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コンフィズリィを削って a carillonist  作者: 梅室しば
五章 槻本を継ぐ者
18/20

錆びた旋律

 史岐は、槻本邸の一室でオルゴールの螺子(ねじ)を巻いた。

 ことん、ことんと機械が動く音がして、やがてメロディが流れ出す。

 いつものように、畳敷きの部分よりも一段高くなった板の間で脇息(きょうそく)にもたれかかっていた美蕗は、目を閉じ、かすかな笑みを浮かべて、その旋律に耳を傾けた。

「これは、どういう曲なの」

「イングランド民謡だよ」

 史岐が答えると、じゃあ、歌詞があるのね、と言う。

「ある。日本でも時々流れているから、有名だと思うけれど」

「歌ってみて」

 そう命じられる事は、この屋敷の門をくぐる前から予想していたので、史岐は正座をしたまま冒頭のフレーズを諳んじた。

 視界の左側、大きく切られた窓硝子の向こうでは、葉桜が霧雨に烟ってほとんど色彩を失っている。こういう日に、ふっと心に兆すような、仄暗く、それでいて、どうしようもない懐かしさをかき立てる歌だった。

「不思議な歌ね」史岐が歌い終えると、美蕗は呟いた。「何の話をしているのか、よくわからない」

「今でも、そういう捉え方をする人が多い。曲が作られた経緯も、作者もはっきりとしないし、ストーリィ仕立てになっている訳でもない。登場するハーブの組み合わせが魔除けのまじないになっているとか、あの地方に元々存在していた伝承をモチーフにしているとか、色んな解釈があるけれど、極端なものだと、曲自体が一種の呪いだという説もある」

「美蕗は、そんな歌が好きだったのかしら」

 訝しげに眉をひそめた史岐に向かって、彼女はにっこりと微笑む。

「わたしの出生祝いだもの。母の腹の中にいる時に、曲の好みについてどうこう言う術がわたしにあって?」

「いや……」かすかな違和感が残ったが、史岐は首を振る。「それにしても、よく、八尋壺のヌシが絡んでいるとわかったな。どうやって調べたんだ?」

「あら」美蕗は片手を口に当てて驚いた表情を作る。「そんなの、当然、わかっているものと思っていたけれど。柊牙(しゅうが)に頼んだに決まっているでしょう?」

 どくん、と心臓が一度強く脈打つのを史岐は感じた。

 史岐の友人でもある潟杜大学工学部の学生・冨田(とみた)柊牙(しゅうが)は、霊視の力を持ち、それゆえに肉親から命を狙われる事態に陥った。その状況は、今もほとんど変わっていないようで、彼は美蕗に奉仕するという体裁で槻本家に匿われている。


 美蕗は、自らの駒として柊牙を扱う。

 彼の霊視の力を、好きな時に、好きな目的で使う権利が彼女にはある。

 だが、それだけでは、八尋壺という地名に辿り着けるはずがないのだ。


 柊牙が出来るのは、物を探す事、そして、ある場所に立った時、その場所で過去に起きた出来事を視界に投影して見る過去視の二つだけだ。

 その事を指摘するべきかどうか、迷っているうちに、美蕗が再び「あら……」と呟いて、顔を横に向けた。

「いけない。これでは駄目ね。柊牙とオルゴールだけがあっても、わかるはずがないわ」

 そう言うと、彼女は史岐の方を向いて、今までに見た事がないほど優しい顔で笑うのだ。

「わたしが気づくのを待ってくれたのね? ありがとう。貴方の沈黙を重んじる姿勢が好きよ、史岐」

 あまりにも、あからさまな誘惑を秘めた喋り方だった。

 この声で、この息遣いで、この眼差しで。まっすぐに好意を伝えられて、狂わずにいられる人間が、果たしてどれだけいるだろう。

 何かがおかしい、と思った。

 その感覚は、柊牙の霊視を使って突き止めたという発言が嘘だとわかった、今でも──否、それだからこそ、強くなっている。


 こんなに簡単にばれる嘘をつく事も、

 その事に気づかないまま、自分に話すのも、

 嘘だと指摘しなかった事を褒めそやすのも。

 何もかも、自分が知っている槻本美蕗とは違う。


 ここにいてはいけないと警鐘を乱打する自分が、意識の片隅にいるのを確かに感じた。

 だが、美蕗は歌を口ずさむように軽やかな声で話し続けて、彼をこの部屋に縫い止める。

「人間というのは、年月が経つほど、あるいは、自身にとって重要ではないと感じるほど、過去に経験した事を思い出せなくなるそうね。自分の躰なのに、不便な事だわ。わたしは、美蕗が経験した事はすべて、正確に思い出せるの。例外を作れるとしたら、寛奈ちゃんくらいのものだわ。浄化の力が強過ぎるから、カメラのフィルムが感光して真っ白になってしまうように、わたしのようなやり方では、彼女と一緒にいた時の記憶が辿れなくなってしまうのね」

「甘粕さんは、見たよ」史岐はそれを伝えた。「あの日、美蕗が何をしたのか、ウタバチの記憶を見て知った。オルゴールの中に入っていた物の正体にも、薄々気づいている」

「そう、触らなかった?」美蕗は、こくっと首を傾げる。「先端に毒が塗ってあるの。まあ、触ったとしても、何年もオルゴールの中に仕舞われて変質しているでしょうから、謳い文句通りの事にはならなかったでしょうけれど」

 美蕗はオルゴールを手に取り、中のクッションに差し込まれていた、小さな銀の針を取り出した。

「自然死に見せかけて殺す事が出来る、未知の毒。だから、このオルゴールが開かない間は、両親は安心して死ぬ事が出来なかった。自分達が死んだ後で分析機関に持ち込まれたら、毒殺だとわかってしまうでしょう? ウタバチは、美蕗を苦しめるつもりで、オルゴールが開かないように細工をしたのでしょうけれど、彼女にとって、これは抑止力だった。事実……」美蕗は、静かにオルゴールの蓋を閉める。「美蕗の両親は、今も生きている」

 史岐は、呼吸をコントロールしようとして、無意識のうちに手をきつく握りしめていた。

「なぜ自分に話したのか、と考えている」美蕗の双眸がすっと細くなる。「つまりね、史岐。貴方がもしも、この事実を誰かに話すような事があれば、その時は自然死の遺体が一つ、増えるのよ」

「僕みたいな若者が、突然死ぬのは、全然自然な事じゃない」史岐は言う。「甘粕さんにも、同じ脅し文句を使うのか?」

「それは、貴方にかかっているわね」

 史岐は目を眇めた。

「……何だって?」

「素晴らしい力だったでしょう?」美蕗は両手の指を絡めて天井を見上げる。「微調整が出来ないから、その道でやっていくのは難しいけれど、史岐は反対にそういう事が得意だわ。貴方と寛奈ちゃんの間に生まれる子どもは、きっと、抜きん出た霊力と、それを律する器用さを併せ持っているはず。然るべき所で教えを受けさせれば、天賦の才に恵まれた術者として、生涯、良く尽くしてくれると思うわ」


 とっておきの絞りを椿の花に入れる秘密を教えるように。

 美蕗は、柔らかく声を弾ませて言う。


「利玖以外の、誰かと、どうにかなる気はない」

「そうね。結婚は現実的ではないわ。残酷だけれど、あの子の家の方が、血筋は良い。正妻には利玖を迎えるのが良いでしょう」

「本気で言っているのか?」

「なあに?」美蕗はぺたんと脚の間に手を下ろし、首を斜めにして史岐を見る。「冗談の為にこんなにたくさん喋るなんて、馬鹿げているって思わない?」

「美蕗」史岐は腰を浮かせ、美蕗以外は踏む事が許されない板の間に手をついて、彼女の鼻先まで顔を近づけた。「今、ここで、僕の目を見て、もう一度同じ事を言ってみろ」


 美蕗は微笑もうとする。

 ゆっくりと持ち上がった唇の端が、

 糸をきつく引き過ぎたように、おかしな方向へ歪み、

 止まらない。

 その現象が、イレギュラな増殖をくり返す細胞のように、

 彼女の表情をばらばらにして、

 顔半分が、一般的な人間のものではなくなった。


 美蕗が後ろから突き飛ばされたように片手をついた。

 史岐は息をのみ、動く事が出来ない。

 彼女の、赤みを帯びた柘榴のような瞳が、長い睫毛が、なめらかな肌が、花弁のような唇が、すべて崩れて、落ちてくるのではないかと思った。

 しかし、美蕗はうずくまるような姿勢のまま、ふーっ、ふーっと荒々しい息をすると、

「柊牙!」

と鋭く叫ぶ。

 引き戸が開き、大柄な人影が飛び込んできた。

 史岐の腕を掴んで、力ずくで立ち上がらせる。そして、そのまま部屋の外へ引きずり出した。

 史岐も逆らわなかった。

 引き戸が閉め切られ、中の様子が見えなくなる最後の瞬間まで美蕗から目を離さなかったが、彼女は板の間で項垂れたまま、ちらともこちらを見なかった。

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