お嬢様、主従関係とは何でしょう。
「本当に辞めちゃうんですか?」
シアンはミーナに再確認する。
エルメスと想いが通じ合ってから一週間。見ていた限りではこれまでと変わらない様子で、何か問題があるようには感じられなかった。しかし、昨日の夜、ミーナがここを辞めると聞いた。しかも明日には出ていくと言う。今日が最後になるらしいが、突然のことで驚くしかない。
ミーナは笑顔で頷いた。
「仕事のできる大人は、職場に恋愛を持ち込まないんですよ」
作業中の手元を見ながら、「私は悪いお手本です」と続ける。ミーナは今、シアンのためにクッキーを作っている。ミーナがクッキーを焼けると知って、おねだりしたのだ。シアンは、クッキーを作っているところを椅子に座って見ている。
今は、コックが外に出いている。気を遣ったのだろう。キッチンも快く貸してくれた。それは、きっとミーナだったからだ。あの気難しいコック長もミーナのことは一目置いていて、能力を認めているようだ。
「あとは焼くだけです」
ミーナはオーブンに生地を入れる。
「やっぱり迷惑でしたか?」
シアンはずっと考えていたことを口に出した。シアンたちが二人をくっつけようとしなければ、ミーナがここを辞める必要なんてなかったはずだ。ミーナはシアンの考えを察し、優しく微笑む。
「迷惑だなんて思ってないですよ。勇気が出なくて困ってたくらいですから」
ミーナは、使用人業界の話をしてあげることにする。
「こういう仕事は特殊なので、だいたいが同業者と結婚するんです。お互いに理解してますから。そもそも出会いの場が少ないですし」
ふふふと可愛らしく笑う。
「だから、職場で出会った人と…なんてよくある話ですよ。でも、仕事に支障をきたしてはいけませんし、同じ職場で働き続けるのは避けた方が良いかなっていうのはあります。私もそれが心配だからやめるだけですよ。それに、実はもう転職先が決まっていますし」
ミーナの能力をかって、あるレストランから料理人として働かないかと勧誘を受けていた。タイミングが良かったので、そちらを受けることにした。エルメスとのことがなくても、ここを去る決断をしていた可能性もあった。
「私の友達に、違うパターンの人はいましたけどね」
ミーナは片づけをしながら話を続ける。シアンは耳を傾ける。
「雇われた先の家族に好意をよせられちゃって、それで何かが起こる前にやめたって話を聞きました」
「え?それもだめなんですか?」
シアンは思わず尋ねる。好きになったのは相手の都合だ。だのに、好かれてしまっただけの使用人が退職しなければならないなんて思いもよらなかった。
「主従の関係ですから。雇ってくださるお方と使用人。プロならば、距離をとるものですよ。多くの場合、良い顔はされませんから」
シアンの驚く顔に微笑む。
「一番だめなのは、使用人が主一家に手を出すことです。そんなことになれば、きっと即解雇、二度と使用人として働けることはないですよ」
そもそも雇い主一家を恋愛対象と考えるほうがおかしい。主人と使用人の恋愛関係はご法度だ。たとえ主人の方からせまってきたとしても、断る以外ない。しつこいようなら、ミーナの友人のように距離をとる。それがプロというものだ。超えてはならない一線というものが存在する。
「主人も使用人もデメリットが大きすぎますし、まずそうそうないですから」
シアンが異常に怯えているので、ミーナが優しく諭す。
「良い匂いがしてきましたね」
ミーナがオーブンを確認しに行く。うまく焼けたようだ。完成したクッキーをシアンの前に置く。
「出来立ても美味しいですよ」
シアンはファレンミリーの時にもらったクッキーしか食べたことがない。当然、温かいものはなかった。「熱いですから気を付けてくださいね」と言うミーナの横で、恐る恐る手を伸ばす。クッキーを一枚手に取る。たしかに熱いが食べられないほどではなさそうだ。口に入れる。
「美味しいですか?」
ミーナが嬉しそうだ。シアンの顔がぱあっと喜びに溢れたからだろう。あつあつのクッキーをばくばくと夢中になって食べる。
半分ほど食べ、冷めてから食べるように残りを袋に詰める。
「ありがとうございました」
シアンは頭を下げる。最後にわがままを聞いてもらったのだ。感謝はしっかり伝えないといけない。
「私は嬉しかったですよ。シアン様は誰にも甘えたことがないと聞いていたので」
ミーナはやっぱり優しく微笑んだ。
翌朝、ミーナの出発の時間がやってきた。使用人たちとハリスたち家族が屋敷の前で見送る。
「今度、みんなでレストランに行くよ」
ハリスがミーナと握手をする。ハリスは、忙しい時間を割いて、見送る時間だけは確保した。ミーナは頭を下げる。
「シアンもこれば良かったのに。ミーナがいなくなるのが寂しいのかもね」
ルキナはミーナに、シアンがいないことを気にしないよう言う。シアンの部屋に呼びに行っても反応がなかった。ルキナは、寂しいから見送りをしたくないのだと思った。
たしかに残念だ。せっかく仲良くなったシアンに会えずに去るのは。でも、最後の別れじゃない。一生会えないわけじゃない。
「お世話になりました」
ミーナは別れを告げた。
シアンは窓から外の景色を眺める。そこにミーナの姿はない。誰一人、知っている顔はない。彼は今汽車の中。出発を知らせるベルが鳴り、車両が動き出す。景色も前から後ろに移っていく。
ミューヘーン家のシアンの部屋には、一枚の紙が残されている。それには彼の字で一言だけ書かれている。
『家出します』




