お嬢様、ただいま戻りました。
シアンがミューヘーン家に戻ったのは、家出から四日後だった。リュツカ家の屋敷を出た時間も遅かったうえ、既に長時間走ってきた馬も疲れていた。途中の宿で一泊して馬を休ませたので、余計に時間がかかった。そうしてやっとのことで帰ってきたところをハリスとメアリが待ち構えていた。忙しいはずのハリスまでずっと二人が戻ってくるのを待っていたのだ。シアンのことを心配するのはもちろんのこと、ルキナのことも気が気でなかった。というのも、ルキナはシアンの場所がわかったと言って、居場所は誰にも告げずに飛び出していったのだ。使用人に急いで用意させた馬車にはたった一人だけ乗っていってしまった。
「どうして勝手に行ったんだ。せめて場所を教えてくれれば」
ハリスがルキナに問い詰める。しかし、当の本人は、何をそんなに怒られなければならないのだろうという顔をしている。
「シアンの家の鍵がなかったんだから、すぐわかるでしょ」
ルキナは当たり前のように言う。ルキナはシアンの部屋を見てすぐにわかったのだ。シアンはリュツカ家の屋敷にいると。だから、両親や使用人たちもわかるだろうと思ったのだ。
「いやぁ、まあ、そうか」
ハリスが負けた。隣のメアリはまだ怒っているようだが、それ以上言うのはやめたらしい。
ハリスもメアリも、シアンのことはあまり咎めなかった。シアンの心のうちを理解しているわけではないが、彼を不憫な子だと思っている。だから、あまり追い詰めるようなことはできなかった。
でも、シアンには少し寂しく感じた。
用が済むと、ハリスが仕事に戻らなければならないからと急いで家を出ていった。メアリが準備を手伝いに行く。
「あー!」
二人が姿を消したところで、突然ルキナが大声をあげた。何かを思い出したようだ。
「どうしたんですか」
シアンが尋ねると、ルキナがこの世の終わりかのような顔で言った。
「夏休み、今日で終わりじゃない」
たしかに今日は夏休み最終日。シアンは学校もボイコットする覚悟で家出したのだ。あのタイミングでルキナが迎えに来なかったら、きっとシアンはしばらく学校を休むことになったはずだ。
「明日から学校ですね」
シアンは学校を楽しいと思えるし、夏休みにやり残したことは思い当たらない。清々しい気持ちで新学期を迎えられそうだ。一方、ルキナは絶望的な表情のままだ。シアンはルキナに視線で理由を問う。
「宿題まだ終わってないのよ」
「え?間に合うって言ってませんでした?」
ルキナの言葉に心底呆れる。シアンはさんざん進捗確認を繰り返してきた。最後に苦しまないように早くから声をかけてきたのだ。それに対して、ルキナは深く考えずに大丈夫だと言ってきた。完全な自業自得だ。そうでなくとも、別世界とはいえ人生二周目の人間がほんの八歳の子供に宿題の面倒を見られているなど、なんて情けない話だろうか。
ルキナは体をふるふる震わせた後、目をキッと吊り上げる。
「シアンのせいで残り五日を無駄にしたんだから手伝いなさい」
因縁をつけて、シアンに手伝わせる作戦にでた。
言いがかりもよしてほしいものだ。シアンはとっくに宿題は終えている。ルキナだって今まで充分時間はあったはずだ。シアンの忠告に聞き耳をもたずに遊び惚けていたルキナが百パーセント悪い。
(いや…一パーセントくらいは僕のせいかもしれない)
ルキナがシアンを探すために労力を費やしたのは間違いない。迷惑をかけてしまった責任は感じている。
「四日です」
シアンは、迷惑をかけた分くらいは協力してあげても良いかもしれないと思った。だからこそ、そういった数字は明確にしておかなければならない。少し手を出せば際限がなくなる。自分がすべき量はこれだけだと先に言っておかなければならない。
「細かいわね。何でも良いから来なさい」
ルキナはそんなシアンの意図に全く気付く様子もなく、首根っこを掴んで階段をのぼっていく。脇目をふっている時間はない。まっすぐ自分の部屋に向かう。
(お嬢様の部屋入るの久しぶりだな)
シアンはなんだか悪いことをしているような気持ちになりながら中に入る。
ルキナが勉強机とは別のテーブルにどさっと宿題を乗せる。これが残りの宿題ということなのだろう。
初等学校の宿題だから量はさほど多くない。少しずつでも毎日コツコツやれば夏休みの半分もあれば終わる量だ。
だが、テーブルに乗せられた宿題の量は出されたときとそう変わらない。手つかずのまま夏休みを終えようとしていたのか。
「これ、四日でどうにかなるレベルじゃないですよね」
シアンは呆れてものも言えない。宿題が終わってないと聞いた時点で全く予想していなかったわけではないが、限度というものがある。
とりあえず、始めないことには話は進まないので、二人ともそれぞれテーブルに向かう。宿題の問題を解き始める。シアンが問題を解いてもしょうがないので、まずは初日で時が止まっている日記を書くことする。
ルキナの字に似せるのはそう大変なことではない。初等学校で字を習う前から二人は読み書きができた。その時から互いの字は見ている。自然と癖は似てくる。
宿題のことでいっぱいのルキナの頭の中に、ふとある曲が流れ始める。
「ふふふーふんっふーふんっふーふんっふーふんっふーん♪」
ルキナは、前世では無難な学生生活を送っていました。宿題を出さなくて先生に呼び出されて目立つような生徒ではありませんでした。自己主張が苦手だった分、やるべきことはやるタイプの人間だったのです。それが、匠(神?)の手にかかると…。
なぁんというぅことでしょお~。
宿題は先に終わらせ、大人に怒られる要因を排除してから乙女ゲームに惚けていた一見真面目な少女が、宿題を同級生に押し付ける不良少女に生まれ変わったではありませんか(物理)。
「どうしよう。前世じゃ課題を忘れたことがない優等生だったのにぃ」
ルキナが泣きそうになりながら言う。カリカリと手は動かしている。
頭が悪いわけではないので、悩むことなく解き進めることができる。しかし、問題は量だ。半日で終わるだろうか。徹夜も覚悟しなければならないかもしれない。その時は、両親にバレてしかられてしまうリスクも負わねばならない。
「優等生?」
シアンはルキナに疑いの目を向ける。
「なによ」
ルキナの涙がひっこんだ。
「猫かぶってたんだなーと思いまして」
「はい、ノルマ追加ぁ!」
ルキナが自分の机にあった宿題をドサドサと音をさせながらシアンの前に落とす。
「ちょっ」
もう既に一回やった宿題をまた最初からやるのは、なかなか辛いものだ。シアンは理不尽にノルマを課されてあからさまに不機嫌になる。シアンはあまり顔に感情が出るタイプではないが、ルキナにはシアンの今の気持ちなどすぐにわかるものだろう。だが、ルキナは意に介さない。
「でも、ちょっと悪い気分じゃないわ。一回はやってみたかったのよね。夏の風物詩ともいえる宿題地獄。夏休みの最終日徹夜で終わらせるのよ」
ルキナは意気揚々と自分の勉強机に戻る。
「そんな風物詩知りませんよ」
シアンはイライラを声に乗せる。それでも、シアンは手を休めることなくルキナを手伝っている。それは、シアンの良いところでもあり、悪いところでもある。
「忘れてるようなので、一応言っておきますけど。去年も同じことしてますよ」
シアンが宿題をやるよう催促したのは、去年のことがあったからだ。でも、シアンがこうして手伝うから、ルキナは彼をあてにしているところはある。シアンの親切がルキナを怠けさせる結果へと繋がったのは否定しきれない。『情けは人の為ならず』ということわざがあるが、親切の末まわりまわってきたのは、誰かからの親切ではなく、苦労だった。
「私は過去を振り返らない主義なの」
ルキナは調子の良いことを言う。決してそんな状況ではない。
「過去っていうか、せめて失敗から学んでください」
シアンは頭痛がする思いをしながら、せっせと手を動かす。日記はもう書き終わりそうだ。
「歴史は繰り返されるものなのよ~」
ルキナがペンを持った右手をひらひらさせる。
肝心のルキナはさっきから全然進んでいない。シアンとの会話に夢中になっているのだ。
「ルキナ!」
その時、メアリが部屋に入ってきた。怒りの形相だ。
「げっ!お母様!」
ルキナは立ち上がって、机の上を隠すように机の前に立つ。背中に何かを隠しているのはバレバレだ。
「宿題が手つかずで残ってるって?」
仁王立ちに腕組み。メアリがルキナとよく似た格好で怒る。否、ルキナがメアリに似ているだけだ。
ルキナは横目でシアンを見る。シアンがチクったのかという疑いの目だ。シアンは首を振る。そんな暇などなかったし、自分までメアリの逆鱗に触れる危険がある行為をわざわざするわけがない。
おそらく、使用人の誰かの仕業だろう。ルキナとシアンの会話を聞いていた者がいたはずだ。彼、もしくは彼女がメアリに宿題のことを伝えたのだ。事前に、メアリからルキナの行動を見張るよう言われていれば、当然の行動である。
「聞いてるの?ルキナ」
ルキナがよそ見していたことに気づき、メアリが声を荒げる。ルキナは「はい、聞いてますー」と勢いよく答えた。
「まさか、シアン君に自分の宿題やらせてるんじゃないでしょうね」
鋭い言葉にルキナがびくっとする。
「違いますよ。僕はお嬢様に他事しないように見張っててほしいと言われたので、ここで本を読んでただけです」
シアンは落ち着いて言った。彼の目の前にあった宿題の山は消えている。メアリが入ってくる直前に勉強机の方に移動させたのだ。誤魔化すための本も、その時用意した。
「そう。さすがにそこまで馬鹿じゃないみたいね」
メアリはフンと鼻をならした。
綱渡りではあったが、納得してもらえたようだ。使用人がシアンに手伝わせていることまで報告していたら、きっと通用しなかった言い訳だ。
「やっぱり初等学校に行かせるんじゃなかったわ」
メアリが大きくため息をついた。このままでは学校をやめさせられると思ったルキナが「勉強のために行ってるんだから、学校やめるっていうのはどうなんですかね?」と悪徳行商人のように手をすり合わせながら言う。
「本当に勉強してるの?」
メアリがルキナの勉強机を見て言う。勉強しに行っていると言うのなら、宿題が残っているのはおかしな話だ。
「別に家庭教師をつけるだけですからね」
「せっかく入学したのにぃ」
ルキナが膝から崩れ落ちる。
初等学校に入学したのは、ルキナが家庭教師ではなく学校が良いとごねた結果だ。
この国の義務教育学校は義務学校、通称、中等学校だ。その下等学校である初等学校は、入学が自由だ。中等学校とは違い、授業料がかかる。だが、家庭教師を雇うことを考えると、だいぶ安価だ。だから、文字の読み書きのような常識的知識を身に着ける場として、初等学校は庶民の子供が通う。貴族の子供たちは、多くが家で家庭教師を雇う。明確な区別などなかったが、金銭的余裕の有無で自然と区別がついてくる。
ミューヘーン家でも、学校ではなく、家庭教師を雇って勉強させようかという話になった。その時、ルキナは学校に行きたいと言った。理由はもちろん逆ハーレム化計画のためだ。タシファレドとマクシスとの接点をそうそうに作ってしまう必要があった。二人が初等学校に通っていたことは、公式設定で明かされている。ルキナも、二人は初等学校からの付き合いで幼馴染だとされていた。ルキナが初等学校に行かない理由はないだろう。そんなルキナの思惑など知る由もない両親だったが、ルキナが何かを企んでいるような気はしていた。落ち着きのない娘が問題もなく学校に通えるようにも思えなかった。当然、ルキナの望みは却下された。結局は、根負けした両親が初等学校に通うことを許したのだが。
ルキナは初等学校一つ入学するのに相当苦労している。なのに、ここにきてやめろなんて言われてしまっては、すべては水の泡だ。
「家庭教師でも勉強しないのは同じか」
メアリがルキナを見下ろして呟く。「宿題は遅れてでも全部終わらせるように」とだけ言って去っていった。
「助かったぁ」
ルキナがあからさまに安堵の表情になる。メアリがあっさり身を引くとは思わなかった。
シアンは誤魔化す用に手にした本に夢中になっている。ルキナの部屋に置いてある本は読んだことがなかったので、この本も初めて読むものだ。
そんなシアンを見てルキナが言う。
「その余裕あるなら、お母様が来るって教えてよ」
自分は巻き込まれないように、宿題の位置を変え、本を用意していた。ルキナからすれば、それ以前にやるべきことがあっただろうに、と思わざるを得ない。
「その声が聞こえたら僕もおしまいじゃないですか」
シアンは本から顔を上げずに言う。
「あー、お母様は地獄耳だものね」
ルキナがそれならしょうがないと頷いた。階下から「ルキナー!」と聞こえてきたのは気のせいだろうか。




