偶には辛口を
佐倉川利玖は、一人で簡単に夕食を済ませた。
二リットルも入る大きな水筒に、豚汁を作って持ってきた。スープ・ジャーとして売られていたものではないので、こういう使い方をしない方が良いのかもしれないが、どうせ、盛夏の限られた機会以外では出番がない。
中身の一部を、スプーンで紙皿に移し、それと一緒にコンビニエンス・ストアのおにぎりを食べた。バーナは、今は撤去され、それがあった場所には明るいLEDライトが置かれている。茉莉花が一緒にいてくれたから、マシュマロを炙る事を思いついたけれど、そうでなければ初めから火は使わないつもりだった。万が一の事態に備えて持ってきただけだ。野外で火を熾すのは、緊張するし、慣れていない。
豚汁には、すり下ろした生姜をたっぷりと入れてあったし、水筒は真空断熱構造の性能を十分に発揮して中身の温度を保ってくれている。食べ終える頃には、満腹感も手伝って、少し汗ばむくらい体温が上がった。
しかし、片付けを終えてしまうと、たちまち何もする事がなくなってしまう。
こんな森の中に一人で残る自分の事を、茉莉花は最後まで心配して、
『着いたらメッセージを送るから、眠くなるまで世間話でもしましょ』
と言ってくれたのだが、利玖はそれよりも、おいしいものを食べて、お風呂に入って、早く寝てほしいと思っていた。
同い年の友人が車を運転している所を見るのは、両親や兄や、史岐がそうしているのを見るのとはまるで違う。自分は、自転車に乗っている時、下り坂でスピードが出る事すら怖くて頻繁にブレーキをかけてしまうのに、車で公道を走る時には、どう低く見積もっても時速四十キロメートルを超える速さであんなに大きな鉄の塊を移動させなければならない。道路標識や歩行者の飛び出し、前後の車の挙動にも気を配る必要がある。本当に難しい、大変な責任が伴う行為なのだと痛感した。
利玖は目を閉じ、椅子の背もたれに頭を預けて、
(茉莉花が無事に家に着きますように)
と祈った。
それから、目を開けて、傍らにあるリュックサックのジッパを下ろした。底を探り、留め具がついた小さな木箱を取り出す。その中には、レースを編むのに使うシャトルと呼ばれる小舟のミニチュアのような道具と、編み図のコピィを折り畳んだものが入っていた。シャトルにはすでに糸が巻かれ、すぐに編み始められるようになっている。良い暇潰しになるかと思って、家から持ってきたのだ。
利玖はライトの近くで編み図を広げ、しばらく、そこに描かれた花のパターンを編む事に集中した。
これは、利玖が今まで取り組んだパターンの中でもかなり初歩的なもので、上達したいと真剣に考えるのなら、それに適した、もっと複雑なパターンが沢山あるのだが、そこまでの熱意はなく、また、今は、このパターンを編みたいと思う、特別な理由があった。
去年の夏の終わり頃の事。
初めて、史岐から実家に電話がかかってきた。その時も、自分はこのパターンを編んでいた。その場で電話に出る事が出来たのは、大学が休みで、たまたま兄と一緒に帰省していた為である。
そんな、些細な偶然を引き寄せようとして、
彼女の手は、片方でシャトルを持ち、
もう片方で糸を手繰って、同じ花を編もうとした。
しかし、この時期、日も落ちた屋外で編み物をするのは簡単な事ではない。外気に触れている所から少しずつ体温は奪われていくし、ライトで照らしていても、室内灯や自然光の下にいるのと比べると、格段に手元は見えにくい。
指が冷たい。
きっと、素手で編み物をしているせい。
ベルが鳴って、ドアが開いたのに、誰も出入りするのが見えなかった。
茉莉花には言わなかったけれど、あの時、きっと史岐は出て行ったのだろう。
どこへかは、わからない。
車があっても、追っていけない所だ。
シャトルは跳ねるように動く。
糸を絡め取り、
ぴんと張った、もう一つの糸の下をくぐって、
結び目を作り、
力加減を変えて。
それがいくつも重なって、模様になる。
たぶん、ここから先へは進められない、という局所的な未来が、突然見えた。細やかに指先を動かせる状態でないと、上手くいかない工程がある。何度も編んでいるだけに、はっきりとわかった。
唇を噛む。
大きくパターンを変えずに、その工程をパスする方法がないか、考えている自分に気づいた時、利玖は思い切ってシャトルをテーブルに置いて立ち上がっていた。
「こんな事には意味がない」
声に出して呟く。
ただの験担ぎ。
史岐が無事に帰ってくる確率に何の影響も与えない事も、そもそも、初めから電話がかかってくる可能性がない事もわかっている。
ここは、圏外でないが、少なくとも史岐の持っている端末は今、電波の届かない所にあるらしい。茉莉花が帰った後、一度だけ電話をかけて、その事がわかった。
本当は、電話なんてかけるつもりはなかった。美蕗が直々に用意した、大切な会食の最中なのだ。迷惑になるだろう。嫌がられるかもしれない。別に、緊急の用事がある訳でもなかったのに……。
シャトルを少し見つめた末に、糸を逆向きに引っ張って、途中まで編み上げていたパターンを全部ほどいた。もう少し進めると、糸をきつく引いて、全体を締める工程がある。その後では、ほどくのも難しくなり、最悪の場合、丸ごと糸を切ってしまうしか方法がなくなるが、まだ間に合う段階だった。
ほどいた糸を再びシャトルに巻きつけて、ひと息つくと、大気の冷たさが肌に染み込むようだった。冷えのせいで、極端な事しか考えられなくなっていたのかもしれない。
豚汁を少し飲んで、躰を温めようかとも思ったが、利玖はテーブルの上に置かれていたライトを手に取って歩き始めた。
ステップを下りて、史岐の車へ近づく。まったく見通しのきかない暗闇が怖かったが、それくらいの距離は何とか我慢出来た。しかし、コテージを背にして歩く間、すべての明かりが突然消えても悲鳴を上げないシミュレーションを三回ほど頭の中で行った。
ライトをかざすと、ツーシータのスポーツカーが浮かび上がる。ボディに反射した光がお化けみたいに踊って、利玖はびくっと肩を震わせた。史岐が、長い時間を一緒に過ごしている物だから、近くで見たら落ち着くのではないかと思ったのだが、持ち主も、搭乗者もいない、真っ暗な森の中にぽつんと残された車は、異星人が回収し忘れたコクピットのように、冷たく、異質な輝きで、あまり長くは見ていられなかった。
利玖は再びテラスへ戻る。
硝子のシェードをかけたランプが、コンテナの上で、ごく限られた範囲を照らしていた。利玖は、持っていたライトの電源を切って、そちらへ近寄る。
シェードの図柄は、様々な色の硝子片を用いたモザイクで、よく見ると、色だけではなく、質感や透明度も微妙に違っているようだ。模様のようなものが初めから刻まれた硝子片もある。もしかしたら、窓や、ジュースや薬の容れ物や、どこかのホールの一部を飾っていたオブジェの残骸、そういった役目を終えたものを集めてきて、砕いて散りばめたのかもしれない。かといって、歪な印象はなく、むしろわずかなテクスチャの違いが色味に変化を与えて面白かった。
柔らかい光だ。
ずっと見ていても、何かを消耗する事がない。
利玖は、緑の硝子片を探して、端から順に目で追った。それは、彼女が唯一、日常的に身につけるアクセサリィにあしらわれた石と同じ色である。名前を蛉籃石という。緑といえば、緑なのだが、高位の妖が力を分け与えて作るという特殊な生まれ方ゆえか、他ではちょっと見かけないような珍しい色味をしている。それと同じものが、見つかるかどうか、それによって運勢を占うような気持ちだった。
前方から、足音が。
まったく突然の事だった。
利玖は息を止め、ゆっくりと視線を上げる。
誰の姿も見えない。
何かが動いている様子もない。
また、同じ音がして、今度はこちらに近づいてきた。
利玖は思わず一歩退き、チョーカーに繋がった蛉籃石に触れる。それは、元々はもっと大きな塊だったのだが、アクセサリィに加工する時に二つに割られ、片方が利玖のチョーカーに、もう片方が史岐のピアスに使われている。
壊れものだから、と触らないように気をつけていたシェードの表面に、その時、利玖の指先がわずかに触れた。
ランプが、天体同士の反応のような眩い光を放った。
利玖は驚愕する。それは、蛉籃石が持つ輝きと、ほとんど変わらない光だった。
ランプから手を離すと、音もなく、元のクリィム色の光に戻る。
息を整えて。
もう一度同じ事を。
片手はチョーカーに。
片手は、指先だけをシェードに。
やはり、色が変わる。
つかの間、悩んだ末に、利玖はしゃがみ込み、ランプの土台を調べた。コンテナと接合する為に、ボルトを打ったような形跡はない。接着剤を使っているなら、見ただけではわからないけれど、端に指を引っかけると簡単に持ち上げる事が出来た。
(……取り外せる!)
利玖は立ち上がり、底面に添えた左手と、上部についたワイヤ状の金具を握る右手の両方でランプを支え持ち、ステップを駆け下りた。
足音は、また少し遠のいている。
迷っているように。
歩調も一定ではない。
だけど、知っている歩き方のような気がした。
利玖は、顔の高さにランプを持ち上げる。左手で喉元の蛉籃石に触れながら、
「史岐さん?」
と囁くような声で訊いた。
足音は、ぴたりと止まる。
やがて、前方五メートルほどの所から、それはまっすぐにこちらへ向かってきた。今度は、はっきりとした気配を伴っている。利玖は、踵がステップに触れそうなほど体を仰け反らせたが、なんとか、その場に踏みとどまった。
足音は利玖の目の前で止まった。
初めは、何も見えなかった。
しかし、数度、瞬きをすると、曇ったレンズを拭くような、きゅっという音がして、そこに人の姿が現れる。今や迸るような烈しい光を湛えたランプは、彼の表情を、闇の中でもくっきりと浮かび上がらせた。
本物だろうか? という疑問を、当然、すぐに抱いたが、わざわざ頭の中で、それを言葉に起こして考えるほど、余裕のある、つまり、セーフティとしての思考だという事は、疑問を抱くのとほとんど同時にわかっていた。
「クイズ」歯切れの良い口調で、利玖は言う。「ベニバナインゲンの学名は、なんでしょう?」
「え? ああ……」史岐は目を瞬かせて、それから服のあちこちを触った。「もしかして、合言葉? ごめんね、ちょっと、画面を見ている余裕がなかったから。えっと、確か、ラテン語だよね?」
「知りません」利玖はステップの隅にランプを置き、彼の胸に飛び込む。背中に腕を回して、抱きしめた。「ごめんなさい。はったりです。おかえりなさい、史岐さん」
*
「じゃあ、八尋壺にはまだ、甘粕さんが一人で残っているのですね」
「うん」史岐は頷き、灰皿を引き寄せる。片手で、煙草の箱を叩いて一本取り出して、火を点けた。「心配だけど……。八尋壺から逃がされた僕は、ここで待つ事しか出来ない。あそこから出る事と引き替えに、ウタバチから受けた傷を、ないものとして処理してもらったんだ。今、戻ったら、彼の厚意をふいにする」
二人はコテージの中に移動して、二階の席でホットのカフェ・モカを飲んでいる。それは、もちろん、史岐の提案によるものだった。利玖は、最初にここへやって来た時、絶対にコテージの中に入らないようにと念を押された事をきちんと伝えたのだが、それに対する彼の返答は、
『あの時は、緊張状態だったからね』という簡素なものだった。『今は状況が違う。甘粕さんが帰ってくるのを待たなきゃいけないし、それなら、コテージの中にいた方が安全だ』
彼はステップを上がりながら、振り返って微笑んだ。
『一応訊いてみるけれど、僕が良いと言えば、断られないと思うよ。利玖ちゃんも来たら? ホットのカフェ・モカでも飲ませてもらおうよ』
その誘い文句の効果は覿面で、利玖はキャンプの道具を引き上げて、史岐について行ったのだった。
ドアを開けて入った所で、史岐は一旦、利玖にその場で待つように言い、自分は左手に進んだ。厨房らしき設備が見える。
何か、ぼそぼそと話すような音が聞こえたが、あまりにも不明瞭で、しかも、距離があったので、それが史岐の声なのか、別の誰かの声なのか、そもそも人の話し声なのか、まったく判別がつかなかった。
しばらくすると、史岐は戻ってきて、上を指さした。
『使って良いって。右の窓際ね』
階段を上って、利玖は驚いた。もう飲みものが置かれていたのだ。ここまで来る間、誰とも会わなかったのに……。
大ぶりな、二つの白いマグカップは、テーブルの同じ辺に並んでいる。向かい合わせに出来ないのは、窓側の席に、まだシチューの皿が残っているからだ。そこに甘粕寛奈が座っていたのだろう。
史岐は、自分の皿をテーブルの隅に寄せ、利玖がカフェ・モカを飲む為の場所を作った。
そうして、彼女は今日、史岐が体験した出来事の一部始終を聞いた。
美蕗の腹違いの姉にあたる潟杜大の学生──今年の四月で、二年生なら、利玖にとっても後輩だ──甘粕寛奈と、二人でここへ来て食事をした事。
ウロモモという妖と会い、美蕗から預かったオルゴールを開けてもらおうとしたが、自分には無理だと断られ、彼がヌシを務めている、八尋壺という土地へ案内された事。
そこで、寛奈の力を使って、先代のヌシであるウタバチを祓う事になったが、一度では仕留めきれず、怒り狂ったウタバチからウロモモを庇って負傷した史岐は、そこから逃がされ、この近くまで何とか戻ってきた事。
すべてを聞き終えると、利玖は頬に両手を当てた。目をつむって、眉間に皺を寄せる。
「何か気になる?」史岐が灰を落としながら訊いた。
「あ、ええ……」利玖は目を開き、軽く下唇を噛む。「あの、これは、わたしの怒りからくる発言だと思って聞いてほしいのですが」
「怒り」史岐が平淡なトーンでくり返す。
「どうして、史岐さんが呼ばれたのでしょう? ご自身でもおっしゃっていましたが……。いえ、美蕗さんと親交があるから、というのが理由の一つである事はわかります。ですが、それだけで唯一の同行者に選ばれるほど、今回の事態は、軽くない。これではただ、危険な目に遭わされただけではないですか。ヌシが直々に自分の領地へ招いておきながら、史岐さん一人を逃がすのだって、ちゃんと出来ていない。本当は、来た時と同じドアをくぐって帰還するのが正しい手順なのでしょう? それを、あんなに不安定な……、ランプと蛉籃石がなかったら、今頃どうなっていたか……」
史岐が突然、喉の奥で笑い声を立てたので、利玖は驚いて彼の顔を見た。彼はカフェ・モカの香りを嗅ぐように、マグカップを顔に近づけながら、
「珍しく、辛口」
と呟く。
そんな事はない、と言い返しそうになったが、自分の中で強い力が働いて、それを引き止める。一気に喋り過ぎた事も、言葉の選び方にいちいち棘があった事も、少し自分の言動を省みるだけで簡単にわかった。
しかし、気持ちを落ち着けて、もう一度初めから考えてみても、史岐をこんなに振り回して、いくつもの危険に晒しておいて、その理由が「ヌシになってまだ日が浅いから」というだけでは到底納得出来ない、という結論に至ってしまう。
顔を合わせる機会のないウロモモに対して、そう考えている分にはまだ良い。問題なのは、この後、甘粕寛奈と対面した時、自分は果たして理性を保った言動を取る事が出来るだろうか、という点だ。
「うーん」と利玖が渋い表情で頬杖をつき、
「また唸ってる……」と史岐が呟いた時。
階下で、低く籠もった、遠雷のようなドアベルの音色が鳴った。
二人は、顔を見合わせ、ほとんど同時に立ち上がる。すぐに階段には向かわずに、手すりから顔を出して下の方を覗き込んだ。
ドアを開けて入ってきた人物が、びっくりしたように立ち止まり、目を丸くして利玖達を見た。
「甘粕さん」史岐が声を張る。「大丈夫? どこも怪我していない?」
「はい」彼女は、しっかりと頷く。「あの、先輩も……」
しかし、その後に言葉が続かない。全力で走ってきたように、彼女が息を切らしている事に、二人はようやく気がついた。
利玖は、そばにあった台に飛びついて、ピッチャからグラスに水を注いだ。それを持って階段を下りようとすると、史岐が片手を広げる。
「僕が持つ」
利玖は頷き、彼にグラスを渡して、先頭で階段を駆け下りた。
戸口にしゃがみ込んでいた甘粕寛奈は、放心したような表情の為だろう、写真で見るよりもずっとあどけない印象だった。両手で、大事そうにバッグを抱きしめている。見える範囲に傷はなかったが、髪や服のあちこちに葉の切れ端をくっつけて、頬にも泥が飛んでいた。
「佐倉川利玖です」利玖は、寛奈の前で膝を折り、ポケットから取り出したハンカチを彼女の頬に当てる。「甘粕寛奈さんですね? 史岐さんからお話は伺っています。大変なお務め、ご苦労様でした」
「いえ、そんな……」寛奈は、慌てたように言葉を返そうとしたが、利玖のハンカチが丁寧に顔の汚れを拭っている事に気づくと、黙って目を閉じた。
「歩けそうですか?」やがて、ハンカチを仕舞って立ち上がった利玖が、寛奈に片手を差し伸べる。
「はい」寛奈はその手を取って立ち上がり、瞬きをすると、ゆっくりと深呼吸をして笑顔を作ろうとしたが、水の入ったグラスを持って近づいてきた史岐を見た途端、はっと躰を震わせた。
「ごめんなさい」利玖を見て、寛奈はほろほろと涙をこぼす。「わたしが一度で仕留められなかったから、先輩を危ない目に遭わせてしまいました。本当にごめんなさい」
「大丈夫、どこも怪我していないよ」
史岐が優しく言う。
しかし、寛奈は何度も首を振り、終いには片手で顔を押さえてうつむいてしまった。
「よかった……」肩を震わせながら、寛奈は呟いた。「取り返しのつかない事になったら、どうしよう、何をしたら償えるだろうって、ずっと考えていました。帰りを待っている方がいるのに……。だから、無事で、本当に……」
「貴女もですよ、甘粕さん」
利玖が寛奈の躰に腕を回し、そっと抱き寄せる。
寛奈は、彼女の肩に頭を預けて、子どものように泣いた。




