十五夜
「月が綺麗ですね」
すっかり日も暮れた部活終わり、いつも通り同学年7人での帰り道。顧問の悪口で盛り上がっていたところ、ある1人が呟いた。
普段、この手の話題に入ってくることがあまりない子が会話の途中で切り出したせいか、一緒に歩くみんなは少し歩調を緩めて空を見上げる。
さなか、僕だけは違う方向に視線を移していた。反射的にとでも言うべきか。
彼女が発言したことにびっくりしたからではない。その言葉の意味を僕は知っている気がしたから。
だから、月ではなく、気づいた時には声の聞こえた方向に振り返っていた。
後ろを歩いていた4人の中の1人、声の主と目が合う。
目が合ってしまってから、少し恥ずかしくなった。ただのありふれた呟きのひとつだったかもしれないし、この状況で誰かに向けた言葉なんてわけもないだろう。そういう意味で発されるようなシチュエーションではないことも少し考えれば分かるはずだったのに。
「ほんとだ、きれい〜」「大きいね〜」「でも、ちょっと雲で隠れてるね〜」という声が周りから聞こえる。これが正しい反応だったな、と身に染みて感じる。一層恥ずかしさが増す。
あの反応は僕の思い過ごしだったんだと誰に弁解するでもなく心の中で唱え、後ろに向けた視線を前方にずらしつつ。
視界の端で捉えた彼女は、こちらに向けて、いたずらっぽく微笑んでいた。
少し戸惑いながらも視線を元に戻し終え、そのすぐあとに周りのみんなも再び前を向く。中学生の関心なんてものはすぐに移り変わるもので、月を見上げる者はいなくなった。元の速度で帰り道を歩き出す。僕も集団の流れに逆らわないようにそれに倣う。
周りでは再度顧問の悪口が始まった。やはり彼女の声は聞こえてこない。
僕もその手の話題はあまり得意では無い。ただ、会話にも混じらず、流されるように歩いているだけだと、どこか手持ち無沙汰感が否めない。それを解消するかのごとく、今度は僕だけが空を見上げる。周囲から浮かない程度に。
ふと、今この瞬間、彼女も同じように空を見上げているのかもしれないと思った。
そうか、さっきのあの表情の意味は。誰かをからかうときに見せるあの笑顔。あの場面では。
あの言葉とその後の出来事、どこまで意図的で、どこまで偶然なのか。あの言葉を選んだ理由は。
そんなことは何も分からない。何も知らない。
彼女は何となく居心地の悪い空気を打破したかったのかもしれない。僕もその気持ちを分からないではなかった。
行動に移したのがたまたま今日で、たまたまあのセリフだった。話を逸らせたことに満足した。
それだけの笑顔だった。
そうであって欲しかった。
でも、多分、違っていて。
いつもは口を閉ざしていればやり過ごしていられるその時間を遮る理由が。
彼女自身が言葉を発する理由が。
それが万が一にでも、僕のためでもあったならば。
したり顔だったのであれば。
今度はおもむろに月を見上げる。
心もとないようで、どこか安心感を感じる自然の光の下で。ふぅと一息つく。心を落ち着かせる。
もう、月を隠す雲なんて、そこにはなかった。
「月が綺麗ですね」
なんの脈絡もなく発せられたその言葉は、再度会話を遮った。さっきも聞いたであろう響き。さっきとは違う空気。
みんなの戸惑い混じりのその視線は、月ではなくこちらに向けられた。それで良かった。
彼女と僕だけが知っていればいいことだ。彼女がこの言葉の意味を、行動の意味を、存分に悩んでくれればいい。僕からの仕返しだ。
周りのみんなからの、なんでまた? という疑問や、今更? などいじりのようなものを受け流しながら、そんなことを思った。
彼女の声は相変わらず聞こえなくて、どんな表情をしているのかも分からない。
ただひとつ、あのしたり顔を守れていたのなら良かったと思う。それを確認するほどの勇気は、あいにく持ち合わせていなかった。
一通りのからかいを受け流し、今度はまもなく控えている文化祭の話に移る。
ほんの少しの達成感と同時に、僕の生きる世界の狭さを実感する。
それでも。
僕らが普段とは違う行動をして守った些細な居心地も、たった数文字の言葉だけで2人だけが共有した数瞬の時間も、このどうしようもないほどスケールの小さな世界が、この上ないほどに僕の心を満たしてくれていた。
目一杯に反射された太陽の光が前方を照らす。
決して明るいとは言えないその明かりを、失いたくないなと思った。
十五の夜、自分のことをちょっとだけ好きになれた。