キョウガク
「ごめん……てっきり、アキくんと既に……」
差し込んだ朝日がくすぶったストーブの残り火をいさめる傍らで、「知ってたらこんなことはしなかった」などと、装いを整え終えたツトムが目を逸らしがちに口ごもる。
――そんなコト、最初の段階でとっくに知れたクセに、白々しい。
水気のすっかり飛んだ制服を無言で着込みながら同じく表面が乾ききった黒地鞄の肩ベルトを、突きつけた背中越しにくぐらせてみせることで、せめてもの意趣返しをした。
「……それじゃあ、色々とお世話になりました」
敢えて時計こそ見なかったが、太陽はすっかり高く昇り、窓から覗く往来にも学生服はめっきり見当たらない。感覚では、ちょうど一時間目が始まった頃だろう。
「明るくなって人通りもできあがったみたいですし、今からひとりで帰ります」
夕べの距離感が焼きついたこの眼には幾分縮んで映った丸い背中が、ぶっきらぼうに返事を告げた。知らぬ間に手入れがなされ、汚れる前よりも眩しい光沢を放つ革靴をつっかけ、あと一歩でノブに手をかけるというところで、間の悪いチャイムが鼓膜を揺さぶった。
次いで、ノック。薄いドア越しにくぐもった男の声がツトムを呼び、それはどこか聞き覚えのある話し方だった。
すぐさま踵を返し、念のため靴を持って横の洗面所に身を隠す。ツトムが自然な足どりで奥からやって来て、一瞬の目配せののち、何ともない風に玄関を押し開く。
「――すみませんね、朝っぱらから」
老練な気風がにじみ出た、声量のわりにはどっしりとくる響き。
「今、お時間よろしいでしょうか?」
対して、青臭い至らなさが抜け切らず、それゆえに親しみやすいいかにも善良な好青年といった律儀な声色。そのどちらも、比較的最近の時期に耳に残っていた。
「はい、大丈夫です。お疲れさまです、刑事さん」
簡潔な常套句による答えの提示は、何となく、こちらに釘を刺すためだけのわざとらしさがあった。
「実は、捜査に進展がありまして。あなたには一刻も早くお伝えしたいと思い、こうして朝一番に伺いました」
「私のために、わざわざありがとうございます。その……犯人の男の子が見つかったのでしょうか?」
「いえ、残念ながらそれはまだ……しかし、今までずっと現場で盗まれたと思われていた被害者の財布が、予期せぬところから発見されたものですから……」
――耳を、疑った。今、何と言った?
「アキの……アキの財布が見つかったんですか!」
「ミ、ミキちゃん? え、何で? どうしてここに?」
ツトムが弾かれたように振り向く。廊下の陰から突然に身を乗り出した本来ここにいるはずもない女子高生が足音もけたたましく眼前まで詰め寄り、若いほうの刑事が素っ頓狂に目を丸くした。
「これは……どういうことですかな?」
口ぶりは単純な疑問の体、だが、探るような目つきには長年に渡って培われた険しさが隠しきれない。
「それは……彼女の名誉の問題でもありますし、私の口からは……」
職業柄の鋭い眼光にたじろぎ、言葉を濁すばかりのツトムがもどかしく、悪びれもせずに口を出す。
「ツトムさん、構いません。私、昨日レイプされそうになったんです。カラオケ帰りの夜の公園で三人組の男に襲われかけていたところを通りがかったツトムさんに助けていただき、倒されて泥まみれになった姿のまま家に帰って家族に心配をかけたくないという私のわがままを聞いた上で泊めてもらったばかりか、汚れた服やカバンまで綺麗に洗濯してくれたんです。靴だって、ホラ」
あっけらかんとまくし立て、手に持った磨きたての革靴を顔の高さに見せびらかす。いたたまれないという風に、ツトムは目を伏せている。目の前に差し出されたそれがさも直視できない何かであるように目を逸らした若い刑事は、反応に窮した挙句、「えっと……早口でよく聞き取れなかったんだけど」と、どこかしらズレた思いやりを披露していた。
「け、警察には被害を届け出ないのかい? 話しづらいなら、代わりに僕が……」
「実は、相手も分かっています。同じ高校の男子二人と、その知り合いだという大学生一人でした。なんでも、彼氏を亡くして悲劇のヒロインぶってる私が目立って鼻についたとのことらしいです。普段は大それたことなんてこれっぽっちも考えないような奴らなのに、悪い先輩にそそのかされてついつい羽目を外してしまったんだと思います。ですから、今はなるべく当事者間での解決を望んでいます。こんな風に落ち着いて考えられるようになったのも、ツトムさんに助けられてひと晩時間を置いたおかげです」
なおも饒舌に回し続けた舌をそこで唐突に止め、説明の義務を果たし終えたといわんばかりに後は口を真一文字につぐんだ。
「――まるで、我々が測られているようだな」
ボロが出るより前に、年配の刑事が、溜めた息を漏らした。
「いや、失礼した。どうやら下種の勘繰りが過ぎたようだ。職業柄――は関係ないな。人間性そのものの落ち度だ」
「そうっすよ。こんくらいの歳になると何でもかんでも疑り深くなって、ついこないだだって普通の親子相手に目を光らせて大恥かいたことが……」
「そんなことより、アキの財布はどこにあったんですか? 誰が持ってたんですか!」
上司の咳払いと女子高生のスルーとを一斉に浴びてしょんぼりとする若手くんの姿は、視界の端だけに留めておいた。
「持っていたのは、君と同じ学校の生徒だったよ。灯台もと暗し、って奴かな」
待ちわびたようやくの吉報も、だからといってそれを無条件に受け入れる理由にはならない。
「私の学校って……そんなはずはないです! だって、制服の外見からして大違いで……」
「ひとまず冷静に話を聞いて、ね? 見つかったのは容疑者の少年じゃなくて、あくまでアキくんの財布だけだから。でも、その発見場所にちょっとした問題があって……」
小さな少女の突き上げるような迫力に気圧されたか、これしか取り柄がないと言われそうな柔和な顔を引きつらせて二の句が出なくなった新米の若造に冷ややかな目線を送ったあと、ベテランの風格漂う重低音が説明を引き継いだ。
「見つかったのは、君の学校の駐輪場だ。届け出た生徒いわく、そこにあったのを拾っただけで断じて盗んでなどいないらしい。そして、拾ったという時間帯だが……」
『そんな言い訳が』と、はやる口が手当たり次第に切り込んでくることを見越してか、返しの暇を敢えて生み出さない平坦な長台詞だった。
「事件の起こった日の七時ごろ、つまり、ちょうど部活動生の下校時刻だった。その生徒も部活帰りで自転車に乗るところだったから、そこに落ちていた財布を見つけたところで何ひとつ不審な点はない。実際、君もアキくんもその日は同じころに学校を出た。間違いないね?」
「は、はい。私は茶道部があって、終わって校門に出たところでいつものようにアキが自転車で待っていたのがちょうどそのくらい……だったと思います」
“待て”を食らった頭が、不要な反論に割かれなかった余裕で以てがむしゃらに情報の吟味に努める。
「でも……そんなのおかしいです! だって、アキの財布はあれから……っ!」
「そう。その後の事件で強奪された。そのはずだったが、そのとき既に彼は財布を身につけていなかったことになる」
「そんなのっ! 犯人が奪ったのを拾ったって嘘ついてるだけかもしれないじゃないですか! 犯人がポケットをまさぐって何かを取り出してたところは、私以外にもたくさんの人に目撃されてるんですよ!」
必死の食い下がりも想定の範囲内だというように、年長者の威厳そのままに顔色ひとつ変えなかった。
「……ところがそうもいかない。何しろ、拾ったと名乗り出た生徒は女子生徒だったんだからね」
「女子……? なら、犯人の男に頼まれたとか……っ!」
「本人いわく、明日すぐに届けようと思っていたところに強盗の話が浮上して、怖くなって言い出せなくなっていたそうだ。無理もない。仮に犯人の少年に依頼されたのだとしても、事件の日からここまで日にちを置くメリットもないし、そもそも足がつく可能性のある証拠品をわざわざ発見させる必要もない。あんなサイズの物証は、ひとりでも簡単に処分できるしな。実際アキくんの親御さんに確認してもらったところ、間違いなく財布はアキくん本人のもので、中身もまあ小銭の細かいところまでは分からんが、ごっそりと抜き取られた形跡はなかったらしい。……財布を新調したという話も聞かんし、彼女が嘘をつく理由はないだろうな」
理路整然と組み上げられた言葉の連なりを、とうとう途中で寸断することが叶わなかった。
「なら、だったらどうして、一秒でも早く現場から立ち去らなきゃならない状況で危険を冒してまで何を失敬したとでもいうんですか! 指紋や返り血を拭くためのハンカチやティッシュをたまたま切らしていたとでも?」
「それはまだ分からない。だが、ミキちゃんの言うとおり決して犯人にとって無意味なものではないだろう。ミキちゃんがここに居て手間が省けた。ツトムさんも、今の話を踏まえて他の心当たりはないだろうか?」
「そんな……あれは確かに……」
確かに、聞いたのだ。薄い金属同士がこすれ合う軽快な小音が、その手の中にかすめ取られていくのを。
それだけではない。その認識を助ける何かが、間違いなく去っていく手からこぼれ落ちていた。そう、あれは――
――見聞きしたすべてがまさに繋がりかけたそのとき、間の悪い着信にそれら思考が分断された。
「……あれ? ミキちゃん、着メロ鳴ってるんじゃない? このバラードいいよねぇー、アイドル曲ばっかのうちの婦警よりよっぽど大人びてるよ」
携帯の表示を見ると、自宅からだった。昨夜から何度もかかってきたのを放っておいたが、刑事たちの手前さすがに今度ばかりは無視できない。ひょっとしたらとうに学校と連絡していて、無断欠席の件で問い詰める腹積もりかもしれない。
――いや、これにはれっきとした訳がある。
「もしもし、お母さん?」
襲われたショックを引きずって登校できないでいると、さもありなんにのたまえばいいのだ。おあつらえ向きに、大人の証人にはこと欠かない。
『ミキ! 今どこにいるの! あなたは無事なのね?』
「うん、心配かけてごめんねお母さん。実は昨日――」
『今マコちゃんの親御さんから連絡があって……マコちゃんが、マコちゃんが湯船で手首を――』
――これほど直截的で、持って回った言い方もそうない。
母の声が、耳元で執拗に体の安否を尋ねる。横に立ち並ぶ男たちは、何事かと一斉に顔を見合わせる。止まった時間の中、場違いにも喉を通った言葉はただの一言、
「……勝てない」
この逆境にも、彼女が味わった本当の絶望にも。そして何より、覚悟も施さずに状況をただひたすら前へと無慈悲に押し流す怠惰な時の流れ相手には、一度たりとも勝てたためしなどなかった。
「勝てないって……誰に?」
「お母さんは何て?」
「ミキちゃん!」
今も、そう。誰にも、誰ひとりとして、体感でそれを束の間でも再現しようという気概すら、毛頭ない。だから――
「――パトカー、近くに停めてありませんか? あるなら乗っけて欲しいんですけど……」
せき止めて押し戻せないなら、せめて負けない速さで追い抜こう。世間や運命があらかじめあてがった足より速く動けば、きっと何かを変えられる。そう信じて。
それに、誤解を織り交ぜた突飛な申し出がことのほか期待どおり作用してか、たった数秒でも、四人の時間の進行をこの手が食い止められた気がした。
ありふれた乗用車の外観をした覆面車両が病院前に停止するなり座席を突き飛ばし、刑事二人に礼を述べると一目散に案内された病室の中へ息を切って駆け込んだ。
「マコっっっ!」
室内の人影が一様にこちらを振り向く。視線は三人分で、最も鋭く放たれたのは白衣をまとった医師らしき人物によるものだった。
「ミキちゃん……?」
「お嬢さんのお友達ですか?」
その奥で、マコの母親が呆然とした声を上げる。遠目からでもその眼は虚ろで、顔は憔悴しきっており、今すぐにでも床面に向かって振り切れてしまいそうなその肩を隣で支えながら、マコの父親が返事を引き継いだ。
「ええ、そうです。娘の友人です。来てくれて、どうもありがとう」
父親の了承に納得してか、医師は怪訝な目つきを緩め、胸に畳んでいたボードを小脇に抱え直す。
「それでは、お大事に。私はこれで失礼します」
そう言い残し、病室を出て行った。入口付近ですれ違い様、軽い会釈を向けられるも、こちらの返しは端から期待しなかったかのように視線も合わせず立ち止まることもしなかった。業務的な態度口調だ。深読みしてやる義理もない。
「あのぅ……私、先生とのお話のお邪魔だったでしょうか? すぐに行ってしまわれたので……」
「いや、大丈夫だ。命に別状はないし、意識だってすぐに戻った。先生が言うにはもう心配することはないらしい。発見が早かったのが幸いだったと……」
話しながら、横目を遣った先をつられて見る。真っ白なベッドの中に、マコのあどけない寝顔が迷子のようにぽつんと据え置かれていた。胸は規則正しく上下し、呼吸器の類もなければ顔色も良い。
ほっと胸をなで下ろすという仕草が、いやらしいほど手本じみてさらけ出た。
「確か、今朝方のお風呂場でその……お怪我なされてたんですよね? ちなみに、マコは夕べいつごろお帰りに……」
母親というさがをした力強い手のひらが、襲い来る蛇のような獰猛さで割って入って出し抜けに両肩をわしづかんだ。
「ねえ、教えて! あなた昨日マコと一緒にいたんでしょう? 一体何があったの? ねぇ、ねえっっ!」
悲鳴が、爪が、壊れそうに、この肩に食い込む。見開いたまなじりからは、涙などとっくに流れ尽くしていた。
「あの……私、カラオケを出て、いつもの交差点で別れるまでのことしか……それまでは、本当に楽しそうで、声なんかガラガラにからしちゃって……あの、それで……」
それ以降は、何も見てない、聞いてない。人の噂を、一方的に貶めるためだけの根拠のない流言を、鵜呑みに媒介することなどできない。
「あなたたち何か知ってるんでしょう? 何か思い当たって、だからすっ飛んできたんでしょう? だって都合よすぎるじゃない! 教えなさいよ、ねぇ……っ!」
「落ち着かないかっ! せっかく来てくれた友達相手に、マコだって寝てるんだぞ!」
誰彼問わず揺さぶって、所構わず掘り返して、答えを得ようと必死なのだ。手荒で自身を傷つける反動も強い分効果はてきめんで、お互い面向かってひび割れた心をさらけ出し合って、目にも痛みにも耐え切れず、手元の不確かな材料を以てしても早急に補いたくなる。
「ねえ、そうなのよ……ね? 教えて欲しいな、ミキちゃんの本当の気持ち――」
観念しきった心が、押し潰された喉からとにかく何か引きずり出そうとした矢先、
「――心配いりませんわ、おばさま」
凛と透き通った、高らかに歌い上げるような響きが、すきま風のような薄ら寒さを伴って病室内を横切った。
声の主は廊下の陰から悠然とした足どりでこちらに歩み出て、大人が子ども相手に死に物狂いでつかみかかる殺伐とした空気にもてんで意に介さないといった風に顔色ひとつ崩さない。
「マコは、大人になった自分をすぐには受け入れられていないだけです。今は苦しくても、時間が経てば殻を破ってそれまでの世界が見違えて見えますわ」
そう言ってこれみよがしに傾けられた満面の笑顔は、葬儀場の祝辞のような悪趣味が貼り付いていた。
「ちょうど私のように、ね」
「ハズ……アンタ、何言ってんの?」
「ミキさんもいらしてたんですね? 私もついさっき授業中に聞きつけて到着したばかりなんです。あ、花瓶のお水新しくしておきました。お花も私が買ってきたものと替えておきますね」
憂いひとつなく張った胸に抱え込んだ花瓶を小棚に乗せ、ささっていた薄い色味の数輪を引っこ抜く。花瓶の横に寝かされていた原色とりどりの花束を手に取り、空いたその口を塞ぐように差し込んだ。
もう片方の手で、今朝の搬送患者のためにたむけられたみずみずしいつぼみ混じりのか細いひと握りを、無造作に足もとのくず入れへと放りながら。
「あっ」という夫人の呟きが、呆けた頭を瞬時にたぎらせた。
「ハズ! 何してんのっ!」
しなやかに伸びた人差し指が、おっとりと薄いリップを引いたやぼったい唇に吸い寄せられる。
「お静かにしてください。病院ですよ、ミキさん。おじさまおばさま、私はこれで失礼します。学生の本分たる学業をおろそかにするわけにはいかないので、マコには目が覚めたらよろしくお伝えください。ミキさんも、今からでも学校に来たほうがよいと存じます。では」
慇懃無礼なお辞儀で、病室を後にする。ただただ困惑する二人を置き去りに、憎らしいまでに正された背筋を追いかけて、廊下の壁際でとっ捕まえて問い詰めた。
「ハズ、あんたどうしちゃったの? やることなすこと何もかんもが滅茶苦茶だよ!」
肩に置いた手を、振り向きざまに払われる。血色のいい小顔が引き連れた短くほどけた黒髪が、心なし平素より色濃く、暴力的に映った。
「あら? 制服を着込みながら学校に来ないミキに『滅茶苦茶だ』なんて言われるの心外。ひょっとして、昨日から家に寄りついてないとか?」
涼しい顔で、意味もなく小指に横髪を絡ませている。
「さっきも言ったでしょ? 私、大人になったの。一夜の経験でひと皮剥けちゃった」
鼻にかけるでもないあっけらかんとした物言いは、内気で後ろに控えがちだった少女の面影を塵ひとつ残さずかき消してしまっていた。
「アンタ……襲われたんじゃないの? 私やマコと同じようにクラスの連中けしかけられて……」
「……なるほど。何を隠そう私も最初は何がなんだか分からないままに通過儀礼を迎えてしまいましたが、“求められる”って女性の最高の喜びですよね? その要求に上手く応じられるって、まさに“大人”の証明じゃないですか。サキ先輩なんかにさせるよりよっぽど『楽しい』って持ち上げてくるものだから、私もついつい興奮が過ぎてしまいました」
陶々と語るでも、ひけらかすでもない。実の姉妹のように懐いていたかつての憧れの相手の名を、高みからでもなく自然体で淡白にこき下ろす。
「……マジで狂っちゃったの? 心のキャパ、ぶっ壊れちゃった?」
道行く患者も看護師も、誰一人として足を止めない。
だってハズは友人との談笑の折、こんなにも朗らかに微笑んでいるだけなのだから。
「ミキのほうは……ちょっと勘違いした悪い大人になっちゃったのかな? 外泊の上にズル休みだもんね。……ま、マコよりよっぽどまし、か。リストカットなんてはた迷惑な真似して、今もこうしてたくさんの人の厄介になっているんですものね。本気で死ぬつもりでもないくせに、子どもって注目されるためなら何だってするから困りものよね」
違う。情報が不足している。マコは気紛れに自室なりでその身に刃を立てたのではない。湯船を血で浸して、本気で命を絶とうとしたのだ。よしんば一命をとりとめる算段はあっても、その目的は決して安っぽい同情心などではない。
生まれ変わりたかったのだ。昨日の自分の名目がそうであったように、たとえ気持ちの上だけでも、穴ボコにされて修復不可能になった体をいったんその意識から切り離すことで次に出会ったそれが傷やへこみひとつない原初期の状態に戻っていると信じたかった。
そんな切実な願いも、今のハズには分からない。
「でも、安心して。世話が焼けるからって、見捨てたりなんかしないから。マコもミキも、ずっと私の大切な友達だよ」
すり抜けていく。つかみどころのない霧のように、この手から遠ざかっていく。
立ち尽くしたまま背中を恨めしく見送ることも許さない。去り際に幾度となく振り向いた笑顔は、どこまでも優雅に輝いていた。
放心なんて、たとえのいいものではない。混乱、嫉妬、義憤、羨望、頭の中が腐った雑巾みたいになって、絞ってもひねっても、何も出ていかなかった。
おぼつかない足運びで、吐き出せない感情が膨れ上がった心を引きずりながら、マコの病室へと引き返す。途中向かいを悄然と歩いてきた夫妻と出くわし、気分転換してくる旨を承ってひとり戻った部屋の中には点滴に繋がれたマコの体だけがぽつんと取り残されていた。
ベッド脇のパイプ椅子に腰かけ、寒色の患者服が際立たせた飾り気のない寝顔を眺めると、途端に悔しさがこみ上げてくる。
「何で……何で、ハズはあんなこと……」
「――仕方ない、よ」
耳鳴りのような小声が、暗澹たる心地の虚を突いた。
「マコ? 気付いてたの?」
「……目の前で、大好きだった先輩に裏切られたんだもん。多分、自己防衛の結果なんだと思う。私は気にしてないから、ミキもやたらに責めないで……ね?」
そういえば、公園で男どもがそんなことを言っていた。
廊下でのやりとりを聞いていたかのように――実際、両親との会話がここで耳に入ったのかもしれない、そう言って力なく笑いかける。なりを潜めた元の明るさの、根っこの部分に残った思いやりがほのかに垣間見えた。
「……マコ、その……やっぱり、」
「私、カラオケでバカみたいにはしゃぎまくってたじゃん」
脈絡もなく、雑談めいた気兼ねのなさであっけらかんと語りだす。
「声なんかガラガラにからしちゃってさ。……だから、助けを呼べなかったんだよね」
今でも、記憶に巣食ってぬぐい去れないといった。
――うわっ! コイツの声ババアみたいにめっちゃきたねえ!
――こんな声で勃たせるなんてマジ苦行モンなんですけど。
――萎えるわー、ホント萎えるわー。
そう言いながら、深々と貫かれたのだという。
吐きそうになって口を覆いながら、そう言われてみれば、心神消耗のためだけとは思えない途切れとぎれのかすれ声にその名残があるなどと思った。
「……私、許してもらえる……かな? 二人は乗り気じゃなかったのに勝手にリーダーぶって話進めて、ムードメーカー気取りで調子づかせた挙句延長まで無理強いしちゃって……許してもらえない、かな?」
真っ白な枕に、涙が一筋走り落ちた。
「そんな」と言いかけて、ただの反復であることにはっと気付く。『こちらこそ巻き込んでごめん、奴らが目をつけたのは私なのに』と、事前にこしらえた文言をただ後出しするだけの勇気が、心にぱっくりと開いた傷口からの痛々しい声を前にした今あるはずもない。何より、手負いのマコが決死の覚悟で振り絞った謝罪の意思を、自分の身勝手な“楽になりたさ”目当てで否定する趣旨となる。
とはいえ、こちらが責任を感じていることもまた事実で、平謝りの機会すら逸したことに変わりはない。
それはまるで、ピンの抜けない手榴弾を丸呑みさせられている気分だった。
「そんなことないよ……悪いのは、悪いのはマコじゃない……」
いたたまれなかった。偽物の暴行で繕った仲間面が、真の傷を負っていない体が、これ以上ごまかせるはずもなかった。
耐え切れず、別れを言い残して病室に背を向けた。実は無傷だったと白状すれば、心の重荷が少しは浮いて笑い返してくれるだろうか。
それすら確かめるのが怖くて、病院を抜け出した。好んで仮病を着飾った冷やかしに、重傷者を見舞う資格なんてなかった。
身を寄せるつてもなく、闇雲にふらつけば補導されかねない。学校には、ああなってしまったハズと、何より奴らと鉢合わせする危険性がある。
行き着く場所は、自宅以外になかった。マコの一件を受けたせいで自分たちの娘においても同様の不安に駆られた両親を納得させるためにも、この身に起こった本当のことを素直に申し開きした。ツトムのもとで一晩匿ってもらったことも刑事たちに知られた今となってはことさらに隠し立てする必要もなく、むしろ強姦自体は未遂で終わったこともそのひとつとして、複数の社会人の証人は非日常の告白にリアリティを加味する格好の材料となった。
「電話……なかなか出られなくてごめん。上手く説明する自信がなくて……」
不安で縮み上がった肩から背中にかけて、二番煎じとは知らずに母がぎゅっと抱きしめた。
結局今日一日は自宅静養という形をとり、温め直した朝食を早めの昼食として細々と噛み含んだ後は、仕事を休んで家に控えているという母に断りを入れて自室に閉じこもった。衣装を普段着に一新し、一夜のご無沙汰で冷え切ったベッドに倒れ込んで顔をうずめてみたところで、何ひとつめぼしい考えは閃かなかった。
何で、こんなことになってしまったのか。マコの笑いかけが、ハズの微笑が、頭の中で以前のそれと目まぐるしく交互に入れ替わる。
そして、はたと気付く。アキを、また忘れていた。
もうどんな顔をしていたか、満足に思い出せない。風を切ってつかまった背中を何度思い描いても、網膜があぶり出すのはよどんだ暗がりで熱気に赤く色づいた肌色の不格好なずんどうただひとつ。
淫乱で、節操なしで恥知らず。新鮮で、強烈で、自業自得だ。
携帯の画面のどこを探しても、後ろを向いたアキはいない。たった一日で、大事なものをまた、たくさん失った。
アキといえば、財布の一件もまるで意味が分からなかった。続報いかんによっては、事件のあらましが根底から覆される。元を正せば、どうして自転車に乗った人物とそうでない人物とが揉み合いに発展する事態に陥るのだろう。アキを悪くいうつもりなど毛頭ないが、ふられた気晴らしに歩行者相手にちょっかいを出すなら後は機動力の差を活かして逃げ切ればいい。その逆から喧嘩を仕掛けるメリットもないだろう。電車相手に置き石を挑むようにすれ違い様タイヤに足を引っ掛けて転ばせたでもなく、間違いなく二人は体同士が反発し合うように離れるまでのほんの短い間、向かい合ってそこにとどまっていた。アキは自転車にまたがったままだったし、第一とっかかりとしての争う物音などは少しも聞かなかった。不穏な空気に気付いた次の大声が既に、車体が横倒しになり、身ひとつで放り投げられた寸前の断末魔だった。
あるいは、顔見知りだった? そうでなければ走行中に立ち止った理由がつかない。すると何がどうなって取っ組み合いに? ろくに会話を挟む時間的猶予もなしに? 息の引取り際、恨みつらみに名前を挙げることすらせず?
考えるほどに知らない尽くしで、何も分からないことしか分からない。堂々巡りに渦巻いた思考はいつしか意識の輪郭を物静かに削りとり、石のようなこの身を深いまどろみの中へといざなっていった。
幻を、見ていた。その日もいつものように自転車の後ろにまたがり、吹きつける夜風から守ってくれるアキの背中を頼もしく眺めていた。歳相応にがっついてくる男の要求をやんわりとかわし、こちらの代案に気落ちするアキの尻を叩きながら渋々と日没のショッピングに従わせる。老舗で買ったクレープをショッピングモールのベンチに持ち込んで食べて地方に根付いた個人商店を応援したり、書籍コーナーに立ち寄ってマンガ調の表紙をした参考書を手に取り新刊コミックの前でページをまくったりしながら時間を潰し、それだけで一日の責務を果たし終えたような気になって揚々と店を出る。家まで送るという型どおりの申し出で守りに入ったアキの柔らかい頬を、『あなたが送りたいのはどちらの家でしょう?』などというおどけた色仕掛けで出し抜けに引っぱたく。予想外の詰問にあたふたと弁解するアキをしばし寛容に見守ると、『付き合ってくれたお礼に、ちょっとくらいのワガママなら』と急所を突いた恥じらい攻撃で背中を後押し。そのまま二人は手に手をとって、大人の階段を一歩ずつ足を揃えて踏みしめていく。
そんな夢をみることを、心の底から夢みた。
現実の妄想のアキは、クレープ代を払うと言ってポケットに手を入れたきり動かなくなった。何度呼びかけても反応がなく、業を煮やしてその手を引っこ抜く。
つかんだ手のひらは、どす黒い鮮血にあやされていた。
すぼんだ喉が悲鳴を上げるより早く、その手をとっさに突き放す。拍子抜けした真顔で後方に大きくのけ反ったアキの背後は、そこだけ都合よく客の列が切れてぽっかりと暗い穴が開いていた。
刹那、宙に浮いた無防備なアキを横滑りの猛獣が容赦なく噛みしだいた。
いつの間にかあの日の横断歩道上に様変わりした背景の中で、うつ伏したアキの背を、繰り返し繰り返し同じトラックが同方向に乗り上げていく。その一連の流れを、“流れ”としか形容のしようがないとめどない暴力を、自分はただ人道の縁に踏ん張って見届けることしかできなかった。
恐怖と懺悔とでたがが外れて身震いがいうことを聞かなくなった肩を、後ろから学生服姿の少年が脇目も振らずに素通りする。こちらが呼び止める暇もなく迷いひとつなしにアキの隣に腰をかがめ、何もないはずのポケットに差し入れた手の中には、確実に実体のあるものを握りしめていた。
中身が知りたくてたまらず、駆け寄る。逃げ出した少年の覆い損ねたこぶしの隙間からこぼれ出た一条の連なりには、確かな見覚えがあった。
そう、あの鈍色の光は――
――遠なりに聞こえた無神経なドアベルが、浅い眠りから呼び覚ました。
知らぬ間に毛布を被っていた上体をおもむろに起こし、見遣った時刻は既に夕方。弟のトオルが帰宅する頃合いかと思い、目覚めの一杯欲しさに階段をきしませる。一階に下りて母の応対する玄関に何気なく目を通すと、扉側に立って母と対峙していたのは意外にも見ず知らずの少女だった。
「――お願いします! どうしても、ミキさんにお伝えしておきたいことがあるんです!」
見たところ制服姿だが、うちの高校ではない。中学生の背格好だ。頑とした語気の強さとは裏腹に小ぶりな革靴が支える土間に陣取った両足は行儀良く揃えられたままで、襟を正しながらの懇願を心得た姿勢は自分の周囲に縁のない、育ちのいい優等生くささを感じる。
「どうしても、今日じゃないと駄目かしら? 色々事情があって、疲れてるからできれば日を改めて……」
「そんな……っ! 頼みます! 勝手な都合ですが、どうしても本日伺うために塾まで休みました! 一刻も早く伝えなきゃ、じゃないと間に合わなくなると思って、だから……っ!」
母が乗り気でないのは、娘の状態を考えれば至極当然だった。
だが、それは母自体の理由ではない。
「お母さん。構わないから私の部屋に上げて」
母の口を介した以上、こちらの理由でもなかった。
「ミキっ? でも、あなた……」
そんな誰のものともつかない理屈を押しつけて、なおも健気に食い下がる少女を無下に追い返す仕打ちの片棒だけは、担ぎたくなかった。
「……さっき、電話をくれたの。それで、お見舞いに来て欲しいって、手土産なんか気にしないでって言って。だからこうやって来てくれたんだよね。……ね?」
何より、フェアじゃない。
この上ない作り笑いで、百パーセントの嘘をつく。反論しないと分かりきった母の隣をくぐり抜け、一段低い所にいる少女へとフローリングの上から優しく手を差し伸べた。
感謝よりも先に、異質なものへの警戒心を秘めた目つきをくれたところにまた、親近感を抱いた。
「塾サボったんだって? やるねぇ」
二階の私室に引き連れて入り、ベッドの上で体を跳ねながら年下への挨拶代わりに揶揄してみる。
「実は、私も今日学校休んだ。仲間? みたいな? うふふ……」
居住まいを正した少女は若干戸惑ったようにこちらの挙動をしばし目で追うも、すぐに頭を振り、真剣な顔つきで場を牽引するように話を切り出した。
「私、あなたの弟さんのトオルくんと同じ塾に通っています、サトミと申します」
苗字とも名前ともつかないアクセントで自己紹介を終えると、床とベッドの高低差を意にも介さず、向かって深々と頭を下げた。
「え、何? そうなんだ? 押しかけ女房じゃん? ……ああ、でも、あいつが今その塾に行ってんのか。さては、留守を狙って姉に根回しするつもりか? それにしても、あのマセガキも隅に置けない真似すンなぁ~」
「そういった、類の話ではありません。私の女学校ではその、異性交遊は禁止されておりまして、塾を休むだけでも大目玉なのにそんな浮ついた動機だと知れたら父母や先生方がどれほどお怒りになるか……」
無意識だろうか、声色が低く、肩が強張っている。大人という生き物を、信用しない目をしていた。なるほどそれで、先ほど母とのやりとり時にトオルの名前を出さなかった合点がいった。姉とは無関心を装ってすんなりと通れるも敢えてそうしなかったのは、抱えている悩みが信頼に置けない大人には漏らせないほどの重大ごとだということか。
「ですが、トオルくんに関わる話であることは確かです。ミキさんにも……そして、アキさんにも」
すとん、と、ベッドの底が抜けた。
「なん、で……?」
それを為したのは、胸に落とし込まれた鉛の重さか。それとも、ベッドが支えるに値しない存在の軽さとみなしたこの身が見捨てられたか。
「何で、アキの名前が出てくるの……?」
さっきの夢を、思い返していた。子供の頃、競争して互いに追い抜き合った懐かしい感覚を。見慣れた地味な学ランにこれまた似合わないシルバーアクセを得意げに身につけて、ウォレットチェーンを振り回すその憎らしい横顔を。
その、音を立てて絡み合う鈍光の群れを。
音を立てて崩れ落ちるすべての思い出が、脱力してずり落ちた体にのしかかる。力みもせずに開け広げた胸の真上を、無数のがれきが押し潰して埋め尽くす。
「やめてよ……お願い、言わないで……っ!」
とっくに、気付いていた。
ここでこうして大仰に身構えなければ、知らぬ存ぜぬで澄ましていれば、サトミも少しは話し渋ったろうに。
「アキさんを……ミキさんの恋人の方を死に追いやったのは……トオルくんなんです!」
とっくに、粉々に砕けていたのだ。サトミのしたことは、万全の岩塊に金づちを振り下ろしたのではない。ひび割れてバラバラなそれを辛うじて繋ぎ留めていた一本の鋲を、無慈悲にもとり去ってしまっただけに過ぎなかった。
長い話にここまでお付き合いいただき、まことに恐縮です。
途中で登場人物の人が変わってしまう展開は往々にしてありますが、その描写を上手くできなければ、「単純」だの「わざとらしい」だのと散々に言われます(実際に言われました)。主人公視点の物語なので、他の人物の心理描写を挟まない分、余計に突然に映ってしまったのだと思います。
次はいよいよ物語も佳境です。次章が一番力を入れた部分ですので、楽しみにしてください。




