7. 聖女誕生
忘れるわけがない。見間違うわけがない。
十七年、毎日毎日嫌になるほど見てきたのだから。
ぱっとせず、地味で可愛くない前世の桃菜の姿だ。小綺麗な淡いブルーのワンピースが砂埃で汚れたって気にした様子もなく、防壁を解除しアシュトンを助け起こしている。しかもふたりは前からの知り合いなのか「アシュ、大丈夫?」「ああ、大丈夫だよ。ありがとう、助かったよ」と気安く言葉を交わしていた。
何よりもモモナが気に入らないのはアシュトンの表情だ。
比べて見れば一目瞭然、モモナに向けられたものよりも一層甘く溶けた瞳が前世の桃菜を映しているなんて。自分に向けられていると思っていたのに。信じられない。許せない。あんなぱっとしない女にこの美しい姿が負けるなんて。
前世の己の姿に沸々と湧き上がる苛立ちをモモナは隠さぬまま。
「あんた、誰よ……! アシュトンから離れなさいよ!!」
突然金切り声を上げたモモナに周りからの視線は冷たい。当然と言えば当然だ。わざとではないとはいえ、モモナのせいでみなが慕うアシュトンが下手をしたら死んでいたかもしれないのだから。それを謝罪するでもなく、助けてくれた少女を感謝どころか罵倒したのだ。重ねて第一王子を敬称なく呼ぶ不敬まで。
セシリアとの噂で同情的にモモナを見ていた者や、モモナの美しさにすっかり酔いしれていた者も戸惑いの色を隠せない。
しかし今モモナに時間を割く余裕などない。魔王は待ってはくれないのだから。
アシュトンは興奮した様子で少女睨みつけるモモナを一瞥しただけで、何事もなかったように指示を飛ばし始める。
「再度陣形を立て直す…! 正門と東門はそれぞれ宮廷魔法師団団長と騎士団団長が指揮を取り必ずや守り抜いてくれるはずだ。我々も住民が避難した教会を必ず守り通す!! 怪我人は教会に急ぎ運び入れろ!」
これもモモナの知る台詞のひとつ。ボロボロになりながらアシュトンが声を張り上げて鼓舞するシチュエーションは、プレイヤーの胸を熱くさせた。先ほどまで立っているのもやっとだった者たちも、まるでなにかに背中を押されるように息を吹き返していく。
それを傍で身を寄せて聞いているのはヒロインであるモモナであるはずなのに……なぜだ。
今アシュトンの隣に居るのはヒロインであるモモナではなく、前世の桃菜の顔をした少女。
「アシュ、チャドさんも今応戦してくれてる。これ、チャドさんから預かってきたの。アシュの役に立つはずだって」
少女が取り出したのは掌サイズの大きな魔法石。色が濃ければ濃いほど性能が高いとされる魔法石の中でも一等濃い。
チャド。国宝級の魔法石。そこから導き出されるものをモモナはもちろん知っていた。
「なんで、あんたがそれを持ってるのよ…! チャドだって、なんであんたが知ってるの!? それは、私が通るはずのルートなのに…ッ!!!」
チャドとは過去魔王を封印した勇者の末裔であり名のある冒険者だった老夫だ。渡された魔法石はまず間違いなくゲーム内最強のアイテムである勇者の秘宝。身に着けると剣技も魔法もバフ効果が加算される代物だ。
チャドは本来アシュトンと週末イベントで遭遇するお助けキャラである。
しかしモモナはアシュトンとの週末イベントだけ全く発生せず、仕方がないからとチャドだけでも探そうと躍起になっていたが終ぞ見つけ出すことはできなかったのだ。
そのチャドが魔王襲撃に加勢してくれることでヒロインたちに時間の猶予が生まれ、聖女覚醒ギミックの難易度も下がり、クリアが格段に簡単になるというシークレット枠でもある。それをなぜ前世の桃菜の姿をした少女が知っているのか。モモナは訳が分からなかった。しかしその問いに答える者はいない。
ただ、少女はモモナの取り乱し形相を歪めてまで叫ぶ姿を複雑そうな目で見ていた。
「……来るぞ…!」
アシュトンの声と共に再び魔王との戦闘が始まった。それぞれがそれぞれ、自分に持てる力を最大限に発揮して自分達の街を、国を守ろうと必死に立ち向かう。各領からの援軍が全速力で王都へ向かっているとの一報もあったが、到着するまで持つかどうかも正直危うい。だが、諦める訳にはいかない。
みなが団結して魔王と対峙した。
╌
どれくらい攻防が続いただろう。
疲弊していくアシュトンたちとは異なり、傷ひとつついた様子の無い魔王は緩く首を傾ける。
「それだけか? 私を地上に引きずり落とすこともできないとは……。クククッ、……聖女が居なければこんなものか」
聖女という言葉に反応するのは、モモナだけ。
それもそのはず、この世界で昔魔王を封印した勇者の傍にいた聖女の存在は、いつの間にか歴史書にも登場しなくなっていった。それに気づいた過去の学者や王族たちが付け加えても、まるで本のページが意図的に抜け落ちていくように、聖女の存在だけ登場しなくなり、今はもうすっかり人々の記憶から消え去っている。
モモナすらその事実は知らない。
「はあ……つまらん。もう少し張り合いがあると思ったが、所詮下等生物というわけか。これ以上相手にするのも面倒だ。――終わらせてやろう」
軽く掌を空にかかげると、魔王は低く笑った。
「まさか……、何匹いるんだ……っ!?」
魔物をすべて倒し、残るは魔王だけかと思われていたが、背後の空が暗くなっていく。押し寄せるのは千はくだらない魔物の大群であった。
最後の力を振り絞り、奮い立たせた心が折れる音がする。
諦めてはならないとどれだけ鼓舞しても圧倒的な力を前に、誰しもの心に絶望が忍び寄った。
最強と謳われた団長たちもその後を継ぐはずであった優秀な嫡子たちも、そして国を守ろうと前線に立ち続けたアシュトンも、みな地に膝をつく。魔物を率いた魔王の前に無残に散る、そんな最後になろうとは。
地に膝をつく者たちを上空で見下ろす魔王の瞳に慈悲などない。指先ひとつで操る闇魔法は、押し寄せる魔物たちと共に王都を覆うほど大きな球体となっている。その球体は降り注ぐ太陽さえ遮り、王都に仄暗い闇が広がった。
――もう、駄目だ。
そう思った。ただひとりを除いて。
「……っ、負けない……私、お父さんにもお母さんにも…、コリンにもまだ会えてないもの…ッ! 必ずまた会いに行くって…誓ったから…!!」
立てる余力など残っていないはずなのに、桃菜の顔をした少女は決して消えることのない強い意思を瞳に宿していた。
「フィオナ…!」
「アシュ。最後まで諦めないで! あなたが諦めてしまったら、この国の人たちはどうなるの!?」
「フィオナ」とアシュトンに呼ばれた少女は、瓦礫に手をかけ必死に立ち上がろうと力を込めた。
その姿に触発されたのは傍で膝をついていたアシュトン。フィオナの瓦礫にかけた手とは反対側を手を取り、共にあると言わんばかりに強く握りしめた。
「フィオナ……? フィオナって……まさか」
聞き覚えのある名前にモモナは更に愕然とする。
フィオナ、その名前は間違いなく<アマトカ>ヒロインの初期設定の名前だ。
そんな、まさか、と現実を受け止めきれないモモナの目の前で、見つめ合うふたりは互いが互いを支えるように立ち上がる。傍にはふたりを守るようにコンラッドとネイサンが力を振り絞り魔王の攻撃に備え、それに続くのは当然トバイアスとセドリックだ。
「そんな……それは、……私の、場所…ッ」
モモナはその光景を知ってる。
喉から手が出るほど欲した、モモナが望む場所。
迫りくる魔王からの一撃に、フィオナとアシュトンを中心とした面々が臆することなく立ち向かう。自分自身の力を信じ、国を、国民を、お互いを守るべく。
フィオナは自分にある魔力を根こそぎ出し尽くしてでも、最後まで諦めないと覚悟を決めた。両手を組み、強く願う。
愛しい人々を、この国を、もう一度家族と再会する未来を守るために。
――私の愛しい子よ。よくここまできましたね。
一陣の風に乗って、心を震わせた声は優しく満ちるように響く。
母の腕に抱かれるような、父の背で眠るような、心がほぐれていく安堵に包まれて、フィオナの頬に一筋涙が落ちた。
涙が独りでに掬われて、ぱちんと目の前で弾けるとフィオナの身体の内側から幾筋もの光が眩く輝き始める。アシュトンはそれでもずっとフィオナの手を握ったまま。
みなが驚き戸惑うなかで、女神が微笑んだ。
「なんということだ……」
魔王だけは事の次第に誰より早く気付く。それは、初めて顔色を変えた瞬間でもあった。
ひとり愕然とした表情で絶望に崩れ落ちるモモナと、対照的にアシュトンに支えられながらも希望に満ち溢れたフィオナ。
フィオナは身体に溢れてくる暖かな力を確かに感じていた。
胸の奥でまた優しい声が響く。あなたならできると。
――今、ここに聖女が誕生した。
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