混乱
黒い獣が光に包まれ、悲鳴を上げて地面に倒れ込んだ。
何が起きたのか、一瞬理解できなかった。俺のすぐそばにいたその男が、何かを叫び、手を掲げた瞬間、あの光が現れたのだ。
爆発でもない、銃でもない。見たことのない現象。
だが、その効果は明らかだった。俺に飛びかかろうとしていた巨大な獣が、地に伏して動かない。
「……今の、何だ?」
思わず漏れた疑問に、男は振り返って苦笑した。
「お前、まさか魔法を知らないのか?」
──魔法?
あれが、魔法?
子どもの頃に読んだファンタジー小説の中にあったような言葉。現実のものとして目の前で起きたそれを、俺の常識が受け入れようとしない。
「立てるか?」
促されるままに、ふらつきながら立ち上がる。足元がおぼつかない。全身がだるくて力が入らない。
減量の疲労が残ってるのか、それともこの世界そのものの影響なのか……。
男が俺の腕を取って支えてくれる。
「助かったな。あんな魔獣に丸腰で出くわすとは、運が悪かったとしか言いようがない。」
──魔獣。
やはり、ここは俺の知る世界ではない。
歩きながら男と話す。
「お前の名は?」
「……早瀬、早瀬翔。」
「ハヤセ……変わった名前だな。ま、旅の途中の奴か、遠くの地方の出かもしれんな。俺はグラード。この村の警備官みたいなもんだ。」
やがて道は木々に囲まれた小さな村へと続いた。俺の知らない文字が書かれた木札、見慣れない服装の人々。遠くから聞こえる会話も、最初は意味不明だったはずなのに、なぜか頭に内容が入ってくる。
──何だ、これ。言葉が、分かる?
混乱しつつも、理解できてしまっている自分に困惑する。まるで脳が勝手に翻訳しているような感覚だ。
俺がぽつりと「言葉が通じてるのが不思議だ」と呟くと、グラードが首を傾げる。
「そりゃ通じるだろ? この辺りの言葉が分からない奴なんて、滅多にいないさ。」
魔力。言葉。魔獣。魔法。
現実感がない。だが、今感じている空腹も、脚の重さも、すべてが現実の感覚だ。
「とにかく、まずは休め。考えるのはそれからだ。」
案内されたのは木造の建物。中は簡素な食堂のようで、温かな匂いが満ちていた。
席に着いた途端、緊張が解けたのか、胃が音を立てて鳴る。
「何も言わずに食え。腹が減ってるだろ。」
グラードが置いたのは素朴なスープと硬めのパン。口に運ぶと、不思議と涙が出そうになった。
獣に殺されるかもしれなかった恐怖、異世界の理不尽な現実、わけもわからず命を拾った自分。
これは夢ではない。
俺は、異世界に来てしまったんだ。
「……このままじゃ、また死ぬだけだ。」
拳を握る。
恐怖はある。強くなければ、生き残れない世界。
だが、この手にはまだ、格闘技で培った技が残っている。
俺の技が、この世界でも通用するのかどうかはわからない。
だが、確かめるしかない。
──生き延びるために。
グラードが肩を竦めて笑った。
「まあ、まずは体を鍛え直すことだな。何者だろうと、生き残るにはそれが一番だ。」
俺の名前は早瀬翔。
そしてこれは、異世界で、拳で、生きることを選んだ男の物語だ。