ep 7
『鬼神と月兎』 第三章より
廃墟の森を抜ける頃には、異世界の太陽は既に西の地平線へと大きく傾いていた。一番近くの街――オーク騒ぎがあったあの街へと戻ることにし、三人は黙々と道を歩いた。ダイチはまだ疲労と緊張の色が濃く、ユイが時折励ますように声をかけている。鬼神 龍魔呂は先頭を歩き、周囲への警戒を怠らない。
街の門を再びくぐると、昼間の騒ぎが嘘のように静まり返っていた。衛兵たちは鬼神 龍魔呂の顔を見るなり、少し緊張した面持ちで敬礼する。彼がオークを殲滅した話は、既に街中に広まっているのだろう。
夜道を歩き、ユイが手頃そうな宿屋を見つけてきた。「星見の宿」という名の、旅人向けの小さな宿だ。ユイが宿の主人と交渉し、少し広めの部屋を一つ確保することができた。月兎族の少女と、見るからに強面だが寡黙な男、そして怯えた様子の少年という奇妙な一行に、主人は少し怪訝な顔をしたが、ユイの丁寧な態度と、鬼神 龍魔呂が黙って差し出した銀貨(昼間にオーク討伐の謝礼として衛兵から受け取っていた)に、最終的には部屋の鍵を渡してくれた。
通された部屋は、質素だが清潔に保たれていた。ベッドが二つと、壁際に簡素な寝具が一組。小さなテーブルと椅子もある。窓の外はもうすっかり暗くなっていた。部屋に入るなり、ダイチは緊張の糸が切れたように、近くのベッドにへなへなと座り込んだ。
「ダイチ様、お疲れでしょう。少し休んでくださいね」
ユイが優しく声をかけ、水差しから水を汲んでダイチに手渡す。ダイチが腕に抱いていたリスも、長旅で疲れたのか、丸くなって眠っている。ユイは持っていた布で、リスのために簡易な寝床を部屋の隅に作ってやった。
鬼神 龍魔呂は、部屋に入るなりまず窓へ向かい、外の様子を窺っていた。追っ手の気配はない。彼は無言で窓のカーテンを閉めると、壁際の椅子にどかりと腰を下ろした。
しばらくして、宿の者が夕食を部屋まで運んできた。硬いパンと、野菜と豆の煮込み、干し肉のスープといった簡素なものだが、温かい食事はありがたい。テーブルを囲み、三人は黙って食事を始めた。
ダイチはまだ緊張が解けないのか、あるいは慣れない味付けなのか、あまり食が進まない様子で、スプーンを持つ手が何度か止まる。鬼神 龍魔呂は、自分の食事を黙々と口に運びながらも、その視線は時折ダイチの手元に向けられていた。そして、ダイチが苦手そうな顔で皿の隅に避けていた紫色の根菜を、自分のスプーンで何でもないように掬い取り、自分の皿へと移す。さらに、少し硬そうな干し肉を、無言でナイフで小さく切り分けてダイチの皿に戻してやった。
「あ…」
ダイチが小さく声を上げたが、鬼神 龍魔呂は何も言わず、食事を続けている。そのあまりにも自然な、しかし不器用な気遣いに、ユイは気づいていた。彼女は何も言わず、ただそっと微笑んで、自分も食事を続けた。
食事が終わる頃、ユイが今後のことを切り出した。
「明日になったら、まずはダイチ様のお洋服をどうにかしないといけませんね。それから、追ってきた連中のことや、魔王軍の情報を集めないと…」
「ああ」鬼神 龍魔呂が短く応じる。「それと、その『勇者の印』とやらについても調べる必要があるな」
ダイチは、追っ手や魔王の話になると、また不安そうな顔になる。鬼神 龍魔呂は、そんなダイチを一瞥すると、ぶっきらぼうに言った。
「…心配するな。俺がいる限り、手出しはさせん」
直接的ではないが、その言葉には確かな力強さがあった。ダイチは少し驚いたように鬼神 龍魔呂を見上げた後、小さく頷いた。
食後、ユイがダイチの寝る準備を手伝う。ダイチはよほど疲れていたのか、ベッドに入るとすぐに小さな寝息を立て始めた。ユイは予備の寝具を床に敷き、自分もそこで休むことにした。
鬼神 龍魔呂は、部屋のランプの灯りを最小限まで絞ると、自分はベッドを使わず、壁際の椅子に再び腰を下ろし、目を閉じた。眠るつもりはないのだろう。この異世界で、気を抜くつもりなど毛頭ないのかもしれない。あるいは、かつて弟を守れなかった夜のように、無意識に誰かを守るための体勢を取っているのか…。
部屋に静寂が訪れ、ダイチの穏やかな寝息だけが聞こえる。しばらくして、鬼神 龍魔呂は静かに目を開けると、音もなく立ち上がり、ダイチのベッドへと近づいた。眠っている間にずり落ちかけていた毛布を、彼はそっと、驚くほど優しい手つきでかけ直してやる。その横顔には、普段の険しさはなく、どこか遠くを見ているような、あるいは何かを懐かしむような、複雑な色が浮かんでいた。
彼はすぐに壁際の定位置へ戻り、再び静かに夜の闇を見つめ始めた。
その一連の行動を、ユイは薄明りの中でそっと見ていた。鬼神 龍魔呂の纏う「音」。それは普段、鋼のような強さと、底知れない悲しみ、そして抑えきれない怒りの響きが混ざり合っている。けれど、今の彼の音は、ほんの少しだけ…本当に僅かだけ、温かく、そしてどうしようもなく切ない色を帯びているように、ユイには感じられたのだった。