お嬢様、待っていてください。
ティナも出て行き、シアン一人残される。横顔が西日に照らされてオレンジ色に染まる。ゆっくり深呼吸をする。目を閉じ、精神統一をはかる。
「すぅ…ふっ」
縄が燃え始める。赤色の炎が、シアンを縛る縄をつたって広がっていく。シアンの魔法だ。火を生み出し、操ることは難しくないが、気をつけないと椅子に燃え移ってしまう。少しの油断で、自分の体に火傷をおうことになるかもしれない。
一部が燃え、縄が緩くなる。自由になった体を動かし、椅子から下りる。パサッと残りの縄が落ちる。バラバラに細かくなった縄は、床にぶつかる前に燃え尽きる。燃えカスも残らず、縄は最初からなかったかのように姿を消した。
窓の外を確認する。二階なので飛び下りても死ぬことはないだろう。しかし、わざわざそんな方法を使う必要はない。この屋敷の大人はシアンの逃亡を邪魔しない。妨害するとしたら、シェリカとティナだけだ。油断さえしなければ、取るに足らない敵だ。
シアンは、窓から離れ、唯一の出口に向かう。ドアを静かに開け、隙間から周囲の様子を確認する。通路には人の影はない。
(よしっ)
シアンはシェリカの部屋を出る。周りに警戒しながら階段を目指す。シェリカに出会わず玄関まで辿り着けられれば、騒ぎを起こさず逃げ出せるだろう。
壁の陰に体を隠しながら、階段を覗き込む。階下から少女たちの声が聞こえる。その声は小さく、ボソボソとはっきり聞き取れない。どこか、部屋の中で喋っているのだろう。
(チャンス!)
心の中で自分に合図を送り、階段に向かって一歩踏み出す。
と、その時、ドンドンドンと扉を叩く音がする。玄関からだ。
「開けなさい!」
扉を挟んでいるので、声はくぐもっている。ここは、ルース家の屋敷。シアンの知り合いが訪ねてくるわけがない。にしては、やけに聞き覚えのある声だ。
「うるさい!」
シェリカが騒音に耐えかねて、玄関の扉を開けた。シアンも階段の手すりの隙間から様子を伺う。
「シェリカ・ルース、シアンを返しなさい!」
玄関の前に立っていたのは、ルキナだった。シアンが連れ去られた先をつきとめ、追いかけてきたのだ。
「お嬢様?」
シアンは、ルキナが迎えに来るなんて思わなかった。イジメの犯人は知らなかったはずだし、手がかりなどなかったはずだ。
ルキナが場所をつきとめられたのは、大部分が運だ。走って学校中を見回っていると、馬車の駐車スペースにシェリカたちの姿を見つけた。校舎の二階から、偶然馬車に乗るところを見たのだ。
ルキナは思い出した。ゲームの中のシェリカは、真似しいだ。つるんでいるルキナの持っている物を真似、髪飾りを真似、何もかも可能な限り寄せていた。その目的は最後まで明かされなかったが、ゲーム内のルキナはそれを嫌がる様子はなかった。理由はともかく、今回も、ルキナの側にいるシアンが欲しくなったのではないかと考えた。
案の定、注意深く見ていた馬車の車内に、シアンらしき影が見えた。その後は、自分も馬車に乗り、ルース家に向かったのだ。
「シアン!」
階段の踊り場に姿を現したシアンに、ルキナが喜びの声をあげる。
「ティナ・エリ、逃げられてるじゃない!」
シアンが逃げたのはティナのせいだと思ったシェリカがキッとティナを睨む。
「ひっ」
ティナは目に涙を溜める。
「シアン、帰るわよ」
お腹が空いた。さっさと帰りたい。ルキナはシアンに屋敷を出るよう言う。シアンは我に返って階段を駆け下りる。
「待って」
シアンがシェリカの横を通り過ぎる時、シェリカは咄嗟にシアンの手首を掴んだ。早く帰って夕食を食べたいルキナは、シェリカに対してむかっとする。
「何をしているの?離しなさい」
ルキナは腕を組んで仁王立ちになる。目の前にいるシェリカがイジメの犯人なのだが、イジメられていたことを忘れているかのような態度だ。これだけ強気でいられるのは、犯人がシェリカだったからか、シアンにまで手を出されて怒っているからなのかは、誰にもわからない。
(こういうところが悪役令嬢と言われるようになるのか)
ルキナの行動に道理は通っているが、傍から見ると、ルキナがシェリカをいびっているように見える。
「シアン、ちょうだい」
シェリカも負けじと訴える。シアンの手首を掴む力が強くなる。シアンは、力づくで腕を振り払うことはできるが、手荒な真似はできないので、開放されるのを待つ。まだ痛いと言うほどではない。
「あげないわよ」
ルキナが「当たり前でしょ」と鼻で笑う。
「ほしい!」
「だから、あげないって」
「ねえ、シアン、良いでしょう?」
シェリカがシアンの顔を覗き込む。シアンは何も言わないで、ニコニコ笑う。
(面倒くさいなぁ)
シアンは既に断っているし、ルキナも今まさに断っている。シアンは、不意に気になってティナの方を見る。
「…!?」
ティナはシェリカの陰に隠れる。自分は巻き込まないでほしいと、涙目で訴えている。表情は固くない。シェリカがいる場所では素を見せないよう徹底しているのだろう。
「シアン、ほら」
シェリカがシアンの腕を引く。ルキナはもう我慢ができず、堪忍袋の緒が切れた。
「駄目!シアンは私のよ!」
さすがの図太いシェリカも、これには圧倒され、思わず黙ってしまう。
シアンは、何とも表現できない気持ちになった。胸の奥がむずがゆいような、頭の中がぱっと明るくなるような。
「シアンは今日からここに住むのよ。さっきだって、シェリーのとこで働くの嫌じゃないって」
シェリカはすっかり弱気になったようだ。小声で、ルキナの方は見ない。
「ね?そうでしょう?」
シアンに助けを求めるように腕にしがみつく。シェリカはまだシアンが自分のところに来てくれると信じている。
「申し訳ありません。やっぱり嫌です」
シアンは、いとも簡単に心変わりしてしまった。
シェリカはこの世の終わりかのような表情になって、ついに泣き出した。自分の思い通りにならなかったのは初めてだ。
ティナが優しくシェリカの袖を引く。シェリカはシアンの手を離した。
「帰りましょ」
シアンは、先導するルキナと一緒に、ルース家を出る。シアンとルキナを困らせたイジメは、予想外の展開で終わりを迎えた。




