クリスマスのコンビニのイートインで独りでチキンを食べている女のひとは好きですか?
死にたくなった。
理由は単純明快だ。
今日が十二月の二十五日のクリスマスで、私が二十九歳の独り身で、ひとりで発泡酒を飲むくらいしか楽しみがない人間だからだ。退勤の勢いでロング缶のパックとツマミを買ったはいいものの、二缶と半分を開けたところで続かなくなった。ヘタにアルコールを入れたせいで死にたさが倍増したからだ。クリスマスは毎年、独り身の女同士で集まるのが大学時代からの恒例行事だった。当時は五人いた集まりもひとり減り、ふたり減りと順調に数を減らし、去年、とうとう私を含めたふたりになった。去年は翌日のことなど考えず、この十年間で一番酒を飲んだ。酒を飲んで、友人と『私たちは一生独り身だ』と叫び合った。その友人から恋人ができたという報告が届いたのが先週の出来事だった。自分がきちんと『おめでとう』と言ってやれたのか記憶になかった。正直なところ、言えてなかったところでなんら問題はないとすら思っていたけど。ともあれ私は今日、生まれて初めてひとりぼっちのクリスマスを過ごしているわけで、そこに二十九歳というスパイスが利きすぎていて油断すると涙すらこぼれそうだった。
「……どっか行こう」
微酔いにすら達してない足取りで雪道を進み、私が向かったのは近所のコンビニだった。
喧しい入店の効果音が頭上から降り注ぐ。
店内にはこれ見よがしにクリスマスソングが流れていてだれでもいいから殺したくなった。
「しゃーせー」
孤独感と殺意を持て余していた私へとやる気の張りに欠けた挨拶が飛んでくる。その挨拶すら喧嘩を売っているように感じられた私は、キッ……と反射的にそちらを睨んでしまう。
――まずはお前からだ!
なんて物騒なことを考えながら。
レジの向こうに立っていたのは、軽薄そうな女子大生(憶測)だった。
女子大生は軽薄そうな顔を困惑に歪め、私のことを戸惑い混じりに見つめていた。
……なんだ、お前、喧嘩売ってるのか? クリスマスにアラサーが独りでコンビニにきてるのがそんなにおかしいのか? おらっ、この野郎、こっち見んじゃねぇよ、いてまうぞ。
そう思いかけたところで、恋愛盛りの女子大生がクリスマスにバイトに勤しんでいる意味に気づく。普通、恋人持ちの女子大生にとって、この手のイベントはなによりも重たいはずだ。
バイトにでるぐらいならバイトを辞めてやる。
それぐらいの狂信的な姿勢をクリスマスに向けていてもおかしくないはずなのだ。
少なくとも私が大学生だったときの周りの反応はそんな感じだった。
そもそも大学生なんてクリスマスに恋人と楽しく過ごすためにバイトをしているような輩だがほとんどだったし。にもかかわらず彼女がそこに立っているということは、すなわち、
……お前も独り身なのか。
そうと気づいた瞬間、先ほどまで腹立たしかった態度のすべてが許せてしまう。むしろその態度が余裕のなさに見えて愛おしさにも似た想いを感じてしまい、私はここを自分の居場所に決めた。とりあえずクラフトボスのミルクティーとホットスナックのチキンを購入して、イートインに座る。ここのイートインは席数が二〇ほどあって、ちょっとした定食屋めいた趣がある。札幌の片田舎のコンビニだから空間だけは持て余しているのだろう。そのくせ、イートインには私以外の客の姿はなく、ともすれば家でひとりでいるよりも孤独感を覚えそうになる。
――だけど私にはお前がいるもんな。
私が選んだのはレジが見える席で、私は女とチキンをツマミにミルクティーをちびちびやり始めた。時計の針は九時前を指していて、こんな時間のせいか、客足もほとんどなかった。
無駄に広い店内に私と女がふたりきり。
とくにすべきこともやりたいこともないから、女をマジマジと観察してみることにする。
……べつに可愛くないわけじゃないんだけどな。
グレージュカラーのナチュラルボブで、毛先に寒色のメッシュが入っているらしい。その顔はほんの少し窶れて見えるけど、そうした雰囲気を色気として表出できる容姿を持っている。ファッションに疎いわけでもない。私より普通にオシャレだし、男慣れもしてそうだった。
……こんな子でも彼氏いないんだもんな。
大学生なんて『とりあえず』みたいなノリで付き合って、ヤることヤってしっぽりと別れるものだと相場が決まっている。この容姿の大学生ですらクリスマスに独りでコンビニのバイトをやっているのだから、私みたいに出会いのないOLが孤独なのも、仕方のない話なのだと思う。私のねちっこい視線から逃れるように、女はレジの前から抜けだして、他の雑事を行い始めた。女はその見た目の印象に反してテキパキと仕事をこなしていて、なんだか意外だった。
それは単に孤独を紛らせるための処世術だったのかもしれないけど。
そんなふうにして働き者の女を眺めながら彼女の日常に想いを馳せているうちに、あっという間にチキンを食べ終えてしまう。どうせ他に客もいないからと、飲みさしのミルクティーを置きっぱなしにして、次はなにを食べようかと店内を物色してみる。先ほどはしょっぱいものを食べたから今度は甘いものを食べようとお菓子コーナーで適当なチョコ菓子を手に取る。
そんなことをしてる間に、私以外の来客があった。
「しゃーせー」
等しくやる気のない電子音と店員の挨拶が死角から聞こえてくる。店内の物色をほどほどにして、クリスマスの夜にコンビニにやってくるのはどんな輩なのかと横目に眺めてみることにした。大学生ぐらいの男女で、手を繋ぐためだけに手袋を片方脱いでいる洒落臭いやつらだった。ふたりは私の横を通り過ぎて、洒落臭いアルコールを数本、洒落臭いツマミを数個、洒落臭いカップ麺を二個、それから洒落臭いコンドームを三箱、景気よくカゴに放りこんでいく。
「えっ、三個!?」
普通にカップルのあとを追うという不審者プレイをした挙げ句、普通に驚き、声をあげてしまう。カップルが両方ともゴミムシでも見るような目で私のことを見てきたから、ゴミムシを代表して遠慮なく見返してやったけど。軽蔑でもするような眼差しがいっそ心地好い。私みたいな女が真正面から見返してくるとは思わなかったのか、カップルはすぐにたじろいで、レジへと逃げていく。なんとなくそのあとを追おうとしたけど、その前にそれを手に取ってみる。
……六個入ってるんだ。
六個×三箱ということは合計で十八個だ。一晩でそんなに使うのか……? という疑問が沸々と湧いてくるけど、具体的な手順や時間が不明だから、細部はまったくわからなかった。そんなことを想像しながらそそくさとカップルのあとを追ってレジに並ぶ。女のほうが露骨に警戒しながら私のほうをちらちら見ていたのでぶるぶるぶる! と唇を震わせて威嚇しておく。女はこれ以上とないほど頬を引き攣らせながら、脅えたように男の手を掴み取っていた。店員はテキパキとビニル袋に商品を入れていく最中、コンドームは別の紙袋に小分けにして入れていた。生理用品を買ったときと同じやつで、私はひとつ大人になったような気持ちになった。
「ありしたー」
相変わらずやる気のない挨拶に見送られ、カップルが足早に去っていく。その背中が消えるまで見送ってから、私も手に抱えていたお菓子類をバラバラー! とカウンターに広げた。
「え、買うんですか?」
「えっ」
しかしそこで意外そうな声をだされて、私まで変な声を漏らしてしまう。
――買うんですか? ってなんだ? 買うが?
そう思って商品を見おろすと、お菓子の中にコンドームが混ざってた。カラフルなチョコでも入ってそうな見た目をしてたせいで、異物が混入していることに気づけなかったらしい。
――いや、こんなの使わないし、買わないけど。
これはたまたま紛れこんでいただけだからそう口にしようとしたんだけど、私ははたと気づく。買わないけど『え、買うんですか?』はおかしくないか? なんでさっきのカップルにはなにも言わなかったのに、私に対しては『え、買うんですか?』なんだ? お前みたいなやつはコンドームに用なんてないだろって言いたいのか? ないけど。なんか釈然としなかった。
「……買うが」
だから気づくと見栄っぱりな私はそう答えていた。それに対して店員は
「はあ」
と言いながら、私がなにか言う前に、レジ打ちを済ませてしまう。私が後悔して考え直す時間も与えてはくれなかった。会計は千円程度で、その内訳のほとんどがコンドームだった。なんでこんなことに……と私が財布の準備をしてると店員は袋の中に商品を放り入れた。
「えっ」
「え?」
私がだした戸惑いの声に、今度は店員のほうが『はあ?』という顔で私を見ていた。いや、えっ? なんでさっきのカップルのコンドームは紙袋に入れたのに私のやつは素っ裸なんだ?
「いや、え?」
数か? 三個以上買わないと、紙袋はついてこないのか? そんな馬鹿な話あるか? と思いながらも、そこをつつくこともできず、私はそのままビニル袋を引っさげて巣へと帰った。なんかもうこそこそしてるのも悔しかったので、そのまま袋の中身をテーブルに広げる。私が間違えるだけあって、お菓子の中に紛れこんでいても、そこまで違和感がなくて面白かった。
そのあともこんな感じで新しい客が入ってくるたびに私は冷やかしに向かったのだった。
○
そんなことを小一時間続けたところで、野暮ったい猫背女がコンビニに入ってくる。
……私の仲間か?
明らかに恋人なんていなさそうな容姿や、コンビニにでてくるためだけに着替えたようなラフな格好に私は親近感にも似た想いを覚える。だからこそこそと動向を覗っていると、
「お疲れ様です」
ボソボソした声で店員にそう告げ、猫背女はバックヤードに入っていった。
どうやらバイト仲間だったらしい。
時計を見やると九時五十五分だった。どうやらシフトの入れ替え時間のようだ。
……どうするかな。
このまま店員と客のウォッチを続けてもよかったが、あの妙に顔のいい店員がクリスマスに孤独を持て余していたから――という部分が面白かった部分も大きい。猫背女みたいに、見るからに『孤独』という様子の女を観察してみたところで、たいして面白くもないだろう。なにより一時間半近くこんなことを続けていたせいで、普通に飽きてしまっていたという面も大きかった。だから私もあの妙に顔のいい女店員に合わせて私も帰ろうと支度をしてたんだけど、
「私、十時であがりなんだよね」
なぜかそばに件の女店員が立って、私のことを見おろしていた。
それだけで意味がわからないのに、彼女の口にした言葉も意味がわからない。
「はあ」
その言葉の意図がまったくわからず、私は生返事を漏らしてしまう。
――えっ、なに? なんだ? 怖いな?
答えてから軽率に反応すべきではなかったかもしれないと後悔する。今まで一度も注意なんてされなかったから私の行動に痺れを切らして怒ってるというわけでもなさそうだけど。
だからこそ彼女の言動の意味がわからず、私の頭はあれこれと可能性を考えてしまう。
「すぐ着替えてくるから、ちょっと待っててくれる?」
女店員は私の塩対応など意にも介さず、そのまま話を進めていく。
「はあ」
相変わらずの生返事を了承と受け取ったのか、女は「ありがと」と言って、猫背女と入れ替わりにバックヤードへと引っこんでいった。正直、待ってやる義理もなかったけど、帰ってもワンルームで飲み直すくらいしかなかったから、仕方なく女が戻ってくるのを待ってみる。
べつに怒られたところでなにを思うこともなさそうだったから。
数分とたたないうちに戻ってきた女は、なぜか外套をその手に持っていた。
まるでそれは『まだ帰るつもりも、帰すつもりもない』という意志表示のようだった。
「ちょっと話そうよ」
その想像を裏づけるように、女は私にそう提案してきた。
「え、なに、新手のナンパ?」
「酔っ払った勢いでイートインに居座ってる女をナンパするやつはいねーよ」
口の悪さの割に嫌悪感を感じさせない口調で、女は私にそう告げた。
「変なひとだなって思って、ちょっと興味湧いたんだよね」
どう? ここで酒でも飲んでかない?
と、女は数十秒前までこの場所で働いていたとは思えないようなセリフを吐いてみせる。
「いや、酒でも飲んでかないって……どう考えてもアルコール禁止でしょう、ここ」
「客のケツ追いかけ回してさんざん営業妨害しておいて、今さら常識人ぶんなよ。それに、あいつはイートインでひとが死んでても気づかなかったフリするような女だから大丈夫だって」
なにがどう大丈夫なのか、女はそんな適当を宣っていた。ちらりと猫背女に視線を移してみると、確かに私たちのことなど意に介さず、自分の世界に篭もっているように見えた。
「まあ、そういうことなら、いいけど」
店員がそう言うならとお言葉に甘えてみることにする。世の中にはアルコールが摂取可能なイートインもあるみたいだし、一度、こういう場所でやってみたいという想いもあったから。
「ほんと? やった」
女は惜しげもなく喜びを表現すると、外套や荷物を隣の席に置いて、カバンから財布を取りだしてみせた。どうやらこのまま景気よく、コンビニであれやこれやを買うつもりらしい。
「なにがいい?」
「じゃあ、金麦で」
「りょ」
「あと一口カツ」
「りょりょりょ」
女の軽薄さにつられて、私も軽率に注文を重ねてしまう。私の注文を聞いた女は、比較的軽い足取りで陳列棚へと向かっていった。なにが、あの女をそうさせるのか、わからない。
……変な女。
イートインで独りでチキンを食べてたら顔のいい女にナンパされるとは思わなかった。女は否定してたけど、こういう状況になった今、それをナンパと言わずなんと呼べばいいのか。
女は慣れた足取りで店内を回って、目当てのものを持って戻ってくる。女が自分用に買ってきたのはからあげ専用のストロングゼロで、その手には当然のようにからあげがあった。
……酔う気満々じゃねぇか。
今日という日に酔わずしていつ酔うのかという想いはわかったから私もそれに付き合うことにする。大学生に飲み負ける気はしなかったが、ビール一リットルはほどよいハンデだろう。
「かんぱーい!」
さっさと乾杯の準備を済ませて、私たちは一気にアルコールを流しこむ。女はまだからあげを一口も食べてないのにストゼロの中身を半分以上一気に飲み干してしまったように見えた。何年か前に飲み仲間がそれをやって泥酔したことがあるから固唾を呑んで見守ったんだけど、とりあえずは何事もなさそうで安心する。どうやら、それなりに酒はいける口らしい。
「あ、私、津久田芽衣子。大学二年生」
それから酒のついでのような雑な自己紹介をしてくる。
その雑さ加減に親近感を覚えながら私も口を開く。
「はあ。私は三島佐枝。社会人……です」
年齢を言おうとして『二十九』という自分の年齢に打ちのめされてやめる。それを口にしようとした瞬間喉元に言葉が詰まって、拒絶感と共に一気に酔いが回ったような気がしたから。
そんな私のどもりようを見て、津久田は笑っていた。
「三島さん、なんであんな自暴自棄みたいなマネしてたの?」
「自暴自棄って?」
そんな覚えなんてなかった私は、素でオウム返しをしてしまう。
「えっ」
私の反応が意外だとでも言うように、津久田は目と口をまん丸に見開いていた。その顔で私のことを凝視したままからあげを摘まんで口に放りこむものだから、普通に笑ってしまう。
なんだその小器用さ。
「カップルのことつけ回して、睨みつけたりしてたじゃん」
それから視線をスッと机上に移したかと思うと、デコピンでもするようにコンドームを指先で弾いてみせる。角を弾かれた箱は、くるくると高速回転しながら私の元へ滑ってくる。
「あー……」
その箱を指先で受けとめながら、私は先ほどの我が振りを振り返る。
……傍から見たらあれは自暴自棄だったのか。
私はただ酔った勢いで興味本位のまま動いていただけなんだけど。
そう思われても仕方のない行動だったのかもしれない。
もしくはそれを他人は『自暴自棄』と呼ぶのかもしれなかった。そうなると私の二十九年の人生のほとんどは自暴自棄の四文字で片づいてしまうけど。それはそれでアリかもしれない。
それはそれとして。
「いや……カップルだなーって、思って……」
自分の手元にコンドームがある状況が落ち着かなかったから私はそれを弾き返す。
「それで八つ当たりみたいなノリで使わないコンドームなんて買ったの?」
それを手でとめることなくダイレクトで打ち返しながら津久田は尋ねてくる。
そこには過剰に私を小馬鹿にするような空気が含まれていた。
どうやら私が勢いでゴムを買ったのが、そんなに面白かったらしい。
「……使うが?」
びゅんっ! と箱を弾き返す。
それをさらに打ち返してくる津久田。
テーブルの上を行き来するコンドームの箱。
その落ち着きのない動作に合わせるように私たちも会話のラリーを続ける。
「そうなの? だったら早く家に帰ったほうがいいんじゃない?」
「うぐっ……」
しかし津久田の容赦のない一言に蹴散らされ、私は情けなくも言葉に詰まってしまう。それに合わせて箱が私の手の横を擦り抜けていき、勢いよく床に落ちていった。なにひとつ隠喩らしい隠喩になっていない、間が抜けているだけのその箱が、なぜだか無性に愛おしかった。
愛おしすぎてそのまま踏み潰してしまいそうなところをなんとか堪えて拾いあげる。
「三島さん、恋人にでもフラれたの?」
「恋人って言うか、友だちかな」
とりあえず会話に集中するため、アホラリーの手をとめながら答える。
「毎年クリスマスに一緒に過ごしてた友だちがいたんだけどその子に恋人ができてさ。だから今年はその恋人と一緒に過ごすんだと。今まで一緒に培ってきた思い出と共に捨てられたの」
「はあ」
私の回答がお気に召さなかったのか、津久田は口から空気が抜けたような音を漏らす。やっぱり『恋人にフラれた』ぐらいじゃないと最近の女子大生ってやつは満足しないのだろうか。
そう思っていると、
「恋人ができたところで、結局、最後に頼れるのは友人だと思うんですけどね」
「ずいぶんと達観したようなことを仰有る」
成人こそしているものの大人びているとは言いがたい津久田がそんなことを言ってくるものだから私は笑う。確かにその通りだとは思うものの、自分に恋人ができたときにそこまで達観できる自信も私にはなかった。まあ、人生で初めての恋人だから、相応に浮かれるだろう。
……この歳まで恋人できなかった人間が今さらだれかと恋なんてできるとは思わないけど。
自分の想像で憂うつになってしまった私は、重苦しさを蹴散らすように箱を弾いた。
「そういう津久田は? クリスマスなのにバイトなんてしてていいの?」
相応のカウンターパンチのつもりでそう尋ねたんだけど、
「私もフラれたんで」
津久田はなんでもないような調子で、言葉と箱を返してきた。
「え、友だちに?」
その調子がコンドームの箱ぐらい軽かったものだから、私はそう尋ねてしまう。
「いや、恋人に」
腰の浮いた軸足を掬うように津久田はそう言って、箱を勢いよく打ち返してくる。
バコッ!
シュッ!
と滑った箱が私の手の横を擦り抜けて、再び私の足元へと転がった。
――だからなんの暗喩なんだ、これ。
自分の行動と今の謎すぎる状況に理由を求めながら、箱を拾いあげる。
「まあ、フラれたって言うか、浮気されてたんだけど」
「はあ……浮気……」
恋し恋されという時点で異次元なのに、そこに『浮気』なんて言葉を交えられると、私は完全に機能停止してしまう。私の手元にあるこの箱の中身ぐらい、意味も用途も不明だった。
……だけど少なくともこの女には、これを使ってアレコレする相手がいたのだ。
その相手に浮気されて、今は独りと。
付き合ってる相手がいるのに、別の相手を欲しがってしまう男の気持ちとはどのようなものなのだろう。あれこれと飽くことなく求めてしまう精神性は、もしかしたら、最初からなにも持ってない私なんかよりもよっぽど不幸なのかもしれない――なんて酸っぱい葡萄じみたことを考える。しかしまあ、今もっとも不幸なのは、そんなクソ男に浮気された津久田だろう。
そう思って、とりあえず話だけは聞いてあげることにする。
「先週、講義が休講になって午後が丸々空いた日があって、そいつの家に遊びにいったんだよね。そこそこ長い付き合いだったから合鍵とかも持ってて。こっそり部屋に入って驚かせてやろうと思ってたら、ベッドに裸で寝転んでるそいつらふたりを見つけて、逃げてきちゃった」
「えっ」
話のオチが意外だったものだから、私は生返事を漏らしてしまう。
「逃げてきたの?」
「……そうだけど。なに?」
私の反応が不服だったのか、津久田が心なしか険のある口調で言った。
「いや、てっきりそういう浮気男はぶっ殺すようなタイプだと思ってたから」
「まあ……私だって、自分がそれぐらいしたたかだと思ってたよ」
津久田はどこか他人事のような調子で言った。
そこになんとも言えない居心地の悪さを感じながら、私は黙って彼女の言葉に耳を傾ける。
「でも実際、私はあのひとのこと大好きで、添い遂げると思ってた相手だから。そういう相手が別の女と寝てる現場を目撃しちゃったときって、怒りとか悲しみとかより先に、パニックになるみたいで。なんか、添い遂げるとか、将来のビジョンとか、ふたりで一緒に生きて行く光景を一方的に考えてた自分が馬鹿みたいで。なにより部屋に勝手に入っちゃった私が悪いんじゃないかって。全部ぜんぶ、私のほうが悪かったんじゃないかって、そんなこと思っちゃって」
そこまで語ったところで津久田は缶の底に残っていたアルコールを一気に呷る。その缶をガンッ! とテーブルに叩きつけて底をヘコませて、馬鹿みたいな勢いで立ちあがってみせる。
「追加の酒買ってくる。なんかいる?」
「……じゃあ、津久田と同じやつで」
その目が若干据わっている気がして、私は気圧されるようにしてそう答えていた。まあ『酔わずにはいられない』という状況なのは確かだったから、酔うためだけにあるような地獄の9%チューハイこそがもっともふさわしいような気もした。ぐるっと店内を一周してきた津久田はなぜだか同僚店員にウザ絡みを始めていた。露骨に表情を顰める猫背女と、その表情に臆さずに絡み続ける津久田。渋々と言った調子で猫背女が裏に引っこんだかと思うと、赤子の頭ぐらいのサイズ感の箱を抱えて戻ってきた。津久田はそれを受け取って、私の元へやってくる。
毒々しさすら感じさせる鮮烈な赤いパッケージ。
ウサギの耳みたいに陽気に跳ねたふたつの持ち手。
その独自性の強い見た目には嫌でも見覚えがあった。
「なぜケーキ」
いや、クリスマスなんだからケーキがふさわしいのはわかるんだけど。
少なくともこの場の私たちはアンチクリスマス的な立ち位置だと思っていたから。
その華々しさすら感じさせる箱が酷く場違いに感じられたのだ。
「いや、うちのコンビニ旧体制なんでバイトにケーキのノルマがあって。本当ならこの一週間で同期に売り捌く予定だったんだけど、そんな余裕もなくて、買い取りが決定してんだよね」
だからせめて今のうちに消費しとこうと。
なんて、津久田はなかなかにしんどいことを口にする。
泣きっ面に蜂とはまさしくこのことだ。
「ブラックバイトの闇だ」
この手の悪しき風習は定期的にSNSに流れてきては炎上を繰り返しているから、勝手に駆逐されていったものだと思っていたけど、片田舎のコンビニにはいまだに残っているらしい。
「と言うわけで三島さんもどうぞ」
そう言いつつ津久田は箱からケーキを取りだす。
丸々としたホールケーキは四~五人分用のサイズぐらいで、私たちの身に余る大きさをしていた。そこに津久田は割り箸を突き立てて、馬鹿みたいなサイズを摘まみあげたかと思うと、そのまま口の周りをまっ白にしながらケーキを頬張り、それを一気にアルコールで流しこむ。
クリスマスケーキにはそういう作法でもあるのか?
と勘違いしてしまいそうになるほど堂々とした食いっぷりだった。だから私も負けじと箸で掬えるだけケーキを掬って、無理やりそれを口に押しこんで、ストゼロで一気に流しこんだ。ドギツい甘さとアルコールの苦味、生クリームとスポンジが喉に絡みついて窒息しそうになるのを、さらにアルコールで押しこんでいく。初めての感覚に脳が混乱する。が、劇薬と劇薬の組み合わせは今の地の底にいる私たちにハマっていて、妙な充足感めいたものが生まれた。
十中八九、悪酔いが生みだした気のせいだろうけど。
ただ食道から胃にかけてが一気に焼けて、理性もいい感じに焦げついてくれた。
「と言うか逃げてから、ちゃんと話とかしたの?」
若干暈かされていた『結末』の部分を焼けた喉で尋ねてみる。相変わらず大きすぎる二口目を掬おうとしていた手がとまり、酩酊と不機嫌に澱んだ瞳がジトッと私のことを睨みつけた。
「……してない。勢いでLINEもブロックしちゃったし」
「そうなの? もしかしたら向こう、反省してるかもよ」
常識人ぶるわけではないけど、とりあえず最低限の事実確認だけはしておくことにする。この場でよりを戻されるのは面白くなかったけど、修復可能かもしれない関係をみすみす見殺しにもできなかったから。そういうまともなことを考えてしまう程度には、私も真人間だった。
単にこの津久田芽衣子という女を気に入ってしまっただけかもしれないが。
「それは絶対ない」
しかし津久田は私の見せた真人間ムーブを不機嫌そうに一蹴した。
「……なんでそう言いきれるの?」
誘われるようにして問いかけた私に回答を与える代わりに津久田はストゼロを一気に干す。それだけではたりなかったのか、私の手元にあった缶を奪い取って、さらに半分ほどあけた。
やけっぱちとしか表現のできない光景に苦笑が漏れる。
「その浮気相手、うちのコンビニの後輩なんだよね。で、その後輩からおととい急に連絡きてさ。『先輩、クリスマス休みですよね? 変わってくれません?』とか言われたから。たぶん今ごろあのクソ女と一緒に、仲睦まじくセックスでもしてんじゃないの? 知らないけど」
ケッ!
と現実ではなかなかお目にかかれない悪態で津久田は語りを締めくくる。それから彼女はどんぶり飯でもかっ込むようにホールケーキを頬張って残っていたストゼロも干してみせた。ものの数分でストゼロを一五〇〇ミリリットルも流しこんだ計算になる。どんなに酒に自信があってもあれは人智を超えた酔っぱらい製造機だから、津久田は一瞬で出来あがっていた。
「本当クソ……今ごろになってイライラしてきてる」
あー……と津久田はお手本のようなくだを巻きながら、グッと私の顔を覗きこんでくる。整った顔立ちをしてるんだけど、今はその顔は口元から鼻先にいたるまでクリームまみれになってるから、笑いそうになる。だってそんな顔で、不機嫌そうな表情を浮かべてるんだから。
なんだか可愛らしい幼稚園児が、親に怒りを表明しているシーンみたいだった。
「と言うか三島さん、ぜんぜん飲んでなくない?」
その口で津久田はさらにトンチンカンなことを口にする。
「いや、飲もうと思ってた酒、アンタに引ったくられたからな」
「じゃあ、追加のお酒、買ってくる」
そう譫言のように呟いて、津久田は覚束ない足取りで歩きだす。コンビニの床はつるつるしていている上に、雪解け水が絶妙に散布していて、素面でも気を抜くと転びそうになる有様だった。このままだと津久田が普通に転倒してしまいそうだったから、酒の追加はこちらが行うことにする。とりあえず津久田を無理やり席に着かせて、形だけでも注文を聞いてやる。
「なにがいい?」
「んー……強いやつ」
そんなアル中じみた要求を聞き流し、カゴを持って飲み物コーナーへ。
……このままコンビニに居座るわけにもいかんよな。
目の前でもの凄い勢いで泥酔へと転がり落ちている女がいるせいで、私のほうがかえって冷静になってしまう。ここで津久田のことを見捨てられない程度には、彼女への愛着も湧いてしまっていた。だからとりあえず、私かあいつの家に移動して仕切り直すべきだろうと考える。
カゴにストロングゼロを四本、金麦を六本の計十本をぶち込んでレジへ。
例の猫背女は同僚の痴態など意に介した様子もなく、黙々とレジ打ちをこなしていた。
「……クリスマスケーキのノルマっていくつなの?」
思いのほかテキパキと仕事をこなす様に驚きながら私は猫背女に尋ねる。向こうも向こうで、どうして私がそんなことを尋ねるのか理解できないのか、胡乱げな眼差しで私を見ていた。
「バイトならひとり五個」
しかし隠しておく理由もなかったのか、猫背女はすんなりと情報提供してくれる。
「はあ~……なるほど。馬鹿らしい」
「ごもっとも」
私の皮肉にも無感動な同意を示してくれる。
「……あの子とあなた分のノルマ買ってあげる。何個残ってるの?」
その明け透けな態度に好感を覚えたので、気づくと私はそう提案していた。
「えっと……合わせて六個、かな」
そこでも臆することも遠慮することもなく、残りの個数を口にするあたりに好感を持つ。
「じゃあ、六個貰おうかな」
「はあ……」
と猫背女は生返事を漏らすけど、それから我に返ったように「えっ」と漏らした。
「六個って、本当にいいの?」
「独り身社会人の財力を舐めるな」
「んー……そういうことなら、ちょっと早いけど、割引にしようかな」
「いくら? 二五〇〇円のところを二〇%オフで二〇〇〇円。六個で一二〇〇〇円」
「……買う」
そう告げると、猫背女は相変わらず見た目とは正反対のテキパキさで会計をだしてくれる。それから裏とレジのあいだを何度か往復して、レジの横に六箱分のケーキを積みあげた。そのあいだ暇だった私は会計ピッタリチャレンジをしたんだけど普通に足りなくて二万をだした。大きめのビニル袋にケーキの箱を三箱ずつ積み、プラスして飲み物の入った袋を持ちあげる。
……おもっ……いし、持ちづらいし、最悪でしかない。
だけどここで文句を言ったところで始まらないので無理やり抱えて歩きだす。
とりあえず津久田の待っているイートインスペースに向かう。店内からドンドン喧しい音が聞こえてくると思ったら津久田が癇癪でも起こしたようにテーブルを叩いていたらしい。
何事かとテーブルを覗きこむと、コンドームの箱がベッコベコに潰されていた。
「うわっ」
そこに篭められた恨み辛みめいたものを感じて思わず声をあげてしまう。
その声で私の存在に気づいた津久田が、ガバッと顔をあげてこちらを睨む。奇行と動作の勢いに気圧されてそのまま逃げだしたくなるのを堪えて、両手のビニル袋を彼女に見せる。
「ほら、買ってきたよ」
「なにその大荷物。三島さん、サンタさんじゃん。三島サンタ」
なにが面白いのか、駄洒落にすらなっていない自分の言葉に津久田はケラケラと笑う。
「え、なんで立ってるの? もしかして、もう帰るつもり?」
しかし私の態度から『帰宅』を感じ取ったらしい津久田が追い縋ってくる。
セーターの袖口を掴んで、引っ張って、おいおいおいと謎の声をあげ始めた。
「ちょ、危ないし伸びるから離せ。それからひとの話を聞け」
言葉でどうにかなる問題でもなさそうだったから容赦なく津久田の頭を叩いておく。人間は言葉で説明すればなんとかなると思ってるやつらに今の津久田の姿を見せてやりたかった。
私の暴力に屈した津久田はシュンッ……と項垂れ、上目遣いに私を見つめた。
「津久田のこと心配すぎるから酔い潰れてもいいようにどっちかの家に行って飲み直そ」
「なるほど」
しかし私の提案を聞いた瞬間、けろりとして見せる。たぶんこいつはだれかと一緒に酒を飲めればなんだっていいのだろう。私だって似たようなものだからそこを責めはしないけど。
「私ん家、こっから歩いて数分なんだけど、そっちは?」
「数十秒」
「だったらそっち行こ」
という会話のあいだにすでに外套を羽織っていた津久田に苦笑しながら私も帰り支度を済ませる。外にでると吹き荒ぶ冷風が温室で鈍った手や首筋を一瞬で冷ましていく。
「うひぃ~……寒い……こういうときはアルコールにかぎる……」
津久田は私の持っている袋からいつものストロングゼロを取りだして、歩きながら飲み始める。この寒空の下でチューハイを飲む神経はわからなかったが、アルコールだからプラマイは0なのかもしれない。ただでさえ足取りが覚束ないのだから、数十秒の道のりぐらい自重して貰いたかったが。私たちは津久田の宣言通り数十秒歩いて、裏手のアパートに辿りついた。
津久田はカバンから鍵を取りだし、もたもたと解錠を済ませる。この間に手のひらの皮膚が引きちぎれそうになっていた私は、玄関に入ると同時に、持っていた袋を床に投げだした。
「あー……さぶー……」
と、体を掻き抱きながら、津久田は部屋へと進んでいき、ガスストーブを点火した。
私も部屋へと続き、ドア脇にあったスイッチで蛍光灯を点けた。その瞬間、
「うわっ、なにこれ」
私は驚きのあまり、間の抜けた声を漏らしてしまった。
だって津久田の家は地獄めいた有様になっていたのだ。
まず目につくのが大量のストロングゼロの空缶で、恋人と浮気相手が寝てる様を目撃した人間はこうなるのかと、頬が引き攣りそうになる。それから脱ぎ散らかされた衣類が部屋を動物の巣のような印象にしていた。ただ、そうした混沌とした有様とは裏腹に、食事の痕跡がないのが印象的だった。この一週間、津久田がどのような生活を送っていたのか垣間見える。さすがに酔っ払った頭でもこれはどうかと思ったのか、津久田は衣類と空缶を引っ掴んで部屋の隅にポイポイし始める。あっという間に山になったその箇所は、やっぱり駄目人間の巣としか形容できない有様だった。とりあえず私たちが座れるスペースは確保できたからよしとする。
それから私たちはあらためて乾杯と共にアルコールを呷った。まだ温まりきっていない室内で飲むアルコールは身に染みたものの、カッと体が熱を帯びる感覚がなんとも心地好かった。
理性がビリビリと麻痺していく感覚に任せて、私と津久田はクソみたいな話を繰り広げる。最初に感じた通り、私たちは『人生と会話に対する適当さ加減』が似通っていて、とくに意識することなく会話が盛りあがっていくのが面白くて、つい普段以上に口が軽くなってしまう。
「三島さんって危機管理能力とかなさそう」
家飲みを始めてちょうど缶が一本空いたところで、津久田が私にそんなことを囁いてきた。グッ……とテーブル越しに顔が近づいてきて、私以上にアルコール臭い吐息が顔にかかる。
「……なんでよ」
そこに混ざる津久田本人の香りに噎せ返りそうになりながら私はなんとかそう答えていた。
「だってこんな見ず知らずのひとの家になんの警戒もなしにあがりこんでくるんだもん」
顔のいい女が真正面からそんなことを呟いてくるものだから私は笑いそうになる。
「いや、だって津久田は女じゃん」
津久田がなにを求めているのかわからなかった私は、とりあえず当たり障りのない返答をしておく。それに対して津久田は、スッと私の顔に手を伸ばしてきて、頬に触れてきた。アルコールに熱された頬に、その冷たさが心地好くて、思わず頬ずりでもしたくなってしまう。
「もし私が女のひとに欲情する女だとしたらどうするんです?」
酔っぱらいの頭でその衝動を堪えられたのは、津久田がそんな言葉を投げかけてきたからだった。真正面から私を見据えるその目は、酩酊の中に一本の芯を通しているようにも見えた。
「まあ、そのときはそのときなんじゃない?」
その妙に作り物じみた『真剣味』を見ればからかわれているのはわかったから、私は適当にあしらっておく。こういうときは乗るのも、否定するのも、相手の思うツボだから。
のらりくらりと躱しておくのが正解だ。
妙に手慣れた私の対応が愉快だったのか、津久田は「あはっ」と愉快げに笑った。
「なにそれ。と言うか三島さん、寂しすぎてヤれればなんでもいいとか思ってそう」
「んなわけないじゃん。さすがに津久田が男だったら家にあがりこんだりしないっての。酒で酔い潰れることもないから、私がそういうことすんのは、抱かれてもいい男だけだっての」
人並みに性欲は持て余しているほうだし、年々人肌恋しさが増しているような気もするが、そこまで捨て鉢にはなれなかった。学生の頃に一通り恋愛とセックスを済ませているならまだしも、私はセックスの『セ』の字も知らない甘ちゃんで、そうした行為に相応の恐怖があったから。そうしたことを悶々と考えていた私に、酒臭い吐息を吹きかけながら津久田は笑った。
「ふーん。もしも私が女好きだったら、押し倒してましたけどね」
「はいはい。そのセリフ、百回ぐらい聞いたことある」
独り身の女同士の飲み会に多く参加してる都合上、その手の囁きは何度も囁かれてきた。擦り過ぎてもはや冗談にすらなっていないようなセリフだから、笑いもせずに流してしまう。
先ほどまで愉快げだった津久田が私の反応で真顔になる。
「なにそれ。もっと初心な反応してくれると思ったのに」
「初心って。二十九歳のオバサンにそんなもん求めんな」
「えっ、三島さんってそんなオバサンだったの?」
流れるように『オバサン』呼ばわりされて、額の血管が震えるのがわかる。津久田がそこそこ容姿の優れたピチピチの女子大生だという点も、そこそこ私の逆鱗に触れていた。
「は? ひとのことオバサンって呼ぶんじゃねぇよ。殺すぞ」
「いや、オバサンって言ったの三島さんのほうじゃん」
「自分で言うのと他人から言われるのじゃ大違いなんだよ。殺すぞ」
「年齢に対する殺意が高すぎる……ってそうじゃなくて、若く見えるなって思って」
私の反応に慌てた様子もなかったけど、津久田がそんなフォローを入れてくる。
「歳食ってる割に落ち着きがないって?」
しかしこの歳になると大学生のフォローなんて嫌味にしか聞こえない。
「そんなこと一言も言ってないし……年齢に対する被害妄想が激しすぎる。だから、そうじゃなくて。ぜんぜん綺麗だし、可愛いし、三島さんに恋人いないとか、正直信じられない」
「カップルのケツ追いかけ回してる女に恋人はできないでしょ」
「それもそうだ」
「それもそうだ――じゃないが?」
「だから自分で言っといて肯定されるとキレるのやめて?」
なんて言いながら、私たちはゲラゲラと酒に焼けた笑い声を部屋に響かせる。
それから私たちは互いの素性を面白おかしく語り合った。
津久田の大学生活とかバイトでのやらかしとか、私の仕事や友人関係の愚痴とか、そういうくだらないことを肴にして、次から次へと缶を空けていった。しかし、酔いが深まっていけばいくほど、楽しいばかりでいられるわけもなく、自然と話は『例の話』へと移っていった。
「あー……クソッ、本当はこんな謎の女とくだ巻いてるはずじゃなかったのに」
津久田は憎々しげに吐き捨てるが、私も酔っているから、軽い気持ちで受け流す。私だってべつに、こんな年端もいかない女と缶チューハイを飲むつもりなんてなかったのだから。
「男を見る目なさ過ぎるんじゃないの? なんでそんなやつと付き合ってたのさ」
「………………顔がよかったから」
「でた」
ダメな男に引っかかる女が口を揃えて言う言葉だ。
それこそ百回は聞いたような気がするほどの地雷案件だ。その手の話を聞きすぎているせいで、私は顔のいい男を見るたびに、こいつはどんな闇を抱えているのかと勘繰ってしまうようになった。まあ、その手の闇なんて、だれかれ少なからず抱えているものだとは思うんだけど。
――この世は素面で生きていくには厳しすぎるから。
だからといってそれを他人にぶつけて悦に入るやつらは死ねばいいと思う。
「でたってなにさ、でたって。言っとくけど顔ってめちゃくちゃ大事だからね? ちょっとした口論とか喧嘩ぐらいなら、顔がいいってだけで許せるんだからさー。すっげー大事」
「じゃあ浮気も許せば?」
「うっ……いや……それとこれとは話が別じゃん……」
「別ではないんじゃない? あくまで地続きだと思うけど」
そういうやつらは今の津久田のように、決まって似たようなことを言う。
顔がいいからで、どんな悪行も許せるならそれでいい。
だけど現実はそうではない。
世の中の悪行のほとんどは顔のよさではフォローしきれない。
そのくせ顔のいいやつらは、自分の行いはすべて、その顔ですべてが許されると思ってる。
それで最終的に割を食うのが恋人なのだから、なんともまあ馬鹿らしい話だと思う。せめて初志を貫徹して最後まで笑っていて貰いたいものだと思う。と言うか、そもそも論として、
「そう言えば津久田は浮気されっぱなしじゃん」
こいつは浮気男に対してまともなレスポンスを返していないのだ。
そうやって顔がいいってだけの駄目人間を甘やかしているから、やつらは図に乗って女を食い物にするのだ。そうやってまともに純愛を掲げているやつが損する世界なんて間違ってる。
「まだきちんと別れたわけでもないのに、今ごろ浮気相手とセックスしてるんでしょう?」
「……………………」
私の問いかけに対する津久田の反応は沈黙だった。その顔は一応、思案に揺れ動いてはいるものの、それはたぶん『今日という日を浮気相手と過ごしているという確証がない』というだけの話だろう。少なくとも津久田はその目で浮気現場を目撃しているはずで、その点については疑いようがないはずだ。なにより、そこが確かなら、罰するには充分過ぎるはずだった。
――そう。
どうやら私は津久田の彼氏を罰してやりたいと思っているらしかった。
「乗りこもうか」
「はあ……?」
理性というしがらみが溶けて本能のままに呟かれた私の言葉に津久田は戸惑いを漏らす。
先ほどまで泥酔寸前といった状態だったのに、そこで我に返る津久田の顔が面白かった。
「合鍵持ってるんでしょう? 今からケーキ持ってさ、ふたりで乱入しに行こうよ」
「乱入ってそんな……」
「さっき自分で『本当はこんな謎の女とくだ巻いてるはずじゃなかったのに』って言ってたじゃん。なのに間違ってるはずのそいつは、浮気相手と楽しいことして過ごしてんだよ? 津久田は被害者で、精神的に傷つけられて、こんな有様になってるわけじゃん。なにより関係を解消してないってことは、まだふたりは恋人なんでしょう? だったら合鍵使って部屋にあがろうとなにしようが勝手じゃん。今から割り込んで、思いきり復讐でもしてやろうよ。それとも津久田はそうやって、いつまでもいい子ぶって、自分のこと傷つけ続けてるつもりなの?」
今度は私が真正面から津久田の目を見つめる。グッと覗きこんでやると、その瞳がわずかに揺れた。その感情の震え方のおかげで、私は『あともう一押し』だと理解することができた。
「ケーキ、こんだけ余らせてても腐らせるだけだしさ。そいつの顔にぶん投げてやろ」
だから私はなるべく『津久田が気に入りそうな誘い』を口にしてみる。
「…………………………」
しばらく無表情かつ無言で私の言葉を吟味していた津久田だったけど、
「ぷっ……なにそれ」
と弾かれたようにして笑った。
たぶん私がマジメな顔をしてるのが面白かったんだと思う。
「食べ物を粗末にしちゃダメなんだよ」
一頻り笑ったあと、腹を抱えながら、そんな常識人じみた言葉を呟いてくる。だけどそのニヤニヤ顔を見ていれば、それがあくまでムーブやポーズであることはすぐにわかった。
「でも?」
だから私は安心して津久田にそう尋ねていたし、
「めっちゃやりたい」
津久田もまたニヤニヤしながらそう頷いてみせた。
同意は得られたので、善は急げと勢いよく立ちあがり、津久田へと手を差し伸べる。
「ほら、行こうぜ」
「急にイケメンぶるの面白いからやめて」
笑いのスイッチが入ってしまったらしい津久田は、もはや私がなにを言っても笑いそうな有様だった。それにつられて私もゲラゲラと笑って、アルコールを全身にぶん回していく。
「あっ、でもひとつだけお願いしたいかも」
「なにさ」
立ちあがったタイミングで津久田が神妙な顔でそんなことを言ってくるものだから、私もまた自然と居ずまいをただしてしまう。いったいなにを言われるのかと身構えていると、
「サンタのコス着て欲しい」
「はあ……?」
津久田が口にした言葉があまりにも明後日の内容だったから、私はまともな反応を返すことができなかった。彼女曰く、クリスマスに向けて用意していたコスプレを持て余しているから、せっかくだから今日、これからの催しに使って、処理してしまいたいのだと言う。ただ、さすがに自分で袖を通す勇気も元気も気力もないから代わりに私に着て貰いたいという話らしい。
――いや、これ、あれよな。
コスプレってマジでコスチューム『プレイ』用の衣装だよな。
性的興奮を煽るためのペラペラな衣装を二十九歳の体で着たいとは思わない。
そもそも寒いし。
しかし乗りかかった船だし、妙なところで凝り性な私は津久田の要望をすべて叶えてやりたいという想いもあった。だから缶に残っていたアルコールを干して、頷いてやったのだった。
○
津久田の家から恋人の家まで徒歩で二、三〇分はかかると言うので、独身アラサーの財力を遺憾なく発揮してタクシーで向かうことにする。上に外套を羽織っているとはいえ、サンタコスのまま自分が住んでいる街を練り歩きたくはなかったし。と言うかそもそも……
「どうせコート着るんだからコスプレする意味なんてないんじゃないの?」
「それはほら、気持ちの問題……的な? あんなやつのために買ったコスプレ衣装、そのまま部屋に置いときたくないし。なにより、馬鹿みたいな思い出で全部塗り潰したかったし」
それに似合ってるよ?
なんて言いながら、津久田はペラペラの裾を掴んでひらひらさせてくる。アラサーに突入してからミニスカートなんて穿いてこなかったから、太ももの肌寒さが心もとない。防寒用のタイツを穿いているとは言え、こんな薄っぺらい生地で、いったいなにを守れると言うのか。なんて思ってる間に津久田がするりと私の太ももに触れてくる。外気で冷え切った指先の感覚に跳びあがりそうになりながら、やっぱり防御面を無視しすぎていると考えを新たにした。
「セクハラオヤジじゃん。やめれ」
その手をペチンと叩いてセクハラを退散させつつ、適当な話に花を咲かせる。こんな状況であっても私たちの波長はあっていて、間をもたせようと意識することなく会話が続く。
くだらない話を三巡ぐらいしたところで私たちは目的地に辿り着いた。
そこは津久田の借りているアパートよりもワンランク上等なオートロックつきの部屋だった。ヘタしたら私の部屋よりも高級そうな外観をしていて、なんだか普通に腹が立つ。親に養って貰ってる大学生のクセに社会人より偉そうな家に住んでんじゃねぇよ。そんな重厚そうな正面ロビーを合鍵でなんなく突破して、そのすぐ向こうにそびえるエレベーターに乗りこむ。
津久田が五階のボタンを震える指先で押すのを眺めながら、彼女の心中を推し量る。
「怖い?」
だけど酩酊に沈んだ思考で乙女の揺れる心を捉えることなんてできるわけもなく、私はすぐにあて推量を諦め、直接尋ねることにしたけど。その一言を受けて、津久田は視線をさげた。
「……そりゃあね」
そして足元に落とすような重たい声音でそう呟く。
そのまま足元にあるカンペでも読むような間と声音で津久田は語り始める。
「浮気されてたのは事実で、それを許すつもりもないけど、まだ、もしかしたら……って思っちゃう自分がいるのも確かだし。そういう自分の浅ましさとか、弱さとかが、怖いのかも」
五階に辿り着いたエレベーターが場違いに軽いベルの音を響かせながらドアを開く。
しかし津久田は靴の裏が床に張りついてしまったように停止していた。
彼女は今まで幾度となくこのエレベーターに乗り、彼氏の部屋に通っていたのだろう。その道のりは幸福に満ちていたはずで、今この瞬間との落差に突き刺されているのだと思う。
その弱さに人並みの大学生らしい弱さを感じて、私の胸の内側がほんの少しムズムズした。
「さっき自分で言ってたじゃん」
その背中を押してやろうと、私は努めて優しい声を絞りだす。このまま重苦しい沈黙を共有していると、なにか、おかしな空気がエレベーターに広がってしまいそうでもあったから。
「……三島さんってそんなオバサンだったの? って?」
「ちげーよ。殺すぞ」
しかし懐から恩を取りだしかけていた手を切り落とされたので、そのままエレベーターから蹴りだすことにした。ケツを蹴られて、よたよたと廊下に飛びだした津久田に私は告げる。
「恋人ができたところで、最後に頼れるのは友人だってさ。だから私は津久田の友だちになってあげる。どうせ仲いい友だちは全員彼氏持ちだしな! うん……アンタは私を頼ればいい」
「……でも私すぐに恋人できるよ?」
「は? うぜー」
そう毒づきながらも、確かに津久田なら作ろうと思えば、いくらでも恋人なんて作れる気がするのも確かだった。だって私とは違って、この女には恋人を作るための容姿も場も整っているのだ。それは恋人作りの土壌みたいなもので、それがある人間は恋人には困らないのだ。
「でもじゃあ、それまでのあいだの繋ぎでもいいよ。年末年始でも誕生日でも付き合ってあげる。そもそも今の私にとって、友人関係なんてその程度のものだしね。恋人ができたら優先順位がさがって然るべき存在。最悪のときに独りにならないセーフティネット、みたいなね」
私の周りのやつらは友人より恋人を優先するやつらばかりだから。
まあ、そういう環境にいすぎたせいで、優先順位をさげられることには慣れていた。
だからべつに最初から私は『今が楽しければいい』と思っていた。
そしてその刹那的な快楽を、津久田にも少しは味わって貰いたかった。
「だからそんな顔だけのクソ野郎なんて、私が縁切らせてやるよ」
そんな芝居がかった言葉を吐いた私に、
「はあー……だからさー……」
津久田はクソデカため息と共に言った。
「……突然イケメンみたいな顔とセリフ吐くの、笑っちゃいそうになるからやめてってば」
笑みなんて微塵も浮かんでいない真顔で――ともすれば涙すら浮かびそうな悲痛さすら滲ませた顔で――私のことを見つめていた。それから意を決したように、自分の足で歩き始める。
「サンタコスのクセに」
小さな背中に続いた私に向かって、津久田は苦笑と共にそう言い捨てる。
「うるせー。こんなの着させたのアンタだろうが。ほら、行くぞ」
その背中を勢いよく叩いて、私たちは件のクソ男の部屋へと向かった。雪解け水で湿った靴底と床材をきゅっ、きゅっと二〇回ほど鳴らした先、通路の最奥にその男の部屋はあった。
津久田がポケットから鍵を取りだして、一呼吸の後、意を決するようにして捻ってみせた。
U字ロックが掛かっていないのを確認してから勢いよくドアを開ける。
こちらは盗賊ではなく義賊なのだから、こそこそする必要もないのだ。
「お邪魔しまーす」
玄関で靴を脱ぐのも馬鹿らしかったので、土足でズカズカと廊下を進む。廊下の向こう、喧しいまでの蛍光灯の光と、スピーカーから流れだすくぐもった下品な笑い声――どうやら中にいるふたりはセックスをしているわけではなく、仲睦まじくテレビでも見ている最中だったらしい。私はそのまま気後れすることなく、勢いをそのままに廊下の向こうのドアを開いた。
そしてそのドアの向こうにいたのは――
「えー……あー……なに? どういうこと?」
――ベッドの横板に背中を預けながら、横に並んでいた部屋の住民たち。
その場にいた津久田以外の全員が面を食らったような顔をして互いの顔を見合わせていた。向こうは突然現れたサンタコスと恋人の姿に、そして私がなぜ戸惑っているのかと言えば――
「なにこれ」
部屋にいたのが私の想定していたような男女ではなく――女と女だったからだ。てっきり入る部屋を間違えたのかとも思ったが、合鍵を使ったのだから、その可能性は0だろう。
だったらなおのことどういうことだ……?
「見たまんまだけど」
そう私が頭を悩ませていると、一歩遅れてやってきた津久田が、乾いた声でそう呟いた。その声は冷静さの中に、一匙の殺意を垂らしたような色をしていて――つまりこの光景が、彼女にとってなんら意外ではないことを示していた。つまり、そういうことなのだろう。
「いや、わかる。状況はわかるんだけど……どっち?」
いまだに目を白黒させている女ふたりを交互に指さしながら尋ねる。
「そっち」
すると津久田は迷いなく指をさすんだけど、角度と立ち位置の問題でどっちをさしてるのか
わからなかったから、ふたりで位置を調整しながら「こっち?」「うん」と確認を取る。
「はあ? ちょ、芽衣子。これ、どういう状況……? それに、なに、そのオバサン」
私が指さしたほうの女が、戸惑いに塗れた顔で、津久田へと尋ねる。
……オバサン? んだとこのガキ。
と殺意のメーターが一気に上昇するんだけど、
「うるせぇ。浮気女が私の名前を馴れ馴れしく呼ぶな。まだ私のこと彼女だと思ってんなら、マジで頭の中お花畑だからな、クソ女。それとオバサンじゃなくてお姉さんだ、馬鹿」
私がキレるより先に津久田が声を荒げてくれたから、メーターが急降下して、私の中にはなんとも言えない気持ちだけが残った。いろいろと想定外なことが続いたせいで、悪ノリめいた気持ちは冷め始めていたけど、とりあえず当初の目的を完遂するためにケーキを取りだす。おもむろにケーキを取りだした下半身だけサンタコスをしたババアに、女たちは遠巻きに不審者を眺めるときの視線を向けていた。そんな女に対して、私はケーキを片手に持って、構えた。
「えっと、じゃあ、はい。失礼します」
「え、だからなにが――んっ、ぐっ――」
と戸惑う女に言葉の代わりに、行動で答えを与えてやる。
私は歯切れの悪い口調とは裏腹に勢いよく腕を振り回して、女の顔にケーキを叩きつける。グチャッ……と生物が破裂するような音が響いた後、ずるりと自重に耐えきれなくなったスポンジが落花して、べチャッ……と先ほどよりも軽い音を響かせながら、女の腹部に落ちた。
突然のサンタの凶行に、向こうは面を食らって、完全に凍りついてしまっていた。
マヌケ面を横に並べて、呼吸すら忘れたように、私のことを凝視していた。恋人の浮気現場を目撃したときの津久田にしてもそうだったらしいけど、人間という生き物はあまりにも想定外の出来事が起きたとき、こうやって機能を停止してしまうものなのかもしれなかった。
「……それだけ?」
とりあえずケーキをぶつけるだけぶつけて、停止した私に向かって津久田が尋ねてくる。
「なんか啖呵切ってやろうとは思ってたんだけど……衝撃で飛んじゃった。そっちは?」
私の予想ではアクション映画の勧善懲悪みたいな、スカッとするアクションと、ウィットとスパイスの利いた発言をしてやろうと思ってたんだけど、現実はどこまでも現実だった。
べつにケーキを顔面にぶつけてもスカッとはしないし。
むしろ食べ物を粗末にしてしまった罪悪感のほうが大きかった。
「んー……」
だから津久田に発言権をパスしたんだけど、彼女も彼女で、言葉に困っているようだった。あまりにも状況がしょうもなさすぎるせいで、全部が馬鹿らしく感じているのかもしれない。
それから一頻り唸ってから、津久田はやっと言葉を纏めた。
「浮気はそのマヌケ面に免じてチャラにしてあげる。だけど次私に近づいたら殺すからな」
それからその顔面に合鍵を投げつけ、さっさと踵を返してしまう。生クリームを接着剤代わりに、鍵が顔面に貼りつく様はなかなかに芸術点の高いマヌケぶりで、私は笑っておいた。最初の予定はこなしたし、これ以上この場に居座って、我に返られるのも面倒だったから、私もそのあとに続いて部屋から逃げようとする。だけどその前に津久田が「あっ」と立ち止まる。
「間柱。今日のバイト代わってやったお礼、めちゃくちゃ楽しみにしてるからな」
そう、今日一で低い声で告げると、今度こそズカズカと去っていく。
「あ、そうだ。食べ物粗末にしたら勿体ないオバケでるから、ちゃんとそれ食っとけよ」
私も私で最後に言い残していた言葉を思いだして、適当なトーンで告げておく。
「それじゃあ、お邪魔しましたー」
それから、くるときと同様に最低限の挨拶だけを置き去りにして部屋から逃げる。
そのあと私たちは小走りで廊下を駆け抜けて、一気にエレベーターへと乗りこんだ。
「はあー……」
そこで津久田は力尽きたように、壁に背中を預け、ずるずると崩れ落ちてしまう。緊張の糸が切れてしまったようだったので、しばらくはそのままにさせておいてあげることにする。夜も更けてきた頃合いで、このタイミングでエレベーターを使う住民も少なそうだったから。
「大丈夫?」
「あーあー……食べ物粗末にしちゃった」
「えっ、気にしてたの、よりにもよってそこなの?」
「うん」
「恋人のこと振って、そこに脱力でもしてるのかと思ってたのに」
「あー……いや、なんか、そこは本当に、あのマヌケ面見てたら、どうでもよくなっちゃったんだよね。どうしてこんなやつのこと好きだったんだろうって、大真面目に思っちゃったし」
津久田の口調はどこまでも乾いていて、それが本心であることはわかった。未練より食べ物への申し訳なさが勝るあの元カノに同情しかけるけど元はと言えばすべてあの女が悪いのだ。
「食べ物粗末にするやつより、ひとの心を粗末にするやつのほうが悪いに決まってるでしょうよ。今ごろ、ちゃんと床に散らばった生クリーム、ふたりで一緒になって舐めてると思うよ」
スタッフが美味しくいただきました、みたいな。
そう冗談めかした調子でつけ足すと、津久田はくつくつと笑い始めた。
「キモいこと想像させないでよ。でも、そういうの好きだったから、マジでやってるかも」
「最悪元カノの性癖を暴露されてる彼氏いない歴イコール年齢のアラサーの気持ちにもなれ」
「よく一息でそんなセリフ言えるよね、ウケる」
「ひとの気持ちを『ウケる』の一言で片づけるな」
なんて事を済ませてすぐ元の調子に戻った私たちは、下品な笑い声をエレベーターやアパート中に響かせた。もしかしたら、あの女の部屋にもその笑いは聞こえていたかもしれない。アパートからでたところで、すでにクリスマスは終了していたけど、祝勝会と称して、津久田の勤め先であるコンビニに追加のアルコールを買いにいった。一度帰ってから再び現れた私たちにさすがの猫背女も驚いていたようだったけど、それも今の私たちにとっては面白かった。
そんな私たちに対して猫背女は終始うざったそうな表情を浮かべていた。
流れるようにして津久田の部屋に戻って、その汚さに笑いながら缶を空ける。
そうやって先ほどの浮気女の話に花を咲かせて、しばらくゲラゲラと笑ったところで、津久田が心なしか真剣な表情を浮かべ始めた。今の私からしたらその顔すら面白かったんだけど。
さすがに笑いを堪えられる程度の理性は残っていた……と思いたい。
「……三島さんと私は友だちなんだよね?」
「え、うん。そのつもりだったけど。嫌ならべつに行きずりの関係でもいいけど」
「や、言葉のチョイスに悪意があるでしょ……それに、べつに、嫌とは言ってないし」
「はいはい。さっきも言った通り、私は津久田のこと友だちだと思ってるよ」
そんなに『私たちは友だちである』という確証が欲しいのかと思い、そう告げてやる。だけど求めていたはずの回答が与えられたはずの津久田は、なぜか釈然としない表情をしていた。
……言葉以上のなにかを求めてるの?
だけど友だちである確証とはなんだろうと頭を捻ってると、津久田が一歩先に話を進めた。
「でも三島さんに恋人ができたら、私の優先順位ってさがっちゃうの?」
「えっ、いや、なにその心配」
予想してた展開とは異なる謎の心配に、私は戸惑いだらけの声を漏らしてしまう。
「と言うか今日たまたま出会ったってだけで、津久田の優先順位はそこまで高くないけど」
「そうなの!?」
さもそれが衝撃の事実であるかのような津久田の反応に、私はいよいよ堪えきれなくなって笑ってしまう。よくもまあ、そんな器用に『驚愕の表情』を浮かべられるものだと思う。
「そうなのって、なんでそんな意外そうなのさ。あげろって言うならあげるけど」
「なにそれ。三島さん、だれにでもそんなこと言ってそう」
「私からの優先順位あげたがる人間なんていないもん。そもそも私に恋人なんてできないし」
「わかんないじゃん」
「わかるよ。彼氏いない歴イコール年齢のアラサーをナメんなってば」
若い頃は『もしも彼氏ができたら』なんてアリもしない未来を考え、勝手に心配してたりしたけど、今となってはすべてが夢物語だとわかる。そういうことは『恋愛するための土壌が整っている人間たち』で勝手にやっていればいい。私は独身を謳歌すると心に決めているのだ。
「だったら彼女ならできるかもよ?」
「だからそれは彼氏以上にあり得な――」
あり得ない。
そう言いかけて、他ならぬ目の前の女が、そういった性的指向をもっているのだという事実を思いだす。今のはあくまで自分の話だけど、津久田の前で『あり得ない』という強い語句を使うのは無神経のようにも感じられて、私は不自然な形で言葉を句切ってしまったのだった。「あはは、三島さんって、口とか態度とか性格とか最悪なのに、そういうところ優しいよね」
私の態度からすべてを察したらしい津久田が、柔らかな笑いをこぼす。
自分の半端な配慮にそうした反応をされるのは、ヘタな失言を指摘されるよりよっぽど恥ずかしかったからやめて貰いたかったけど。なぜか津久田は嬉しそうな表情を浮かべていた。
「……と言うか三島さん、なんにも言わないね」
その顔をスッと真剣なものへと切り替えながら、津久田はまっすぐ私を見据えて言った。
「なにが?」
「いや、相手……女だったじゃん」
「あー……そうね」
なんとなく津久田がその点を気にしているのは理解できた。
大学生なんて大人ぶってみたところでティーンエイジャーの延長線でしかない。どれだけ達観してようと、そうした事柄を実感としては処理できないだろうし、他者の反応に対する不安だって大きいだろう。それはアラサーになったところでどうにかなる問題でもないのだから。
「まあ、最初は驚きはしたけど、べつにそこは個人の自由だと思うし、友だちにもひとりそういう子いるから、わざわざ突っこむような場所でもないし。意識するほうが間違ってるじゃん」
それは偽らざる私の本心だった。
べつに性的指向が同性だからと言って、それでなにが変わるわけでもない。それがイコール『自分へと性的な目が向かう』という発想に至るのは馬鹿すぎる。だって私は自分に性的な魅力がないことを理解してる。それは性別が変わったところで、どうにかなる問題でもない。
だけどそこで私は津久田の視線が心なしか湿っていることに気づく。
私は他者からそんな視線を向けられたことがなかったから。
その視線の湿りがなにを意味しているのかまではわからない。
なのに私の心臓は、ドキリと、大きく、脈打ってみせたのだ。
そのとき胸の奥深くで、なにかが痛んだような気がした。
「……でもさ、さっき私、言ったよね」
「なにが……?」
津久田の問いかけに心臓の奧が再び痛む。
酔いの底に沈んだ記憶を掘り返そうと泥濘に手をつける。
――ああ。
生温い酩酊の先、私の指先に引っかかったのは、どう考えても冗談でしかない言葉で。
「だから『もしも私が女好きだったら、押し倒してた』って言ったよね。覚えてない?」
答え合わせでもするようにして、津久田は私にそう尋ねていた。
「……覚えてる」
覚えてないフリをするのは簡単だった。
事実、津久田にそう尋ねられるまで、私はその会話を忘れていたのだから。なのに気づくと私は津久田の言葉に同意を示していたのだ。それが彼女にとっても意外だったのか、一瞬、私たちは互いの目を見つめて停止した。先に再稼働したのは津久田のほうで、彼女はどこか色気を感じさせる緩慢な動作で、テーブルをぐるりと回って、私の元へと這い寄ってきた。
「それでもこの部屋に戻ってきたってことは……押し倒されても文句は言えないよね?」
そこで私はやっと津久田の瞳の湿り気が、期待と不安によるものだと気づく。
私には――なんだか彼女が私に拒絶して欲しいようにも見えた。
だけど酩酊で緩んだ理性でそこまで津久田の気持ちを汲み取ってやることもできず、
「まあ、そうね」
私は彼女の願望に反して、そう、答えてしまっていた。その答えを聞いて、湿り気が――涙という形で結露を起こし、その雫が伝い落ちるよりも先に、津久田は私を押し倒していた。
「……やっぱりだれでもいいんじゃん」
馬乗りになった状態で私のことを見おろしながら、津久田はそんな呟きを落とした。だけど彼女の意地を示すように、その目に湛えられた雫は、一緒に落ちてくることはなかったけど。
ともあれ、その子どものような理不尽なワガママに、私は苦笑する。
「自分で聞いといて傷ついてんじゃねーよ」
どうしてこんな状態で私がフォローしてやらなくちゃいけないのかわからないが。乗りかかった船だと――そんな言い訳をしてしまう程度に、きっと私はこの女を気に入っていたのだ。
「私があがるのは抱かれてもいい相手だけって言っただろ」
私の言葉を受けて、今度こそ、その雫が散った。
熱い雫が私の唇に当たり、その熱が、そのまま体を伝い落ちていく。
その感覚が俗に言う欲情なのだということに気づき、私はさらに苦笑を重ねてしまう。
「なにそれ……そんなこと言ってたら本当に抱くけど」
これでもなお最後の一歩を踏みだそうとしない津久田に私は痺れを切らしてしまう。
「何度も確認するの、やめて欲しいんだけど」
だからそう告げて、ゴーサインの意味も兼ねて、そのまま彼女の唇を奪い取った。
「酔った勢いでとか……私、そういうの、嫌なんだけど」
「まあ、行きずりの馬鹿騒ぎの締めには、ふさわしいでしょうよ」
こうして私の『初めて』は二十代最後のクリスマス――そのロスタイムに、イートインで食事を済ませるような軽いノリで、傷心中の女子大学生にいただかれてしまったのだった。
二日酔い特有の痛みに苛まれながら前日の馬鹿を後悔するのは毎年のことだったから。
なにもかもが私の人生にふさわしいのかもしれなかった。
いつも評価やブックマークありがとうございます。
作者の綾加奈です。
この短編はpixivで開催されていた『百合文芸』の再録になります。
普段はKindle等々で百合小説を販売しています。
下にある表紙画像をクリックすると詳細ページに飛べますので、
気になった方はそちらも覗いてくださると嬉しいです。
それから『私は君を描きたい』という高校生百合の長編小説をなろうで連載しています。
こちらもラブコメ百合です。
今、物語が佳境に入ったところなので、導入だけでも覗いていってくださると嬉しいです。
綾加奈でした。