隠し球
シチューを食べ終え、手持ち無沙汰になった寛奈は水を汲みに行った。もちろん、店員は出てこないのだが、階段のそばに水が入ったピッチャとグラスを乗せた台があったのだ。貼り紙が出ている訳ではないが、セルフサービスという事だろう。
「先輩も飲みますか?」
「あ、うん」史岐は頷いたが、立ち上がろうとする。「いいよ、自分でやるから」
「これくらいはさせてください」寛奈は体の前で手を広げる。「専門家の方から、お電話がかかってくるかもしれないでしょう?」
実際の所、寛奈は、彼の言う専門家とは十中八九、恋人の事だと思っていて、自分の目を気にせずに連絡を取る時間をあげたかったのだ。大した抵抗のポーズも取らずに二人きりでこんな山奥まで来ている時点で、そんな気遣いなど無意味かもしれないが、それくらいの事はしなければ気が済まなかった。
必要以上にゆっくりと手を動かしてグラスに水を注ぎ、テーブルへ運ぶ。
「ありがとう」と言って振り返って史岐の手元には、やはりスマートフォンがあった。
「お返事、来ました?」
「うん」史岐は頷く。「花豆っていうらしい」
「花豆……」寛奈は椅子に腰かけて、単語をくり返す。「可愛い名前ですね」
「聞いた事ないけど」
「八尋壺の特産品でしょうか?」
「かもしれない」史岐はスマートフォンを仕舞う。
それから、顔の前で両手を組んで躊躇いがちに「あの……」と切り出した。
「食べ終わって、もうすぐ相手も来ると思うから、その……」
「あ、そうか」寛奈も、はっと気がついた。「すみません。隠し球、まだ全部見せていませんでしたね」
寛奈は頬に人さし指を当ててにっこりと笑う。ここにヒントがある、というジェスチャだ。
「そう、顔が似ているよね」
「えへへ」
「その、正直、どこまで聞いて良いかわからない」
「お気遣い頂いてありがとうございます」寛奈は手を下げる。「じゃあ、わたしがずばっと、簡潔に説明しちゃいますね。辛いのを我慢して話す訳じゃありませんから、安心してください。わたしとみいちゃんは父親が同じなんです。母との間に子どもが出来た後、父は、槻本家に婿入りした。元々、そっちの取り決めの方が先にあったみたいです」
「それは……、ひどいな」
「そうですね」寛奈は頷く。「でも、不幸だった事は本当に、それくらい。母は槻本家の助けを一切借りなかったそうです。強くて、明るくて、決断力があって、ばりばり働きながらわたしを育ててくれました。母方の親族が良い人達ばかりで、良く面倒を見てくれた事にも助けられました。父親がいない事は、わたしにとって全然、ハンデじゃなかったんです」
「うん、それは、甘粕さんを見ているとわかる」
そう言った史岐の声には、ぞくっとするような優しさがあった。あまりにも異質な感触だった為に、一瞬、ひょっとしたらこれは優しさではなく、愛情なのではないかと錯覚しそうになったほどだ。
すぐに恐ろしくなり、否定する事が出来たが、たった一言でこうも他人の心を掴むのか、と唖然とした。フローズン・カクテルを喉に通した時のように、冷たい理性で表面を固めても、熱い余韻がぽうっと体の内側に留まっていた。
「もちろん、贅沢は出来ませんでしたけどね」まだ、どきどきしているのを感じながら、寛奈は続ける。「母はちゃんと学費を貯金してくれていて、それに奨学金と、あと、おじいちゃんとおばあちゃんが畑で育てた野菜やお米を送ってくれるので、何とか一人暮らしを続けられています。だから、みいちゃんが紹介してくれるアルバイトも、ありがたいものですよ」
寛奈は「ただ……」と言葉を次いで、バッグに手を伸ばす。
「オルゴールを開けてほしい、なんて頼まれたのは、今回が初めてですけれど」
「甘粕さんに依頼が来た事を考えると、たぶん、普通のやり方では開けられないんだろうね」史岐はグラスの水を口に含む。「何だろう……。術でもかかっているのかな」
「術?」寛奈は驚いて、口に手を当てる。「うわぁ、なんか、そう聞くと急に不安になりますね。開けて良いのかなって。あ、だから、みいちゃん、今日は一緒に来ないのかな?」
「わからない」史岐は首を振る。「彼女、多忙だから、単に予定があって来られないだけかもしれない」
寛奈は両手でグラスに触れて、唇をちょっと尖らせる。
「なぁんか、今回は色々と妙なんですよね。ただ働きっていうのも初めてですし」
「え、アルバイト代、出ないの?」
「出ないんです」史岐と一緒にいられる事にそれ以上の価値がある、という本音を見破られないように、寛奈は表情を引き締めて頷く。「ウィンナ・コーヒーとザッハトルテをご馳走になったから、まあ、それが報酬という事で手を打っても良いのかな、と思ったんですけれど、やっぱりお金の事はきちんとしておきたくて、次の日、電話をかけて訊いたんです。そうしたら……」
美蕗は受話器の向こうで、くすっと笑みをこぼして、
『だって、それは、無粋というものでしょう』
と言った。
「無粋?」史岐が眉をひそめる。「言葉の意味、わかってんのかな」
「うーん、みいちゃんが何をもって粋とみなすのか、それがわからないと、何とも……」
寛奈は天井に視線を向ける。
バブル・ガムのように膨らもうとしていた彼女の想像は、しかし、突然の刺激によってかき消された。階段の下でベルが鳴ったのだ。
少し籠もったような、その音は、まだ鮮明に覚えている。この店に入る時に聞いた音だった。
誰かが入り口のドアを開けたのだ。




