血。
雪の季節が終わりを迎え、新たな命が芽生える季節がやってきた。庭園の木々が色とりどりの花を咲かせている。
あの冬の夜会から、ルキナは月に二回ほど、城に忍び込んでシアンを訪ねてきていた。ノアルドの協力のおかげか、今のところ城の者にバレている様子はない。シアンは、ルキナに危険なことはしてほしくはなかったが、この時間を楽しみにしていた。
「シアン、こんばんは」
ルキナが木の枝に立ち、笑顔を見せる。シアンは窓から顔を出す。
「危ないですから座ってください」
シアンはルキナが足を滑らせて木から落ちてしまわないか心配する。
「私、やっぱり忍の才能あると思うわ」
ルキナが木の枝に腰かけながら言う。
「そうですね。意外と気づかれてませんね」
「意外って何よ」
「なんか、どんくさそうなイメージがあったので」
「ひどっ。そりゃ、シアンほど動けないけどさ。…あっ」
ルキナが何かを思い出したようにポケットから縦長の小瓶を取り出した。それを落とさないようにシアンに差し出す。シアンは腕を伸ばしてその瓶を受け取る。
「これがどうかしたんですか?」
見たところ普通の瓶だ。
「それに血を入れて」
「は?」
ルキナが突然変なことを言いだしたので、シアンは思わず驚きの声を出す。それはそうだ。いきなり血を瓶に入れろと言われたら、誰だって驚く。
「何に使うんですか?」
「んー、内緒」
ルキナは目的も教えてくれない。シアンは訝し気にルキナを見る。しかし、ルキナのお願いだ。とりあえず、彼女の指示に従っておくことにする。シアンは机の引き出しからナイフを取り出し、ナイフを掌に押し当てた。すっと横にスライドさせると、きれいに一本傷ができる。そこから赤い血が出てくる。シアンはポタポタと垂れる血を瓶の中につめた。
「ありがと」
ルキナは、シアンの血が入った瓶を受け取ると、満足そうにする。
「変なことに使わないでくださいよ」
「大丈夫、大丈夫」
ルキナは、瓶を大事そうにポケットにしまうと、木の幹に手をかけた。
「私が言うのもなんだけど、その手、ちゃんと手当しておいてね」
シアンが手のひらに布を押し当てて止血しているのを見て、ルキナが言う。シアンは、普通の人より傷の治りが速いから心配ないと答える。
「そんな力もあるの?竜の血は」
「今までそんなに怪我をしていなかったので、最近知ったんですけどね」
ルキナが顔をしかめる。最近はシアンも怪我をしているということなのだろう。シアンが危ないことをしていないか心配だ。
「それじゃあ、気をつけて帰ってくださいね」
シアンは、誰かがこの部屋に近づいて来るのを察知して、ルキナを見送る。ルキナは急いで木から下りた。シアンが窓を閉め、カーテンを閉めれば、もうルキナのいた形跡はない。
シアンが椅子に座って、部屋に近づく誰かを待つ。
「騎士長殿、少しよろしいですか?」
シアンの部屋を訪ねてきたのは城の家来だった。書類にシアンのサインが欲しいと言う。シアンは、椅子から立ち上がって、家来が広げている紙にサインをしようとする。家来の貸してくれたペンを握っていたが、するっと抜けて落ちてしまった。
「あ、すみません」
シアンは慌ててペンを拾おうとしゃがむ。ナイフで切ったのは右手で、利き手の左の感覚が狂うなんてことはないはずなのに、なぜかペンを落としてしまった。シアン自身、おかしいと思いつつ、ペンに手を伸ばす。
「あれ?」
視界が急にぼやけて、ペンとの距離がわからなくなってしまった。ペンに届いていると思っていた手が空を切る。一度、強く目をつぶり、目のピントを合わせる。目を開けると、いつも通り普通に見えたのでほっとする。目がおかしかったのは一瞬のことだった。
シアンはペンを拾い、サインをした。家来はお礼を言いながら去って行った。シアンは、部屋に一人になると、手をぐっぱぐっぱと閉じたり開いたりする。いつもとなんら変わらない気がする。さっきのはきっとたまたまだ。シアンは、特に心配しないで、ベッドに入った。明日は、ルーエンの命令で一人で遠征に行くことになっている。ちゃんと体を休ませておくべきだ。
最近は、ルーエンと共に行動をすることが減ってきて、各地の調査や問題解決にシアン一人が送り出されるようになった。秘議会がそうするようルーエンに進言したらしい。リュツカ家の人間は、護衛より隠密行動の方が得意だから、と。
今回、シアンが派遣されるのは、エルフの国にほど近い、ミョンバリレンという地域。この辺りの地域で、人が消えるという噂がたっている。実際に、何人かが行方不明になったという報告がきている。
「ミョンバリレンに赴き、実態を調査しろ。事態の収拾がつくようであれば、それに努めよ」
ルーエンは、シアンが城を発つ朝、改めて言った。シアンは、国王の手足である近衛騎士長として、一人だけで馬に乗ってミョンバリレンを目指した。
ミョンバリレンにつくと、そこの領主を務めている第二貴族の家を訪ねて回った。情報収集のためだ。しかし、大した情報は何も得られなかった。ミョンバリレンの行方不明者に関する噂がたっているのは知っていたが、特に大きな問題ととられているわけではなさそうだった。これは、ミョンバリレンが広大な地域で、人口も多いためだろう。ミョンバリレンをいくつかにわけて領主がいるので、その領地あたりの行方不明者の数は特段大きいわけではない。しかも、他の領主の領地も同様に行方不明者がいるなんて知らなかったようだ。領主同士の情報のやり取りが行われていない。シアンは、領主同士の交流の場を改めて作るべきだと進言しようかと考える。
(ここはアーウェン家の管轄か)
シアンはマイケルならすぐに意見を受け入れてくれそうで安心する。
シアンは、行方不明者の報告書をもとに、実際にその家族のもとを訪ねることにした。
最初は娘が行方不明になった高齢の女性。涙ながらに、娘が消えた当時の話をしてくれた。
「リリカが…いなくなったのは……ヒューレーにちょっとした旅行に行った時なんです。あの子が私のために準備をしてくれて………久しぶりの親子の旅行だったのに…。」
次に旦那が行方不明になった奥さん。自分の旦那は不倫して帰ってこなくなったのだと思っているのか、とても怒っていた。
「ちょっとヒューレーに行ってくるー、とかなんとか言って勝手に行っちまって。そんでちっとも帰って来やしない。どこほっつき歩いてるんだかね」
最後に妻が行方不明になった夫。最愛の人が帰ってこない不安でだいぶまいっているようだ。
「ヒューレーにできた新しいお店行ってくるわ。あれが嫁の最後の言葉でした」
シアンは三人の話を聞くだけで、ヒューレーに何かがあるのだとわかった。これだけ何度も同じ地名が出てこれば、そこに調査に行くのが普通の流れだ。むしろ、偶然三度も同じ名前が出るという方が難しい。
シアンは、ヒューレーという場所に行ってみた。エルフの国と隣接した場所で、最近栄えてきている地域らしい。新しい建物が数多く建っている。他の場所より若者が多い気がする。
ミョンバリレンを実際に歩いて気づいたのだが、ここにはエルフがたくさん住んでいる。エルフに会ったことはなかったが、人から聞いていたように耳の形が長くて尖っているという特徴をもっていて、皆美しい容姿をしていることから、すぐにエルフだと気づいた。
シアンは、ヒューレーで人間観察を始めた。いろいろな人の動向を調べた。行方不明になる人に共通点があるかもしれない。こうして調べておいたことが、後で役にたつかもしれない。今の時点で誰が行方不明になるのかわからない以上、より多くの人に目を向ける必要があるわけだが。
シアンが目をつけた若い女性二人組が、オシャレなカフェに入っていった。シアンは、その姿をなんてことのない情景だと思っていたが、しばらくして違和感を抱き始めた。あの二人組が一向に店の外に出てこないのだ。シアンが他の人に集中している間に移動をしていた可能性はあるが、普段は無意識のうちに、一度印象に残った人はつい目でおってしまう。つまり、よっぽのことがない限り、店から出てきたところを確認している。
シアンがガラス張りのカフェの中から街を歩いている人々の動きを眺めていると、女性二人が話しかけて来た。残念ながら、シアンが気になっていた二人組ではない。
「ちょっとお兄さん、さっきアタシらのこと見てたでしょ」
「良い店知ってんだけど、一緒に行かない?」
シアンはたしかにこの二人のことも見ていた。見覚えはある。しかし、見ていたのはこの二人だけじゃない。シアンは丁重にお断りして、カフェを出た。外をじっと見ている変な客だと思われていても、何か指摘されるまでは一つの店で調査を続けるつもりだった。しかし、知り合いでもない女性たちに話しかけられて無駄に目立ってしまったので、この場を離れる他なくなってしまった。
シアンは、せっかく外に出たので、女性が消えたカフェに行ってみることにした。どうせなら行って確認するのが一番早い。
「いらっしゃいませ」
店に入ると、店員が明るい挨拶で出迎えてくれる。ごく普通のお店だ。オシャレなお店なだけあって、客は若者が多い印象だ。シアンは店員に案内されるままに席についた。注文をし、店員や客を観察する。しかし、死角の多い席に座らせられたので、シアンの座っているところから見える人は限られている。窓からも遠いうえに、柱や壁で死角になっていて外も見えそうにない。それでも、見たところ、探していた女性たちの姿はない。
「おまたせしました」
シアンが視線だけで周りを確認していたところへ、店員が飲み物を運んできてくれた。シアンは、自然に見えるようにカップに手を伸ばし、紅茶を口に含んだ。その瞬間、シアンは紅茶に不自然な味を感じた。
(睡眠薬か?)
シアンは紅茶に何かがまぜられていて、その味を誤魔化そうとされていることに気づく。シアンは二口目を飲むふりをして、カップに口に入れていた紅茶を戻した。シアンはその後も何回か飲むふりをして、突然睡眠薬が効いたふりをして、机に倒れこんだ。シアンは狸寝入りのまま様子を伺う。
シアンが寝たのを確認した店員が、奥の部屋から手伝いを呼んでシアンの体を運び始めた。手伝いの人が出てきた部屋にシアンを運び入れる。その後、シアンの手足をロープで縛り、目隠しをつけた。
「おい、もう出発するぞ。そいつで最後だろうな?」
男の声が聞こえる。
「はい。しかも最後は上玉ですよ」
シアンを運んだ男が答える。
「上玉?こいつは男だろ」
「へ?」
「上玉は女にしか使わねぇの」
「あー」
「そんなことはどうでも良い。早くつめろ」
何人かの男が協力して、シアンの体をかつぎあげ、店の裏口に用意してあった馬車につめこんだ。
「ここで最後だ。いけっ」
男の指示で、馬車が走りだした。
「姉ちゃん…。」
「大丈夫、大丈夫だよ」
「お母さん」
馬の蹄と馬車のタイヤが地面にぶつかる音に紛れるように、誰かが声を出した。小さな声だ。どれも震えている。怯えているのだろう。
「静かにしときな。騒ぐとここがお前らの墓場になるぜ。へへっ」
見張り役らしき男が脅しをかける。へらへらとした物言いだが、それが余計に恐怖をあおり、皆黙り込んだ。
しばらく馬車は揺れ続けたが、目的地に着いたのか、急に静かになった。シアンがじっと固まって待っていると、二、三人の男たちが馬車にやってきた。一人ひとり、足を縛っていた縄を切って、自分で歩かせて移動させていく。順番に馬車から降ろされる。シアンも例外ではなく、目隠しをしたまま歩かされる。馬車から降りたら、今度は別の建物に入れられた。足で段を探りながら階段を下り、地下室に入った。ここで待機だと言われ、皆、力が抜けたように地面に座り込んだ。見張りもいないようなので、シアンは目隠しを取った。目隠しを取ったのはシアンだけではなく、皆、もぞもぞと動いている。老若男女問わず、様々な人が集められている。シアンは、彼らを逃がす術はないかと考える。
そうこうしているうちに、地下室の扉が開いて、子供が一人連れて行かれた。子供は泣いていた。シアンはすぐにでも走り出して、子供を救ってやりたいと思ったが、自分の力を過信してはいけないことを知っている。下手に動いて失敗すれば、誰かが犠牲になってしまう。シアンは、人身売買の現場に居合わせているのだと予想している。つまり、ここにいる人たちは、そう簡単に殺されたりしない。大事な商品なのだから。
次々と人が連れて行かれ、どんどん人が減って行く。残り数名となったところで、シアンが連れて行かれることとなった。両脇を二人の男ががっしり掴んで、逃がさないようにする。そのまま、別の部屋に連れて行かれた。
「こりゃ良いもんがつれたな」
部屋の中にいた男がニヤリと笑った。ここのボスだろうか。こうして一人ひとり品定めをしているのだろう。
「この髪と目。お前、リュツカだろ」
この男はリュツカ家を知っている。竜の血のことも知っているだろう。
「リュツカって、あの?」
「じゃあ、血は…?」
この部屋にいるすべての男たちがざわめき始めた。
「こいつの血を飲めば、永遠の命」
ボスが目を輝かしてシアンの顔を見る。シアンは、聞いたことのない話に黙って驚く。リュツカ家の人間の血を飲んで永遠の命が得られるなんて聞いたことがない。
「そうすりゃ、あのエルフどもに馬鹿にされることもなくなる」
ボス以外の男たちもシアンを物色するような目で見始める。そして、シアンを両脇から押さえていた男二人が、シアンを地面に押さえ込んだ。シアンの顔が床に押し付けられる。シアンは反抗的な目を男たちに向ける。
「おぉ、怖い、怖い」
ボスがシアンに近づいて来る。そして、シアンの服の袖をまくって、腕を持ち上げた。ポケットからナイフを取り出し、腕に軽く当てて皮を切った。すると、そこから血が出てくる。シアンは痛みに顏をしかめる。
「おい、そこのコップ持って来い」
ボスが命令して、コップを取らせる。受け取ったコップにシアンの血を入れる。ボスは、ためらうことなくコップに入った血を一口飲んだ。その後、近くにいた仲間にコップを渡す。順番に血を一口ずつ飲んでいく。シアンはその異様な光景をただ静かに見ていた。シアン自身、自分の血を飲んだ者がどうなるのか知らない。結果を見守る。
「俺にもくれよ」
横にいた者に順にコップは渡されていたが、自分が先に欲しいからと、横入りした。それで少し喧嘩が起こる。その間に、既に血を飲んでいる者に変化が現れ始めた。
「うっ!」
最初にボスが苦しみ始めた。自分の首をかきむしる。少しすると、血を飲んだ者から順に、ボスと同様の症状を見せ始めた。息ができないのか、苦しそうにしている。それを見た男が、持っていたコップを落とした。残っていた血が赤いしみを作る。
「死にたくないよぉ」
最後の方に血を飲んだ者が死の恐怖に震え始める。しかし、その後、やはり例外はなく、シアンの血を飲んだ者は、苦しんで、息をしなくなった。シアンを押さえていた男たちも血を飲んでいたので、シアンは自由になる。シアンは放心状態で立ち上がった。目の前で起こった絶望的な現象に、頭が上手く働かない。シアンは、いくら悪事を働いた者が相手だろうが、殺したいと思ったことも、本当に殺したこともない。でも、今、シアンの血が人を殺した。シアンは、その事実が受け入れがたく、混乱している。
「どうやら私の血は毒になるらしいな」
シアンは泣きながらそう言い、魔法を暴走させた。周りの温度が急激に下がり、霜と氷ができていく。シアンの心は、この氷のように冷え切っていた。シアンは力の暴走を止められず、近くにいた男をも凍らせた。血を飲まずに生き残っていた者も、シアンが動きを封じていく。ある者は足を、ある者は腕を凍らされ、恐怖のどん底にありながら、逃げ出すこともできなった。
シアンは、その後のことはあまり覚えていない。部屋を飛び出し、外にいた馬に乗って駆けた。捕まっていた人たちを開放することだけは忘れなかったが、シアンは仕事を放棄した。人攫いを捕らえることもせず、その場から逃げ出した。無意識のまま向かっていた先は、ミューヘーン家の屋敷だった。たまたま開いていた門から馬に乗ったまま庭に入り、馬から降りると、屋敷のドアを勢いよく開けた。騒ぎに気づいたルキナが玄関に走ってきた。シアンはルキナの姿を一目見ると、その場に座り込んだ。
「良かったぁ」
シアンは、ずっと泣いていた。ルキナが血を欲しがっていたのも、シアンの血を飲むためだったのではないかと心配していた。飲んでしまえば最後、ルキナもあの男たちと同じ運命をたどることになる。
「どうしたのよ」
ルキナがしゃがんでシアンの手をとる。優しく両手でシアンの手を包み込む。
「私の血を飲まないでください」
シアンが安堵のため息と同時に言うと、ルキナが困ったように笑った。
「飲まないわよ。私にそんな趣味ないし、普通に他人の血を飲むなんて、体に悪そうだわ」
ルキナが冗談交じりに答える。シアンは本当にほっとした。しばらくシアンはそのまま動けなかった。何か言おうとも思ったが、言葉が何も出てこなかった。ルキナも何も言わない。そうして静かに二人で見つめ合っていた。
どれくらいそうしていただろう。シアンには一瞬に感じたが、思った以上に時は過ぎているようだった。シアンは、とある存在が近づいてきていることに気づく。慌てて立ち上がり、ルキナから一歩離れる。しかし、遅かった。
「シアン・リュツカ、そこで何をしている」
ルーエンだ。ルーエンは、シアンが仕事を放ってミューヘーン家に来ているという報告を受け、飛んできたのだ。ルーエンはルキナを一瞥すると、焦っているシアンの目を見つめた。
「シアン・リュツカ、ルキナ・ミューヘーンと会話をすることを禁ずる」
ルーエンはそう短く言うと、シアンの手首を力強くつかんだ。そのままシアンを強制的に自分の馬車に乗せた。ルーエンは怒っていた。




