…通信文…暗号…」

彼の言葉がよみがえる。

 そうだ、何か私だとわかるもの……安物のファッションリングを見つめた。場合によっては薬指にすることもあるが、私の場合たいていは中指に収まっていた。軽く回しながら引き抜いていく、裏側にはイニシャルが彫ってある。バックから取り出したハンカチを捻ってリングの間に通しかけて、

「そう、通信文よ」そうつぶやくと、またバックをかき回してアイライナーで手を止めたが、やめて口紅をだす。バックの背を利用してハンカチを伸ばしながら、ひと文字づつゆっくりと書いていく。書き終えるとリングに通して端を結んで輪を作った。

これで中の釘に引っ掛ければいい。そうして倉庫の扉を慎重に開いた。

瞬間、一陣の風が舞って開け放した扉へ吹き込んだ。オレンジとグリーンの淡い色が混じりあって目の前をよぎった。ーー私のストールーー刹那、そう確信した。

中に引っ掛けてあったストールを風が舞い上げたのだ。反射的に右手でつかむ私。

「間違いない。どうしてこれが」

理由はひとつしか無い。

 その時、後で草を踏みしめる音がした。振り返るまえに気づいた、陽だまりに似たその匂い、初めて会った時と変わらない香りが鼻腔をついた。立ち上がって振り向くとなつかしい匠平の姿。彼は目の前の光景が信じられないといった表情で口を開けたまま立ちすくんでいる。

それでも私の手にしたストールに目をやると

「昨日幼稚園に納品に行った時目にした。すぐ君のだとわかった。どうしても他の人の手に渡したくなかったんだ」そして一呼吸おいてから、よく通る声で言った。「いつかはすまなかった。君の気持ちも考えずに」

そう言いながら私の前に立つとストールを取り上げて首に巻いてくれた。「やっぱりこれが似合うのは君だけだよ」

 私は胸がつまって何も言葉が出なかった。ただ黙って震える手でリングを彼の前に差し出した。

彼は不思議そうな顔で受け取ると結び目を解く、広げたハンカチを見た彼の顔がゆるんで笑みが浮かんだ。そしてそのまま私を引き寄せた。

自転車で鍛えたられたその厚い胸板に思い切り顔を埋める。涙が彼のシャツを濡らしていた。

「頼むから俺のそばに居てくれ。もうこれ以上耐えられそうにないから」

彼が搾り出すような声でつぶやくように言った。

私は顔をうずめたままコクコクと頷いた。

彼の手からハンカチが風で飛ばされ空に浮かんだ。ふたりの視線がそれを追う。

口紅で大きく書かれた「ごめんなさい」の文字が夏の陽に照らされて風に流されていく。

私達はそれが消えていくまで、いつまでも眺めていた。



              了




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