嘘つき
雨の音がする。ホテルの中は薄暗く湿っていてどこか湿気臭かった。何度か目を瞑り、そろりと開けてみたあと、もう一度目を閉じる。そうしたら現実も夢も真っ暗な瞳の中では所詮同じに感じるの。けれどもそれは、あくまでそう感じてみるだけで、実際は全く別物なんだって私の中の誰かが意地悪く言った。
何考えてるんだって、貴方が私の髪を撫でながら優しい笑顔で問う。それはそれは優しい、悪魔の笑顔。
「別に何も」
私も精一杯の優しい優しい笑顔で答える。薄皮一枚めくればそこには酷い泣き顔が見えるんだけど、彼は決してそれをめくろうとはしない。女の悲しみに触れるより、目を背けて見ないようにする方が楽だということを知っているから。
彼の携帯電話が低く唸った。何の迷いもなく彼はそれを手にとると通話ボタンを押した。隣に私がいることも気にせず、電話の向こうからは健気に彼の帰りを待っている若い女の声がした。彼女は何も知らない。そう、彼の一番大事な女は何も知らない。だからこそ幸せそうに笑えるのだ。
「あぁ、会社の奴と朝まで飲んでそのまま泊まったんだ。本当だって。ほら前に一度家に連れてきたことあっただろ、あいつだよ」
嘘なんて口からいくらでも出る。そんな彼の横顔を見ながら、もし今私が大声で喋ったら一体どうなるかと考えてみた。きっとその瞬間、私たちは終わる。彼が本命の彼女を捨てて私を選ぶなんてことは絶対にないのだから。私も一度写真で見ただけだけど、背が小さくてちょっと突いただけで倒れてしまいそうな、すごく可愛らしい人だった。癒し系という言葉が似合うタイプ。つまり根性の曲がった私とは正反対。もし彼の浮気を知ったら、あの大きな瞳からポロポロと涙を零して泣くのだろう。考えただけでイライラする。
「怒った?」
気付けば電話を切った彼が私の上に被さってきていた。眉ひとつ動かさずに何で、と答える私は全然可愛くない。ふっと笑みを零したあと、私の額に触れるだけのキスをした。じわじわと広がる胸の痛みには、気付かないふり。
「さっき電話、彼女疑ってたんじゃないの」
「それは心配?それとも嫉妬?」
「まさか。どっちも違う」
特別嫌なことなんていらない代わりに特別いいことだって望まない。別に私は、あなたじゃなくても良かった。
そう言うと、彼はまた笑った。笑いながら私から離れると、シャツに袖を通し始めた。私はただただそれを黙って見る。
私の香水がついた彼の身体。だけどわざわざシャワーを浴びなくても彼が少し言い訳をすればあの純粋な彼女はそれを信じるのだろう。私の存在なんて彼の嘘ひとつで簡単に消えるのだ。
もう行くの?と問えば、寂しいか?と返ってきた。
「行かないで……」
気付けば彼の手を握っていた。それも泣きそうな顔で。私自身予想外なその行為に驚き、目の前の彼も至極意外そう私を見ていた。嘘よ、と慌てて言えば、からかうなと頭を撫でられる。
「そういう質の悪い嘘はお前らしくないな」
質が悪いって何?思わず責めそうになった。だけどぐっとこらえ、代わりに笑顔を貼り付けた。
「ただの冗談でしょ。私、嘘つきなのよ」
「知ってるよ」
嘘つき
(自分は嘘つきだと嘘をついた私は、大嘘つき)
雨の音がする。ホテルの中は薄暗く湿っていてどこか湿気臭かった。何度か目を瞑り、そろりと開けてみたあと、もう一度目を閉じる。そうしたら現実も夢も真っ暗な瞳の中では所詮同じに感じるの。けれどもそれは、あくまでそう感じてみるだけで、実際は全く別物なんだって私の中の誰かが意地悪く言った。