2章
八城匠平との付き合いは日を追うごとに急速に深まっていった。
ずっと昔から知っているような自然体での付き合い。湖、ダム、自然公園、近くでもふたりなら楽しい場所はたくさんあった。
今までの男換算でいえば数ヶ月で10年分くらいの思い出ができた。
家具の配達がてら中古のワゴン車でのドライブしたこともある。配達の後に一緒に積んできた自転車でのサイクリング。途中立ち寄った姉妹で経営している草木染めの店。オーガニックコットンの染分けされたストールに目をとめた。落ち着いたオレンジとグリーンのグラデーションとそのやさしい肌触りに一目惚れした。匠平は私の顔をみて微笑むと黙ってストールを店員に渡した。
時には急ぎの仕事で出られないこともある。そんな時私は喜んで手伝いをかってでる。といっても木くずの掃除ぐらいしかできないが、作品に向かう彼の真剣な表情を見ているだけで幸せだった。
地位や名声、それに報酬、そんなことばかりが人生の勝ち負けを決めるわけじゃない。匠平の姿を見ていてそう感じた。自分のやりたい仕事の中で真剣に生きる姿を見て心底羨ましくもあった。
匠平の仕事の役に立ちたい。細工は無理、工房の掃除だけじゃあつまらない。サイトの更新ならできるかな。パンフレットをつくるのもいいかもしれない。写真を載せて金額もいれて注文を来れそうなところへ配布する。配達や集金だってできるだろう。あとは食事を作ってあげたり、その間に彼は子供をあやしたり……
え、子供……だれの? 妄想の中ふと自問した。
「おおぉ、なかなかイケてるじゃないですか、その紙面デザ」
アキナが私のPCを覗いて声をあげる。私は妄想から覚めてあわててとりつくろう。
「大したこと無いって、それにこれ他の雑誌のパクリだから」
パクリはちょっと卑下してるつもり、他の雑誌からイメージを受け取って自分なりにアレンジを加えたものだ。まあ天才クリエーターでなければこれくらいは許されるだろう。
「でも今までのよりグッといいですよ。先月号もよかったけどさらに進化した感じ。今までの紙面はスッキリしてるけどちょっと飽きちゃったっていうか。今度のは新鮮、心躍る感じよ」
どこまで本気なんだろう、半分お世辞だとしても嬉しさに頬をゆるめて賞賛の言葉に身を任せる。
雑誌やネット上の気になったデザインや文章が最近はよどみなく心の中に入ってくる。それが私の体を通して新たなデザインに生まれ変わる。明らかに以前の自分とは違う。きっかけをくれた市役所野郎には今では感謝しているくらいだった。
「これは末は編集長だわね」
「もう、いいか.げんにして」
「でも本当にあの編集長どこか行ってくれないかしら」
「無理でしょ。まだみそぎが済んでないんじゃない?」
皆が<本社>と呼んでいるこの会社の資本元。その社長の3男坊が今の編集長である。長兄と次兄はふたりとも東京本社で役員に付いているがこの三男坊は東京で事件を起こして追われるように東北へ逃げてきたらしい。つてをたどって歯科大へ入学させたもの1年も経たずに放校になった。地方で歯医者にでもという両親のもくろみも崩れたため、小さな出版社を立ち上げ、タウン誌を作ってその編集長に据えたのだった。
編集長とは名ばかり、立ち上げはほとんど<本社>の先鋭がやったと聞いている。軌道に乗せてからは地元のメンバーでやっているものの、編集長は今でもお飾りで、本社の指示をさも自分の意見のように伝えるだけのスポークスマンであった。編集後記の編集長の言葉さえも向こうから送られてくる。彼の気晴らしは私達のコラムを勝手に乗っ取り、原稿を差し替えて愚にもつかない、たいていはサービスの悪い店や病院の対応の悪さなどに自分なりのくだらない理論をぶちかまして中傷としか思えない提言を書くことだった。
「この前もあたしのコラムで新装開店のショットバーをコタコタに非難してたのよ。それを読んだ経営者があたしを名指しで電話してきてムチャクチャ文句言われたわ。あたしが書いたんじゃない、編集長に言ってくれて言ってやったけどね」
夜の街探訪は編集長唯一の仕事だ。経費で飲み歩き、使った分の一割にも満たない広告を取ってきて大きな顔をしている。自分への対応の悪い店には広告主でも無い限り、あることないこと吹聴したりする。わたしのコラムでは政治批判をまくしたてたので苦情は本社まで行ったと聞いている。
「でも編集長になったらあたしを牽いてよね」
「まあ何十年後かわからないけどそのときあなたが辞めずにいたら必ずね」
「私辞めないですよ、多分。ここ将来性あるかもだし」
そう、弱小ながらタウン誌以外の出版物もそこそこ好調なのだ。他社のようにラーメン屋やスィーツ店の紹介本ばかりじゃ脳がないとばかりに実用本のたぐいも出版していてそこそこ売れているのだ。もちろん本社サイドの企画流れなので宣伝次第の感もあるが。
タウン誌の編集長など以前なら馬鹿にしていて興味などなかったが、自分の思い通りの雑誌を作れるのなら悪くない。もちろんそう簡単にはいかないだろうが少なくとも今の編集長で遠く離れた<本社>の指示で動くだけよりはやりがいがあるに違いない。実用本もベストセラーがでたら偉いことだ。私はしばらく将来の妄想にひたった。
「えぇ!私が編集長にですか」
アキナと他愛もない話をしてから数日後のことだった。思いもかけないことを編集長から聞かされた。
「嫌なのかね。私は十分出来ると思ってるよ」
そう話す編集長のニヤついた表情には真実のかけらもなかった。もちろん十分できます。少なくとも今のあんたよりは、と心で思いながら真実を探る。なぜこんな時期に急な話を。私を推したのは誰? 編集長、この男は絶対に違う。副編集長ーそんな力はない、神崎は自分がなりたがるはずだし、アキナ?もしかして本社社長の愛人で発言力があるとか……バカバカしい。
それなら本社の人が最近の私の記事を見てその実力を高く評価したとか?
どれもこれも違う気がした。ただ編集長が刑期を終えたってことなのか。しかし私がなぜ。
「どうするんだよ。やりたくないのか?ああぁ編集長じゃ不満かね」
「いいえ、急なお話だったので面食らっておりまして」
「じゃあ受けるんだな。もし嫌なら他の人に……」
そう言うと副編集長や神崎主任のデスクの方に目を向け始めた。
「了解しました。謹んでお受けいたします」
私はあわてて答えた。このチャンスは逃せない。この男はたんなる気まぐれで私に振ったのかもしれない、小学生が学級委員をシャレで決めるようにーーそれならそれでも良い。チャンスには違いないのだから、十分に自信はある、今より素晴らしい雑誌を作って部数を伸ばすことは造作も無い。いろんなアイディアもある。
ここ数ヶ月の良い流れが引き寄せたチャンスなのだ。
たとえ裏があったとしても私なら切り抜けられるはずだ。こんな男の考えることなどどうせ他愛もないことだろうし恐れる必要もない。私は編集長に満面の笑みを浮かべて深く礼をした。
「そう言ってくれると思っていたよ」
編集長は満足気な、というより、してやったりといった顔つきで頷いていた。
一抹の不安はあったものの先日考えていた妄想がめまぐるしく頭のなかをまわっていた。
「それで、なんて返事したの」
翌日、さっそく八城の工房でことの次第を話すと彼はちょっと不機嫌そうな顔で聞き返した。
ロードバイクの後輪を専用の台座に据え付けて車輪を廻しては止めて、スポークを調整してはまた廻す…を繰り返しながら聞いている。
「まあ、とりあえず考え得させてくださいってことで、数日中には返事しようと思うの」
その場で了承したことはなぜか言えなかった。
「でも、私の仕事が認められたわけだし、会社が望むなら受けてみようかと思うの。もちろん不安はあるけど、やってみたい気持ちが大きいしやっていける自信もなくはないわ。それに今の会社はタウン誌だけじゃなくっていろいろな本も出版しててわりと好評なの、将来的にも大きくなる可能性があるし……そう、知ってる? ベストセラーを一冊出せばどれだけ儲かるか」
用意してきた言葉をできるだけ明るい顔で一気に喋った。しかし冴えない表情で自転車を弄る手を休めない八城を見てテンションが下がる。喜んでくれるはずだったのに。
「でもね、編集長になったからっていきなり忙しくなるわけでもないの。現にいまの編集長もほとんど定時に帰っているし、土日だってゆっくり休めるの。ちょっと忙しい時はあるけど仕事は持ち帰って空いた時間にこなせば今までどおり会えるしーー」
「そんなこと言ってるんじゃないんだ」彼は手を休めると寂しそうな顔を向けて静かに言った。「交代は来月早々だと言ったね」
「そうなの、だから早く返事しないと」
「考えてみなよ。あと二週間もないんだ。そんな重要な人事をなんの前ふりもなく決めるなんておかしいだろ。君が嬉しいのはよくわかるし、喜びに水を指すつもりはないけどいくらなんでもいきなりすぎる。裏があるとは思わないのか」
「だからそれは人選に戸惑っていたりしたと思うの。諸先輩を差し置いて私が編集長ってのはいろいろギクシャクするだろうし」
「実は変な噂を聞いたんだ」
「変な噂って」
「君のところのタウン誌が廃刊するって話だ」
地方のタウン誌などたいして儲けにならない。今のタウン誌も軌道に乗るまでは赤字が長く続いたと聞いている。ウチより部数の多いタウン誌でさえ苦戦しているようだ。しかし少なくとも私が入社してからここ数年の業績はいいはずでそんな噂が登る理由が見つからなかった。
「まさかそんな。デマだわ」
「僕もそう思いたい。でもー」一瞬言葉に詰まってから「君のコラムでいつか市政への批判を書いたよね。除染作業の問題でその効果や費用の使途などについて」
「あれは私じゃないわよ。編集長が勝手に書いたの」
私はあわてて否定した。
「わかってるよ。文章のタッチも違うし別人の手によるのは明らかだ。でもタウン誌の書くべき内容じゃないしそこまで踏み込むのはテリトリーを犯してると思う」
彼の言葉に唖然とした。
「そのコラムの内容が市長をはじめ、議員やその親分議員の逆鱗に触れたって話だよ。たかがタウン誌が調子に乗りすぎじゃないかって」
「あれは私もどうかと思ったけど、どうしようもなかったの。編集長はいつもその調子で困ってるのよ」そう言ってから私はふと思いついた「そうね、それで編集長を更迭するんだわ。責任を取る形で、その後釜が私ってこと」
彼を安心させるように話すものの匠平の暗い表情は変わらない。
「それだけじゃ済まないんじゃないかって心配なんだよ。今回は君がスケープゴートにされるかもしれない。編集長は本社の身内だろ、それなら切ることはないし業績の良いなら、みすみす潰すこともない。君を編集長に仕立ててから責任を取らせる形でことの解決を計るんじゃないか。そのためには社に不要な人間をー」
言いかけてまた彼の口が止まった。不味かったといった顔をした後、「君が不要な社員ってわけじゃない、ただ今の編集長にとっては必要じゃないと判断されただけだ。ほとぼりが冷めた頃、君の首を切って復帰できるように」
私が必要のない人間? 会社にとって不要? その言葉を聞いた途端一気に悔しさがこみ上げた。
「なんてこというの。あなただったら私の幸運を一緒に喜んでくれるかと思ったのにどうしてそんな変な妄想ばかり口にするの。私が編集長じゃそんなにおかしいの、これでも東京じゃバリバリやってたんだからこんな田舎のタウン誌ぐらい私にだってできるの。そう、もの足りないくらいよ。実力だってあるの本当は。それがやっと認められたのにそんなーー」
涙が流れたのをあわてて手ですくう、その手をスカートの裾で拭い彼の顔を見た。困った顔でなにか言おうとする。「ぼくはただ君のー」
「もうやめて」
私は両耳を塞いで叫んだ。それから、バックをつかみ出口へ走るとドアを開けてから匠平のほうへ振り向き、「もういい。さよなら」とだけ言ってそのまま車に乗り込み急発進させた。49線は混んでいて車にぶつかりそうになりながら車線へと入った。ルームミラーに匠平が飛び出してきて立ち尽くす姿が映った。
派手にクラクションを鳴らす後続車ををアクセル全開で引き離す。
少し開いていた車の窓から入った風が車内で巻いて、頬を流れる涙を散らしていた。
またやってしまった。
どうして自分はこんなにプライドばかり高いのだろう。やっと手に入れた幸運をバカにされたようでついカッとなってしまった。今まで何度同じことを繰り返しただろう。地位や名誉や勝ち組負け組などこだわる気持ちは薄れていたはずなのに……降って湧いたような幸運に舞い上がってしまっていた。
バックの中で携帯が鳴り響く。匠平から何度目かのコールなのを確認して電源を切った。
ようやく家に着くと来客の気配があった。ーーなにもこんな時にーー涙の跡が気づかれやしないかと気にしながら顔を隠すように中へ入る。居間で母と話がはずんでいるのは近所に住む幼稚園の先生だった。気を使わない気さくな人だがやはりこんな時には迷惑だった。
「来月うちの幼稚園でバザーがあるのよ。できれば何か出品してもらえないかってお願いにきたの」
彼女は遅い時間に来たことを詫びた後、用件を説明した。
「昔は結婚式でもなんでも不要な引き出物あったんだけどね、最近は金券やカタログばっかりだから家にもあまりないのよ」
母が誰に言うでもなく言い訳していた。
「そうなのよね器のセットとかならまだしも、去年なんか洗剤ばっかり集まっちゃって」
先生が笑って話すのに対してとりあえずうなずいてみせるのが精一杯だった。
「それにこの子もね最近いろんなもの処分したばっかりなの。もう少し早ければね」
母が私の顔を見ながら言った。
残念そうな顔をする先生に「何かあるでしょうからあとで探しておきます」とだけ答えた。
「ごめんなさい。疲れたから先にお風呂にはいるわね」
私はそれだけ言うと浴室へ行った。手早く服を脱ぎシャワーを浴びると鏡に写ったくしゃくしゃになった顔が湯気に隠れて見えなくなった。
「ありえないだろうそんな話」
言葉に続いてクフッと笑う声が携帯の向こうから聞こえた。
相変わらず人を小馬鹿にしたような笑い方がしゃくにさわった。電話の相手は東京で務めていた時の同僚の斉藤だ。私にとっての元カレである。匠平の言葉が気になって<本社>の状況が何か聞けないかと電話したのだった。
「まったく数年ぶりに電話してきたかと思ったらそんな話か、まったく現実味がないよ」
「それはそうかもしれないけど」
「たしかにその議員にとって中堅の出版社程度ならどうにでもなるし、子会社潰すぐらいは屁でもないけど、そこまでするメリットはないだろう」
言われてみればそのとおりかもしれないと思った。
「大手新聞ならともかく、たかがミニコミ誌のコラムぐらいで騒ぎ立てたりしないだろ常識的に、君は田舎帰ってボケたんと違うか」
「ええ、ボケてますよ年も年ですから」
「たかが」の言い方にカチンときて不機嫌に言い返した。斉藤はまたクフッと笑ってから話を続けた。
「あそこの三男坊の噂は聞いてるよ。ちょっとやばい人種の愛人にそうとは知らずに手を出したらしい。まあ、それは金でカタがついたんだろうが、もうあの近辺にはいられないらしい。今度このへんで見かけたらタダじゃ済まないぞってやつだよ」
斉藤の説明によれば三男坊が本社に戻ることはできないのだそうだ。そのために地方に出版社まで作ったのだと。もし戻るとしたら都心を離れた関連会社にでも押しこむんだろうと、それでも安全とは言い切れないという。
「ああいう連中ってしつこいからね、自分のまいた種とはいえ災難だよな。でもまさか君がそこにいようとは」
「じゃあ私が編集長って話は」
「実力じゃないの。ミニコミだかフリーペーパーか知らんけどそんなんなら君にだってできるだろ。もと文芸誌の若きエースさんなら」
嫌味な言い方も相変わらず、それよりもタウン誌を馬鹿にした言い方がしゃくに障った。
「それよりまだ結婚してないんだろ。たまに東京に遊びにきなよ、会ってやるから」
「おあいにくさま。そんな暇はありません。男も間に合ってますから」
そう言い放って電話を切ってから、話を聞かせてくれたお礼ぐらい言えばよかったと後悔した。
翌日も社内の雰囲気は意外と静かだった。
編集長へのオファーを受けて数日経つのに、編集長もさして忙しい素振りもなく、副編集長や主任の神崎も話は通っているはずなのにいつもと変わらないーというよりむしろ無視してる素振りに見えた。
「引き継ぎはどうしますか」と編集長に言っても「まあそのうちにおいおい…」と言うだけでなんの指示もない。当人もデスクの整理さえもろくにしていない。
はしゃぎたいのを必死にこらえている様子が痛ましいくらいに感じさせるのがアキナだ。私への神崎の激しい嫉妬の視線を感じてアキナも普段の明るさを押しとどめているようだ。
まだ十日以上ある、慌てることはない。そう考えて自分の仕事に集中した。
午後からの打ち合わせのために外出しようとする私をアキナが呼び止めた。
「彼からよ。彼」
小声で受話器を指しながら慌てた様子のアキナに「出かけてるって言って」と片手で謝る仕草をして外へ出た。
匠平と最後に会ってからはずっと着信拒否設定してるので会社まで掛けてきたのだ。とりあえず事が落ち着くまでは会う気にはなれなかった。
会社の入っている雑居ビルを出たところで突然後ろから刺のある声で呼び止められた。人を呪い殺すような視線を送ってくる神崎主任だった。軽く会釈する。
「ろくに挨拶もできないほど忙しいのかしら、次期編集長サン」
「いえ、そんなすみませんでした」
「どんな手を使って編集長にとり入ったか知らないけどいい気にならないでよ。あんたなんかに編集長が務まるわけがないんだから」
それだけ言うとさっさと表通りへ向かって歩いて行った。
私より社歴も経験も長い副編集長や主任を飛び越えての抜擢だから神崎が怒るのも無理は無い。こんな調子で今後うまくやっていけるのか不安はあったが自分にとっては最後のチャンスだ、これを逃したら一生夢のないつまらない生活が続いていくのだから何を言われようとものにするんだ。一時は何の希望もなく、いい加減な生活をしていただけになんとしてもしがみついていく気持ちが強かった。負け犬人生はもう嫌なのだから。私は神崎の姿が見えなくなるまで睨みつけていた。
取材と広告の打ち合わせを終えて社に戻ったのは夕方6時を回っていた。まだ編集長はいるだろうか。もう一度引き継ぎの件をはっきりさせないと思ってドアを開けると編集長が奥のデスクで電話をかけてる姿が見えた。すでに他のみんなは帰ってしまったようだ。いったん自分のデスクに座って電話が終わるのを待つ。それとなく聞き耳をたてると仕事ではなく、これからの飲み会の相談のようだ。こちらにいる間に時間を惜しんで遊ぶつもりらしい。
「編集長、そろそろ引き継ぎの打ち合わせをしたいと思いますが。日もありませんし、それに正式な辞令もいまだに頂いておりません」
電話を済ませた編集長に事務的に話した。
「ああ、そうだな明日にでもやろうか。悪いかこれから打ち合わせがあるんで失礼するよ。すぐ迎えが来るんだ」
人を馬鹿にしたような笑いを見せてそう言うと上着をひっかけてさっさと出て行ってしまった。
予想してたとはいえ一人取り残されてがっかりしていた。私も今日はもう帰ろう。そう思ってバックを肩に掛けて出ようとしたときデスクの上に置いてある財布が目についた。
編集長の財布。あとで中身を盗ったとか疑いをかけられてはたまらない、まだ追いかければ間に合うだろう、と考えて財布をつかむと急いで外へ飛び出した。
この時期すでに外は暗い。階段を降りるとタクシーを待っている編集長の姿が見えた。声をかけようと思った時に数人の人影が近よってくるのが見えた。
帽子とマスクで顔を隠した男たちが編集長に飛びかかった。何が起こったのかと理解できないでいるうちに男たちは編集長を抱えるように消えた。あわてて階段を降りて飛び出すと隣のビルとの間に編集長が引き込まれるのが見えた。狭い隙間に引きずりこまれた編集長のうめき声が聞こえた。数人の男たちに取り押さえられて殴りつけられているのだと気がついて恐怖で声が出なかった。あたりに人はいない、車の通りも少ない裏道りなのだから。それでもようやく声を絞りだす。
「誰か来て」喉を鳴らして出たかすれた声は通りに小さく響くが誰にも気付かれず、暴漢の注意を引きつけただけだった。
バットを抱えた男がひとり私に気付いて駆け寄ってきた。深く被った帽子とマスクとサングラスで顔を隠した男は、あたりに人影が無いのを確認してバットを振り上げた。
私は足がすくんでへたり込んだ。誰か助けてと心のなかで必死に叫んだ。
バットが振り下ろされる、観念して身を縮めたその時、一陣の風が通り過ぎるように影が走った。同時にぐしゃっと物が潰れる音が聞こえた。
ふと目を上げると赤い自転車のフレームが目に写った。白いフレームにTOMMASINIの青い染め抜きの文字が見えた。
私の盾になるように男の前に立ちはだかる匠平の姿がみえた。
「どうして」
「いいから早く警察に電話を」
匠平はヘルメットを右手に持ってバットから身を守りながら叫んだ。
私は携帯を探してあわててバックをまさぐると指にに引っかかった物があった。ハッと気付いて思い切り腕を引いた。とたんに辺りにけたたましい音が鳴り響く。痴漢撃退ブザー、使うのは初めてだった。音に驚いてビルの間にいた男たちも編集長を置いて逃げ出した。匠平と対峙していた男もあわてて逃げ出そうとしたところへ匠平が飛びついた。だが一瞬遅く、顔に手がかかった拍子にサングラスが外れマスクがずれただけだった。が、その時街灯に照らされた顔を見て私は愕然とした。
私はバットを振り回しながら逃げる男を追おうとする匠平にしがみついた。これ以上危険な目に合わせたくはなかった。
鳴り響くブザーの音に気付いてようやく他のビルから人が出てきた時には男たちは用意してあった車で逃げ去った後だった。ナンバーは見えなかったが男の顔には確かに見覚えがあった。