お嬢様、噂は時に真実をも侵します。
ユーミリアとタシファレドの面会は、学校案内の終わりかけだった。最後に残った建物を見て寮に帰ろうというところで、ばったり会ったのだ。
「ルキナ嬢、そちらのお嬢さんは?」
タシファレドがユーミリアを見て言った。今日は珍しく、一人らしい。アリシアとハイルックの目がなければ、ナンパし放題だ。
「ユーミリアよ。ユーミリア・アイス。イリヤノイドのお姉さんよ」
「へー、イリヤノイドに姉貴がいたのか」
ルキナによる紹介を聞くと、タシファレドがずかずかとユーミリアに近づいた。
「俺は、タシファレド。以後お見知りおきを。ユーミリア嬢」
タシファレドは、ユーミリアの足元で跪き、彼女に手の甲に口づけをした。すると、ユーミリアは勢いよく手を引いて、タシファレドの手から抜き取った。そして、その手で、思い切りタシファレドの頬を叩いた。バシンと綺麗な音が鳴る。
「あ…あ…。」
タシファレドは、自分の頬を手で押さえながらユーミリアの顔を見上げる。
「女の子がみんなそういうのが好きなわけではありませんよ」
ユーミリアは鋭い視線をタシファレドに向ける。タシファレドは耐えられなくなってその場から逃げ出した。相変わらず、メンタルは弱いようだ。初告白で玉砕してからというもの、ルキナのような冷たい態度をとられるのは苦手になってしまったようだ。
「お嬢様のせいでトラウマになってるんじゃないですか?」
シアンがため息混じりに言う。本当は、ユーミリアがタシファレドに冷たく当たる初めての人になるはずだった。でも、既にタシファレドは、ルキナという元女王様に出会っている。これでは、ユーミリアに惚れるきっかけにはならないだろう。
「おかげで、タシファレドの恋愛フラグは折れてるわ」
ルキナは満足そうだ。いたいけな少年にトラウマを植え付けたことに対する罪悪感は全く感じていないようだ。トラウマのせいで、ルキナもタシファレドの好感度を上げるのは苦労するというのに。
「そういえば、ユーミリア」
ルキナが歩き出しながら、後ろにいるユーミリアの方を振り返る。
「なんですか?先生」
ユーミリアは、ルキナに話しかけてもらえて嬉しそうだ。
「男って狼よね」
突拍子もない発言に、シアンは驚いた。ユーミリアもびっくりしたようだが、ルキナの言いたいことを理解しようと、すぐに冷静に考え始める。
「…先生、駄目ですよ。男を信用しては」
ユーミリアが返事をした。それを聞いて、ルキナが安心したように頷く。ユーミリアは、ルキナと通じ合えたとわかり、笑顔になる。しかし、シアンには全く意味が分からない。
「どういう意味ですか?」
シアンはルキナにすかさず尋ねる。すると、ルキナは「たいしたことじゃない」と言う。
「いや、普通に、ヒロインは鈍感説を確かめたかっただけよ。ヒロインあるあるで、男が獣化することを知らないことが多いの。え?狼?何の話?みたいな反応するのよ、だいたい」
ルキナが少女漫画の鉄板ネタだと言う。
「獣って…。」
シアンは絶句する。ルキナの言っていることは正しいだろうが、こんな男子のいる前でする話じゃないと思う。
「さぁて、さっさと見て帰りましょうか」
ルキナが先導して歩く。最後の建物は目の前だ。日が暮れ始めているし、ルキナの言う通り、さっさと回って寮に向かった方が良さそうだ。
「ほんとっ、この学校広いわね。こんなに歩いたらお腹ペコペコだわ」
ルキナのテンションは平時より少し高い。ユーミリアと攻略対象キャラの全ての出会いイベントを終えたので気が抜けているのだろう。しかも、今までと違って、好感触だ。こんなふうに作戦通りに、ヒロインの恋愛フラグを回避できるなんてことは、今までなら考えられなかったくらいだ。
「先生、夕食は何を食べたいですか?」
「うーん、チョコケーキかな」
ルキナは、ユーミリアと楽しそうに話している。
「先輩、最近、変な噂を聞くんですけど」
イリヤノイドがシアンに話しかける。
「噂?」
シアンが聞き返すと、イリヤノイドが頷いた。彼曰く、社交界で広まっている噂だそうだ。
「なに?」
「それが…ルイス様が婚約したと」
イリヤノイドは、何かをためらうように話し始める。
「婚約?なんで噂に?」
シアンは首を傾げる。第一王子の婚約なんて大事なこと、噂ですむわけがない。本当に婚約したのなら、もっと大々的に発表されるだろう。国の公式発表前に騒がれているだけにしては、イリヤノイドの説明を聞く限り、規模が大きすぎる噂だ。国家機密ともいえる内容をそんなふうにペラペラしゃべって良いわけがない。
噂の広まり具合のわりに、シアンがその存在を知らなかったのは、シアンがパーティにあまり参加していないからだろう。普通、貴族はパーティ好きでしょっちゅうパーティを開いたり、招待されたりしている。シアンの立場上、そんなにパーティを楽しめるわけではないが、それ以上に、ハリスがパーティを嫌っているのが大きい。ミューヘーン家主催のパーティなど一つもないし、ハリスがルキナにパーティに行くように促すこともない。そうなると、シアンのパーティに参加する機会はぐっと減る。
「しかも、その相手が…。」
イリヤノイドは、そこまで言うと、キョロキョロと周りに人がいないか確認し始める。
(そんなに都合の悪い人なのか)
不可解なことの多すぎる噂だ。イリヤノイドは、シアンの耳に口を近づける。そして、ある人の名前を言った。
「え?」
イリヤノイドが口にしたのは、シアンのよく知る人物だった。しかも、シアンからしてみれば、一番あり得ないだろうと思っていた人。
その後、ルキナたちと学校探検をし、夕食も食べたが、シアンはずっとその噂のことで頭がいっぱいだった。会話の記憶もろくにない。
「また明日ね」
ルキナが手を振る。夕食を食べたので、それぞれの部屋に戻るのだ。イリヤノイドとユーミリアが寮に向かって歩き始める。
「シアン」
ルキナがちょいちょいと手招きをしている。シアンは、黙ってルキナに近づく。すると、ルキナが人気のないところに移動する。シアンはそれについていく。
「はぁ…。」
ルキナは、大きなため息をつき、シアンの肩に自分の額を乗せた。
「お嬢様…?」
シアンは、どうすれば良いのかわからず、焦り始める。はたから見たら、二人は抱き合っているように見えるだろう。誰かにこんなところを見られたら勘違いされかねない。
「思ってもみなかったわ。乙女ゲームのヒロインが、記憶を保持したままニューゲームしてるなんて。プレイヤーにとってみれば、選択肢を選んで終わりだもの。リセットで全部消えると思うじゃない」
ルキナが言った。ユーミリアのことだ。ルキナは、ユーミリアの気持ちを理解せずに行動してきたことを後悔しているらしい。
ユーミリアは、あと何回この人生を繰り返すことになるのだろう。終わりの見えない時間の流れに気が狂ってしまってもおかしくはない。もし、願いが叶うなら、これを最後にしてあげてほしい。終わりが存在するのなら、幸せな形で終わりたいものだ。これまでユーミリアが送ってきた、何も変えられなかった人生ではなく、全てに救いがある人生で幕を閉じてもらいたい。
「記憶が残ってるなら、ニューゲームは本当に地獄だわ。しかも、記憶があるのは自分だけなんて」
ルキナの言葉をシアンは静かに聞く。
「私ばっかり楽しんでるなんて無神経だったわ」
ルキナは、悪役令嬢ポジションであろうと、『りゃくえん』に転生できたことを喜んでいた。逆ハーレムになれると、期待していた。でも、それはあまりに自己中なことだったように思える。今日だって、無駄にはしゃいで見せたが、恋愛フラグを回避するまでもなく、ユーミリアはきっと男キャラたちの恋愛を望んでいない。彼女は何回も繰り返している。毎回別の人と結婚している。そこに彼女の愛があったのかどうかなんて測ることもできない。もううんざりだろう。ヒロインとして物語を進めるのは。
「今日思ったの。あの子は、みんなの顔と名前を知っている。でも、私たちは…攻略キャラは誰もユーミリアのことを知らなかった。ユーミリアは、出会いを繰り返しているのよ。知っている相手に、それどころか、結婚までしたような相手に忘れられて、初対面のように接されるのよ。それって、あまりにも…。」
ルキナが言葉をつまらせる。シアンも、ルキナの言うことが理解できないでもない。たしかに、ユーミリアの運命はあまりにも酷だ。
「それだったらなおさら、お嬢様が楽しむべきだと思いますよ」
シアンが言うと、ルキナが顔をあげた。
「お嬢様は、あの人が苦しんでいることを想像できます。他の人とは違って、秘密を知っていますから。だからこそ、お嬢様は楽しんでいるところを見せるべきです。もちろん、ユーミリア様がまた苦しまないとは言いきれないですけど…。でも、お嬢様がめそめそしていたら、ユーミリア様も悲しみますよ。せっかく会えたんですから、堪能しましょう。ユーミリア様も、今のお嬢様に会ったのは初めてらしいじゃないですか。何も悲しむことはありません。逆ハーレムだって何だって良いですよ。今までと違うことをしましょう」
シアンは最後まではっきり言い切った。それを聞いて、ルキナは安心したようだ。
「うん、ありがと」
ルキナは、小さな声でお礼を言うと、またシアンの肩に額を押し付けた。
「ごめん。もうちょっと、このままで」
表面上は明るかったルキナも、悩んでいたようだ。シアンは、ルキナが泣いているのだということを察した。慰めるために抱きしめようかとも思ったが、途中まで上げた腕を下ろした。自分にそんな特権はないと言い聞かせる。シアンはしがない使用人の一人にすぎない。婚約者もいる彼女に触れられるわけがなかった。
翌日、進級して初めての授業日を迎えた。
「先輩、今日は授業いくつありますか?」
シアンの部屋の前で、イリヤノイドが待ち構えていた。手を差し出して、荷物を受け取ろうとする。
「そっか。一級生はまだ教科選択期間か」
シアンは、イリヤノイドの方はまだ授業が始まらないのだと思い出した。昨日入学したばかりで、どの授業を受けるか決まってもないのに、授業を始められない。それで暇なイリヤノイドは、一日、シアンの世話をしようと考えたらしい。しかし、シアンはそれを丁重にお断りする。イリヤノイドに荷物を持たせることはせず、すたすたと歩いて寮を出る。
「ねぇ、先輩、先輩。おいてかないでくださいよぉ」
イリヤノイドがおいかけてくる。
「部屋で休んでろ、新入生」
「えー、先輩と一緒にいる方が心が休まります」
「寮で新しい友達でも作ってろ、新入生」
「先輩がいれば生きていけます」
シアンは、イリヤノイドと変な言い合いをしながら歩き続ける。
「同学年の友達を作らないと、授業で困ることも…」
「ルイス様!」
「ごきげんよう、王子様」
「殿下、おはようございます」
周りが急に騒がしくなったので、シアンは途中で言うのをやめる。女子生徒たちがきゃっきゃっ盛り上がっている。その中心にルイスがいる。
「ど、どうも…おはようございます…。」
相変わらず、ルイスの気は小さいようで、ぺこぺこと頭を下げている。シアンとイリヤノイドは彼を一瞥すると、特に声をかけるようなこともせず、去ることにした。それでも、ルイスはシアンたちに気づいたようだ。
「あ、リュツカ殿」
ルイスがシアンに笑顔を向ける。
(そんなに仲良かったっけ)
シアンは、なぜルイスがシアンにそんなに構うのかわからない。チグサの言いつけを守るなら、これ以上ルイスが近づく前に離れるべきだろう。しかし、目上の人物の呼びかけを無視するのは難しい。シアンは、その場に立ち止まって、ルイスの動きを見ているしかなかった。
「ルイス様」
ルイスがシアンに向かって足を動かそうとした時、チグサがルイスの前に現れた。
「ルイス様、授業の時間です。一緒に行きましょう」
チグサは、ルイスの腕に絡みついて、強引に体の向きを変えさせる。そして、そのまま講義室に向かって一緒に歩く。
「あ、アーウェン殿、近いです…。」
ルイスがチグサの近すぎる距離感にどぎまぎしている。
(マクシスが見たら暴れだしそうだ)
シアンは、マクシスがこういう光景を見ていないことを願う。
「きゃーっ!やっぱりあの話は本当でしたのね!?」
「ルイス様がアーウェン様とご婚約されたっていう噂?」
「あのお二人ならお似合いですわ」
女子生徒たちがはしゃぎながら、ルイスたちを見送る。チグサの耳にも届いているだろうが、興味もないのか、否定をしようともしない。
「ほんと、貴族は噂話が大好物ね」
ルキナがユーミリアを引き連れて現れた。シアンたち同様、今の騒ぎを見ていたようだ。
「誰もあのルイスの本性がドSなんて知らないんでしょうね」
ルキナが嘲笑うように言う。それを聞いて、ユーミリアが首を傾げる。
「ドS…。」
「ルイスと結婚したことないの?」
ユーミリアがルキナの言葉を理解していないようなので、ルキナはおかしいと思い始める。
「ルイス様と結婚したこともありますが、そんなふうになったところを見たことはありませんよ」
ユーミリアは自信をもって答える。ルキナは「そんなはずはない」と呟く。結婚に至るということは、親密度がマックス状態ということだ。攻略すると、ルイスはドS化する。それが、ゲームの設定だ。いくらシナリオ通りにいかないリアルとはいえ、記憶のあるルキナの干渉がなかった時に、ルイスの性格が設定と違ってしまうなんて考えにくい。
「ドSの意味は…?」
ルキナは、実はユーミリアがドSの意味を理解してないせいで話が嚙み合わないのではないかと考え始める。しかし、ユーミリアはそれをはっきり否定する。
「先生のファンを舐めないでください」
ユーミリアが怒る。たとえ尊敬する小説家本人であろうとも、ファンの知識量を馬鹿にされるのは屈辱的だ。
「ごめん、ごめん」
ルキナが謝って窘める。
「何の話ですか?」
イリヤノイドだけが話についていけない。のけ者にされている感じは否めない。
「あー、ごめん。そろそろ行こうか」
ユーミリアとルキナの秘密を暴露するわけにはいかない。シアンは、イリヤノイドの質問には答えず、話をそらすように、彼を連れて歩き始める。
「先輩、姉さんと仲良いですね」
イリヤノイドは、本人は狙っていないと言うが、ユーミリアにシアンをとられるのではないかと心配になってきた。シアンの腕に強くしがみつく。
「どちらかと言うと逆だと思うけど」
シアンは、イリヤノイドを腕にくっつけたまま、講義室に入る。マクシスが先にいて、一人、寂しそうに席に座っている。授業が始まるギリギリまでチグサと一緒じゃないのが珍しい。でも、チグサとルイスの仲良さげなところを見てないのなら、その方が良い。
「…マクシス?」
シアンが恐る恐る声をかけると、マクシスは涙と鼻水でボロボロの顔を上げた。
「マクシス、大丈夫か?」
シアンは驚きながら、マクシスの隣に座って事情を聞く。マクシスによると、今朝もチグサを講義室に送り届けようとしたそうだ。でも、チグサは断ったらしい。しかも、ルイスと一緒に行くからという理由もつけて。いつもなら無理矢理にでもついていくが、ルイスの名前を出されたらそんなことはできない。
「なんか、姉様とルイス王子の噂まで広まってるし…。」
ルイスらの婚約の噂は、マクシスの耳にも届いていたらしい。マクシスがおいおい泣いている。
「ま、まだ噂だから」
シアンは必死に慰める。その時、授業開始前の予鈴が鳴った。
「イリヤ、授業始まるから部屋から出て」
「嫌です」
シアンが言っても、イリヤノイドが離れようとしない。
「あの二人も一緒に連れて出て行ってくれたら、後で頭を撫でてやるよ」
シアンは、タシファレドからひっついて離れないアリシアとハイルックを見て言う。
「…それだけじゃ動きませんよ」
イリヤノイドは首を振る。頭を撫でるだけではメリットが小さいようだ。
「それならこれならどうだ。授業がある時、休み時間の終わりで毎回やってくれるなら、昼食と夕食、あーんしてやる」
シアンが覚悟を決めて言うと、イリヤノイドが目を輝かせる。
「それ、約束ですからね」
イリヤノイドがいきいきと椅子から立ち上がる。
「ああ、男に二言はない」
シアンが約束は守ると言うと、イリヤノイドはアリシアとハイルックのもとにダッシュして、二人に突進した。そのまま、二人を連れて講義室を後にした。
(今日だけの辛抱だ)
シアンはため息をつく。明日になれば、イリヤノイドの授業も始まる。あの子は真面目な子だから、授業をさぼったりしない。シアンのところに居座ろうとするのは今日だけのはずだ。
「ひっく…うぐっ…。」
マクシスが嗚咽を上げている。シアンは、マクシスを慰める仕事が残っていることを思い出した。
別に、全てがルキナのためというわけではないが、彼女はシアンの苦労をどれくらい理解しているのだろうか。