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カタリアイ

「ただいま」と、気圧の変化が風とともにトオルの素っ気ない肉声を階下から運んできた。別段気にしていないといった素振りで母に姉の帰宅の有無を問い尋ねると、生意気に見越したことだと言わんばかり「ふぅん」と独りごちる。

 そんな取り立てるほどのない日常のひと小間を、天井から耳を床に押し当てて窺っている自分は、一体何をしているのだろう。サトミを帰すついでに用なしとなった自らの息をも殺し、暖かく降り注いだ西日もついえてあらゆる命の息吹が鼓動を停止した静寂の中でこうしていると、思いのほか内壁やらが拾った物音を反響してささやき合い、家の中の様子が手に取るように分かる。

 トオルが背負った荷物分の重い足どりで階段を上がりきり、自分の部屋ではなくなぜかこの床でひしゃげた体を隔てる扉の前で足を止めたということも。

「帰ってたんだ。プチ家出でも始めたのかと思った」

 形だけのノックで女の住み処を覗きに入った、開口一番がそれであった。

「……もしかしたら何か事件に巻き込まれたかもしれないとか、そんな心配を少しもしてくれないわけ?」

 柄にもなく、正座で出迎える。サトミのかしこまった態度が影響したか。

「自分で電話かけといてよく言うよ。他人が打ったかもしれないメールならともかくさ。脅されて無理やりに電話したっていうなら分かるけど、その割にはあっさり家に戻ってるし、たったひと晩のかどわかしにわざわざそんな手の込んだ真似をする犯罪者もいないだろ」

 ノブを持つ手そのままに入口を動かず見下ろして、知った風な軽口を叩く。その口ぶりから、母が何ひとつ詳しい事情を教えていないことを察した。全てを理解した上で普段どおりを装えというのではなく、何も知らずに平然と振る舞えと、選択肢を突きつけられもせずに選ばされたのだ。なるほど中学生の男子には幾分刺激が過ぎ、その判断もあながち間違いとは言い難い。

 ただ、それによって露呈した親子間の信頼の欠如を、為す術もなく“無知”を押しつけられた子どもの立場を、ひどく哀れんだ。

 自分自身恐らくは知らずにそれを強いられていたのだという、やるせなさもあいまって。

 軽い、ジャブを突いてみた。

「あはっ、そうだよね。アンタの言うとおり、自分からどっかの男の家にしけ込んで帰らなかったんならホント、救えないよね。……彼女面で一緒に自転車に乗ってた、アキが殺されたばっかだっていうのに」

「そう思うんだったら、軽はずみな行動は控えろ。漫画でも何でも、尻軽な女はバカ男しか引っかけないだろ」

 動じなかった。ひと晩ぶりの姉に対する顔見せの義務は十分果たしたとばかりに、外開きの扉を手前に押し戻して、その身を壁の向こう側に消してしまわんとする。

 その姿が、大盾に身を隠して後ずさる卑怯者に映ってしまったから、槍をこの手に持つことを決心した。先入観が促した難癖だ。それが分かっていながら、状況も情報も何もかもが完璧に御膳立てされたこの機をみすみす逃し、せっかく舞い込んだ真新しい刃を懐にしまいこんだまま錆びつかせることなど、どうしてもできなかった。

「ああ、そういえばさっき、アンタ目当てに客が来たんだ。アンタと同じ塾のサトミって子だったんだけど、知ってる?」

 薄いものだった、反応は。聞き覚えのある名前を耳にした途端驚愕に目を見開くとか、ノブを握る手に急激に力が加わるとか、そういった分かりやすいものではない。

 ただ、一言一句に聞き入るように動きを止めた後、やがておもむろに閉じかけた扉を押しのけるようにして前面に割って入り、全身をこちらの空間に滑り込ませると、後ろ手で静かにその退路を塞ぎ終えた。

「さっきって、いつだ? 俺は塾が終わって寄り道もせずにまっすぐ帰ってきたんだぞ? 親が車で先回りして乗りつけたのか?」

「恥ずかしいからってとぼけるなよ。塾の時間帯にわざわざ塾を休んでまで顔を出してくれたんだぞ。あんな真面目そうな子にそこまでさせるなんて、アンタもなかなかやり手じゃん? 二人っきりで話したことだってあるんだろ?」

――私、事件のあった日の夜、塾の前でたまたまトオルくんと会ったんです。

『いつも早いのに、遅刻ギリギリなんて珍しいね? あれ? その財布どうしたの?』

 息を切らしたトオルを見るのは、その日が初めてだったという。全力疾走後のように頬を伝う汗を光らせ、防犯チェーンの端が切れた財布を手の中に握りしめて途方に暮れたように見つめていた。

『壊れちゃってるじゃん! どうしたらこんな風に外れちゃったの?』

 声をかけるなり財布を自らのポケットにねじ込むようにし、返答は一言、『不良にパクられそうになった』とだけ。

『ひどい! だったら警察に訴えるべきだよ! 記憶が残ってるうちに、塾帰りにでも交番に……』

 マジになんな、と、冷たくあしらわれる。少年特有の我を張った倦怠感が、『実際に持って行かれたわけじゃねえし、大げさなんだよ』と吐き捨てる。

『でも、こんなことするヤツ野放しにしといたら次は誰がどんな被害に遭うか……』

 身なりを整えながら、遭わないよ、と、溜め息混じりに口ずさんだ。

『パクられたのも、パクられんのも両方俺だし――』

 億劫そうに呟いた口元は、どこか笑っているようにも見えた。それ以上は何も続けず、そそくさと背を向けて建物の中へと消えていった。

「……お前こそ、すっとぼけてんじゃねえぞ」

――そのときの様子が忘れられなくて、財布を奪って逃げた男の子の話題が出てからは一層嫌な想像が胸をよぎって、昨日とうとう、直接疑問をぶつけてしまったんです。

『ねえ、ひょっとして、そのチェーンを壊した不良って、あの日少年に突き飛ばされて亡くなったっていう高校生のことじゃ……』

「俺と同じ塾に通ってる奴が、俺に会いに塾を休んで俺の家にやって来るわけないだろうが……っ!」

 こみ上げるように、如実に露になった怒りは、回りくどいやり口に焦らされたそれだった。

 頭を散々働かせた講義の帰り際、背後から急にそんな言葉を浴びせられてはたまらない。

『何だよやぶからぼうに、そもそもそんなニュース知らねえよ』

――そのとき私、“そんなはずない”って目をしてしまっていたんだと思います。『自分が逮捕される』なんて軽々しく口走ったのも、多分、私がそんな俗語を知らないと思ったから。ずっと、周りからそんな風に思われてきましたから。だから、笑ったんです。きっと、誇らしげに、ヒーローみたいに! だって、本当に財布を奪ったのは……

「言いたいことがあるんなら、ひと思いに言えばいいだろ……?」

『だって、その高校生はあなたのお姉さんの――』

 沈黙が何より残酷に心をすり減らすのだと、その立場の強さを、いやらしくもわきまえてしまっていた。

『だったら、だったら何だよ……』

「……そうだよ。“少年”は俺だよ。俺の正体は、“男子中学生”だよ!」

 逃げ場をなくした感情の暴露は、何ともあっけないものだった。

――私があんな目をしてしまったから、トオルくんを追い詰めてしまったんです! だから、お願いします! お姉さんに許してもらうしか、彼の心を救えません! でないと彼はきっと、経緯はどうあれ人ひとりを殺めてしまった罪の重さに耐え切れず、取り返しのつかないことになってしまいますっ!

 つくづく、大人が視界に入らない子だなと感じた。アキの家族の悲しみまで一身に肩代わりして、慈悲を施す資格が私にあろうか。

 これだから、お嬢様は嫌いだ。

 不良不良と、アキを連呼するのもそう。一方的にアキのことを財布泥棒だと決めつけ、責任をすべてなすりつけようとしている。

 アキが金銭を、それもトオルから力ずくで奪い取るなどあり得ない。

「……あれから、じっくり考えた。姉さんの話も検討して、アキさんの気持ちを推察してみた。多分、こういうことなんじゃないかと思う」

 だってアキは、言うまでもなく恋人の弟と面識があるのだから。

 学校の駐輪場で財布を落としてしまったアキがそのことに気付いたのはよりにもよって下校道、自転車の後ろに乗せた彼女に当たり前の散財を無邪気にねだられたまさにその瞬間だった。今更持ち合わせがないと白状することも男の(・・)メンツが許さず、プライドよりも評価が邪魔しておごってくれとも言い出せず、やむを得ずとった手段が料金要らずの“お持ち帰り”だった。

「苦肉の策には違いないけど、『もしかして』って期待は存分にあったと思う。……といっても、そんな経験のない僕なんかにそのときの詳しい気持ちは分からないけど……」

 提案を退けられた屈辱は、誰にでも分かる。

「一応僕も男だからね。その役柄に付きまとう不安は、姉さんよりも理解できてると思うよ」

 求められているのは自分自身ではない。あくまで、そこから発せられた便益、平たく、歯に衣着せなければ、とどのつまり、メッシーくんなのだと。

 少なくとも、今はまだ。

 その焦りが、苛立ちが、頭から離れなかった。本心からじゃない。本気でがっついたわけではない。何とか、弁明しなければ、機嫌を取り直さなくては。軍資金を、取り戻さなくては。

 祈る心地が通じた、それはまさに天啓といえよう。前方を歩く見知ったちっこい背中が、偶然にも道端で所持金をひけらかしていた。その中身が姉の喜びに資するもの、ひいては自らの利用をも認むるものだと、錯覚するのも無理はない。

 一番の元凶は、そこにいたのが恋人を介した弟分だったこと。

「もちろん、赤の他人だったらこんなことはしなかったと思うよ。そこまで人を女狂いにさせる魅力は、姉さんにあるわけないしさ。でも……」

 もーらい、とか、ちょっと借りんぞだの、そんなかけ声とともに取り上げてみたかったのだろう。塞いだ気晴らしのいたずら心も、それを手伝った。

「“借りる”と“盗む”の区別がついてない人って、意外と多いと思うんだ。僕も前、数学の教科書とか、ひどいときには体育シューズが突然なくなることがあって、『忘れたかもしれない』なんて自分を疑いながら必死に探し回ったようやくその頃に、のこのこと顔も知らないような奴が現れて『借りといたぞ』だなんて事後承諾のつもりでぬけぬけとさ。勝手にパクんなって文句を言ったら、何て答えたと思う?」

――は? ちゃんとお前のクラスの奴に『言っといて』って伝えたし。

「笑っちゃうよね、だから何だっていうのさ! そもそもそれすら聞いてねーしっ!」

 死んだのがそんな奴ならよかったのにね、と、泣いて笑った。

 無論、そのまま説明もなしに走り去るつもりはなかった。すぐにブレーキをかけ、おどけた笑顔で向き直ったに違いない。無用心だ。俺じゃなきゃ、このまま持って行かれてた。そんな風に詫びを入れながら、些細な無心を持ちかける算段だった。

 肝心のブレーキが、全く予期せぬタイミングで作動しなかったならば。

 たわむれにひったくった中坊の平たい財布には、装飾も兼ねた窃盗対策のチェーンが結ばれていた。待望の出番だと張り切ったそれが躊躇なく腕を広げ、全身を一直線に伸ばしきった。

 くん、と、意図せずして一端をつかまされた上体があらぬ方向に引き戻されたちょうどそのとき、その瞬間だけを切り取って、二人の体は傍目にはその場に停止して見えた。

「幸い僕は、とっさに傍にあった電柱につかまったから体勢を崩さずに済んだけど、」

 車輪二つで不安定に路面をかすめるだけの自転車に乗った体が、無事に済まされるはずがなかった。

 夜の川に渡された鎖は、ものの数秒ともたず、その役目を放棄した。ベルト側の留め具の根元部分がかつてない負荷にあっさりと音をあげ、その身を砕く。ただでさえサドルごとバランスを崩し、平衡感覚の制御が効かなくなっていたところへ、張力の反動が襲いかかる。

 ペダルが下に逃げ、あえなく、身ひとつが弾け飛んだ――

「……たとえ財布をすぐに手放したとしても、つまずいた衝撃を完全に殺せはしなかったろうから、いずれにしても結果はそう変わらなかったと思うよ」

 その手に握りしめた、財布の行方ひとつを除いては。その意味では、防犯用具は期待以上の本来の効果を発揮したといえる。

 後は知ってのとおりだと、そう言って肩をすくめ、提げっぱなしの鞄の肩ひもをかけ直すと、部屋から出て行こうとした。

 逃げようとした。

「……は? 待ちなさいよ。アンタ」

 怒りとも、嘆きともつかない気の抜けた言い方だったと、自分でも思う。

「何? 知ってることはそれで全部だよ」

 罪悪感なんて大それたものではなかった。どこまでも面倒くさそうに、厭世的な、人を小馬鹿にする目をしていた。

「このままで、済むと思って――」

「俺だって、好きで居合わせたわけじゃない! 被害者なんだよ! それをお前が勝手に大騒ぎして、突き飛ばしてもないのに突き飛ばしたとか、もううんざりなんだよ! 痴話喧嘩の巻き添えを受けた俺の身にもなってみろよ!」

 ひと息に、まくし立てた。言葉だけが攻撃的に抜き身になり、相手を斬り終えると、鞘にしまわれた激情は表におくびにも出さない。

 それが芝居がかっていて、余計に神経を逆なでる。そこは、意地を張るところではないだろうと。

「私のこと、ずっと見てたよねぇ? 家族だもん、いっぱいいっぱい苦しんで、無気力になって自暴自棄になって、そんな私に『うだうだするな』みたいなことありがたく説教してくれたよね? そうしてる間もアンタ、せせら笑ってたわけ? 私のこと、他人ごとみたいに、これっぽっちも反省しないで!」

「なら、お前は今の話を聞いて反省したのかよ」

 唐突に、反論を突きつけられた。

「お前がけしかけたようなものなんだぞ? お金を使って遊びたい、金がなきゃ身ひとつたりとも許してやらない。そうやって煽って、焚きつけて、そっぽを向いて追い詰めて、自分がきっかけを作った心当たりが少しでもないのかよ!」

 思い起こすのは、いまわの際、アキが最後に言い残した優しいささやき。

――俺の(・・)力じゃ、ミキを喜ばせられなかった。

 財力なしでは、振り向きもしてもらえなかった。そんな思いを抱かせたまま、何食わぬ悲劇面でアキを見送っていたのだとしたら?

 トオルほどに、ポーカーフェイスは得手ではない。

 斜に構えた発言が大好物な口先が皮肉めいていやらしく釣り上がる。

「そういえば、お前のはまってる『ラブラブチェーン』とかいうやっすいドラマあるじゃん? 俺、気付いちゃったんだけど、英語の“LOVE”って“rob”のスペルでも“ラブ”って読めるじゃん?“チェーン”の付いた財布を“強奪”するって、まんまドラマのタイトルと同じになるじゃん、すげぇっ! 字面でやってることは公共電波のバカップルリスペクトって、どんだけだよ! リアル主人公とヒロインじゃん、マジ傑作! はは、ははは……っ!」

 気取ることをようやくやめた感情の発現は、腹を抱えて笑うことだった。

「だったらそれ、貫けよ。その原作のラストどうなるか知ってるか? 後追い自殺するんだよ、ヒロインが! 決して切れない絆で結ばれたからこそ、一緒にあの世へ旅立つんだ! 王道すぎて突っ込むところもない。後ろめたさが芽生えたんだろ? なら、命で手酷い仕打ちの許しを請うんだな。そのほうがヒロイン力も上がるし、世間の同情もお望みどおりだ!」

 悪意のある、開き直ったとかの生易しさじゃない。サトミの告げた推測を思い返す。

 壊れているんだ。自分に非はないと、現場から逃げたこと、その後も黙っていたことなどを全部棚に上げて他人をこき下ろす人間性の欠如が、何よりそれを証明していた。

 底の抜けた器に、もはや何を注いだところで意味はない。

「もう、いい! これ以上話しても無駄! 今すぐにでも警察に突き出して……っ!」

 かぶりを左右に、振り切ろうとした。懐かしい思い出を、ぐずりながら背中をついてきた愛しい泣き虫の面影を、そして何より、こんな自分たちを大切に育んでくれた家族の、

 家族のひとりの、荒んだ鼓膜を、優しくいたわる声がした。

 幻聴そのものではなく、温かな記憶としてのそれを呼び起こす。かけがえのない毎日の中に溶け込んだ、何気ない決めごとのただ一言の合図。

 ごはんよ、と、母のたったそれだけの響きが、家中に染み入って乾いた空気を潤した。

「毎日塾で疲れてるでしょう? 今日は珍しくパパがケーキを買ってきてくれたから、食後にひと息入れましょう。ミキと一緒に、早く下りてらっしゃい」

――家族の安寧を、犠牲に払うことなどできなかった。

 打算に満ちた目つきが、ふてぶてしく弧になった。

「俺を売っても、困るのは母さんたちだよ。近所からのけ者にされて、仕事場にも居づらくなって、姉さんだって白い眼で見られて。得することなんて何もないのに、そんな思いやりすら考えつかないの? 見間違いだったってことにしてよ! あれは野良猫でもよけて転んだんだって、少年なんていなかったって。何もかも前方不注意のトラックの運転手に脅されて口裏を合わせただけだったって! 救急車が来るまでの間にトラックに押し込まれて犯られたってことにしときゃみんな信じるよ。実際殺したのはそいつなんだし、それで何もかも丸く収まるじゃん!」

 言い終えるなり、扉を跳ねのけた。間延びした息子の声であざとく母に返すと、開け放した扉を背に勝ち誇ったようにほくそ笑む。ここから先は筒抜けだと、これ以上の追及を封殺した。

 小ずるくて、ふてぶてしくて、思い上がって。

 殺してやりたいと、心から強く願った。

 同じ家の空気を、吸うことすら耐えられない。他者の苦しみを少しばかりも顧みない、自己保身が産み落とした化け物。

「殺してみる?」

 いっそのこと、と、見透かしたような口ぶりが唄いだした。

「犯行を暴いて問いただしたら、逆上して口封じに殺されかけたからとっさにやり返してしまいましたって。でも、そんなことしてきたら……」

 忌々しいそれを、ポケットの中で先を外してからつまみ上げる。買い換えたばかりの、真新しい光沢を散りばめた銀色の連環。たかが(・・・)おしゃれのために、漫画のキャラになりきるためだけに、漫画みたいな頭で考えなしに取り付けた、アキを殺した幼稚な凶器。

 鞭のように、やにわにそれを真下に叩きつけた。

「返り討ちにするから。同じ物(・・・)で、殺してあげるよ」

 心の首を刈り取る、強烈な風切り音に乗せて。

 御丁寧に、扉を囲む頑丈な枠を狙い澄まして音を殺して。

「すぐ行くー! しっかし誕生日でもないのにケーキなんて、家出した姉ちゃんの餌づけ目的かぁー? ははは……」

 言うが早いが、鞄を自分の部屋に放り投げて歩き去っていく。生意気な口が過ぎると、母が下で優しくたしなめる声がする。いつしか立ち込めた穏やかな香りが殺伐とした空気を洗い流し、とりとめのない日常を家中に上から覆い被せた。

 心と、床のかまちに刻まれた傷あとを残して。


 いつもより早めに仕事を切り上げた父を含めた四人で、一家の食卓を囲んだ。トオルの相変わらずの減らず口を幾分厳しめに咎めはするものの、父も母も、こちらの一件には終始言及しなかった。

 毒にまみれた口に、平然と隣で食後のケーキを運ぶ姿が憎らしかった。すぐに風呂に入って着替えるからと、こともあろうにアキを殺した着の身着のままで。

 団らんが終わってトオルを入浴に行かせたのち、ひと息ついてから、母がお茶の追加を誘った。父も物言わず同席し、二人してぎこちない世間話から口を切る。恐々と外周を突き崩す手堅さを、大げさだからと、安心させようと笑い飛ばすこともできない。

 マコを、引き合いにした。

 お互い様だった。友人の窮状を目の当たりに自分ひとりが無事だからと、もろ手を挙げるわけにはいかない。両親の立場だってそう。ありがちな“本気で娘を心配する親”のように、軽率な夜遊びを荒げた声で叱り飛ばすこともできない。一緒にいた、人様の愛娘の傷口に塩を擦り込むなど以ての外だ。

 結局、差し障りのない紋切り型の気遣いと、マコの一件とで冷めた紅茶を飲み干した。

 それでも、人の親で、昨日の今日という事実は変わらない。悪意の名残が映る水面に裸の体をうずめた折も、机に向かって鞄本体への臭い移り防止にくるんだビニルの中身を広げて整理する最中にも、不安げな視線をしばしば肌に感じた。未成熟の情緒を根底から揺るがしかねない悲劇の一歩手前までを、直近に味わった年ごろの娘を見守る親の立場がそうせざるを得ないのだということは痛いくらいに納得できる。

 その慮りが、鬱陶しくて邪魔でこの上なくたまらなかった。

 おかげでトオルをどうにかすべくひとりでいる部屋を訪れたのは、両親の監視がようやく解けた就寝どきの夜中過ぎになってしまった。

 ただでさえ、両親の寝入った時刻も平素より大分遅かったということはある。しかし、それを踏まえてもなお窓際のベッド脇に立ち尽くして見下ろした光景には到底理解が及ばなかった。

 あろうことか、綺麗にしわの張った布団を被ってすやすやと寝息を立てていた。

 もちろん、体型の膨らみだけでそう見せかけた代わり身でもない。堂々と顔だけ出して、ひと昔に戻ったような幼い顔で杞憂などかけらもないといわんばかりに熟睡していた。

 はやる意気込みを握りしめていたこぶしから、すっと力が抜けた。

 拍子抜けとか毒気を抜かれたとか、そういった覚悟のなさの表れをとかく否定するために、これは首を絞めるためにそうなったのだと、その証拠にと、指を開いた両手を宙へとかざす。ひと思いに首筋めがけて走らせようとした矢先、ふと思い立ち念のためまぶたの上を通過する。

 男に不釣り合いな長さのまつ毛に触れるほどの距離をいくら往復しようが、あごの先から目尻のしわに至るまで、こちらの存在を知覚した素振りは微塵も見受けられなかった。

 冗談ではなしに、枕を高くして夢見心地でいるのだ。たぬきの寝入りだと警戒してやまなかった自分が、最高に滑稽でならない。油断では、こうはなるまい。みくびっているのだ。報復の度胸などあるはずがないと、全身であざ笑い、文字通り転げている。その不遜は、良心が手放さなかった最後の呵責を心から遠慮なく葬り去るための、願っても足りなかったとどめの引き金にふさわしくてならなかった。

 その結論に陥ったところで、再度思案する。事に及ぶためには、一寸の迷いも許されない。縁の部分すれすれで急所を隠しきったかけ布団をまくるところから始め、露になった首筋に両手の指を食い込ませた時点で、甘く見積もっても相手の覚醒は必至だ。その時点で優位な体勢を確保し、押し切らなければ、男女差もあって多分負ける。

『返り討ちにする』と、今は見えない狂った目が、それを高らかに宣言していた。

 やり直しはきかない。チャンスは一度。それを思うと、なかなか踏ん切りがつかない。もし、万が一、途中で情が芽生えたら? 締め上げられた喉が事切れる直前にか細く、『お姉ちゃん』なり『ごめんね』だなんて涙ついでに漏らしでもしたら、こんな心はコロッと翻ってしまうかもしれない。そんな可能性が少しでもないのか、後悔は生じるか、目を閉じて今一度じっくりと実行に移したその後の想像を凝らしてみる。

 心が、軽くなった。

 まぶたの裏には、何も残らなかった。それもそうだ、人を殺す感触も、殺してしまった悔恨も、自分には前例がない。経験を持たない想像ほど不確かであやふやなものはなく、イメージの輪郭だけを形どった配役にいくら自分を当てはめようとしてみたところで、霧に吹きかけた絵の具のようにかき消えて定着してくれるはずもない。空想の姉弟が繰り広げる感動的なシチュエーションも、怒りで煮えた心を鎮めるには現実味がてんで足りなかった。

 何もないということは、後悔もないということ。

 だったら喜びだってないだろうと野暮が飛ぶかもしれないが、端からそんな利己的な考えじゃない。これは、今まで苦しんできたみんなの代弁に他ならないのだ。アキはいうにあらず、期せずして十字架を背負わされたツトムや、妹のクミちゃんを始めとするアキの親族、それから自分や、その塞ぎ込んだ行動が招いた災厄に巻き込んでしまったマコやハズ。無論、その家族だって例外ではなく、悲しみは果てなく連鎖し続ける。

 その発端を担っておきながらひょうひょうと責任を回避するトオルを、許容しておけるはずもなかった。流れ込んだ力が高ぶらせたワシ爪型の手が、時折唾を飲んで上下する喉元を引き絞るべくして忍び寄る。意は、決した。自分のためだけじゃない。だってこれはみんなの、アキの……

「アキの、仇……ぃっ!」

 ほとばしる意気込みが先走るあまり、思わず声に漏らしてしまっていた。しんとした夜のしじまに投じられたつぶて一石は、それ自体の大きさの何倍もの波紋を広げて辺り一面を打ち震わせる。

 この身に抱えた悲壮感がそう言わしめたひと言こそが、最後の駄目押しとなった。

 心を急激に支配した感覚、それは、虚無感だった。

 仇討ちに燃える魂を鼓舞するはずだったその号令は、声に乗せた途端に、虚ろな思い込みに成り下がった。そんなテレビドラマから切り離したような安っぽい台詞を口走りながら弟の息の根を握り潰そうとした自分を冷静に見直すと、悲憤も何もあったものではない。一個の人間としてのプライドも、積み上げてきた人生も、そこには何も無かった。

 ポーズだったのかもしれないと、自分を振り返る。

 そうだ。自分には尚更あり得ないのだ。人を殺した経験も、それに準じた凶行に走った記憶も皆無な自分には、それがもたらす結果など知りようがない。

 だが、目の前で大切な人が命を落とし、この世から消えてしまった痛みなら分かる。

 今度は、そのことを想像してみる。トオルがこの家からいなくなってしまったときの悲しさを。目の前のベッドから、ほっぺたをひとつねりすれば即座に飛び起きて、すごんでも怖くも何ともない文句を言い出しそうなあどけない笑顔が失われたときの虚しさを。家にまで一生懸命に詰めかけてトオルの消耗度合いを訴えたサトミの、期待に背いた“大人”に向けられた軽蔑を。空になったベッドの前で立ち尽くした両親の顔を。

 涙は出なかった。代わりに、全身を恐怖が駆け抜けた。自分のしでかそうとしたことの重さと、その軽さに。

 それを気付かせてくれたアキに、心から感謝した。

 いずれにせよ、今晩、この部屋にいる理由はもうなかった。怒りに引きつった五指が柔らかそうな頬の上に差しかかって緩み、丸みのとれて凛々しくなりかけた輪郭に吸い寄せられる。直接触れるわけにもいかないから、包み込むようにかざすだけにとどめたそれをそっと引き離した。

「おやすみ」

 そう言い置いて、部屋を後にした。音を立てないように閉めきった扉の向こうで、寝返りでも打ったような物音がかすかに響いた。

 このまま自室にこもる気にもなれなくて、完全にぬぐい去ったと言い切れない邪念を払いたくて、寝巻きを脱ぎ捨てて外に躍り出た。ひとしきり歩き回って日中の薄着に夜風をたっぷり含ませた後、冷え切った頭が、今後のことを考えた。

 この手が過ちを犯すまいと決意したところで、問題が解決したわけではない。この身に起こったこと、マコの件も同様だ。次から次へと厄介事は増すばかりで、一向にどれひとつとっても改善の兆しすら見えてこない。

 だからといって悲観的に、運命に翻弄される無力な少女を演じるだけでは何ひとつ前進しないということだけは、もう知ってる。

 サトミが自分にやったように、誰かに話すことで進展する運命もある。自分に課せられた今の急務は、ツトムの重荷を少しでも軽くすることだと思った。アキに致命傷を負わせる羽目となったツトムには、あの日に捕まえられなかった事故の原因を作った犯人について誰よりも知る権利がある。

 思い立つや否や、寝静まった夜の町をひとり、方向を定めて歩き出した。弱った女子高生を手ごめにした負い目のあるツトムなら、いきり立って警察に駆け込む真似はよもやすまいと、姑息な計算をはらんだ上での一歩を。


「危ないじゃないか! あんなことがあったばかりなのに!」

 二回ほどのチャイムで、ツトムはあっさりと顔を出した。今にして思えば長距離ドライバーであるはずのツトムが夜間帯に家を空ける可能性は十分にあったというのに、そこは妙な幸運に恵まれたというべきか。さすがに人身事故の当事者、それも勤務中においてとあっては仕事に影響が出ないはずもなく、最近はめっきりなのだと、後で知った。

 寝ぼけまなこをくり抜いたように見開き、すぐさま腕をとって家に引き上げてからの真っ先の忠言が、それであった。

「まだ狙われているとか、危険な目に遭うかもしれないとか、考えなかったのかい?」

 朝方ぶりのなじんだ匂いが、落ち着かせるように鼻孔をくすぐる。日焼けした畳の上で真剣な眼差しがそう咎めるまで、そういえば、そんな危惧は頭からすっぽりと抜け落ちていた。

 考えられることといえば、身の安全を無意識に判別したということ。少なくとも、同一犯に襲われることはないと確信していた。根拠は二つ、第一に、マコの自傷を聞きつけた一味が事件からいったん距離をとるため、うかつな行動を差し控えるようになったということ。そして第二に、認めたくはないが、わざわざリスクを冒さずとも喜んではきだめ(・・・・)役を聞き入れてくれる手駒を、新しく手にした。

「ごめんなさい……でも、そんなこと全然頭になくて、もっと大事な話がツトムさんにあるから、いてもたってもいられなくなって……」

 とはいえ、そんな理屈を素直に説明して計算高い印象を持たれるわけにもいかない。

「実は今日、ひょんなことから、アキを突き飛ばした中学生の正体が分かってしまったんです!」

 真っ当な常識から帰宅を促されることを阻むための、真夜中の来訪を正当化できるだけの悲痛な叫びを一方的に押しつける卑怯な力技だと自覚していた。

 血相を変えるとは、まさにこのこと。

「今朝の財布がきっかけに? でも、僕のもとには警察から知らせがない。ということは、ミキちゃん個人がそれを突き止めたってことかい?」

 昨夜の布団の位置に立てられた食卓がきしむほど身を乗り出し、その体勢の危うさに考えが及んだか、すぐに居を正してトーンを落とした声で切り出す。

「一体どうやって? 警察にはまだ言ってないんだよね? 僕と別れてから……ああ、そういえば友達の子は大丈夫だったのかい?」

「……犯人、興味がないんですか?」

 口にしてから、すねた言い回しだったなと思う。ツトムにとっての自分は、誰よりも真相を欲しているはずの感情を押し殺してまで逐一容態を気遣ってやる必要のある女の子に過ぎないのだと、突きつけられた気がしたから。たった一夜の関係で大人同士の論議ができる間柄に昇華したと思い込んでいた顔に塗られた泥が、そんな子ども染みた不平を言わせた。

「そんなわけはないっ! それで、犯人はどこの誰なんだい?」

 いや、卑怯なのはツトムだ。この身に溺れたくせにまだ、子どもに対する大人でいる。

「犯人は、弟でした」

えっ、と、要領を得ないといった顔。

「私の弟でした。あれは、事故のまた事故だったんです……っ!」

 衝撃の告白にリアリティを加味するためには、詳しい経緯を事細かに叙述することが必須だった。サトミの訪問から始まってついさっき、眠ったトオルを前に復讐心が萎えていったところまでを、誰にも遮られない夜の静けさを味方につけて洗いざらい語り終えた。

 残酷な仕打ちだと、すぐに悟った。“人殺し”の汚名を着せられて誰よりも無念でならない、どれほど真犯人の断罪を望んでも足りない思いの丈を発散させる機会を、これみよがしに心痛な面もちを披露する人質のせいで封じられたのだから。社会の同情を背に無責任な若者に向けられて然るべきだった指弾は、その指先の根元からばっさりと切られた、いや、自分が折った。それもこれも、恋人殺しの罪人に慈悲を施す寛容な精神を、見せびらかしたかったから。

 やっぱり、自分は子供でしかなかった。

 違う、そうではないと、何が何でも自分を卑下する。

「私、アリバイが欲しかっただけなんだと思います。アキに対して、殺した奴を許せないほど愛していたんだって。……ううん、アキのためですらない。世間が、社会が勝手にイメージする“恋人を殺された女”の役割を、実践しようとしてただけなんです。それが周りでとやかく……遊びだったとか、金目当てだとか陰口を叩く連中に対して、本当に心から好きだったってことの何よりの証明になると信じて。きっと、それだけでもありません。八つ当たりだった可能性もあります。ご存知のとおり、辛い目にいっぱい遭って、友人にも先輩にも裏切られて、この世の悪を一身に受けた心地すらしてたから! だから目の前でアキ殺しを白状したそいつが、弟がっ! この世の悪の総括のように全部重なって見えて、それで……それでっ! そいつらの分の憎しみを全部込めて私はトオルを、トオルを……っ!」

 抱きしめられると思った。泣き叫んで困ってみせれば為す術のなさをごまかすように、赤ん坊のころからの馬鹿のひとつ覚えみたいに抱きついて場を濁すんだと高をくくっていた。そのためにまた体の真ん中を準備していたから、不要なそれは意識の外にあった。

 だから、それに手を触れられたとき、本当に、心が震えた。

 ミキちゃん、と、黙っていた口が開くより前に、両手に、両手を重ねられた。

「今のミキちゃんの話を聞いて、僕はこう思うよ。ミキちゃんは自分を偽ったりしない。偉ぶったりしない。本当に、本当に他人のことを想える優しい心の持ち主なんだって」

 小さな手のひらを包み込むように添えられた大柄な手は、季節外れのストーブよりも、衣服にぬくめられた他の部分の肌よりも、何よりも、何よりも温かい。

「私が子どもだからって、褒めてごまかさないでください……ぃっ! 私はいつも、嘘ばっかりで……」

「嘘をつくことと、自分を偽ることは違うと思うよ。なんて抽象的なことを言っても意味はないから、君の話を聞いた、僕の正直な感想を言うね。さっき君は、“殺すこと”の想像をしても何とも思わなかったけど、“いなくなること”を思って思いとどまったって言ってたよね? それが、正解に近いんだと思う。自分と縁もゆかりもない、考えの及ばないことをいくら頑張って想像してみても、そこにはきっとどうしても偏見や思い込みが付きまとって、上手くいかない。むしろ、分かった気になって『誰かの気持ちが想像できる』とか、『相手の立場になって考えてみよう』とか真顔で答えられる人のほうがよっぽどたちが悪いよ。そういうとき、背伸びしないで、飛躍しないで、自分の身近なことから地に足をつけて考えられる人は、本当に“相手の立場に立った”、ミキちゃんのような、心から誠実な人なんだと思う」

 それは、真心が染み渡るように。分からないものを切り捨てるのではない、遠回りをしろと言っている。

 それがきっと、何よりの近道だからと。

「同じことを、トオルくんにも考えてみようよ。犯人の少年は、得体の知れない化け物じゃなかった。暮らしから常識から何もかもが食い違う、たとえ一見同じに見えても、それはそれで何が違うのかさえ分からない、別世界の住人なんかじゃない。一緒の時間をこれまでにたっぷり共有した、かけがえのない家族なんだろう? だったら、君のよく知るトオルくんの立場に立って、トオルくんの気持ちを想像してごらんよ。今のミキちゃん、君なら、それがきっとできるはずだよ」

 そう言って、そっと手を離す。解き放たれたはずの手のひらに、小さな感触を残して。

「これは――?」

「……それができれば、これもきっと、有効に扱える手段が見つかるさ」

 うろたえながらも、託されたそれをしかと握りしめる様を確認すると、話は終わりだと言わんばかりにツトムがすっくと立ち上がる。

「家まで送るよ。君には、一緒に朝を迎えるべき人たちが待ってる」

 見上げた笑顔が差し伸べた手を、一瞬の逡巡ののち、今度は自ら握りしめた。


 家までの道すがら、無言で前方を見やる隣のツトムをよそに、ぼんやりと昔を思い起こしていた。そうはいっても、何しろ歳の離れた姉と弟だ。何でもかんでも二人で共有したべったりの時期は早々に過ぎ去り、特別に姉弟の仲を象徴する劇的なエピソードがすぐに思い当たるわけではない。点々と瞬きが散在する星空のように、ちりちりと音を立てて点滅する夜間灯のように、そういった思い出は浮かんでは消え、つかもうとすると逃げていった。

 そうしてとりとめもなく流れていく風景だったが、いつしかこの帰り道が、小学生の六年間を通い詰めた通学路へと合流していることに気付く。卒業後の数年で様変わりした部分はあったが、昔と同じ道順に沿って十数分を歩いて通した感覚として、それは当時の面影を色濃く残していた。

 記憶が特に目をとめたその具体的な部分箇所から、以前の日々を連想してみる。一年生になりたての弟の手を引いて登校できることが嬉しくて、友人から又聞きしたような寄り道先に無理やり付き合わせたことも一時期あった。そこの道端の飼い犬に葉っぱを食べさせることが面白くてトオルにも勧めたら、犬がお腹を壊すからと意固地になって歯向かってきたこともあれば、些細な口喧嘩の後にあそこの曲がり角の陰に潜んで帰ったふりをしてやれば早速泣きわめいて、姿を現せば途端に安心してじゃれついてきたりしたこともあった。

 そんな優しくて、強くて、臆病なトオルの内面をどうして推し量ってやれなかったのだろうか。

 先ほどのツトムにした説明も、当の本人が語った内容本来も、そこからは肝心のトオル自身の視点が丸ごと抜け落ちていた。ツトムはそれに気が付いたからこそ、あんなことを自分に言ったのだ。知ってしまえば不自然極まりないものの、あのときは話し手であるトオルのことを凶悪犯によくある記号的な、人の心をもたない怪物に仕立てあげたかった。そんな一般の善人を気取った傲慢な先入観こそが、すんでのところで引き返しはしたものの、あと一歩突き進めば取り返しのつかなかった愚行を己に許す要因となった。

 改めて、トオルの気持ちを想像する。他でもない昔からよく知る弟としてのトオルが、あの事故を前にして何を思い、どう感じたのかを。

 困惑と、不安と恐怖でいっぱいだった。何も考えられなかったのはトオルのほうだった。見知った顔が突然に持ち物を奪い、弾け、挙句実の姉がそれを見ていた。何もかもが置いてけぼりで、抗う余地さえなしに世界は一変した。そこから逃げ出したくて、帰りたくて当たり前で、無責任だと罵るほうが無責任だった。

 その前提にたどり着けばこそ、悪びれもせずにいきがっていたあの態度の本質もみえてくる。行いを正当化して、家族を盾に捕まるまいと居丈高にいたのではない。お嬢様の推論をせっせとこしらえたサトミには申し訳ないが、ニヒルに武勇伝をヒロインだけに打ち明けたでもない。

 強がっていたのですらない。自暴自棄になって、あわよくば、と。

 やがて自宅前に行き着き、ツトムとは礼を述べてそこで別れた。塀の外側から二階を見通して、通りに面した窓に目を凝らす。トオルの部屋の、覆い隠した薄いガラス一枚の裏側にはトオルが横たわっているはずのカーテンの前面をしばらく見つめてみたものの、そこで人影がうごめく気配はついぞなかった。

 ここでドアのチェーンがかかっていたら形無しだなと、不良少女の懸念を鼻で笑うように鍵ひとつであっけなく玄関は開けた。外出後のエチケットは最小限に、両親を起こさないよう息を殺して階段を上がる。窓の明かりを頼りに勝手知ったる廊下を通り過ぎ、真っ暗闇のひとり部屋に再び舞い戻った。

 主が自らの意思で目を塞いだ、常時小綺麗に整えられたトオルの待つ部屋へと。

「トオル、起きて。アンタ、そんなに寝相よくないでしょ」

 おかげさまで、傍らまで何も蹴飛ばさずに近づけた。

「姉の帰りを盗み見といて、寝たふりでやり過ごすつもり? そこのカーテン、あからさまに揺れてたんだけど」

 嘘をつくことは、心を偽ることじゃない。

「……新しい男と早速夜のお散歩なんて、いくら何でもふざけすぎだろ」

 おもむろにまぶたを開いたトオルが、減らず口の罵倒をクッションにベッドの端に座り直る。

「それも、よりにもよって元カレを轢き殺した相手とねんごろだなんて、アキさんも草葉の陰で泣いてるぜ。あ。それとも、壊れた財布を新品にしただけ、か?」

 確信に基づいた賭けに勝利を収めた以上、心は既に決まっていた。

「アンタ、あの人のこと覚えてたんだ。現場と、通夜くらいでしか面識ないと思ったのに」

「そりゃあ、俺に追いつけなかった顔だからな。地団駄踏む無様な面を鮮明に覚えてるぜ。それとも何?『私は気にしてない』アピール? むしろ素敵な出会いをありがとうって、泣いて感謝しに来たってわけ?」

「全部話したから」

 すまし顔が色めく瞬間を、この目は見逃さなかった。

「怖い? 怖いよね? 知ってる。だから言った」

「てめェ、ふざけてんのか! 家族を、人生を滅茶苦茶にする気かよっ!」

 気色ばんで胸ぐらをつかみにかかってきた手を、甘んじて受け入れる。前後の揺れに乗っかって不意に抱き寄せてやろうとも思ったが、力押しには頼らず、目を見た話し合いで決着をつけたかった。

 馬鹿のひとつ覚えで、ごまかしたくない。

「やっと本性が出たじゃん。情けなくて、気弱で、打たれ弱くて臆病で……」

 取り乱した形相の目頭に、涙さえ浮かんできた。

「涙もろくて……でも、本当はずっと優しくて、人を殴ったこともないトオルのことを、私はよく知ってる」

 しわくちゃに襟を掻きつかんだ握りこぶしを、振りほどくふりをした手で、そっと握り返した。

「腕にとまった蚊一匹も潰せないから、妄想の中で魔物を殺しまくってたアンタが、現実に人の死に立ち会ってしたり顔でいられるわけがないもんね」

 そんなことに気付かないなんて、姉失格だ、と。

「いきなり何気持ち悪いこと言ってんだよ! 離せよ!」

「先につかんだのアンタじゃん! 離さない!」

「心中でもする気かよ! 女の感傷に男を巻き込むな!」

「ガキのわがままで、姉を煩わすなーっ!」

 感極まった応酬の後は、潮が引いたような沈黙が訪れた。

 ぽつり、ぽつりと、再開した言葉が、砂浜を潤す。

「ね? 一緒に警察行こ? 私もちょっと用事があるからさ、そのついでにちょっくら付き合ってよ?」

「ふざけんなよ……結局、一家で自殺するようなもんだろ? ネットやマスコミに叩かれて、ビラとか貼られて……想像に耐えないような目に遭うんだ。そんなん、我慢できっかよ……」

 実際に経験したような、知った風な口をよくもまあ聞くものだ。

「あんたが『世間は汚い、それを知ってる俺カッケェ』したい気持ちは痛いほど分かるよ。痛いし。自覚ないだろうけど。でもね、社会はアンタの思ってるほど性根のねじ曲がった連中ばかりじゃない。絶対数としては、無闇に他人を傷つけない良識人のほうが絶対に多い! ツトムさんだって……名前知ってるね? そう、あの人。アンタのことを暴露しても、アンタの自発的な心変わりをずっと待っててくれるって、笑いかけてくれた。いい人じゃん! アンタと違って二十歳超えで新聞にも実名載ったのにだよ? それどころかろくな日にちも経ってないのに身柄も自由で、夜の町並みを女子高生と練り歩いちゃうようなエンジョイライフしちゃってんだよ? ちょろいじゃん警察、甘いじゃん社会」

 想像力がものをいう。心に響くのは本音。又聞きの耳にタコができる美辞麗句を考えなしに飾り立てるより、自分の言葉で説得したい。

 何より、そういった口ぶりは偉そうで嫌いだ。

「そりゃあまあ、魂の根っこから腐りきった奴らだっているよ? そういう奴に、私も苦しめられたもん。でもねぇ、そんなの本当に全体数の極一部。ネットやニュースで大きく見せてるだけ。少なくともアンタの側にいる私や、ツトムさん、それに天国のアキだって、アンタに罪なき罪を着せたまま知らん顔を決め込むほど性悪じゃない。だって、アンタ何も悪くないじゃん。純粋な事故以前のアクシデントだよ? 警察だって……アキの遺族だって、そんなことすぐに分かってくれるよ! それなのに『人殺し』だとかおちょくる奴はそれこそ人をけなすことしか能がない馬鹿どもなんだからさ、そんなウジ虫どもは、私たち“いい人”が取り囲んで駆逐してやろうよ! だからお願い、警察付き合って? アキにもさ、アンタにとっちゃとんでもない置き土産残してくれたバカな(・・・)姉貴の元カレだけどさ、贖罪の機会与えてやってよ? 誰も悪くないんだから、“いい人”ばかりみんなで揃って楽になろうよ? ね? 頼むからっ!」

『“バカ”ってどっちにかかってんだよ』と、ささくれて傷だらけになった言葉が、頬をかすめる。

 結局は、殺されるのが怖くなったんだろう、と。

 あのさぁ、と、この口が呟く。

「もう、やめにしない?『殺してみる?』だなんて、そんな現実にあり得ない短絡的な無茶振り」

 ここで、張りつめていた最後の糸が切れて泣きじゃくるとか、それが次第に嗚咽に変わっていくとか、そんな感動的なラストシーンを何度見ただろう。感情移入して涙することもあったが、ときに度を超すと途端にしらけ、『なぜそこで泣くんだ』とよく弟と並んでやきもきしていたものだ。だから、そんなわざとらしいものではありえなかった。

 トオルは笑い出した。それも、それだけでひとつの物語を終わらせることができるような大笑いではない。そんな大げさな展開は想像もつかない。私たちには、似合わない。

 あきれた苦笑にすぎなかった。

 その後も流れで昔話に花が咲いて夜を明かすとか、ましてや子供のころに戻って添い寝だとかそういったことも一切なく、いつものように別々の部屋に別れた。扉を閉じるその間際まで、『朝イチだから早く起きろよ』だの『ドタキャン禁止』だのと、くだらないかけ合いを交わしながら。

 そう、誰も悪くない。悪くないのに、身に余る苦しみに苛んだ。だからこそ、本当に悪い奴らはそれ以上の然るべき報いを受けるべきだと、つくづく強くそう願いながら安らかな眠りについた。

 明朝の早く、世話になった知り合いの刑事に電話した。

 時間にして学校の始業チャイムが鳴るころ、トオルは自分とともに警察に出頭した。


 読者の皆様、本当に、重ね重ね感謝の意を申し上げます。


 主人公を苦しめていた大元の事件は、今回で一応の解決となりました。話は変わりますが、「自首」といえば、以前にテレビで「自首」と「出頭」の違いを説明していた番組を見たことがあります。手元の広辞苑によれば俗的に「自首」も「出頭」と同じ意味で使えるそうですが、やはり誤解を招きやすい表現なので、少なくとも地の文で「出頭」の代わりに使うことは控えたほうがよさそうです。


 本作も次でラストとなります。是非とも、最後までお付き合いください。

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