お嬢様、それはしゃれになりませんって。
「これが水着イベントね」
ルキナが腰に手を当てて言う。その視線の先には、シェリカ、ティナ、タシファレド、ハイルック、ヘカトがいる。はしゃいでいる声が聞こえてくる。飛沫に太陽の光が反射してキラキラ輝いている。
(誰が初等学生の水着姿を見て喜ぶんだ)
シアンは砂浜に腰を下ろしてルキナと同じ方向を見る。
チグサは帽子を顔に乗せて寝ている。その横にはマクシスもいる。彼も遊び疲れたのか眠っている。
「そういえば、海イベントとほとんどメンバーが一緒ね」
もう一人、上級学校で出会うキャラがいれば完璧だ。ルキナはシアンの横に座る。コテージに控えていたアーウェン家の使用人がパラソルを用意してくれた。影のおかげで、砂の上でも熱くない。
「タシファレドのかっこいいシーンのあるイベントで」
「どんなのですか?」
シアンは興味本位で尋ねる。
「こちら側に染まってきたわね」
ルキナはシアンが乙女ゲームに関心をもっていることをしめしめと思う。
「なんですか、それ」
「布教成功ってところかしらね」
シアンはなんだか変な仲間に含められていることに気づき、嫌そうな顔をする。
「バクナワって知ってる?」
「え?あ、はい。海の怪物ですよね。竜の仲間でしたっけ」
「そう、すっごく大きいの」
ルキナはゲームの音楽を脳内で流しながら説明を始める。
上級学校に通い始めて最初の夏休み。ヒロインは、ルキナに誘われて、海水浴に行くことになった。その頃のルキナはヒロインを敵対視していないので、仲良くなるのが目的だった。
当日、ルキナと一部の男キャラ、シェリカ、ティナ、チグサとともに海にやってきた。特にトラブルもなく遊んでいた。そこへ、バクナワが現れた。
「バクナワって夜出てくるはずですよね?」
「そのはずなんだけど、なぜか。ユーミリアに惹かれて来てしまったのではないかっていう話だったけど」
「ヒロインに何か秘密が?」
「あんまりちゃんとした設定がなかったけど、特別な魔法は使えたはず。それで魔法科に入学するくらいだし。まあ、乙女ゲームの主人公はなにかしら特別な力があるものよ」
ルキナもたしかなことが言えないので、ヒロインの謎の力について深く話さない。少なくとも今は重要な話ではないので、問題はないだろう。
「それで、ユーミリアが襲われるんだけど」
ヒロインがバクナワの大きな口に飲み込まれようとしたその時、タシファレドが助けに入る。強力な魔法でバクナワを追い払い、ヒロインを海からお姫様抱っこで連れ出す。この時、いつもは冷たいヒロインが涙を見せることで、タシファレドは落ちる。攻略難易度が低いだけあって、ちょろいものだ。
タシファレドも顔だけは良いので、ルキナも前世ではそのシーンは何回見ても飽きなかった。
「おかしいのは、ルキナが誘ったくせに、海に行くのは初めてだったのよね」
ルキナがふふふと笑う。設定ではルキナは金槌で水が嫌い。ここにいるルキナはむしろ逆だ。ゲームとは全く同じストーリーというわけにはいかないだろう。
「それは変な話ですね」
シアンも一緒に笑う。
ゲームでの海イベントは雲一つない快晴の日。この地域では珍しいほどの天気の良さから、ヒロインは幸運の女神だと言われる会話もあったくらい。
「ゲームみたいにバクナワが出てきたりして」
今日も異様なくらい良い天気だ。雲は見当たらないし、海は青く透き通っている。
「縁起でもないこと言わないでください」
シアンは背中をぞっとさせる。
バクナワは伝説級の化け物だ。たしかにこの海はバクナワのすみかとして有名だ。大昔に、この海岸でその姿を見た者がいたとも聞く。だが、バクナワが海面に近づくのは夜だけ。月の美しさに惹かれてやってくるのだ。
今は昼。月の姿はまったく見えない。バクナワが現れるなど、誰一人想像しまい。でなければ、無防備に海に入って遊ぶなど馬鹿すぎる。
シアンは波の音に耳を傾ける。自然が生み出す音楽に心を落ち着かせる。
「…シアン?」
急にシアンの顔がこわばる。海の異変に気付いたのだ。色がおかしい。一部だけだが、光の透過度がおかしい。異様に暗いところがある。
シアンは立ち上がって海面の様子を見る。
その時、高く白い水しぶきが上がる。その中心には見たこともない生き物の姿がある。身体の一部が見えているだけのようで、黒い影はまだ大きい。人を飲み込むなどなんと容易いだろう。
「キャー!」
誰かの悲鳴。海に入っていたものたちが慌てて出てくる。砂浜をパニックになりながら駆ける。
碧色のうろこ。蛇のように長い身体。赤い舌。長いひげ。二対の翼。大きな口を天に向かって開いている。伝承の通りだ。
「うっわ。フラグ回収おつ」
ルキナは腰を抜かしている。その目で実際にあの化け物を見ることになるとは思わなった。まったく予想もしなかった展開に、間抜けな言葉しか出てこない。
「お嬢様、とにかく離れましょう」
シアンはルキナを引っ張り上げ、歩かせる。コテージから使用人が出てきた。シアンは彼らにルキナを任せ、振り返る。逃げ惑う人々で海が見えない。
「姉様!」
マクシスがチグサの腕にくっついて引っ張っている。チグサはなぜか海に向かっていこうとしている。
「タシファレド君が!」
チグサが海に向かって手を伸ばしている。シアンには見えないが、だいたいの状況を察する。チグサに行かせるわけにはいけない。
(僕が行くしかない)
シアンは上着を脱ぎ棄て、その場にしゃがむ。手をつき、呼吸を整える。
「はっ」
瞬間的に足に力をこめ、飛び上がる。上から人を超え、状況を確認する。逃げ遅れた人影が海に見える。あれがタシファレドなのかはわからないが、誰であろうと助けにいかなければいけない。体を回して、人のはけた砂浜に着地をする。魔法で衝撃をおさえつつ、スピードは抑えないで走り始める。
「ロット様!」
ハイルックが大声で名前を呼んでいる。やはり海に残されていたのはタシファレドのようだ。一生懸命海岸に向かって泳いでいるが、バクナワが作る波で思うように進まない。
「タシファレド、急いで!」
シェリカも叫んでいる。シアンはその横を走りぬけ、海に入る。まだ膝下までしか浸かってないが、水が重くてなかなかスピードが出ない。泳ぐのが得意といわけでもない。シアンはそうそうに水の中を進むのをあきらめ、姿勢を低くする。また大きくジャンプする。パシャっと水しぶきが上がる。
タシファレドにむかって、バクナワが口を開けている。タシファレドはもうパニックで、溺れかかっている。バクナワに吸い込まれそうだ。
シアンは右手をバクナワに向け、左手でそれを支える。地に足がついていないので、狙いが定まりにくい。それでも、タシファレドに当たってしまわないように、魔力を放つ。見えない力が水をはじき出し、バクナワに直撃する。さながら強力な空気砲のようである。
ぼちゃんとシアンが海に落ちる。海面に顔を出し、タシファレドのもとによる。一緒に海岸を目指して泳ぐ。バクナワから距離をとれているので落ち着いて、でも急いで。
「もうすぐです」
シアンがタシファレドを励ましていると、地面に足がついた。もうここまでこれば陸地も同然だ。シアンはタシファレドの背中を押しながら水の中を歩く。
バシャン。
背後で大きな水が音がする。頭の上に水が降ってくる。
バクナワが海面から顔を出している。蛇のように体をくねらせながらシアン達に近づいてくる。
シアンはタシファレドを押して、自分から離す。
バクナワがシアンの後ろを通っていきながら、ひげをシアンの体に絡める。ぐんっと体がもっていかれる。
「リュツカ!」
「「シアン!」」
タシファレドが叫び、シェリカとティナも叫ぶ。ティナはシェリカの前だというのに、呼び方を間違えている。それほど切羽詰まった状態だった。
バクナワはシアンを連れたまま海に潜る。頭を水の中に入れたところで、シアンを離す。シアンの目の前をうろこに覆われた身体が通り過ぎていく。視界は海の色とは違う碧色が埋め尽くされている。シアンの周りはバクナワの体で囲まれている。逃げ場などない。
シアンが体の向きを変えると、バクナワの顔がぬっと現れる。口を開くことなく、ただ真っすぐシアンを見つめている。
『おまえから同胞の気配を感じる』
不思議な声が脳内に響く。耳で聞くのとは違う感覚に、変な気分になる。
『まさか人間とはな』
バクナワがまた移動する。頭を一度海底に沈め、シアンの背後に回る。シアンも急いで体の向きを変え、バクナワの顔に対して正面を向く。
『噂を聞いたことがある。人間に血を分けた輩がいると。そうか、おまえが、その人間か。それにしては薄い…ああ、人間の命は短いのか。おまえは子孫というやつだな』
バクナワは、頭以外を動かし、シアンを囲っていた体を移動させる。シアンの周りが見通せるようになる。
『人間、気をつけよ。呪いの匂いがする。血に刻まれた呪いは厄介ぞ』
それだけ言うと、バクナワは闇の中へ消えていった。深い、深い、海の底へと帰る。




