1章
その日は柏倉春奈にとって本当に最悪の一日だった。
校正のミスでクライアントからは怒られて謝罪に行った帰りに車はぶつけるし、3年付き合った男には別れ話を持ちだされた。
なぜこんな場所で・・・まるで見世物じゃない。市内のファミレスで男と対峙していた。
目の前にいるの小太りの小男は3年来付き合っている私の男。見栄っ張りで小心者、市役所に勤めているという以外何のとりえもないクズみたいな男だ。それでもそばにおいておけば次の相手が見つかるまでの案山子の役ぐらいにはたつだろう、そう思って付かず離れずでもう3年経ってしまった。適当にあしらいながらうまくやって来たつもりだったがまんざら馬鹿でもないようだった。別な女と結婚するから俺たちこれまでにしよう、と切りだされた。
男の大きい声は地声なのか、いや、自分を大きく見せようとする気持ちのあらわれだろう、私達の別れ話は回りにいる人たちの格好の見せ物になっていた。
メールを打ちながら素知らぬフリして聞き耳立ててる女子高生たち、こちらを伺いながらひそひそ話のオバサンの女子会、新聞から目を離さずに全神経をこちらに集中しているサラリーマン風。
この状況で何を話せばいいのか、大声張り上げたり、泣き出したり、立ち上がってコップの中の水を浴びせかけたり・・・・何一つ出来るわけがなかった。それもこの男の計算だろう。自分の身を守ることだけには頭がまわる。
男を非難しただけで私の気が済むわけがない。立ち上がり、椅子を振り上げて男の頭に叩きつけたらどんなにすっきりするだろう。椅子はバラバラになって男は頭から血を流して倒れこむだろう。
「俺たちって特に何か約束みたいのしてたわけでもないよね」
こちらの気持ちを伺うように舐めるような視線をむけて男が同意を求めるように話す。
確かに今までも将来的な話になると、はぐらかしてて明確な答えを出さないでいたのは私だ。頭のなかでいろいろなことが駆け巡る。考えがまとまらない。とにかくそこを少しでも早く立ち去りたかった。廻りの見えない好奇の視線からも逃げ出したかった。
「話はそれだけ?なら私帰らせてもらうわ」
怒りと悲しみで声が震えているのに気付かれなかっただろうか、つまらぬことを気にしながら立ち上がった。「もう、電話しないでね迷惑だから」
廻りに聞こえるように声をあげてそれだけ言うとマフラーを後に払って足早に出口へ向かった。精一杯カッコつけたつもりだった。恥ずかしくて男の顔を確認することは出来なかった。
店を出ると、この場に及んでカッコつけることしか考えられない自分に腹が立ってきた。もっと普通に話ができただろうに。
私の大学生活は本当に楽しかった。日々の新しい体験を通してどんどん自分が成長していく感じがたまらなかった。いつか雑誌を作りたいと思うようになった。
--自分で作った雑誌をで人を幸せにしたい、人生を豊かにしたい--就活のときに雑誌社で語った言葉は本心だった。決してレベルの高いと言えない大学と成績ながらだれでも知る大手出版社に新卒で就職できたのは奇跡だと、まわりの人達も喜んでくれた。
これから最高の人生が待っていると確信したし、自分の進む花道が見えるようだった。
しかしそれは幻想だったと気づくまで時間はかからなかった。
女性誌かファッション誌を希望したのに配属されたのはその出版社ではお荷物的な文芸誌だった。これも経験とばかりに雑用からのスタートも嫌がらず惜しみなく働いたつもりだ。やがて担当の作家も持てるようになったものの、与えられるのはすでに業界から見放されているような終わってしまった作家ばかり、作品を載せるよりも載せないように断るのが仕事のようなものだった。
時には心から感動する作品に出会うこともあって、企画を通そうとしたが受け入れられることはなかった。頑張れ.ば頑張るほど廻りから浮いていく気がして6年間人生を捧げた職場を去ったのが3年前だった。当時それなりの付き合いをしていた男性には私を引き止める素振りさえしなかった。
田舎へ帰ってきて当分はのんびりするつもりでいたのに「結婚するか仕事探すかどちらかにして」と、両親の言葉に逆らうこともできずに潜り込んだのが今の職場だった。
「郡河じょうほう」東北南部の地方都市のタウン誌だ。タウン誌としては県内では2番手だが都内の中堅出版社の子会社で今ではそれなりの実績がある。
大手出版社の経験がものを言ったのか就職はあっさり決まった。もっとも編集長はそんな経験になんの興味もありませんといった風情でむしろ私を煙たく感じているようだ。
当初の頃はそれなりに楽しんでこなした仕事も徐々につまらなく感じてきた。市内の店の紹介、地元の行事や祭り、イベントの記事、そして広告取り。同じことの繰り返しだ。そして大手に比べたらボランティアのような給料。慣れてしまえば感動もない。ただ毎日機械的に取材や紙面の校正をするだけだった。
別れ話をした男は市役所の広報課の人間で入社して間もなく知り合った。独身の公務員、いくらか年上。それ以外の説明ができないような男だが、かえって扱いやすいだろうと付き合い始めた。もはや三十路はすぐそこにきていた私にはそれ以上深く考えることはなかったのだ。街で偶然若い女と一緒に歩いているところに鉢合わせしたのは去年だったか、いやらしい口元に曲がった鼻、若いという以外にはとりえのない女。それでも笑顔は若い娘らしい愛嬌があるのかに思えたが「ただの友達だよ」と私に対して言い訳する男のもとで男に隠れて私を睨みつけるその表情は性根の悪さを思わせた。もっとも私も似たり寄ったりの顔を見せていたに違いないが。
私より出来の良い兄は有名国立大を出て東京の商社に就職して田舎へ戻るつもりはないようだ。このまま独身で一生を過ごし、両親の介護をしながら余生を過ごして最後には孤独死する自分の未来を想像して、心が潰れそうになった。
突然の車のクラクションで自分がいつの間にか赤信号の交差点の真ん中に立っているのに気づいた。あわてて中央分離帯の縁石の上に飛び乗る。歩道に立ち並ぶ通行人や脇をかすめて走る車のドライバーが全員私の事情を知っていて笑っているような気がした。ひとり道路の真ん中に取り残された自分が社会的にも孤立しているように思えて、あふれだした涙で信号が滲んだ。
「ちょっと何をガタガタやっているの」
その週末、二階の自分の部屋の整理をしていた私に母が階下から飛んできて苦情を言った。
「部屋の整理をしているだけよ」
振り向きもせずに私はゴミ袋に詰め込みながら答えた。
「なによこれ、まさか全部捨てる気じゃないでしょうね」
部屋のなかの大量のゴミ袋。本、雑誌は職業柄多い。もっともほとんど読み返すことのないものばかり。何年も着ていない服、すでにメディアを手に入れるのが困難なデジカメや古い携帯電話。どれに使うのかわからないアダプターやバッテリー、こわれたノートパソコン、プリンター。コスメの空き容器。八畳間のほとんどがゴミで埋もれていた。すべて押入れやクローゼット、部屋の片隅に積み上げられていたものだった。
「もちろんよ。必要ないものや壊れてるものばっかりだし。思い切りが大事なの」
「でもこの洋服とかもったいないんじゃないの。あたし着れないかしら」
まだゴミ袋に入れていないワンピースを手にとって眺める母。
「そんなのを来て歩かれたら私が恥ずかしい」私も1~2度しか手を通していないフリルだらけのワンピースをひったくる。
「ひどいこと言うのね。まあ好きになさい、ちゃんと指定のゴミ袋にいれなきゃダメよ」とだけ言うとしばらく私の様子を眺めてからワンピースを未練がましく見つつ立ち去った。
--モノを捨てることで新しい人生が開けてくる--
新しい片付け術として一時期ブームになったときに、東京の出版社でも関連本を何冊か出した。私も企画書を出してあわよくば整理術のカリスマとして世に出れるのではないかと本を書きかけたこともある。もっとも私の企画が通ることはなかったし、本も途中で書くのをやめてしまっていた。ビジュアルでは決して負けていないにと人気の片付けコンサルタントやらの本をながめて悔しがったものである。
思い出を捨てるのは忍びない。大学時代の本や東京の会社で使っていたヨレヨレのバック、社員証まであった。
大手に勤めていた事が自分の唯一の存在価値のようで捨てきれないでいたものだ。一部の社員旅行などの思い出の写真を除いてそれらも処分することにした。会議の書類、没になった企画書、できる女と見られたくて買ったが安物ゆえシルエットが醜いパンツスーツ、その大きさが人間の大きさをあらわすと信じて使っていたバカみたいにでかいトートバック。片付けはじめると自分の執着心がくだらなく思えてきた。
洋服に手をかけたとき、「もったいないわよ」と母の言葉が頭をよぎったが、ここで立ち止まるわけにはいかない。特に公務員男と一緒に出かけた洋服など残しておきたくなかった。
確かにもったいなくはあるのでネットオークションに出すことにした。本や雑誌はダンボールにまとめてネット古書店へ送った。査定は15箱で4,500円、安いのか高いのかわからなかったがスッキリした部屋の様子を見ていると後悔はなかった。
洋服は悲しいくらいに安かった。慣れない出品や配送の手配を考えると捨てたほうがよかったと思った。2万円近いパンツや1万前後のスカートやカットソーもほとんどが千円にもならない。平均500円といったところだ。それでも売れればいいほうで半分近くはひと月後にはゴミ袋へ入ることになった。
「これで最後かな」
最終的に売れそうもない洋服を指定ごみ袋にいれると廊下の角に片付けた。母のもったいないが聞きたくないので明日は早起きして自分で出してこよう。
その時袋から転がり落ちたものがあった。
革製のスパイラル状のアームレット。きれいな装飾とデザインが目を引くが自分がすると腕の肉が盛り上がるのが嫌で一度しか身につけていなかった。
公務員男と付き合いだして間もない頃、一緒に出かけた先でふと立ち寄ったンティークショップで目に止まったものだった。シルバーアクセは見かけるが革製品は珍しいと感じた。革製品に興味がわくのははやはり歳のせいなのか。「いいんじゃないか買っちゃいなよ」男がそう言ったのはゲームに出てくるキャラが装着するのに似ているから、それだけの理由だったとあとで知った。勧めたからって男は買ってくれるわけでもなかった。旅の記念にと自分で買ったものだが男との記憶が蘇るので迷わず燃えないゴミ袋へ入れたはず。なのに運び出すときにこぼれ落ちてしまったのだろうか。もう一度ゴミ袋へ入れかけて、ふと思い直して携帯で写真をとった。何枚か撮影して特長がよく出ているものを何枚かPC上で確認する。ネットオークションのサイトを開いてログインする。ものはついでだ、これがラスト。慣れた動作で画像をアップロードする。
こいつは捨てられたくないのかもしれない、それでゴミ袋から這い出したのかも。このまま捨ててはいけないような・・・・くだらない考えだと思いつつも本文を書き終えて出品のダイアログを押した。
落札されたのは何度目かの再出品を経てからだった。競り合い無しの500円だ。落札者の方から先にコメントが入っていて気がついた。
男性名だ。彼女へのプレゼントを中古で済ますセコ男か。私は少し気味悪さを覚えた。支払い方法はオークションサイトの専用決済方法を指定していたため口座さえ知らせる必要もない。私は昔住んでいた住所と母の旧姓を入力すると返信した。ドラブルがなければすべて偽名義でもかまわないだろう。
間もなく届いた返信を見て私はさらに気味悪さを感じた。
「来週近くまで行く用事がありますのでよければ直接受け取るわけにはいかないでしょうか。よろしければあなたの様の都合に合わせます」
(しまった男性名義にすればよかった)
送料を安くするため配送方法を郵送などに指定するひとは多いが直接取り引きを望むひとはいなかった。都心ならままあるらしいが県内に住む人だったとは偽の住所とは70kmも離れているのに。断ろうと思ったもののセコ男の顔を見たい気持ちもあって了承することにした。
次の週末、30歳の誕生日をむかえた週に私は小学生の頃まで住んでいた町の運動公園にいた。すっかり変わった町並みを眺めながらドライブがてら出かけてきた。子供の頃にはなかった公園は落札者のほうが詳しいようで指定されたテニスコートの脇のベンチに座って待った。
もしかしたら母親の誕生日にプレゼントするために選んだ心優しい青年かもしれない。ベンチから見渡せる西側の駐車場に車が停まるたびに目を向けるが家族連れや若いカップルだった。
少し早く来すぎたようだ、待っていると少しずつ不安になってきた。やはり変な男かもしれない。変に言い寄られたらどうしよう、もっと地味な服にしておけばよかった。だが住所も名前も嘘だし携帯番号は知らせていない、メールはどうにでもなるだろう。心を落ち着けようとした。
「これからデートなの?」出掛けに母がそう尋ねたのは私がここ一番のワンピースを着ていたからだ。なにしろカジュアルな服はほとんどオークション行きか捨てるかで、仕事用のスーツを除けばいざというときの服が何点か残すのみなのだから。決して変な期待でめかしこんできたわけじゃない。
急用ができたからと電話して帰ってしまおうか。あとで謝って送ればいい。それほどかさばるものでもないから送料ぐらいこちらで負担してもいい。落札金から足が出ることもないだろう。
そう考えていた時、駐車場とは逆の方角から遊歩道を走ってくる自転車が私の座っているベンチで止まった。
「オークションの人ですよね」
声に驚いて顔を上げるとロードバイクにまたがった若い男がにっこり笑っていた。彼の汗の匂いか、春風に運ばれて良い香りがした。
「なんか最近妙に仕事に燃えてませんか」
隣のデスクのアキナが突然言い出した。仕事仲間とはいえ妙に距離をとろうとする私に対しみんな距離を置いているが彼女だけは平気で声をかけてくる。そんな彼女が煩わしくもあったが最近はちょっとうれしい気がしていた。
確かに最近仕事にハマってる。今まで溜め込んでいたモノを捨てることで何かから開放された気がして何事にも積極的になってきていた。
自分を護るはずだった過去の遺物が実は自分の人生や考え方を縛っていた。本を読んでわかっていた気でいたが、実行してその効果を実感した。新規店の取材にも積極的になったのもそのせいだろう。なにか新しいことを取り入れたい気持ちが強まって、定型文通りの紹介記事やテンプレの紙面であきたらなくなっていた。最近はサビ残もいとわなず納得行くまで紙面作りに没頭した。まわりの空気も少しづつ変わっていた。
「そんなことないよ。普通」
「そうかな。なんか違うんですよね」私の目を探るように見て、「ああわかった。男を変えたとか」
「まさか違うわよ」
ちょっとドキッとした。先日公園で会った若い男の顔がちらついた。手数をかけてすみませんと礼を言う彼に、そんなことないとだけ言ってろくに話すこともなく別れてしまった。男にドギマギする年でもないのに、もっと色々話せばよかったと後悔した。見た目、自分より若い男に私から電話やメールするのはできない。それにあのアームレットは若い恋人へのプレゼントだったに違いないのだから。
「いや、絶対にあやしいね」
そういって肘でつつくアキナに笑顔でごまかしているとデスクの上に書類が置かれた。
「この人取材してきてくれるかな」
いつの間にか後へ来ていた神崎さんだった。私より年上の女性社員で社歴も長い、バツイチで仕事熱心ではあるが、私の元大手出版社の経歴に対抗心をもっているのか時々突っ掛かるような物言いをしてくる。
「私が行くはずだったけどここに来るはずのクライアントがまだ来ないのよ。代わりに頼むわ」
何につけても自分のほうが上だと言わんばかりの彼女の態度。以前なら断るところだったけど快く引き受けた。校正は戻ってからすればいいし時間には余裕があった。
「あら、2時からの約束ですね、じゃあ今からすぐに出かけます」
断ったら嫌味のひとつも言ってやろうと構えていたが、あまりにあっさり受けたので拍子抜けしたような顔をした神崎をおいて私は会社を出た。
郡河市内の待ち合わせ場所の喫茶店に到着した。神崎と言葉を交わすのが面倒なので待ち合わせ場所を確認しただけでどんな業種かも確認していなかった。相手が来る前に確認しとかなきゃ。足早に入り口へ向かう時に窓際の席に座っている男性を見て思わず声が出た。声が聞こえたわけでもないだろうが、男性もこちらを振り向き、互いに目があった。
彼も驚いたようで、しばらく私達は視線が外せなかった。
この前のお礼にと彼が頼んだショコラが目の前に運ばれてきた。珈琲の香りが鼻にやさしい。
八城匠平、渡された書類を見ておけば気づいたのに。彼はオークションで偽名を使ってはいなかったのだから。
「ふ~ん本名は柏倉春奈さんなんだ」
「ごめんなさい。嘘をつくつもりはなかったんですけど何となく不安で」
「わかりますよ。今どき危ない奴も多いし、いや、実際僕はあぶないやつかも。あの時も君はかなり驚いていたようだし」
「あ、あれは違うんです。てっきり車で来るものとばかり思ってたので」
ジャージ姿やヘルメットにサングラス、自転車乗りの正装なのだろうが少し怖く感じたのは事実だった。
「ああ、自転車は趣味なんで、距離もあそこまでならご近所感覚だから」
そう言って軽やかに笑う彼、私は仕事の話に入るのをすっかり忘れていた。
彼の工房は隣の桑原町で市内からは距離がある。車の運転が苦手な神崎が市内の喫茶店で会うことにしたのも理解できた。手作り家具の制作販売。ネット販売で数年まえから少しづつ売れていたが、最近は近隣住民の注文に応えてオーダー家具の生産も好調らしい。センスの良い家具を作るらしいと噂を聞いて神崎から取材を申し込んだようだ。
「わかりました。じゃあ来月号の<地元の若きイケメンクリエーター達>のコーナーで紹介させていただきますね」
「ちょっとそれは、イケメンってそんなんじゃないですよ」
「冗談です。イケメンの文字はありません、地元で頑張っているクリエーターの紹介なんですよ」
慌てた彼に安心するように話した。からかわれたのに気付いて照れ笑いする彼の顔が微笑ましい。
彼が掲載用に用意した工房の写真は携帯で撮影したのだろう、雑誌に載せるには構図も色合いも物足りなかった。どうせならもっと見栄えのする良い記事にしたかった。数日後の午后に工房を訪ねることを約束して店を出た。この前のお礼だと彼が支払いを済ませた。
「この前の自転車と違うんですね」
その日彼が乗ってきたのはロードバイクではなく街乗り用のクロスバイクだった。
「ああ、これは普段用ですよ。市内に用事のある時はこいつのほうが便利なんです、駐車場さがす手間もいらないし」
そう言いながら彼がなにやらバックから取り出したものを見て目を見張った。
「ああ、これ?こうして使うんですよ」
彼が出したのはこの前公園で手渡した落札品のアームレットだ。スパイラルの輪を広げて足首に入れると中に入っている板バネが足首を包み込んだ。
「ギヤにズボンの裾が絡まないようにコイツで押さえるんです。この前はサイクルジャージだから必要なかったけど」
ママちゃりと違って前のギヤがむき出しなだけに、ズボンの裾を押さえないと汚れたり引っかかったりするのだそうだ。専用のゴムバンドもあるがちょっと変わったのが欲しくて探していたら私の出品が目についたのだと語った。
「見た瞬間、なんかこれしか無いって思って。すごく気に入ってますよ」
アームレットを裾に巻きつけてご機嫌で走り去る彼の姿が見えなくなるまで見送っていた。
「プレゼントじゃなかったんだ」
私は妙に心が弾んで心でスキップを踏みながら駐車場へと向かった。
隣町とはいえ桑原町まで行くのが面倒に感じたのだろう。八城匠平の工房の紹介記事をまかせてもらうことを神崎は簡単に了承した。そして約束の日に彼の工房まで車を走らせた。
国道から町中に入って奥まった所に工房はあった。
昔の農家を安く借りているのだと説明して彼は中に招き入れてくれた。中に入ると二間続きの広い部屋を床だけ板張りに改装してあった。その上に製作中の椅子やテーブルがいくつかおいてあった。中央から奥には木工用の広い作業台がいくつかあって。壁際に付けられたカウンターの上や壁際にさまざまな木工用の工具類が整然と並んでいた。
「これでも撮影のために整頓したんですよ。普段はゴミゴミしていて」彼の言葉どおり整然とした工房は製作中の家具類をいくつか配置するだけでお互い納得の行く写真がとれた。
奥の部屋には幼稚園からの依頼だというウサギやたぬきがモチーフのかわいい小さな椅子や、習作だという箪笥なども置いてあった。
「学生時代に旅行先で見た工房が忘れられなくて」
撮影の後、土間に置いてある自作のテーブルと椅子に座って紅茶を飲みながら彼が話してくれた。
子供の頃から木工細工が好きだったが職業にするまでは考えていなかった。旅先で立ち寄った工房の仕事を見たり話を聞いたりして一生の仕事にしたいと思ったのだそうだ。大学を辞め今すぐ工房に入りたいと両親に話をしたが聞き入れてもらえなかった。両親の願いで卒業だけはしたが、その時工房へ入ることを不承不承に納得させたのだと。
「ご両親はがっかりなさったのかしら」
私はカップをテーブルに静かに置いてから聞いた。
「そりゃもちろん。でも5年修行してこっちへ帰ってきて2年。ようやくやっていけるめどがついたせいか両親も安心しているよ。開業当初はけっこう両親の知り合いやらや地元の友だちの世話にもなったからね。これから恩返ししなきゃ」
「5年の修行でこんな素敵なのができるなんて」
自分が6年かけて得たものを考えると少し複雑な気持ちだった。
インテリア関係も嫌いではない。海外有名デザイナーや日本の匠の技とか謳い文句の作品を見たこともあるが、目の前の匠平の作品がそれらより劣るようには見えなかった。細部に関してはまだまだなのだろうが、彼の作り出す曲線は優しさと優雅さ、そしてある種のセクシーささえ感じられた。
「今はいいけど冬は寒くってね」そう言う彼の視線の先には昔風の大きな窓。午后の暖かい日ざしが差し込み私達をやさしく包む。ここ何年来もなかったくつろいだ気持ちになっていた。常に何かに追い立てられているような気持ちは最近消えていたが、これほど平穏な気持ちになったのは学生の頃以来かもしれない。
つくりかけのセンスの良い木工細工に囲まれて、明るい陽だまりの中で心許せる人と差し向かいでお茶を飲みながら過ごす午后のひととき。ずっと以前からこんな日が来ることを予感していた、そんな気がした。




