お嬢様、その呼び方はやめてください。
シアンは、倒れこむ前に、船の操作を始める。船内の窓を開けるスイッチを押し、睡眠薬を外に流し出す。操縦室も視界を遮っていたピンク色の霧が薄くなっていく。
「ティナさん、操縦士を起こしてください」
シアンは、ポケットから瓶を取り出して渡す。シージャック犯が使った薬だ。ティナなら、薬の成分を調べて、解毒剤を作れるかもしれない。
ティナは、シアンから薬を受け取ると、換気の終わった部屋の中で、マスクを外した。瓶の蓋を開け、薬を一粒出す。それを細かくして口に含む。独特な酸味がある。それと、例えにくい不思議な匂いが鼻を抜ける。飲み込まないように薬を口から出す。ティナは、これだけでどんな成分が入っているかわかってしまう。ティナの作った薬とよく似ている。ただ、即効性の出し方が違う。薬に即効性を与えるためにティナが使ったものと違うものを使っているようだ。
睡眠薬の成分がわかれば、その効力を弱める成分もわかる。ティナは、カバンの中から、袋に入った薬を取り出した。これは酔い止めだが、中にその成分が含まれている。これを焚けば、睡眠薬の効果を消すような成分が空気中に発生するはずだ。
ティナは、薬を焚き始める。もちろん、その前に、ハイジャック犯たちが香をかいでしまわないように対策をした。とはいっても、さっき外したガスマスクをつけただけだ。壊れて足りない分は、ティナの私物を使う。
その間、シアンは操縦桿を握りしめていた。船を操ったことなどない。本で仕入れた知識を使うだけ。そんなに高度なことはできないので、障害物にぶつからないようにだけする。海は広い。見たところ、船がぶつかりそうな物はない。
ティナは、火の番をしながらシアンを見る。傷口から血を流しながら、舵をとっている。シアンはなんでもやるな、と思う。普通の人間はそこまで芸達者じゃない。
シアンの知識や技術は、竜の血によるものじゃない。彼の境遇が生み出したもの。幼い頃、両親を亡くしてから、生きるうえで頼れるのは自分だけだ。だから、努力は惜しまずに生きてきた。ルキナを守るための武器であることが多いが、結局は、全て自分が生きていくために身に着けたものだ。
しばらくすると、ティナの薬が効いて、大人たちが目を覚まし始めた。状況を理解すると、すばやく操縦をシアンと代わり、ハイジャック犯たちを取り押さえる。シアンたちの役目はなくなった。
大人たちが、シアンの傷の手当をしようとするが、シアンはそれを断った。早くルキナの無事を確かめたいのだ。ティナの焚いた薬のおかげでシアンの眠気もある程度緩和されている。
シアンが甲板に戻ると、ルキナが目を覚ましていた。薬を吸った後、シアンが船の外に運び出したので、他の乗客たちより早く薬がきれたようだ。
「無事そうで良かった」
シアンがルキナのいる方を見て黙っているので、代わりにティナが言った。
薬の怖いところは、量が多いと、本来の目的以上の力を発揮してしまう可能性があることだ。睡眠薬の一種であるこの薬も、吸い続けたら死に至るかもしれない。ティナは、薬の中毒の恐ろしさを理解している。
シアンとティナが、甲板に出る階段の頂上で立ち止まっていると、甲板にいるハイジャック犯の残党を回収するために、船員が登ってきた。作業の邪魔にならないように、少し移動する。
「ティナ・エリ!」
シェリカがティナを呼ぶ。階段の方が騒がしくて注意を向けたら、シアンとティナがいた。シェリカは、人をかき分けながら走る。そして、そのまま、ティナの腕の中に飛び込む。
「シェリカ様?」
ティナは、シェリカはシアンに抱きつくものだと思っていたので、びっくりする。
「ティナ・エリのばかぁ」
シェリカは、ティナの胸に顔をおしつける。背中に回した手に力が加わる。
「うっ…ひっく…。」
シェリカはしゃくり上げながら泣いている。反応に困る。ティナは助けを求めるようにシアンを見る。
シェリカが泣いているのを見るのも、慰めるのも初めてじゃない。昔は、思い通りにいかなくてしょっちゅう泣いている主人をあやしていた。でも、ティナを心配したが故の涙は、いままでなかった。戸惑うのも仕方がないのかもしれない。
シアンは、疲労の残る顔で笑顔をつくり、静かに離れて行った。もちろん、これは気遣いだ。
ティナがためらいがちにシェリカの背中に腕を回す。
「大丈夫ですよ」
優しく背中をさすってあげる。なんとなく、シェリカのしゃくりあげる声が小さくなった気がする。
「どっかの死神みたいね。行く先々で事件なんて」
ルキナが、手すりに体を預けながら言った。シアンが隣に並んで立つ。ここから、シェリカとティナが抱き合っているのがよく見える。
ルキナはこれまでの経験のせいか、無駄に肝が据わっている。修学旅行中にシージャックをされるなんて目にあっているのに、たいして動揺しているように見えない。既に、犯人が拘束され、ほぼ解決に至っているためかもしれないが。
「見た目は子供、頭脳は大人の小学生が主人公の漫画よ。真実はいつも一つ!ってね」
ルキナは、いつもどおり、楽しそうに前世の思い出を語る。
「死神はやめてください」
シアンが、絞り出すに言った。緊張している状況下の出来事だったので、その時は反応なんてしてられなかったが、赤目の死神だとか、銀髪の悪魔だとか呼ばれるのを気にしていたらしい。誰も人は殺したことはないのに、死神や悪魔と呼ばれるのは不本意だ。しかも、そういう犯罪者の生きる世界で、異名がつけられるくらい存在が知れ渡っていたとわかって、ショックだ。
「え、なにそれ。かっこいいじゃん」
シアンが変な異名の話をすると、ルキナが目をキラキラさせた。だが、間もなく、真剣な顔に切り替わった。
「どうでも良いけど、シアン。血、出てない?」
シアンがあまりにも平然としているので、まさか怪我しているなんて思わなかった。
「かすり傷です」
シアンは、なんでもないように言う。
「そういう問題じゃないでしょ?」
ルキナは、シアンを床に座らせ、傷の手当を始める。近くにいた従業員に医療箱を持ってきてもらったのだ。
(お嬢様に手当してもらえるなら怪我して良かったな)
シアンは密かに幸せを噛みしめていた。怪我はもちろん良くないが、ルキナに心配されるのは悪い気分じゃない。彼女に触れられるのは悪い気分じゃない。
しかし、シアンの体力は限界にきている。
普段なら、主人であるルキナに傷の手当てをしてもらったりなどしないだろう。ルキナから申し出たとしても、シアンなら断るはずだ。そう。疲れすぎて、判断力が鈍っているのだ。だから、思わず、世間の目より、自分の感情を優先してしまった。
そして、幸せな時間は、本人が望まなぬ形で終わりを迎える。
「『りゃくえん』に流血演出とかなかったし、そう考えると、この世界はやっぱり現実なのね。…痛くない?」
ルキナが手を止め、顔を上げる。シアンの返事はない。シアンは眠っていた。睡眠薬の効力はきれているが、眠くなる要因はそれだけじゃない。無理な戦い方をしたせいで、体力はごっそり削られている。緊張感と気力で保っていただけなので、それがなくなれば、あっという間に眠りに入ってしまう。
「やっぱり、シアンは馬鹿ね」
ルキナは、残りの怪我の応急処置をさっさと終わらせ、シアンの隣に肩を並べる。シアンの頭を自分の方に傾けさせる。支えのないシアンの頭は、ルキナの肩にのっかる。
今回は、シアンの活躍を全く見られなかった。怪我を見る限り、そうとう苦戦したのだろうと予想はできる。本当なら、危険な真似はするなと、事前に止めに入りたかった。だが、その時、ルキナはぐっすり眠りの中。だからといって、全て終わってから、何も知らないのに怒ることもできなかった。
ルキナにはわからない。なぜそこまでして戦うのか。誰かの救助を待てば良い。お金で解決するなら、命をお金と交換すれば良い。でも、シアンは、誰よりも早く行動する。無茶なのに、自分の命も顧みずに危険に飛び込む。
ルキナのことが好きだから自分の手で守りたいのか。おそらく、そんな単純なものではないだろう。シアンの人格は、その境遇に影響されている。シアンには、ここしかないのだ。彼の居場所はここにしかないのだ。ルキナを守りながら、自分の存在意義を守っているのだ。本来、両親から与えられるはずの愛を得られず、自己肯定の仕方がこれしか知らないのだ。
結局、ルキナは、シアンに釣られるように眠ってしまった。さっきまで寝ていたというのに。二人して仲良く眠っていたものだから、ちょっとした噂になった。二人は禁断の恋をしているのだと。
噂自体には何の力もない。だが、それを信じた者が、行動を起こす。
「シアン君、私と付き合ってください」
「…ごめん」
このやり取りは、もうじき十回目になる。修学旅行一日目の夜。女の子たちが、シアンを呼びだしては恋人になりたいと言う。
これは噂の影響だ。シアンのファンたちが焦りを感じ始めたのだ。抜け駆けを良しとしないファンクラブは、この修学旅行中に限り、告白をOKにしたのだ。そうでなくても、今は修学旅行。修学旅行マジックを話題にして盛り上がっている少女たちが、変な行動力を発揮するのは不思議でもなんでもない。
シアンに告白して満足した女の子が去って行った。
「あれれー?おっかしいぞー?私のモテモテ計画を差し置いて女の子にモテてるなんて」
ルキナが姿を見せ、シアンをからかう。告白現場を目撃したようだ。
「おっかしいなー」
シアンに向かってニッコニコしてみせる。
「…お嬢様はなんでこんなところにいるんですか?」
今は夜の自由時間。でも、宿泊施設の外に出ることは許されていない。だから、生徒たちは告白の場作りのために人通りの少なそうなところに当たりをつけ、相手を呼びだす。ここはたしかに人が少ない。だからこそ、ルキナがここにいるのは謎だ。こんなところに用があるわけない。
「リア充がどんどん増えていくのよ。見てらんないわ」
ルキナは、シアンに愚痴を言うために、新しく誕生するリア充たちから逃れるために、シアンを探してここにやってきたのだ。
「リア充がひとぉり…リア充がふたぁーりー…リア充がさんにぃーん…。」
ルキナが声を低くする。
「なんでホラー風なんですか」
「私にしちゃ、どっちも同じ恐怖よ」
こんなところで二人でこそこそと話していたら、例の噂にさらなる尾びれがつきそうだが、本人たちは噂のことなど知らない。これが知らぬが仏ということなのだろうか。




