安寧
それから数日が経った。
村では静けさが戻っていたが、俺の中にはうっすらとした緊張感が残っていた。
魔獣との戦いは、終わったわけではない──そんな気がしていた。
朝、いつものように水汲みに出ると、村の少年──ラニという名だった──が、訓練場の片隅で棒を振っているのが見えた。
ぎこちないが、真剣な顔だ。
あの日以来、彼は毎朝俺のところに来る。
「昨日の動き、もう一度教えてくれ」と、飽きもせずに。
俺は教えながら、自分の身体にも技をなじませていくようにしていた。
この世界では、道場も、試合もない。
けれど、身体はどこまでも正直だ。
崩し、距離、重心、脱力と緊張の使い分け。
技は言葉以上に、姿勢で伝えるしかない。
「ラニ、今日はタックルの基本をやる。組みつきじゃなくて、入り方から。」
「タックル?」
「うん。相手の腰を狙う。だけど力任せじゃない。相手の重心を“持っていく”感覚。」
ラニはうなずいて、俺の指示通りに構えを取った。
この世界には武器がある。
剣も、槍も、魔法さえ。
それでも、俺がやってきたのは拳一つで戦う術だった。
だからこそ──俺にできることは限られている。
けれど、技術は通じた。あの魔獣にも。
ならば、ここでも通じるはずだ。
俺とラニが練習している様子は、徐々に他の村人たちの目に入るようになってきた。
最初は興味本位で、次は疑念。そして最近は、ほんのわずかな期待。
「ちょっと、見てていいか?」
「……その技、村の自警団でも使えるかな?」
そんな声が、ぽつりぽつりと増えていった。
教えながら、俺自身も考えていた。
もし──もしまた魔獣が現れたとき。
俺ひとりでなく、誰かが“戦えるようになる”なら、それは意味のあることなんじゃないか。
拳は、破壊だけのものじゃない。
護るために使える。
夕暮れ。
練習を終えた俺とラニは、地面に座り込み、汗をぬぐっていた。
「なあ……あんた、なんて呼べばいい?」
「名前でいいよ。『師匠』って柄じゃない。」
「でも、あんたの動き、全部意味がある。力じゃなくて、工夫で勝つっていうか……」
俺は少し笑って、空を見上げた。
「俺もよく分かってないけど……ただ必死だった。殴ったり組んだりするのは、ただ生きるためにやっただけだと思う。」
ラニは黙って頷いた。
あの時、俺が選んだのは“生きる”ための技だった。
殴ることでも、絞めることでもない。
ただ、必死で“生きようとした”──その結果だった。
もし次があるなら、今度は──もう少し、誰かを護れる拳でありたい。
その夜、小屋の天井を見上げながら、俺は拳を握って小さく呟いた。
「次は……もっと、うまくやってやるよ。」