満開の花
記憶の追体験が終わった後も、完全に覚醒する事に対して、寛奈の意識は少しだけ抵抗した。ここが現実ではないと感じていたからかもしれない。
現実ではない?
本当に、そうだろうか。
だけど、こんな風に、どこに居ても花の香りがするという事態は、寛奈が暮らしている世界ではそうそう起こり得るものではない。
植物園の大きなビニル・ハウスの中。
満開の藤棚の下をくぐり抜ける時。
死者へ手向けられる白い花。
実のところ、寛奈は花の香りに対して、マイナスのイメージを抱いている。ゼロを下回っている、というのではない。世間一般の平均よりもやや低い、という意味だ。
畑で育てる作物は、花をつけると、じきに枯れる。
人間が、美しい、可愛らしい、と褒めそやす花が咲いているのは、ほんのわずかな期間だけで、受粉を終えると、たちまち萎んで結実へと向かう。その為に彼らはありったけのエネルギィを凝集させる。その凄まじさといったら、見ているだけで、ぞっと鳥肌が立つほどだった。
満開の花に囲まれた時には、いつも、いたたまれないような気持ちになった。
大勢の声なき声が飛び交う中に、溶け込めないものとして立ち尽くしている事が、うっすらと不安だった。
きっと、
ウタバチが子どもを嬲ったのも、同じ動機。
自分とは、反転しているというだけ。
のびやかに育っていた株の一部に、花という、色も形も質感も、まったく異なる部位を生じさせ、それが死滅する過程が特別なものだと考えた。
寛奈は目を開く。
紛れもない、本物の光が網膜を刺激した。
眩しい。
深呼吸をしようとしたが、喉が半ば塞がったように息苦しい。体を丸めた不自然な姿勢で、誰かに運ばれていた。足の下に見える景色が、飛ぶように後ろへ流れていく。
視線を上げると、少年の顔があった。
ウロモモだとわかるまで、少し時間がかかった。髪と瞳の色が、さっきまでとまるで違っていたし、自分を抱えて走り続けるような力があると信じられなかったからだ。
しかし、これは現実。
寛奈の意識は正常に覚醒した。
「下ろして」
自分を支えている腕を押さえながら言うと、ウロモモが、はっとこちらを見て立ち止まった。
「寛奈……」
「ごめん」寛奈は、彼の腕を振り解くようにして地面に下りる。「わたし、失敗したんだ」
「違う。おれの読みが甘かった」
寛奈は黙って首を振る。
「史岐は、八尋壺の外へ逃がした」ウロモモが話す。
彼の瞳は、今、南天の実のように赤く、髪の毛は対照的に、輝くように白い。
「結界が壊れて、ウタバチが襲いかかってきた時、おれを庇って一撃を食らった。穢れに蝕まれる前に八尋壺の外へ出したから、あっちにある体は無事だと思うが」
「よくわからない」寛奈はもう一度、ゆっくりと首を振る。「ウタバチさんから庇って、怪我をした。でも、それは、ここにいる間だけの事。元いた世界では、なかった事になる。それで合っている?」
「ああ」ウロモモは頷く。「史岐が庇ってくれたから、そういうやり方で帰してやる事が出来た」
「ありがとう」
それがわかれば十分だった。
寛奈は立ち上がる。
ウロモモの視線を追うと、宙を泳ぐようにこちらへ近づいてくるウタバチが見えた。
体の大きさが、さっきと比べて半分ほどになっている。腕も目も一つずつしか残っていない。それでも、放っておいて死ぬようには見えなかった。
一瞬、繋がってしまって、それで彼の記憶が見えたのだろう。
寛奈の力は、電流のようなものだと史岐は言った。鞭でも、火でもない。一端を握ったままぶつけようとすれば、力そのものが媒体となって、自分と相手を繋げてしまう。
「寛奈、怖いだろうが、心を決めてくれ」空を見上げる寛奈の隣に、ウロモモが立って話しかけた。「おれを食い損なって、ウタバチは激昂した。おれの血がかかった花豆を食べているし、次は防ぎ切れないかもしれない。おれが斃れたら、八尋壺もなくなる。眷属の兎も、おまえも、崩壊に巻き込まれて消えてしまうかもしれない。だから……」
寛奈の顔を覗き込み、ウロモモは息をのむ。
頬が濡れていた。
透きとおった滴が、ひと筋、耳たぶをかすめるように肌を伝い落ちている。
彼女自身の表情は、しかし、女神の像のように静謐で、まったく歪んでいない。
泣くべき時に泣く事が出来なかった誰かの為に、一粒だけ涙を作ってあげたような横顔だった。
「わかってる」寛奈は頷く。「今度はしくじらない。早く帰って、みいちゃんに訊かなくちゃいけない事がある」