安寧2
数日後、朝の空気に、わずかな張り詰めた気配が混じっていた。
村の西側にある林の奥で、何かが目撃されたという噂が流れたのだ。
魔獣か、それともただの野生動物か──誰にも分からない。
だが、村にはそれだけで緊張が走る。
俺はというと、相変わらず雑用と、ラニとの訓練に明け暮れていた。
あれからも毎日、彼は欠かさず来る。
タックル、スプロール、ガードポジション……今は距離の取り方と崩しの練習に移っていた。
「おい、足を揃えるな。片足を外に置けって言っただろ」
「う、うん……ごめん!」
息を切らしながらも食らいついてくるラニを見ていると、俺自身が道場で怒鳴られていた頃を思い出す。
あの頃の俺も、がむしゃらで、下手で、それでも負けたくなかった。
今日は少し時間が空いたので、ラニに簡単なシャドーの流れを教えながら、自分の体のキレも確かめてみる。
この世界に来てから、体の調子がいい。
回復も早いし、疲労も引きずらない。
でもそれがなぜなのかなんて、別に考えてもいなかった。
水がきれいとか、空気が澄んでるとか、その程度だろう。
大事なのは、そんなことじゃない。
“勝てた”という事実だ。
魔獣相手に、俺は勝った。
組んで、崩して、締めて──殺した。
それがこの世界でどれだけのことかは分からない。
けれど俺にとっては、命を懸けた一戦で、積み重ねてきた技が通じたことに他ならなかった。
通じる。俺の技は通じるんだ。
だから、俺はこの世界でもやっていける。
訓練が終わり、ラニが水を飲んでいる間、俺は少し離れた場所でシャドーの続きをしていた。
ストレート、ロー、タックルへのフェイント──
その瞬間、背後から視線を感じて振り返る。
数人の村人が、こちらをじっと見ていた。
前に声をかけてきた自警団の男も混じっている。
「おい、あんた……少し、話があるんだが」
その口調は柔らかいが、空気に緊張が混じっていた。
「なんですか?」
「いや……あの西の森に出たって話、知ってるか?」
「うん、噂だけは」
自警団の男は顎をさすりながら言った。
「正直、俺たちも全員が戦えるわけじゃない。あんたが“あれ”を倒したってのは本当なんだろ?」
言葉に詰まる。
確かに倒した。でも、それが毎回できる保証なんて、どこにもない。
「……偶然だったかもしれないよ」
そう答えると、男は小さく笑った。
「偶然でも、やったのはあんただ。できれば、手を貸してほしい。訓練でも、偵察でも、できる範囲でいい」
俺は少し考えて、うなずいた。
「わかった。でも、俺も自信あるわけじゃない。だから、頼りすぎないで」
「頼らねえよ。でも、あんたが動いてくれるってだけで、士気は違う」
男はそう言って去っていった。
その背中を見送りながら、俺は拳を見下ろした。
まだ、何者でもない。
でも──俺には俺のやり方がある。
“技”で勝つ。
“力”じゃない。
この世界で生きていくなら、それだけで十分だ。
その夜、ふと、夢を見た。
試合前の控室。
汗のにおい、ギリギリまで絞った身体、集中と不安。
隣にいたトレーナーが、静かに言っていた。
「信じろ。最後に残るのは、自分の選んだ動きだけだ」
目が覚めたとき、拳が自然に握られていた。
たとえ異世界でも──それは変わらない。