お嬢様、探さないでください。
早朝。まだ誰も起きていない時間。
シアンは自分の部屋を出て、バレないように玄関を目指す。物音を立てないように慎重に扉を開け、一人、屋敷の外に出る。
霧に覆われた街は静かで、人の気配がない。一番近い路面鉄道の駅まで歩く。鉄道は朝早くから出勤する人のために既に動いている。汽車に乗るためには、この辺りで一番大きな駅まで行かなければならない。車両の中はスカスカで、座席に座ることができる。
チリンチリンと発車を合図する鐘が鳴り、やがて動き出した。レールの上を走る車両に揺られながら、心の中で謝る。特定の誰かに向けてというわけではなかったが、謝罪しなければならない相手はたくさんいる。ミーナの見送りもすっぽかすことになるし、ハリスに無断で仕事を放棄することになる。
今なら引き返せる。何事もなかったかのように戻れる。だが、シアンに帰るなんて選択肢はない。
できるだけ何も考えないようにして外の景色を見る。真っ白ではっきり見えないが、つまらないとは感じない。
「終点です」
車掌の声を聞き、車両から降りる。ここまで来ると人が増える。各地へとつながる汽車の止まる駅で、通勤途中の大人たちが早足で歩いている。時間もそろそろ通勤ラッシュとなる頃だろう。
シアンは、違う方向の汽車に乗ってしまわないよう、何回も確認して駅の中を歩く。汽車に乗るのは初めてだ。乗り方は、普段から鉄道を使って登下校している庶民のクラスメイトに聞いた。だから、先に乗車券を買わなければいけないこと、汽車の発車時刻は決まっていることは知っている。慣れない足取りで目的の車両を見つけ、乗り込む。出発まで少し時間がある。まだ乗っている人は多くない。混んでしまう前に席を確保する。窓側の席に座り、ぼんやりと外を眺める。
作業着を着た男たちが団体で通り過ぎる。小さな子供を抱いた女性が汽車に乗り込む。青年二人が乗降場のベンチに座って楽しそうに話している。女学生たちが汽車に乗る友人を泣きながら送り出す。
「まもなく発車いたしまーす」
車掌が汽車の横を歩きながら声を出す。しばらくすると、汽車の扉が閉まり、ベルが鳴った。大きな音を出しながら、車内が揺れる。景色がどんどん変わっていく。
いつの間にか乗客は増え、シアンの周りの席も埋まり、立って乗っている人もいる。人のいる方を見ると窮屈な感じがするので、そちらは見ない。ただ黙って外を見る。
皆、乗り合わせた他の客に興味はないのだろう。会話はない。自分の周りにいる者を確認すらしない。だから、シアンの目立つ髪色も、誰も気にもとめない。それに関しては、決して居心地は悪くないと思う。
二時間ほど汽車に揺られていると、目指していた駅についた。人混みをかき分け、汽車から降りる。そこはさっきまでいた街とはまったく景色が違って、緑が多い。畑に囲まれた駅からは、かなり見通しが良い。
シアンは次の列車に乗り、目的地へと近づいていく。田舎といっても、必要最低限の交通機関はそろっている。馬車がなくとも、たいていどこにでも行ける。
(ここだ)
シアンは目的の場所にたどり着いてほっとする。意外と道は覚えているものだ。列車の乗り降りする駅は自分で調べた。まだ記憶は新しい。だが、駅からの道は、ずっと前に馬車で来た時に通っただけで、あまり覚えていない気がしていた。周りの建物が少ないのもあって、思っていたほど困らなかった。
ここはリュツカ家の屋敷。ミューヘーン家の支援もあって、綺麗に保たれている。広めの庭を通り抜け、屋敷の中に入る。中は薄暗く、なんだか寂しい。人が住むわけでもないのに、ベッドに布団が敷かれている。いつシアンが戻ってきても良いようにという気遣いだろうか。掃除をしてくれているミューヘーン家の使用人に感謝だ。
シアンには、この屋敷で暮らした記憶がほとんどない。両親の顔も覚えていない。
適当な部屋に入り、ベッドにボスっと横たわる。昨日はよく眠れなかった。それなりの距離も歩いているので疲れている。体重を預けると、眠気が襲ってきた。シアンは、体の望むままに眠る。
目が覚めると、空がオレンジ色に染まっていた。ここについたのが昼少し前。今は夕方。だいぶ長いこと眠っていたようだ。
体を起こすと、お腹が鳴った。朝からずっと何も食べていない。ミーナに作ってもらったクッキーを持ってきて良かった。さすがに食料は置いていないだろう。
屋敷の中を汚すわけにはいかないので、外に出て食べることにする。庭の噴水に腰かける。水が出ていない噴水は殺風景だ。さくっさくっと音をさせながらクッキーを口に入れる。あまり量はないので少しずつ。
「あんた、ここで何してんだ」
突如話しかけられ、シアンは驚く。普段なら周りに注意を払っているが、今はクッキーに集中してしまっていて気づけなかった。
「ここにいると怖いおばさんに怒られるぞ」
少し離れたところから、少年が声を出す。
「キゾクの家だから、勝手に入るなって」
たしかに、この屋敷はリュツカ家の所有物だ。無人の屋敷とはいえ、無断で侵入してはいけない。少年の言うおばさんは、使用人の一人だろうか。怒っても不自然なことではない。
「ここは僕の家です」
シアンはクッキーを食べる手を止めて答える。
「へー、あんたがキゾクか。俺はキーシェル・ツェンベリン。キールって呼んでよ」
キーシェルがシアンに近づいてくる。シアンはさっとクッキーを背中に隠す。
「別にとったりしないよ」
キーシェルが笑う。髪と瞳は夕焼けと同じ色だ。
「クッキー、好きなのか?」
キーシェルがシアンの隣に座る。年齢はシアンと同じくらいか。シアンよりやや身体が大きい。
「そうですけど」
「へー、シュンエルと一緒だな。あ、俺の妹な。双子なんだ。少し先に生まれただけで兄なんだぜ。おもしろいだろ」
キーシェルは人懐っこい顔をしている。シアンの反応がないのも気にならないようで、話を続ける。
「この前もけっこうたくさんクッキー焼いたんだけど、後で見たら全部なくなってて」
「クッキー作れるんですか?」
「まあな」
急にシアンの食いつきが良くなる。クッキーを作れるだけで、シアンには謎の少年も素敵な人に見えてくる。
「良かったら今度作ってやるよ」
キーシェルの言葉に、シアンは嬉しそうに頷く。
「あ、やべ。帰らないと。シュンエルに怒られちまう」
キーシェルは立ち上がって、門に向かって走りだす。
「じゃあ、また明日な。あ、あと、敬語はいらないぞー!」
手を振りながら去っていく。
(また明日)
シアンはその後ろ姿に小さく手を振った。




