過ぎた日
決して自分には知り得るはずのない記憶を見た。
少女が紙に何かを描こうとして、長いこと悩んでいる。
目の前にある池をじっと見つめた後、鉛筆を持ち、紙に近づけるが、先端が紙面に触れる直前で、それは糸が切れたように向きを変える。ずっとそのくり返しだった。紙にはまだ、線の一本も引かれていない。
ため息が、彼女の胸から押し出される。
手慰みにもぎ取られ、路傍でゆっくりと朽ちるのを待つ花のような後ろ姿だった。抗う力を失い、遣る瀬のない焦燥に包まれてもなお、一縷の美しさが宿っている。
自分の顔が動くのがわかった。
口の端を持ち上げる。
嗤ったのだ。
それは、厳密に言えば、寛奈自身の顔ではない。この日、この場所で、この光景を見ていた者の顔だ。
疼くような期待で腹の奥が熱くなる。
この娘は、きっと美味しくなるだろう。
何も手を加えずに味わっても良いくらいの一級品だ。
しかし、それでは勿体ない。
可愛らしい兎をプレゼントしてあげよう、と思った。
実際は、そんな言葉で表せるほど単純な思いではない。もっと複雑で、色々なものが沈殿し、濁った渦を生み出していたが、二十年と少し生きただけの凡庸な人間である寛奈には、この感情を欠片も理解する事が出来なかった。
毛並みの綺麗な子兎が良いだろう。
もちろん、人を怖がらない、元気の良いものを選ぶ。
少女と──美蕗と、その子兎が、仲睦まじく遊んでいる所を想像する。
それを壊した後の事も、想像する。
波打ち際でぬるい潮水に全身を浸すような、昏い興奮がこみ上げた。彼は、そうして、幾人もの子どもの心に、一瞬の安らぎと、それを触媒にした深い傷を与えてきたのだ。
自分の手から、子兎が放たれる。
子兎はまっすぐに美蕗の元へ向かい、地べたに座っている彼女の腰の辺りに頭をすりつけた。
美蕗は、驚いたような表情で振り向いたが、すぐに笑顔になる。細い指を伸ばし、くすぐるように子兎の喉を撫でた。
子兎は、やがて、甘えるように美蕗のスカートにつかまって、膝に上ろうとした。
しかし、そこには画板が乗せられたままだ。
予備の紙がないのだろう。子兎が紙を踏んでしまう前に、美蕗は慌てた様子で画板を持ち上げ、脇へよけようとする。
彼女はそこで、硬直した。
美蕗の膝の上に乗った子兎は、何かの変化を感じ取ったように、上を向いて鼻をひくひくとさせている。
美蕗は、前を向いたまま動かない。
この位置からでは、まったく表情がわからない。
それでも、画板を置き、ゆっくりとした手つきで子兎の背中を撫でている美蕗が、何を考えているのか、寛奈にはわかってしまった。
彼には予想外の事だったようだ。
美蕗が、服の中から取り出した、コンパクトのようなオルゴールの蓋を開き、その中に入っていた細く小さな銀色のもので子兎の首を刺した時、非常に大きな驚きの感情が伝わってきた。
彼の眷属である兎は、普通の兎のように死ぬ事はない。だが、美蕗が何の躊躇いもなく、それを為そうとした事に、少なくない衝撃を覚えた。
しかし、それもすぐに、魅力的な刺激へと転化する。
何の気なしに口に含んだ林檎の中にたっぷりと蜜が詰まっていた時のような、少しの驚きと、それに続く果てしない期待、そして悦びに、躰が熱くなる。
彼は、美蕗の前に姿を現した。
子兎を指さして、それが自分の眷属である事、美蕗の行為の一部始終を見ていた事を伝える。
鐘を叩くようなもの。
これくらいの事で、壊れるとは思っていない。
どんな音が返ってくるのか、確かめる為の手順だった。
──この異形は、本当に良く人間の子どもの心を見抜いている。
事実、美蕗は、彼を見てもまったく驚かなかった。黒い瞳に怜悧な光を湛えて、無言でこちらを見つめている。眷属を餌として使うような心根を持っている事を、彼女もまた見抜いていたのだろう。
最初、子兎を見て微笑んだのも、たぶん、作りもの。
近くに飼い主がいて、自分はその人物に見られていると思ったのだ。しばらく、子兎を撫でながら周囲の気配を探り、誰もいない事を確かめた。
まるっきり的外れではない。寛奈がやって来るまで、確かに、あの池のほとりに美蕗以外の人間はいなかった。
考えをめぐらせる。
どうしたら、この蜜をもっと甘く、複雑な香りに仕上げる事が出来るだろう?
彼女が持っている針が、きっと、それを示すはずだ。
それで何をしたのかと問うと、美蕗は、針を持っていない方の手の薬指を唇の下につけて、
『まったく苦しまずに死ねる、と聞いたのだけど、人で試す訳にいきませんから』
と答えた。
彼女は、滔々と話を続ける。
それを親から授かった事。
いつか、それを使う日が来る事。
だけど、その時までは、絶対に他の人に存在を知られてはならないと、きつく言いつけられている事。
期待がさらに大きく膨らむ。
この娘は、まじないか何かを生業にしている家の子どもなのだろう。穢れとも少し違う、業のようなものが、湖の底で永久に動かない骸のように、深く身の内に沈み込んでいる。
少女が持っている針に手を伸ばす。
「だめよ」美蕗は、くすっと笑いながら身をよじった。「取っちゃだめ……」
針をオルゴールに入れて、蓋を閉める。
ああ、壊れている、と。
彼と、寛奈の感情が、ひとつに重なった。
しかし、彼は──ウタバチは、それこそが、自分が求めていた要素だと気づいた。
真っ黒な腕がひゅるんと伸びて、オルゴールに触れる。
「きゃ」
美蕗は、小さな声を上げてオルゴールを取り落とした。
腕を通して、オルゴールに自分の力を注ぎ込む。それは、飴が焦げ付くようにオルゴールを覆い、がっちりと固めてしまった。
自分が腕を引っ込めると、美蕗は手を伸ばし、オルゴールを拾い上げた。
その時、蓋が開かない事に気づいたようだ。留め具を調べたり、こんこんと指で叩いたり、力任せに開けようとしたが、ごく短時間で諦めた。
「そう……。こうされるのが、一番困ると、お考えになったのね?」
美蕗は再び笑い始めた。
くすくすと、
本当に可笑しそうに、片手で口元を隠し、
それしか出来ない人形のように笑う。
ウタバチは、もう笑っていない。
「惜しいわ。それでは、次善です。……ええ、確かに、この事態も十分迷惑です。どうしようかしら。針をなくしたと知られたら、次は、どんな罰を受けるの? また蔵に入るのかしら。前は、途中で食べものが傷んでしまって大変だったの。ええ、だから、次は初めからもらえないかもしれませんね。蔵の中に、何か、食べられるものがあるかしら?」
美蕗はすうっと息を吸い込み、空を仰ぐ。
「でも、そんなの、今すぐに起こる事じゃありません。わたしがなぜ、こんな所まで来ているか、ご存じ? 絵を描く為です。それが出来なければ、帰れないの。外に出て、そこにあるモチーフで描く事に意味があるそうよ。全然理解出来ないわ」
美蕗は、子兎を地面に下ろす。もはや自分の体を支える力すら失った子兎は、すぐに倒れそうになったので、美蕗は石を挟んで姿勢を保持させた。
「描き終わったらお呼びしますから、連れて帰ってくださる?」
子兎の耳を綺麗に撫でつけながら、美蕗は言った。
「こんな所で、子兎が一匹だけ、怪我もないのに死んでいたら不自然だわ。どこかに運ばれて、検査にかけられてしまうかも。今は、わたし、それが一番困りますの」