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ココロハカラダ

 誰かに後をつけられている。

 そんな心地がし始めたのは、一人で歩き出してまもなくのことだった。

 こんな時間ですっかり人通りもなくなった、交通量の少ないいわゆる“安全”な通学路でかれこれ数分、知覚できる足音こそ自分のそれだけだが、空気のよどみともいおうか。本来ならば滞りなく空っぽの両脇をそよいで然るべき風の流れが、いつの間に背後の空間に割り込んだ想定されていないなにがしかの存在によってそこでせき止められた挙句、おどろおどろしい渦を巻いてなおも肥大し続けるそれによってガラ空きの背中を何度も、次第により深くなで回されている感覚にすら囚われる。

 だからといって、忍び寄る影の正体を暴こうとこの身を翻すことははばかられた。単なる思い過ごしならばよし、だがもし万が一にも追跡者と対面してしまったら、その後の対応は狭まった選択肢を否応なしに迫られる。露骨に駆け出せば当然向こうも脱兎のごとく追いすがってくるだろうし、一か八か歩速を緩めて追い越しを促すのもあまりにも分の悪い賭けであり、それこそ横に並ばれた瞬間に一巻の終わりもあり得る。

(そうだ! 確かこういうときは、携帯で通話しながら歩けば手を出しにくくなるって……)

 どのみちあと少しで到着するのだし、家への一報ついでにそのままずっと携帯を握りしめていればいいのだ。自宅を突き止められるのは仕方ないが、この御時世調べようと思えばいくらでも調べられるし、一人暮らしでもないのだから押し入られる心配もまさかあるまい。どうせまた、もっと簡単にできる(・・・)次の獲物を探すに決まっている。

 そう高をくくって、携帯を取り出すべく鞄に手をかけたのが運の尽きだった。

 おぼろげな気配が不意に地に足を着け、乾いたアスファルトを打ち鳴らす盛大な破裂音へと転化するや否や猛然とした勢いでこちらとの距離を一気に詰めてきたのだ。

 出遅れたと、ほぞを噛むいとま(・・・)さえなかった。両手を鞄に取られた不用意な格好では、何もかもが後手に回った。

 これはほぼありえないことだが、何の合図も待たずに始走した挙動不審者の目当てが、自分などではなく、たまたま予約も忘れてもうすぐ始まるテレビドラマだったりしてはくれないものかと、心の底から祈った。

 傍から見れば、驚くほど冷静に映ったに違いなかった。うろたえも振り向きもせず、残されたわずかな猶予でさえ鞄をかけ直す動作に費やした。そしてそれは、恐怖で脚がすくんだなどという身もふたもない理由では決してなかった。

 自分の中には、いつもアキがいる。そんなアキの手前、悪意の有無も不確かな人間相手に悲鳴を上げて逃げ出すような、痛い(・・)勘違い女にはなりたくなかった。

 アキに見初められたという自負を、いつまでも純粋でいられるアキにかつて伴侶として認められた誇りを、失いたくはなかった。

 せめてもの抵抗に強張らせた肩へと、ついに男の手が添えられた。

「ミーキちゃん。ちーっす」

 その声があと一拍でも遅れていたら、いかにけたたましい駆け足とは対照的な柔らかな手つきとはいえ、確実に叫んでいたことだろう。

「……ああ! びっくりしたぁー。さっきはどうも……でも、どうしてここに?」

 声の主は、つい今しがた肩を並べて仲良く姿を消したはずの大学生の、取りこぼしともいうべきその中の一人だった。

「実は、密かに君のコトさっきから気になっちゃってて、二人で話してみたかったから他の奴撒いて戻ってきちゃった。家まで送るよ」

 初っ端からいかにも人当たりのよさような、ほどほどに砕けた“今どきの好青年”らしさ全開に接してくる。夜道をひとり歩きする女性に絡む限りなく初対面に近い男性ということでこちらにとっては変質者も同然なのだが、そんな可能性を微塵も考慮する素振りを見せないのは、それほどまでに自分のフェロモンに自信を持っているからなのだろうか。

 あるいは、この程度の浅い水場で手づかみできる魚だとみなされているか。

 そう思うと、無性に腹が立った。

「こんな時間にこんなところまで、非常識です。一人で帰れるので、心配しないでください」

 本当ならこの数倍の熾烈さで以て毒突きたかったのだが、逆上させた相手から身を守る術に乏しいシチュエーションなのが歯がゆかったし、こんな時と場所に構えた卑劣な計略をおくびにも出さない態度が、余計に鼻持ちならなかった。

 加えて、やり過ごさんと脇を素通りすべく踏み出した足が向かう先へと瞬時に立ち塞がり、行く手を阻みながら悪びれもせず歪んだ歯並びをチラつかせられるような、そんな軽い(・・)男だった。

「そんなつれない真似しないでぇ、いーじゃん送りついでの話くらいさぁ~?」

 頭上の電灯が生み出したどす黒い影が、両手を広げて足下からにじり寄る。地上の(・・・)たわむれを高みから見下ろすだけならまだしも、次の展開見たさに効果照明を気取っていたずらに恐怖感を煽ってみせるというのは、暗がりの安全確保という存在意義に背いたあるまじき裏切りだと思った。

「急いで帰りたいので、本当に失礼します!」

 口にし終えてから、自分自身に言い訳をする。思い出したが、本当に今日観たいドラマがあったのだ。だから足早になる理由がある、嘘はついていないと、性根の潔さゆえの要らぬ罪悪感を振り切りながら。

 男の手も振り切れないというのに、何をやっているのだ。

「頼むよぉ~。ここまで来といて一人でトボトボ帰ったら、『何してんのオレ?』状態になっちゃうじゃ~ん?」

「ですから急いでいるんです、失礼します! あなたとそんな親しくなった覚えなんてありませんから!」

 少しばかり自制が外れかけ、言葉が尖り過ぎてしまったかもしれない。だが、この程度の苛烈さくらい言い寄る側が甘受すべき許容範囲だと、このときにはそんな楽観的な思いを抱いていた。

「――待てよ、」

 思わず、苦悶がにじんだ喘ぎ声をただでくれてやるほどに、

「さっきから下手に出てりゃあ調子こいてんじゃねえぞブス」

 捕らわれた手首を、きしんだ骨が左右から動脈を挟み潰さんばかりの力で以て締めつけられるまでは。

「黙って聞いてりゃ人をまるで犯罪者みたいに、わざとらしく身構えやがって。誰がお前みたいな自意識過剰のクズ女なんかに手ェ出すか、誰も相手にしねーよ。一生そうやって襲われる夢見てろバーカ」

 こんな浅はかさを剥き出した開き直った雑言で、こちらがショックを受けるなどと、それこそ夢想の極みではなかろうか?

「――どうやら、利害が一致したみたいですね」

 火事場の馬鹿力か、じっとりと食い込んだ指を力任せに振りほどき、これみよがしにさすってやる。

「私も、あなたなんかに欠片も興味がありません。今度こそ、本当に失礼します」

 今度こそ、残りの帰路を駆け抜ける正当な理由を得た以上、振り向く必要などなかった。

「ちょちょ、ちょっと、マジでゴメン! 調子に乗り過ぎたの俺のほう、ガチでゴメン!」

 なかったのだが、こうもあからさまに態度を軟化されては、いやがうえにもその情けない懇願が耳に残ってしまう。

 立ち止まり、背後を振り返る。男は正直に、同一の距離を保っていた。

「めっちゃ反省してるから、だから冗談抜きで謝罪させて、お願い! このまま何の埋め合わせもせずに帰しちゃったら、俺の評価ガタ落ちのまま取り返しがつかないじゃん。汚名返上させてください、頼みます!」

 頭を初めとする、あらゆる体の箇所を一心不乱に繰り返し垂れ下げる。こんな姿の相手を放置したまま見捨て去るのは、どんな形であれ非情に徹し切れない良心の持ち主にとってはいささか気が引ける。

 本音をいえば、建前だけでも目上の男をヘコヘコさせる優越感が全ての危惧に勝った。

「そこまで言うのなら……」と向きを正すなり、男が飛び上がって喜んだのはいうまでもない。

「じゃあさじゃあさ、そこの公園で自販機おごるから、一本飲み終わる間だけ話させて、ね?」

 言うが早いが、都合良く差しかかった前方の公園めがけて一直線に走り抜ける。途中、同じく手前に位置するこちらの肩とすれ違った際、どさくさにすら不愉快な手つきを一切感じさせることもなく。

 たったそれだけのことで、甲斐性の底をすっかり見透かした気になり、持ち合わせの警戒心すら余すことなく解かされてしまった。こちらの後追いをさも当然のように信じ込みながら公園の奥へと隠れていく姿を尻目にこの場を黙って離れるなどと――ちょうど、遊戯中に仲間と示し合わせて一人を置き去りにする小学生のような、陰険な真似を涼しい顔でこなしてみせるほどには、誰かをそこまで低めた試しはなかった。

 そして、そんな人の良さを少なからず鼻にかけた暗愚な振る舞いに罰を下すがごとく、かつてあまた身に受けたはずの世界の美しさをただの一度で帳消しにしてしまう人生の汚点を存分に刻みつける仕打ちにおあつらえ向きのスポットへと、巧みに誘い込まれたことなど気にも留めずに。

 入口が見渡す位置から折れ曲がった、奥まった箇所の小さな少憩スペース。いかに住宅地の真っ只中で、生垣の茂みをひと越えすれば明かりの点いた民家がこぞって立ち並ぶとはいえ、緑化を謳ったまばらな木立がそれら生活感をほどよく遮断する体のよい壁となり、鬱蒼とした秘め事向きの雰囲気を申し分なく醸し出している。

 その自動販売機の前で、恐らくは典型的な思考ルーチンであろう大学生の男が思案顔になっていた。

「じゃあ俺、いちごミルクで」この一瞬の間は、「……べ、別にいいだろ、子どもっぽくたって!」いわゆるギャップとやらを果敢に狙いにいった結果だろうか。

 黙りこくっているメリットもなく、無難に言葉を紡いでおいた。

「そういえば、御自宅はこの近くなんですか?」

 変につっけんどんだとサキ先輩を通じた友人間の評価に影響を及ぼすかもしれないし、もしくは、“もはや、言葉は不要だった”などとのたまう危険なムードへと傾いているという無理やりな誤解の芽を完膚なきまでに踏み潰すためでもある。

「いいや、街の反対側だけど、どうして?」

 無論、黄色い肉声の大盤振る舞いというサービス精神の賜物でもある。

「ここの自販機って、公園の外側からじゃ分かんないじゃないですか。だからてっきり、この近くに住んでるのかなあって思ったんです」

「ああ、それは何となく、」無表情で、凝視してみる。「じゃなくて、実は俺の超能力……」天真爛漫に、首を小傾げてやる。「……なーんて嘘うそ! 冗談に決まってるっしょ! ほら、ここってサキん家の近くでもあるじゃん? そこで飲み会開いた帰りに通ったことあるんだよねここ」無意味な三段論法にも間髪入れずに乗っかってやるくらいにならば、社交辞令は持ち合わせていた。

「も~ぉ、脅かさないでくださいよーォ。超能力なんてマジ顔で言うから、一瞬本気にしちゃったじゃないですかぁー!」

「ハハハ、ゴメンゴメン! んで、飲み物何にする?」

 考えるどころか口に出すのももはや億劫なので、とっさに思いついた“コ”と“ヒ”の二音だけを間延びした間隔で放り投げた。迷いなくただ一つの銘柄のうち加糖を押され、手渡された缶を片手に、備え付けのベンチへといざなわれるがままに腰掛ける。

「んにしても、まさかコーヒーって意外と大人じゃん? その隣でいちごミルク片手の俺って傍目から見てマジどうなのって感じ?」

 聞き流しながらコールド缶のプルタブに指を引っ掛けたのだが、その際につと、奇妙な感覚が走った。

「やだ、何これ?」

 飲み口は閉じたまま、何の手応えもなしに、指先にじんわりと茶褐色の液体がにじんでいたのだ。

「……うわ、こっちもだ! やられた!」

 横で上機嫌に饒舌だった大学生も血相を変えて立ち上がり、頼んでもいないのに単にこぼした場合に本来あり得る甘そうな薄桃色とは対照的な、こちらと同色の液体が付着した両指の腹をわざわざ目の前に持ってくる。続けておもむろに身をよじると、男である自身の臀部を一生懸命に首をねじって追い回し始めた。

 嫌な予感がするまでもなく、半ば諦めに近い想像は既についていた。つられて腰を上げて確かめると案の定、お互いの着衣には背中から大腿の辺りにかけて、何やら汚物を思わせる色をした粉末状のものが一面にびっしりとこびりついていたのだ。

 その正体はすぐにつかめた。あらかじめこのベンチ全面に、十中八九悪意を持って大量の土が敷かれていたのだ。指を濁した水は、ふとした拍子にベンチから指へと移ったそれが缶の結露に溶かされたものに違いなかった。

 いくら夜とはいえいつもならこんな浅はかないたずらくらい無意識にでも注視するなどしてたやすく事前に察知できるのだが、なまじ無造作に傍らの大学生がどっかと座り込みやたら調子良く手招きするものだから、その手前姑のような神経質な真似は叶わなかったのだ。それでも困った事態に陥ることなどは滅多にないのだが、今回ばかりはツキがなかった。

「あー、マジ腹立つ。ちょっとそこのトイレで落としてくるわ。ミキちゃんも行ったら?」

 こちらの恨みがましそうな視線など目もくれず、元来の性根を映すような悪態をつきながら公衆トイレへのそのそと向かっていく。

 言われずとも、そのつもりだった。手まで汚泥にまみれていては叩いたその分被害は拡大する一方で、ハンカチ等を取り出そうにもそのポケット周りに汚れを巻き込んでしまう。いったん両手を洗い流して水気を拭き取った上で最低限の処理をするより他になく、幸いそう面倒ではない距離にそのための場所はある。しかし、そのためには平素は絶対に訪れることのない切れ切れの夜間灯が覆う羽虫と悪臭の巣窟にも、辛うじてその役割を果たすであろう鏡と洗面台を目的に耐え忍ばざるを得なかった。

 換気窓どころか明かりとり一つない、臭気のこもった手狭な屋内に慎重に足を踏み入れる。念のため全ての個室に目を通して誰も潜んでいないことを確認すると、それらを背中に蛇口をひねって水を流す。

 あいにく、鏡は取り付けられていなかった。小さい頃はあった気もするが、不良か何かが壊したか。いずれにしろこんな管理清掃の行き届いていない不衛生なところに化粧直しに来るはずもなく、あくまで緊急的な催しの最終手段でしかないのだろうから、鏡一枚の欠損が放っておかれても別段おかしくはなかった。

 一連の応急措置の中で、ふと、物思いにふけった。そういえば、ああいうちゃらけた男がくたびれたジーンズにお似合いな泥汚れごときにナーバスになって、自ら率先してトイレに立ったことは少々意外だった。さすがに背もたれ部分にまでダメージが及んでいるとなれば、笑って済ませることもできなかったのだろう。それはこっちだって同じだ。むしろ、女の前で体裁もなく自身の衣類を女々しく気にかける、物を大切にする姿勢に初めての好印象すら抱いた。

 だが、ここから徒歩数分の自宅に走って洗濯機に放り込めばそれで片がつくこちらと違い、家まで結構な距離を今からも歩く羽目になる相手は一体どうするのか。湿り気を帯びた土は織目の隙間にしつこく食らいつき、半端な水洗いではその色をより広範囲に移してしまうだけ。ならばとり得る最善の策は、これ以上水気を与えないように綺麗にそそいで拭き取った手で以て可能な限りはたいてやるより他にないはず。

 ところが、壁を隔てた向こう側ではまるでコックを全開放したかのような、激しい水音がさっきから一向に鳴り止まないのだ。女子トイレまでをも包み込むけたたましさは明らかに通常の用を通り越して継続し、さては万に一つもないことだが、思い切って手洗い用の石鹸一つでシャツの丸洗いでも開始してしまったのではあるまいか。水資源が云々よりもその興味のほうが先だってやまない。『たとえ目下標的のJKに嫌われようが体が風邪を引こうが、俺の積年の相棒たるこの勝負服だけは絶対に救ってみせる!』などと上半身裸で無駄に熱く息巻いてただひたすらにこすり続け、心に浮かぶのは共に合コンという名の戦場に繰り出したかけがえのない充実した日々。したたる汗をはらんだ泡は窮屈な陶器台いっぱいに膨れ上がり、ここまですればいっそのこととついでにパンツすら脱ぎ捨ててまとめ洗いし、満を持して出てきた姿はまさかまさかの衝撃の肉体美。敢えての王道を貫く白のブリーフ一丁で自慢の筋肉を見せびらかし、口では『泥がー』『土がー』と愚痴りながらも内心自然な流れで生の胸板披露に漕ぎつけたことにほくそ笑む。あまつさえ『せっかくだから触ってみる?』などと清純乙女にとって未体験領域となるボディタッチまでそそのかし、些細な好奇心を一度でも毒牙の射程圏へと持ち込まれるが運の尽き。穢れを知らない無垢な肢体を蜘蛛の巣のようにがんじがらめにしてやられ、果てには都合良くこしらえられたそそぎたてのパンツとシャツで目隠し緊縛濡れ濡れプレイという一段も二段も飛び越した上級者の仲間入りを……

「……んふふふ、バカみたい」

 腐った妄想に対しての自嘲としてだが、自分を卑下するという意味で、その独り笑いはまだ早過ぎた。

 自分はまだ、これっぽっちも気が付いていなかった。このような場合真っ先に抱いて然るべき感情――当のいたずらを施した本人に対する怒りや憤りといったものがいまだ微塵たりとも湧き上がっては来ていないということに。嘆きや諦めすらとうに通り越し、もはやとりとめのない日常茶飯事として受け流してしまっているきらいすらある。確かに顔も名前も一切見当がつかず、指弾しようにも対象不在ではとがった気持ちの牙をしまい込んでも致し方なしとは思うが、それにしたって八つ当たり気味にでも恨みつらみの定番レパートリーを延々と吐き連ねたっておかしくはないものを。

 それはきっと、自分が未だかつて真の悪意というものに遭遇したことがないからなのだろう。ミキという少女はまだ、本当の悪というものを知らない。アキという好青年の身に降りかかったいたたまれない不幸も、厳密には自分のものではない。その後の害意同然の哀れみや蔑みも、すべては強調された間接的なものに過ぎない。何かしら試練や障害を乗り越えた顔したさに少しばかり盛った武勇伝こそあれど、大抵の人間にとってはそんな平穏な日々がごく普通の当たり前な人生ではなかろうか。それだからこんな悪質な罠に陥っていながらも、手の込んだしゃれ(・・・)として笑い過ごすだけの寛容性をいけしゃあしゃあと保っていられる。

 だから、思い知ることとなる。どれほど幼稚で軽率な愚行とて金輪際度し難くなるようなこの世の醜悪を、細胞の一つひとつに至るまで容赦なく一身に注ぎ込まれる悪夢のような瞬間が今、現実のものと化す。

――マジでバカじゃねえの。

先に呟いた文句のオウム返しのような震えた忍び笑いがどこからともなく、誰もいないはずが自分以外の声音で以てトイレ中に響き渡った。隠し切れないあざけり混じりのそれがほぼ真後ろでささやかれたと感じるや否や、とっさに身を翻して半身の構えで次の()を迎えられたのは我ながら会心の判断だったと、今にしてなおつくづくそう思う。

 目出し帽をした男の顔のアップが視界の余剰を喰らい尽くしたのと、脇の下から腕を抱え込まれてそのまま後方――今まで潜んでいたらしき、いつの間にか扉が開かれていた用具入れへと引きずり込まれそうになるのとは、ほぼ同時だった。

 叫ぶ暇もなく、厚手の軍手で口を塞がれた。もつれ合った足はたたらを踏むばかりでかかとでの反撃もままならない。いずれにしても軍靴もどきが守る甲相手では自重を既に取られていようがいまいが、狙いが定まったところで窮地を脱する決定打には程遠かった。

 このまま成す術もなくほとばしるがままの汚物や欲を撒き散らすにふさわしい密室へと連れ込まれ、何の断りもなしに純粋だった少女の頃に終わりを告げられてしまうのだろうか。

 嫌だ、そんなのは。

 理不尽に対する反感は強い意志となり、現実に抗う力となる。沸騰する魂に呼応するかのように全身が活力で沸き立ち、渾身の抵抗は相手のおごりきった性差頼みの腕力にほんのわずかなほころびを生み出す。

 その刹那だけで、打開策に手を伸ばす時間は十分だった。

 一瞬の隙を突いてがさつな締め上げを振りほどいた手が、いみじくも水場の横にまで持ち込んでいたそれ――未開封の缶コーヒーを辛うじて引っつかみ、しつこく上腕を取り押さえ直した魔の手が固め損なった肘の曲げ伸ばしの勢い任せに、頃合いよく耳元近くに迫っていた男の顔面めがけて力いっぱいに殴りつけた。

「ぐっ……」太くより合わせた毛糸の皮膚が、その衝撃を押しとどめたであろう、一拍「があぁぁ~っっ!」

 野獣の咆哮を以て発露とした額を貫く激痛。それによろけた際に生じた脱力を見計らい手首に組みついて離さなかった肉欲の具現ともいうべき獰猛な牙のごとき五指から抜け出すことに成功すると、出口に向かって一直線にタイル床を蹴飛ばした。

 頭を抱えながらも男の()を高密度圧縮したかのような塊にしては思いの外の機敏さでなおも喰らいついてくる相手に対し、肩にかけていた鞄で一撃、振り回したそれを逆に受け止められ、引っ張られそうになったところを素早く手放す。

 社会の膿がお似合いの土俵に尻餅をついた無様な格好を尻目にトイレから転げるように飛び出した自分を見て、ひと足先に用を終えていたらしきいちごミルクの大学生が目の前で驚愕の表情を浮かべ、こちらに向き直った。

「た、助けてくださいっ!」

 このとき、自分はなぜ、その背中に匿まってもらうことを選んでしまったのか。

 逃げ切れないと思った? 自分のちっぽけな胴などひと回り大きくすっぽりと包み込んでくれるそれに、自転車の背でアキに寄りかかるような安心感を覚えてしまった?

「ミ、ミキちゃん……っ! お前ら、何者だ!」

 図らずともそんな気持ちになってしまったのだから、すぐには不思議に思わなかった。

 今なお一定のリズムで台を打ち鳴らし続ける、タガが外れた哄笑の大群にすら聞こえ始めた蛇口よりの奔流がくぐもりもせずこの耳をかきむしっているという事実に、眼前に露になった背面部分の付着物がろくすっぽ払われていないという実態に考慮が追いつくまでは。

「野郎に用はねえ! 怪我したくなかったらとっとと消えな!」

「ふざけるな! お前ら、こんなことしていいと思っているのか!」

 陳腐とすら呼べる古典的なやり取りが右から左へと流れる傍ら、思考の中枢は、目の前のナイトが近辺地理に明るい理由づけとして先刻発したばかりのフレーズを反芻していた。

 確か、ハズの幼馴染みだということで、サキ先輩は自宅生ではなかったか。

「彼氏ふぜいが気取りやがって、どうやら痛い目に遭いてぇみたいだなあ……っ!」

 一人住まいの無法地帯ならまだしも、家族の同居する一つ屋根の下で、若さにかまけたどんちゃん騒ぎが果たして許されるものだろうか。

「だいじょうぶダヨみきチャン、きみノことはおれガゼったいにまモってみせるカラ……」

 その考えに囚われた途端、何だか真顔で繰り広げられる全ての応酬がひどくわざとらしく、芝居がかったものに思えてやまず……

「――ミキちゃん、危険だから俺から離れないで」

 前後に振りかけた腕をぞっとするような反応速度でつかまれ、嫌な胸騒ぎが支配する空間へとこの身が留め置かれた。

「でも、下手に歯向かうより一刻も早く遠くに逃れたほうが……っ!」

 つくづく演技派だと、自分でも思う。

「落ち着くんだミキちゃん! 一人で逃げた先に別の見張り仲間でもいたらどうするのさ!」

 とっくに悟っているのに、万が一の無実の可能性を捨てきれず、この後に及んで体面にこだわる。

 何とも思わないのだろうか? 思いもかけない闇討ちに真っ白になった頭、まっさらな状態でのそれはさすがに論理の飛躍が過ぎると、不信感を抱かれることを少しも慮らなかったのだろうか?

 それとも、言及の配役が実際に現れさえすれば、そんな疑問はたちどころに吹き飛ぶだろうと高をくくられていたのか。

「――しまった! 挟み撃ちかっ!」

 言った側からどんぴしゃりのタイミングで、別の男が公園の入口方面から砂利で靴底を削りながら姿を現す。縁を強調する扁平な眼鏡に分かりやすいウィッグを身につけ、悠然とした足どりで寸分違わず立ち位置を確保する挙動は明らかに第三者のそれではない。

「くそぅ、二対一なんて卑怯だぞ!」

 もはや頭数にすら入れられていないということは、大もとの台本(・・)に役者が三人分しか載せられていないことの裏返しでもあって、

「ミキちゃん、怖がらないで、大丈夫だから、絶対守ってみせるから、俺から離れないで……」

 本意でない、専門でない(・・・・・)演出の引き延ばしにもほとほとボキャブラリーが尽きてきたのか、同じ台詞のリピートが目立つようになり、

「……くく、ぷぷぷ……っ」

 ぎゃぁはは! と、限界といおうか、脚本に組み込まれたマネキンもどき(・・・・・・・)のさすがのしらけ具合を感知してか、腹を抱えて手を叩き、三者が一様に吹き出した。

 呆然と立ち尽くすなどという、お粗末なシナリオにわざとらしく付き合ってやる義理はかけらもなかろうに、

「きゃあっ!」

 一刻も早く包囲網を突破すべく脱兎のごとく逃げんとした甲斐も虚しく、背を向けた直後、とっくに勢力を一変させた大学生の男に後ろから肩をわしづかみにされ、そのまま地面に叩きつけるようにしてあえなく仰向けに寝転がされた。

「だから言ったろ? 俺から離れんなって? なーんで逃げようとしてんだよ」

 また、体が土にまみれた。

「おいおい、見張りがこっちまで来てんじゃねーよ」

 暴れる余裕さえなくその手で腕を、更には露骨に目線を地続きに這わせる眼鏡の男に足をそれぞれ押さえられ、四肢を完全に封じられる。

「『遊具点検中につき立ち入り禁止』だってちゃんと紙貼っといたから大丈夫だって。日付や罰則条項まで入れてよりリアルっぽく」

 恥も外聞も忘れて叫び散らすより早く、いずこから取り出したハンカチを口の中に詰め込まれる。苦い、汗の味がした。

「こんな時間に注意書き破って入ってくる奴なんてそれこそ反社会的性向の持ち主だろうし、食べカスの一発(・・)でも恵んでやりゃあ手伝いこそすれ邪魔はしないだろうよ」

 高鳴る鼓動は恐怖から。口腔の潤いは根こそぎ吸い取られ、冷や汗と示し合わせて全身を干上がらせていく。不秩序のエアポケットに落とし込まれた肺が善良な空気の酸欠にもがいて体の檻を内より叩けど、汚物を丸めたフィルターを通した空気の受領を体が拒み、ややもすると、得体の知れないその布織物が蛇のような細身をなし、ずるずると、喉の奥から体の中心部へとよじ登ってきそうな不安に襲われる。

「クロロホルム嗅がせないだけ感謝しろよ? てか、あれって下手に吸わせたら死ぬこともあるんだってな?」

「つーか、それ使わない俺らってめっちゃ優しくね?」

「つーかさ、そろそろカムフラ用の水止めね? いくら物音ごまかすためでも、さっきから汚い女の鳴き声みたいでうざいんだけど」

「んじゃ、用たすついでにちょっくら閉めてくんわ。その間つまみ食い禁止な」

 手中に収めた獲物を即刻むしゃぶりつくでもしげしげと目でなめるでもなく、普段めいた雑談にふけり、ゆったりとした歩調でトイレまでを往復する、そんないつでもどこでもできるようなくだらない掛け合いがしばし、体感でいえば、まるでどこぞの居酒屋にでも腰を落ち着けているかのような気兼ねのなさで以て長々と、いつまでも尾を引いた。

 自分一人が止まった時間を良くも悪くも動かしたがり、お預け(・・・)をくらっているみたいだった。

「ねえねえ、今どんな気持ち?『ちょっとイイかも』なーんて思ってた男に突然押し倒されてさあ?」

「ていうか鼻息めっちゃ荒くね? 興奮してんの分かりやす過ぎるんだけどこのメス豚ビッチ!」

「どーれ、服脱がす前の記念に一枚、パシャっとな」

 異星人みたいだ、と、直に差し向けられた光源に網膜をあぶられながら、つくづく思い入った。

「脱がすついでに、いい加減その覆面外さね? まんま不審者で一緒にいる俺たちまでめっちゃ怪しく見えるんですけど」

 ただし、それが絶対に相容れない価値観の相違という意味ならば、当たらずとも遠からず。

「そうだなあ、」卑しく吊り上がる目と、狡猾に歪む唇だけが覗く。人間性の伝達に何一つ不自由のないそれの首筋部分を持ち上げ、風を送りながら、「これ風通し悪くって、夜だってのに気温高いせいで蒸れて蒸れて参っちゃってさあ」

 熱に昂っているのはお前らの発酵した脳みそだけだろうと、この口が動くなら。

「端から警戒する必要なんてなかったっしょ。どうせクラスのリア充気取ったスイーツなんか、俺らみたいな真面目系はアウトオブ眼中に決まってっし」

 恐らくは最初の邂逅時にドジを踏んだ際の予防線としての、女々しい保険に過ぎなかったそれをなかったことにするかのように豪快に剥ぎ取り、勿体つけたわりには何の変哲もない凡庸な面構えを、せめてもの引き立てかこんなときにも公正無私の夜空をバックに強引に割り込ませる。

 その顔に、全天における星粒ほどの覚えもなかった。

「見ろ! やっぱポカーンとしてやんのっ!」

 だが、九九の七段ほどのあやふやさで以て、知ってはいた。

 三人組と化した(・・・)男たちのはばからない、そうでありつつ、外部に漏れ聞こえない程度には押し殺したえせ笑い。その一角を占める目出し帽を投げ捨てた男は他でもない、同じ学校のいちクラスメイトだった。

 辛うじて可動の自由を保たれた頸部を目線が自身の胸を這うように傾け、伊達眼鏡らしき男のほうを見やる。マンガチックなつけ毛など不要な装飾もろもろを差し引いて推察される面立ちも、しばしばといわず毎日のように視野の一部をなしていた。

「だから言ったとおりじゃ~ん! こういう奴はDQNにしか興味ないんだってえ~っ!」

「むしろ知ってたほうが同類に見られてる気がして滅入るんですけど~!」

 ちなみに、ぽかん(・・・)となどしていない。元より詰め物をされた口をあんぐりと開いたり、愚鈍な瞳を真ん丸に見開いたりも。ましてや、身じろぎを止めるなど。

 彼らがこちらの発声を妨げるのは、ひとえに『騒がれては困る』などとさもありなんな動機ではない。事前に理想をでっち上げた空虚なストーリー構成を瓦解するに十分な、常識的な反論を水の一滴ほども挟まれまいと必死なのだ。

「ねえねえ、俺の顔に見覚えない? こっちは一応そちらさんの顔を連日に渡って無理やりに拝まされてんだけど」

 心ならずも、壁の染みほどの認識は常々あった。個性と履き違えた奇天烈な言動で周りの人間のひんしゅくをもっぱらに買い占め、今朝方も、陰口で済ませればよいものをわざわざ本人を前にしたそしり(・・・)や妬みで以て教室の雰囲気を険悪にせしめた、いわば悪態のプール。

「人の机に平気で尻乗っけたり、くだらない“コイバナぁ”に夢中になって廊下塞いだり、『ヤバイ~』だの『ウ~ケ~ル~』だの『キモーイ』だのと貧相な語彙力を赤っ恥に耳元で連呼したり、人の机や荷物を気持ち悪ィ脂まみれの手でバンバン気兼ねなしに叩いてくれちゃってり……そんな“若さ命っ!”って姿が頭から離れなくてまいっちゃってさあ~」

 彼らにとって悪口雑言は、そこから漏れ出るしぶき程度の重みでしかなく、

「こらっ! 言葉に気をつけろ! そんな言い方じゃ、『ずっと私のこと見てきたのねっ!』な~んて、何でもいいほうに歪曲されて受け取られちまうだろ! こういうときはもっとシンプルに、身の程を分からせてやるのが優しさだろ? なあ、ヤリ○ンビッチさん? 感じてんだろ正直に言えや○便器の分際でえ!」

「ていうかこいつ既に濡れてやんの! 股緩過ぎ! ガバ○ンにも程があんだろ!」

 根本的に社会性が欠如した、クラスの隅で固まることしかできない陰険な根暗集団のはずだった。

「……ま、てなわけで俺らアンタのこと学校で不本意ながら見聞きしてっから、自然と情報入ってくんだよね~。『男に死なれて○ッコン○ッコンしてくれる相手がいなくなったせいで、最近欲求不満で溜まって(・・・・)たまらないわぁ~』な~んて吹聴しながら、ムンムンな態度醸し出して男という男の()の間を練り歩いてるんだってぇ?」

「だったら望みどおり紳士な俺たちがボランティアとしてイカせて(・・・・)あげようってコトで、今夜はこれからたっぷりと悦ばせて差し上げたいと思いま~すっ!」

 今となってはその光景すらひどく懐かしく、かわいいものとして是認したいとさえ思う。

「もうとっくに分かってるとは思うけど、この頼りがいを感じる大学生のあんちゃん、当然俺らの仲間だから。最近知り合って、見事に意気投合しちゃってさー」

 今さらのように紹介に預かった数分前までの好青年が、頭上でくすぐったそうに苦笑する。さすがに他二人とは異なりスラングの展覧会に参加しないだけの分別はわきまえているものの、「おいおい、あんまり巻き込まないでくれよ」と、この期に及んで一線を隔てたふりを押し通そうとするあたり、かえって欲望に忠実な後輩二人組と比べてより卑怯者だと呼ぶに値する。

 手のひらを返された私情など、介さずとも。

「んでもって今回の作戦を先輩に相談して段取りつけてもらったところ、まんまとここまで怖いくらいにひょいひょいのこのことおびき出すことに成功したってわけ! いやあ、持つべきものは顔のいいダチ(・・)ですなぁー、ぐふふぅっ。今ごろ他のお二方も、こちらに負けじと(・・・・)アンアン腰を振って喘いじゃってる最中なんでしょうねぇ? あハァ~っ!」

 怒りで上り詰めていたはずの血の気が、潮のような音を立てて頭からサー、と引いていく。

 その言葉だけは、聞き捨てならなかった。どうか無事でいて欲しいと、願ってすらいなかった。今の今まで親友二人の身の上に一瞬たりとも思いが及ばなかったという苦い現実に心を折られ、自己嫌悪を際限なく駆り立てられた。

「ん? 何々?『私、頭悪いから言ってることが理解できない』? ったく、しょうがねーなぁ……んじゃあ、さっき女子トイレで拾ったこのゴミで分かりやすく再現してやっか」

 そう言って目の前にかざしてみせたのは、いつ回収したのか、先ほどの悶着でトイレにやむを得ず置き去りにした、せざるを得なかった下校以来片時離さず身につけていた鞄。

 分身のような、友人のようなそれと分かり切って遠慮なしに地べたに叩きつけた。

「『イヤぁっ! 熱い液体が私の顔にィっ! アン、やめてっ、やめてえぇっっ!』」

 同じく見覚えのあるコーヒーのコールド缶の中身を、なにがしかのジェスチャーをまじえて真上から高く、泥まみれのその表面にとくとくと降り注いでいく。

 気持ちの悪い、練習の賜物の熱演とともに。

「『お願いっ! 中は、中だけはらめぇ~っ! ……ふええ、そんなにいっぺんに入りきらないよぉぅ……』」

 一本分では飽き足りず、追加で手渡された乳白色に近い桃色がかったそれを、今度はファスナーを小さく開いた中にまで注ぎ込む。ご丁寧に、鞄のほうも激しく揺さぶりつつ。

「『あぁン、これっぽっちじゃ全然足りなァい。もっと、もっと欲しいよぅ……ぁンっっ!』」

 唾液にむくんだ布切れのせいで、唇すら噛めない。

「んで、ヤり終わった後の中古便器はお似合いの場所にシューッ!」

 最後は見る影もなくたらふく飲料を吸ったそれを「見るだけで吐き気がすんだよ、牛乳クセぇ」と、見せしめのように男子トイレに放り込んで居直った。

「一応三人のうち誰がどいつを担当するかは希望を出し合って決めたんだけど、やっぱそんとき一番人気があったのは、唯一処女の可能性が期待できた『ハズ』っていう大人しい奴だったな。でも、俺はそいつらみたいにカラダ(・・・)目当てなんかじゃなく、ちょっと調子に乗り過ぎた生意気女を懲らしめてやろう、ていう高尚な目的の主だから、敢えてアンタをチョイスしたってわけぇ! どのみち、明日になったらみんな中古に変わりねぇしぃっ! イーッヒッヒッ!」

 憤怒よりも絶望よりも、嘆きと後悔がこの身を打ちのめした。どれほど無駄だと知りつつも、無力だと悟っていても、無意味なその抵抗の惨めさこそが男たちにとって最上の御褒美になると散々身を以て味わわされてきたということを知っていながらもなお、力の限りもがき、叫び、言葉にならない悲鳴を上げ続ける。

「え? 何々?『私が一番上手くヤレる(・・・)』だって? そんな体を張ったアピールしちゃって、負けず嫌いだなあミキちゃんはぁ。心配しなくても、後でたっぷり動画で見比べて順位決定戦をとり行うからそのときをお楽しみに。何なら、ライバルのプレイを今後の参考とするためにも一緒に見るかい? そういえば、君たちの尊敬する大好きなサキ先輩とやらも上映会を楽しみにしてたっけな」

 サキ先輩。唐突に挟まれたその名前にとっさに自分たち同様の乱された窮状を連想してしまうのは、礼を逸した愚考とはいえ今このときでは詮無いこと。

 だが、すぐにそれは杞憂となった。

 思考の片隅にぽぅっと浮かんだ一点の光明。刹那、その灯し火は眩い炎へと変化し、妄想の中で苦悶に顔を歪める先輩の姿を、現実のどこにも存在しない偽物の女の肌を、灰の一片も残さず焼き払っていく。

――サキも、お楽しみにしてたっけ。

 このセンテンス内における、そのワードの不自然な置き所(・・・)に違和感を禁じ得ないほどには、頭も夜風も冷え切っていた。

「あれ? コイツ分かってなくね? もっと分かりやすく教えてやれよ」

 今度こそ、本当に、ぽかん(・・・)とした。

「アンタらの間で女としての人生の先輩ぶってるサキってあばずれ、そいつがアンタらを売った(・・・)んだぜ? ほら、アンタも見たろ? ひと足先に一緒に帰ったっていう、グループの中でも特に背の高いイケメン。サキって女、そいつにぞっこんでさ、ちょっと頼めば金だろうがAVだろうが、別の(・・)体だろうが犬みたいに息切らして調達してくるんだぜ。男からしたらよくてセ○レ程度にしか思ってないのに、恋人どころか若女房気取りで!」

 決して、長い付き合いではなかった。それでも、すっかり気心の知れたハズを介した精神的な束帯は、物理的に過ぎ去った何倍もの時間にも引けをとらないとする自負心はあった。

 今となっては、そんな急ごしらえで着飾っただけの貧相な絆は、これら男の妄言を胸を張って斬り捨てるにはあまりに脆過ぎた。

「マジちょろいぐらいに何でも言うこと聞いてさ、そいつがふざけ半分で『俺の友達と寝てくれたら、デートしてもいいよ』なんて言うだけで、あっさり抱かせてくれるんだぜ? カラオケにいた四人全員があいつの体なんてとっくに飽きるほど味わっちゃってさ、そのくせそうやって誰とでも寝るくせに肝心の本番は死ぬほど下手くそで、だったらせめて今後とも御贔屓にしてヤる(・・)その分の頻度に見合った高等テクの一つや二つ編み出してもらわなきゃ困るってことで、時代の最先端を行く若い後輩たちに体を張った(・・・・・)御教授を賜りたいと今回の企画が持ち上がったってワケ。あ、ちなみにサキ本人からは自分が関わってるってコトあんたら三人には内密にして欲しいってお願いされたんだけど、あいにく俺らそういう曲がった卑怯なマネ許せなくてさ。今ごろ一番仲のよかったハズちゃんの立派に成長した姿を間近で感慨深く見守らされているだろうよ! ハハ……ッ!」

 もはや、言葉を紡ぐ気力さえなかった。信じていた世界を根底から覆す、聞くに堪えない暴露の荒波を同等のうなり声で以て相殺し耳に及ばなかったとするには、あまりにも体の隅々まで染み渡り過ぎた。

 砂の城が、濁流に跡形もなく飲み込まれていく。

 更地と化した心の中で、ただ一つ残された偽らざる感情。諦めを覚えた弱々しいその呟きは、今に至るまでいかな激しさを帯びた熾烈な言い分とて押し破ることの叶わなかった、ボロボロになった繊維(・・)と自らの粘涎(ねんぜん)とが編み上げた言霊の監獄、アリ一匹すら絡めとるクモの巣じみたその間隙をすり抜けるほどに外殻を脱ぎ捨てた矮小な訴えを以て、外気を震わすようやっとの意思の発露を為し得た。

 ただ一言、悔しい、と。

「『くやしいっ! でも感じちゃうっ! ビクンビクンッ!』あは、あはは……っ!」

 いつだって見下していた。いわゆる“美少女モノ”に貴重な青春の一ページを費やし、紛い物の充実感で自身が孤独であるという実態にも目をつむって毎日を無為に寝起きするだけの哀れで愚かな人種だと、目に入る度にこみ上げる優越感が肺腑を満たした。

 そんな奴らがこれほどの思い切った悪行を共に犯すことのできる仲間を持ち、現実にタテヨコの人間関係を築き上げているという事実が、最高に憎らしかった。

「ホント女って本能任せの救いようのない家畜だよな。俺もこの前そのサキって奴にしつこく誘われて仕方なく相手してやったけど、完全にマ○ロ(・・・)でマジヤり(・・)応えなくてさ、『エロゲでもやって出直してこい!』って言って追い返してやったときのその顔といったら思い出すだけでも笑えて……」

 そんな矜持を未練がましくも保ち続けていたものだから、場違いにも、目ざとく気付いてしまった。

 目が、上を向いていた。拠りどころとなる浮き島一つ持たず、手探りで当てずっぽうに泳いでいた。

 嘘だと、直感した。それも屈服させるための最後のひと押しというわけでもない、どさくさに紛れて見栄を張っただけの意味のない方便。よしんばサキ先輩がこれまでの前言どおりそれなりの面つきと体躯を備えた大学生四人の共通の回し(・・)者だったとしても、顔一つ性癖一つどれだけ細分化してとってもただの一つも及第点にすら満たないような、前者とは確固たる線引きの為されたもはや薄っぺらな液晶越しにしか自身を顧みることをしなくなった世の暗部ともいうべき高校生連中なんかに恵んでやる体の部分など、同じ女として呼気のはしくれほども持て余しているはずがなかった。

 そんな身の程知らずだからこそ臆面もなく口から垂れ流せる、正真正銘の妄想。

 だから、笑ってやった。精一杯の皮肉を込めて、相対する顔ぶれの嫌らしさにも負けじと尊大に口角を吊り上げて。あまつさえ鏡のように、恐らくはかつて自身にこそ発せられたであろう先の(・・)丁重な断り文句をそっくりそのままはね返すみたいにして。

「……ちっ」

 男たちの顔が、分かりやすく図星と告げた。

「なあなあ、もうコイツ、ラスト放置決定な。もち制服は細切れにしてトイレ行きってことで」

 その土壇場の負け惜しみだけで、一番の勝負どころだけには勝った気がした。

「異議なーし」

「右に同―じ」

「んじゃあ、とっとと俺が先陣を切らせていただきまーす」

 ようやく前座の高談も終幕を迎え、しびれを切らしたそのイソギンチャクのような淫猥な手つきが、えぐるような角度で胸元に差し込まれる。

 着実に前留めの一つずつを丹念に外していけばよいものを、拙いプライドの誇示ゆえか、ひと息に引きちぎってしまわんと躍起になっている。腕力が足りずに破り損ねるなどという無様な真似だけはすまいと慎重になるあまり、的確な力の入れ具合を決めかねて同じ箇所を何度もつかみ直すという滑稽な姿をさらしている時点で、度量の小さい思い切りのなさは存分に露見され尽くしていた。

 そんな風に、胸ぐらを裂くことばかりに意識を割いていたから、その鉄拳を避けることはできなかった。

 全てがスローモーションに見えたとは、あまりに白々しい。一瞬、何が起こったか分からなかったというには、舞台装置として目隠しが不足していた。

 この眼は目の前の出来事を、その一部始終を現実の速度でしかと見ていた。

 体に覆い被さっていた男が、後方へと大きく弾き飛ばされる。立ち入り禁止って書いてあったろオッサン、とか何とか、そんな声を残しながらこの体を遠ざかっていく。

 ばったばったとなぎ倒していったと、そんなスマートなものではなかった。唐突な第三者に目を丸くした大学生の隙を突いて両肩の拘束をこちらが自力で振りほどいた直後、通告もなく、目で何か言う暇さえ与えずに重い一撃を喰らわせ、沈める。正義の鉄槌といえばよく聞こえるが、その実、力任せの殴りかかりに過ぎない。続けて、下半身の足かせ担当を先の覆面オタクに交代して何やら撮影用の機器を取り出していた眼鏡のオタクを、思いがけない展開に手中の機具を扱いあぐねて身動きがとれないのをいいことに問答無用で成敗、カメラもろとも意識をシャットダウンさせる。電光石火と呼べば聞こえはよいが、実際は、名乗り一つ介さない不意打ちでしかない。出し抜けの乱入者はその間ずっと息を切らして肩を怒らせ、じっとりと汗ばんだよれよれのシャツが張りつく幅広の背中といい無頓着にざんばらん(・・・・・)な短髪といい、その削りたての岩石のような無骨な見てくれはお世辞にも満を持して颯爽と駆けつけたナイトとは似ても似つかなかった。

 だが、今となってはそんな地に足のついた泥臭さが、“流れるように”とかいう手を抜いたいい加減なちょっかいよりもよっぽど頼もしく、守られた(・・・・)のだという実感がちょうど汚泥をこした真水のように心の最下層へとじんわりとしたたってくる。

 ツトムだった。

「ミキちゃん、怪我は!」

 焦燥の色は十分に、それと同時に界隈への漏聞も考慮に入れて小さくとどめた、優しい声音だった。

 大丈夫です、と、そのひと言が出てこなかった。

 何も気丈に振る舞おうとしたとか、そういう気は毛頭ないのだ。実際何もされていないわけだし、たかがこんな奴らから受けたショックのせいでろくに舌も回らなくなるなどと、そこまで軟弱でいるつもりは、そうと見せる(・・・・・・)算段などは一切持ち合わせていない。

 それなのに、足が地面をつかんでくれない。体を一列につなぎ留める芯が丸ごと引っこ抜かれてしまったように、手足の力も向きもバラバラで、未だかつて受けたことのない暴力に遭遇した免疫のない体を心が制御できない。本当に、心のほうは大丈夫なのだ。この世で一番の苦難を既に経て練磨された精神が、いついかなるときもアキによって守られた何事にも屈しない強固な魂が、この程度の浅ましい恥辱に揺さぶられることなど起こり得るはずがない。そう信じてきた、今までは。

 そんな強がりは、現実の胸に抱き寄せられた途端にかき消えてしまうほどの幻想でしかなかった。

「ミキちゃん、大丈夫。君は何も悪くない。だから……」

『泣かないで』とは、その口から出てこなかった。有り余る悔しさの発露すら咎める趣旨になる考えなしの慰めなんかいらなかったし、そうでなくても、自分の意思とは無関係に嗚咽がやまないのだ。力強く抱き込まれて震えの治まった肩の代わりに、逃げ場を失った心の動揺が臓器を食い破る寄生虫のように体の内で暴れ回っている。

 だからといって、離して欲しくはなかった。外面のわななきをさらしながら突き放すなどという、恩義を受けた相手にあるまじき非礼な振る舞いの外観を呈する不手際は何としても避けるべきだし、何よりも、もう少しこのまま、信頼できる誰かの手に捕まっていたかった。

 だが、反面、恐ろしくもあった。生身の人間の温もりがこの身を包み、肺腑を満たす実感と引き換えに、大事なものが少しずつ抜け落ちていく。アキの温かさを、笑顔を、握った手を、その感触を忘れかけている。そんな実感が胸を襲ったときには既に遅く、この身は背中に回されたたくましい腕に、心は己の愚かさがもたらした畏怖や罪悪感とによって、完全に捕縛されていた。

 あとほんの数秒、今の体勢のまま安らぎに溺れていたら、もう二度と戻れなくなる。そうなる寸前にこの身を引き剥がされたことは、果たして幸か不幸か。

「な……っ! 君たち、待ちなさい!」

 店頭に飾られた見本のぬいぐるみのように――決して自分のものではないそれを傷めることなく元の位置に置きとどめんとそっと肩に手を添えたあと、気が付けば声もなく立ち上がり公園の出口へと脇目も振らずに逃げ出していく三人組の背中目がけて猛ダッシュをかける。

 門を出たところで左右二手に分かれた三人組のうち、よもや頭数の少ないほうを捕捉されるとは思いもよらなかったのだろう。切羽詰まったあまり振り回すはずがすっぽ抜けたか、あるいは元よりそのつもりだったか。いずれにせよ、時間稼ぎの牽制としての役目を立派に果たし終えた投てき物のことなどお構いなしに、一目散に走り去ってしまった。

 そんな状況を一部始終すくんだ足で眺めているこちらをさすがに一人で放っておけなかったか、反対側に逃げた二人が途中に潜み直すことなく視界の端まで消えていったことを確認すると、結果的に首ひもの輪っかが空になったデジタルカメラを引っ提げてこちらのもとへと早足で戻ってきた。

「……メモリーカードもそのままなんて、よほど反撃への耐性がなかったとみえる。武器の準備もなかったし、出すところに出せば復元されることも分かり切ったこれを躊躇なく置いてこられたのも、余罪なんてないど素人の証拠だろう。必要以上に怖がる相手じゃない。安心して、もう大丈夫だから」

 今度は、抱きしめられなかった。画像ではなく記録媒体そのものの確認にとどめたことも合わさり、どさくさに紛れてたとえ恥辱の残滓のひとかけらであろうとも手を出すまいとするツトムの人徳が存分にうかがえる。

 しかし、それを思い入ると同時にふと、妙な違和感が開放しかけた胸の戸を押し戻すようにして遠慮がちにコンコンと小突き始めたのだ。

「さ、証拠をいつ取り返しに来ないとも限らないし、とりあえずこの場を離れよう。ひとまず家に帰って身の安全を確保してから、通報するか否かも含めて今後のことを落ち着いて考えるといい。……家まで、送るよ」

 そう言って背中を促された途端、すぐにその正体が情報の相違であることに合点がいった。

ツトムは知らない。臆病な罵倒が長引いて肝心の肌への暴行は未遂で終わったことを。その先を想起する物証でこそあれ、実際には何ひとつ露出のない、わざわざヒステリックに目を覆わせることも要しない絵しかその濁ったファインダーに捉えられていないということを。もっとも、この場の誰一人としてはだけてはいなかったのだから、さすがに最悪の事態を想定してはいないだろうが。

 ツトムは知らない。彼らが同じ学校に通う、あろうことかクラスメイトであることを。その犯行が突発的で手当たり次第ではなく、ずさんではあれ大学生の知り合いと通謀した計画的なものであるということを。サキ先輩が住所を提供したであろう自宅周辺に逃げたとみせて待ち伏せしているかもしれず、両親に外の巡回をやぶからぼうに電話で頼むなど以ての外で、決して家路を急ぐことが現段階での最適解では限らないということも。

 そして何よりも、ツトムはマコとハズを知らない。背筋をつららの先でなぞられたような、身動きするのもおぞましい悪寒が全身を駆け巡った。

 もしも、もしももしも、万が一にもあいつらの放った言が一言一句あますことなく真実だとしたら。マコとハズも同じように露ほどにも因果を見出せない不条理な夜襲に遭遇し、それでいて土壇場で救われた自分とは違い最後の最後まで連れて行かれて(・・・・・・・)しまったとしたら。

 そして、そんな可能性を微塵たりとも考慮するどころかあまつさえ過ぎ去った脅威の反動に昂々とし、通報の糧を戦果に窮地に推参した殿方と手を取り合っての凱旋など、世の飢えに飢えた後ろ指の群れにとってどれほどの極上品であろうか。

 同時刻、この夜のとばりで同じような妄執に取り憑かれたレンズの中には、目の前のそれとは比べ物にならない彼女たちの醜聞の種が今もなお取り込まれ、植え付けられ、刻み付けられているかもしれないというのに。全く性質が違うにも拘わらず芋づる式に掘り出したそれらが風に乗って撒き散らされる様を、全く以て想像だにしなかったというのだろうか。

 元より泥まみれだった膝が、地面の砂礫と引き合うようにして崩れ落ちた。

「ミキちゃん? ミキちゃん! しっかり!」

「私、私……っ!」と、頭を抱えて喉を震わせる。今更になって恐怖が蘇っただとか、ほんの一瞬として忘却した友人二人に対する懺悔だとか、そんな高尚な感情ではない。檄を飛ばそうにも傷つけないよう慎重に言葉を選び、おぼつかなくも励まし続けているツトムには悪いが。

 自分はただ、被害者に戻りたかった。突き詰めれば、他の二人と同じままに、仲間外れになりたくなかった。その考えこそが友人への何よりの冒涜だとは、気付くことのないままに……。

「歩こうミキちゃん! 家に帰れば少しは気も落ち着くよ!」

「か、か……」半ば強引に腕を引っ張り始めたツトムに対し、『帰りたくない』とは、ときに別の意味を惹起するあまりに我の張った言動に思えた。

「……カバンが、逃げたときの……まだ、男子トイレの中に……」

 言うが早いが、ツトムは何の逡巡もなく自身の性別を模した黒い象形を掲げた入口へとその身をくぐらせ、すぐさま御所望の品をたずさえてその空間を抜け出してきた。

 持ち主の照合に小刻みのうなずきで容認した際、心なしか、ツトムの目に映る腫れ物がより一層肥大化してみえた。

「本当に申し訳ない、ミキちゃん。こんなことにも気付かずに、無責任に帰ろうだなんて……」

 狼狽は俄然色濃さを増し、伏しがちになった表情は突発的な気まずさを如実に醸し出す。

 飛散したコーヒー、それにいちごミルクをもまだらに絡めた鞄の放つほろ苦い異常性が、意識して思考の蚊帳の外へと追いやっていたであろうツトムの懐疑を呼び覚ましたのかもしれなかった。どれほど気を回したところで結局は遅れてやって来た第三者でしかない自分がこれまで知覚しなかった舞台の存在を、安寧の崩壊を匂わせる明確な物証とともに新たに仄めかされたのだ。

「鞄も制服もこんな有様で、家族に顔を合わせづらいなんて当たり前なのに……」

 持ち主は所持品以上に汚されていることはないだろうと、そうでなくとも女性の心というのは対外的にも対内的にも一触即発の火薬庫も同然であるというのに、どうして断定できようか。

 ここへきて顔を出したツトムにとっての思いもかけない空白が、否定できないあらゆる可能性が、予期せずしてこれ以降の『無責任な』励ましを阻む絶対的な盾となったのだ。

「それに、奴らがこっそり後をつけて君の家を突き止めてこないとも限らないし……そのことも恐れてたんだよね?」

 言葉は何ひとつ発さず、肯定とも否定ともつかない角度でかぶりを振り続ける。

「なら、ひとまず僕の部屋に隠れよう。僕の居所なら、いくら知られても問題ない。よかったら鞄と……制服も何とかするから、君は落ち着くまでそこにいるといい」

 非自発的な欲求を、自発的な勧誘にすげ替えるのは女の得意技だ。

 おもむろに、よろめきながら立ち上がり、支え手を肩と背中に誘った。力なくうなだれたまま自重すべてを他人の支点に預け、面を上げることすらせず何から何まで人任せに震える足だけを前方に一歩ずつ踏みしめた。

 言いたいこともそうでないことも、全部相手に代弁させた。何ひとつ主張せず、自ら招き寄せることもしない嵐の中で牽引されるだけの小舟に、そのたどった航路が軽率だったと咎められる筋合いなどどこにもない。だから、望んだ裏切りではないのだと、誰にともない言い訳を心の中で繰り返しながら、夜の町並みを飾るありふれた男と女の影をその身に少しずつ振りまいていった。


 寝入り始めた頃合いの住宅街に幸い通行人は散見する程度で、暗がりも手伝ってか一見すればそのただならぬ雰囲気を容易に知れるこちらに関心を向ける者は皆無だった。あるいは、そもそもこうした条件下がこの度の蛮行の後押しをしたと考えると、気取られないことにほっとする反面、無性に腹立たしさが沸々とこみ上げても来る。

 やがて簡素な外見のアパートの前で立ち止まり、トタンの外付け階段をパコパコと乾いた足音を立てながらおずおずと上がっていく。長年の野ざらしで本来の乳白色が尿がかったじゃばら状の目隠しも、平素こそ黄ばんでいるとしか思わないものを、今このときに限ってはその優しい暖色の色味に不思議と心の安らぎすら覚えている。

 それとも、いわゆる“同類哀れむ”という奴か。透き通った体に戻ることのない薄汚れた者同士の親近感ゆえだろうか。同族のよしみで森の中に匿ってもらった木の葉の抱く感情は感謝や信頼などではなく、ひとえにそれら盾や身代わりの堅牢性の程度に他ならない。

 どこまでもひと続きで迫ってくる、今日という苦悩が染み込んだ夜空からの逃避こそが何よりの安堵だったのだと気付いたのは、二階隅の部屋の中へとこの手を引き込まれ、玄関のドアが夜風を追いやるようにして固く閉ざされた後だった。

 施錠が済むや否や、ツトムは態度を豹変させて獣の息遣いさながらに勢いよく覆い被さってきた……なんて原始的な妄想は、オタクどもの専売特許だ。

 何より第一に鞄や制服の洗浄が先決だということで、ツトムの申し出に甘え、鞄の中身や下着を除いた布地一式を丸洗いしてもらっている間にシャワーをいただいた。手早く砂ぼこりを洗い流しただけで貸してもらった着古しのスウェット上下を着込み、濡れたままの髪を畳敷きの六畳間に見せびらかしたのはちょうどツトムが季節外れのストーブをどこからか引っ張り出し、目の前でマッチを点けて着火している最中だった。

「コンビニの鍋焼きうどんも作れるし、冬どきには重宝するよ」などと旧式であることを気にするようにはにかんだ後、「なるべく早く乾かすけど、乾くまでとはいわず、落ち着くまではいくらでも居ていいから気にしないで」と。『明日も学校だろう』とは、この状況がとても許したものではない。積極的に引き止める発言は忌むべきものとされ、かといって満身創痍のまま突き放すわけにもいかない今の自分は、ツトムにとって厄介なお荷物以外の何物でもなかった。

 火の安定したストーブの真上に洗い物を吊り下げてから、ツトムがやおら言い出した。

「気の利いた物が出せなくてごめん。何しろ男の一人暮らしはろくな物がなくて……ちょっとそこまで何か買ってくるよ」

 返事すら待たずにスニーカーをつっかけ始めたツトムに対し、図々しく飲み食いをして居座るつもりはないからと断りを入れたところ、ツトムはその意を解しかねたように、

「いや、僕に気を遣うことはないよミキちゃん。僕の目が気になってゆっくりできないなら、今晩は友達の家にでも泊めてもらうから遠慮しないで。鍵を置いていくから、好きなときに帰ってよ。鍵は閉めたら郵便受けに投函してくれればいいから。もちろん、一晩中休んでたってこっちは全然構わないよ。でも、いずれにしたってとりあえずは何か必要なものをすぐそこで見繕ってくるから……」

 ドアノブに手をかけたまま、一度決めた既定路線は意地でも覆すまいと靴を脱ぐ素振りすらなく、心もち逸らし気味の目を口数で補わんとやたら饒舌にてこでも(・・・・)玄関から引き返そうとしない。

 図らずも未成年を部屋に連れ込む格好となってしまった手前、やましい思いなどついぞ抱かなかったというアリバイが欲しいのだろう。

 しかし、それは同時にこちらの節操に対する不信の裏返しにも感ぜられた。

「……そんなに、私が近くにいるのが嫌なんですか?」

 男の無自覚な男尊女卑は、女の毒を培養する。

「私が犯されたから、シャワーでもごまかせない汚い体になったから……自業自得だって、こんな女を一秒たりとも隣に置くなんてそれだけで耐えられないって……」

 今日の今日で、傷心の少女の琴線を無神経に引っ掛けたのだ。だから、たとえその意図が善意だろうと、実際に触れたプライドが真逆の勝ち気なベクトルであろうと、ほとばしる感情の牙を黙ってその身に突き立てられることを甘受するべきなのだ。

「今は一人きりが一番の不安なんだって、分かってよ! 連れ込んだくせに!」

 それが余裕ある大人の男性として、笑ってすべてを包み込んでくれることこそが、何よりも期待されて然るべき態度なのだから。

「そ、そんなつもりはなかったんだミキちゃん。僕はただ、君を安心させるために……」

 予想に反し、ツトムの弁解は情けなさを呈していた。踵を返しこそしてくれたものの、その主張には力強さも明朗性もにじんでおらず、震える背中を優しくさするべき両手も宙ぶらりんに慌てふためいている。

「……どうせ、私を見捨てなかったことだって後悔してる。そうに決まってる」

「そんなことはない! 確かに、配慮が至らなかったことは僕の……」

「社会的な、善人ぶった名誉をなくしたくなかったから仕方なく拾うしか……」

――気のせいか、言いようのない寒気が背筋を通り抜けた。

 煌々と輝いていたストーブの火が、心なし勢いを潜める。まるで、周囲の酸素が根こそぎ別の一点に吸い上げれられていくかのように……

「罪悪感からに、決まってるじゃないかっ!」

 刹那、爆発した。眠っていた窓ガラスがピリピリと飛び上がり、逆流した空気を取り戻した炎が声高に笑い返す。

 ただし、未だこちら側には十分な酸素が行き届いていないのか、何ひとつ言葉を発することができない。

「僕なんかが、ミキちゃんの顔を平気で見られるわけがないじゃないか……」

 歳相応に熟練し、何でもこなれた大人を演じる――そんな男の見栄が堰を切って流れ出切ってしまうようにこうべを垂れ、額を畳の上にこすりつける。

 正直な感想は、幻滅だった。

「僕は君の隣にいたかけがえのない友人を、よりにもよって目の前で、この手で……この手でっ!」

 それだから、その『友人』とやらの表現がツトムの誠実さの生んだ持って回った婉曲なのだと気付いたのも、あろうことか数秒後。

 本当に心を殺されるとは、こういうことをいうのだ。

 縮こまった背中を見下ろして一度なりとも粋がった心が、どうして死んだものだろうか。

「今でも忘れない……忘れられるもんか、あんな感覚。“不可抗力で悪くない”。そう思えたからこそ茫然自失にもならずに警察に電話できたし、状況を察して逃げ出した少年を追いかけることもできた……」

 泥をかけていたのは、自分のほうだった。

 自身の被ったそれなど、外面を飾る泥パックの仕損じ程度の重みしか持ち合わせていなかったというのに。

「ツ、ツトムさんに責任なんてこれっぽっちも……その証拠に、現に警察だって身柄を自由に……」

 後悔に締め上げられた喉がようやく絞り出した容赦の言の葉も、辛うじて築いていたであろう常態の垣根をついに乗り越えた懺悔の高波によって尽く打ち消される。

「そう思いたくて、ずっと耐えてきた。償いたくて、君を連れてきた。……なのに結局、また傷つけた……」

――人を死に至らしめるという現実を、どこか軽くみていたのかもしれない。

 自分さえ乗り越えれば、それで相手も許されるのだと。寛容な被害者の温情は、それだけで罪なき加害者を救うのだと。

 そうではなかった。思い上がりも甚だしかった。自分の存在そのものが、この世で最も研ぎ澄まされた凶器だった。

 もしこれほどまでに特殊な条件が揃わなかったならば、分別のつく社会人として事故直後でさえも冷静な思考を失わなかったツトムがここまで取り乱すこともなかったに違いない。

 ところが、かつて己の行いで絶望の淵に立たせてしまった少女がまたしても、宿命のように、呪いのように、その身に深々と毒牙を突き刺した体で再び宵闇の底より這い出したのだ。しかも、今度ばかりはとっかかりの共感さえも埋められない性差ゆえに認められず、傷口を測ることも満足にままならない。

 それでも手探りに、優しく、えぐり過ぎないように、精一杯の手心を以て、懇切丁寧にもてなしていた。

 なのに、また傷つけた。

 遠ざけていると、思わせてしまった。自らを虐げ、当たり散らすほどに追い詰めてしまった。それも、さしたる手落としもなく持ちうる最大限のいたわりを施した上で、九死に一生の恩人扱いこそされど、まかり間違っても図々しく“反省”を押しつけにきた偽善者になど映りようのない立場であったとしてもなお。

 これが、壊れずにいられようか。

 命以外の何を差し出しても、少女のひび割れた心の傷を埋め合わせることができない。実際今しがた彼が目にした亀裂などは、うわべだけのすじ彫りに当てつけがましく墨を塗り込んだものに過ぎないというのに。

 些細な嘘が、ほんのいたずら心が引き起こした場の顛末を、どうすれば巻き戻せる? 素直に白状したところで、待っているのは身はおろか心の生き死にさえも弄んだことへのそしりのみ。それが『小悪魔的』なジョークだとか、一周回って『自傷の言葉を刃物みたいに振り回さなければやってられないほどに深い傷を負ってしまった』などという都合のよい解釈が通じる段階ではとうにないことぐらい、こんな自分でも分かる。

 一体どうすれば、何事もなかった風に繕えるというのか。

 そんなことは不可能だと、すぐにこの胸がささやいた。一度汚れてしまったカンバスは、もう二度とその生来の地肌を取り戻すことは叶わない。

 だが、新たに真っ白に塗り潰すことはできる。

「……私、決めました。今夜は、ずっとここにいます」

 あるひとつの妙案が、くっきりとその形を浮かび上がらせた。

「朝まで帰りません。だから……その間、優しく慰めて下さい」

 諸々の感情をしっちゃかめっちゃかに混ぜ込んで醜く膨れ上がった鈍色の絵筆が、その考えを覆い隠してしまう前に。

「私を、抱いて下さい」

 ツトムの顔が、注射で打たれたようにはっと起き上がる。

 逃げ道を残した物言いで、逃げられないように、前に倒した上半身を弓なりにしならせ、その無骨な面つきに不釣り合いな目尻の涙を絡めとるような距離へと、膝を擦ってにじり寄った。

「お願いします。私、ここにいる理由が欲しいんです!」

 もっと自分を大切にしろだの、そんな月並みな戒めが振動伝いに髪を揺らす。それほど強い口調でないのは、ツトム本人も大分参っていて、どう教え諭すのが正解なのか判断する気力もないのだろう。

「私、たくさんの男たちにいいようにされました。心も体も土足で踏み荒らされて……一回トイレの中で捕まって、命からがら逃げ出したけどまたすぐに取り押さえられて……ツトムさんに助けてもらってからも、体の内側を気持ち悪い虫みたいなのが這いずり回ってまさぐられているような感覚が抜けないんです。このまま明日の朝を迎えたら、この先誰かに指一本触れられるだけでそのときの光景がありありとちらついて、体の感触がまざまざと蘇って、もう二度と他の人を愛せなくなりそうで怖いんです。だから、更新させてください。暴漢に心しないまま骨の髄までむさぼられたんじゃなくて、本当に心優しい尊敬できる人と望んでひとつに繋がれた日なんだって、身も心も上書きして今日という一日を楽しい思い出で終わらせてください」

 切実に、悲痛に、胸打つように。丈に合わない大言だと自覚した両肩が恐怖と不安で打ち震えるのを、あやすように、ツトムの大きな手のひらがそっと包み込む。

 そのまま両腕を背中に回し、浅く抱え込むようにしながら額に口づけられた。

「違うんです……っ! そこ、は……ん」

 涙がほんの一筋、鼻梁伝いに目頭をこぼれ落ちる。それを追いすがり、なぞるように下降する唇が這った先で同じものと引き寄せ合い、反駁の形を成すより前に強引にフタをした。

 それからの私は、まるでアメ玉のようだった。包み紙を綺麗に剥がされ、口の中に含まれ、舌の上で散々に転がされた。涙ぐんだ少女のほんのりと紅差したやわ肌を眼下に組み敷いて、紳士然ができる男なんてこの世にいない。初めからこうなることを見越したかのように用意されたえせ物の暖炉が暗闇で昂る肢体を鮮明に照らし出し、できれば見逃してもらいたかったほんのわずかな悦びさえも一指の動きひとつに至るまで克明にあぶり出した。炎のゆらめきが、各々が秘めた複雑な胸中やら潤んだ瞳だけが告げる本心とかいう、そういった建前を一切排除した無機質なシルエットのみを壁や天井に向けてこれみよがしと抜き出し、要は獣の喰らい合いだとあざけらんばかりに、より獰猛に互いを噛みちぎり、次第に面積をなくしていく二人の影かたちを延々と見せつけた。

 石油の臭いが主張する煤まみれたストーブ、湿っぽいせんべい布団に黄ばんで薄汚れた背の低い天井。

 かつて夢みたロマンチックな雰囲気とは程遠い古びたアパートの一角で、私はあっけなく大人になった。

 ツトムのほうはストーブの熱気に当てられたのか、これまでの謙虚で朴訥な人柄など全く感じさせない激しさで以てして、真っ赤に火照らせた顔で一心不乱に全身をくまなくねぶり続けている。

 かくいう自分はというと、熱やよだれがいくらこの身を浸したところで、心の奥底で冷え切って固まった理性が溶けてなくなることはなかった。体そのものが不慣れな刺激に休む暇なく悲鳴を上げる最中でも、頭の中ではとぐろを巻いた様々な思念が涼しい顔で一様に首をもたげていた。

 何よりもまず、これでようやく“仲間”になれたということ。よしんばマコとハズが本当に夜道で突風にあおられ無残にその花を散らしてしまっていたとしても、似たような(・・・・・)目に遭った経験者同士これから先も何の負い目も感じることなく肩を並べて歩いていける。次に、ほんの悪い子気取り。家には『訳あって知り合いに泊めてもらう』としかメールで告げなかったところ、当然のように先ごろから着信音がせわしなくがなっている。もちろんツトムの耳にもそれは届いているはずなのだが、気にする素振りは一向に見せない。何かに入れ込んだときの男子のなりふり構わなさは予想通りで、携帯の電源を切り忘れたのも実はわざとで、背伸びしたい年ごろでちょっぴりの後ろ暗さに興奮するたちのイケナイ子が、保護者の心配を知りつつ帰らせもしなかったひどい年輩者との背徳的な共犯関係をこっそりと押しつけただけ。他に、部屋のセットにはてんで無頓着なツトムに内緒で、窓や換気を黙って閉じてしまったらどうなるかとも。どうせ拾い食い(・・・・)に夢中で気付くこともなく、心地いい息苦しさに欺かれたままで正真正銘二人の意識がゆっくりと形を失っていくのだろう。その際、この胸にしまい込んだ鉛のごとき罪の塊も一緒に洗いざらい消し去ってくれるのだろうか。もしも悪意の一片たりとも泡となって浄化することをよしとしないというのなら、現世に残ることを否応なしに強要されるこの肉体もまた、薄汚れきった鉛の詰め物ということになる。そんな理屈は、全く以てどうでもいい。

 そして、アキのことを思った(・・・)。寝言のふりをして消え入りそうにささやくか、熱に浮かされながら煽情的に吐息を漏らすか、そのどちらかでも呟いたら、ツトムはどんな反応をするだろうか。昔の男の名前を呼ぶなんてと、嫉妬に怒り狂ってその腕に力を込めるか、それともこれだけ身を焦がしても過去の思い出に先を越されるのかとしょげかえり、途端に元気がしぼんでいくか。悪女じみた選択肢を試してみたい衝動に駆られながら、夜のよどんだ空気が降り積もらせた澱のように濃厚なまどろみの中で、荒みきった身も心も底の浅い床の上へと丹念にかき乱されていった。


 このたびは数多くの見苦しい文章をお見せしてしまい、申し訳ありませんでした。ですが、合間合間の心理描写を追っていただければ、本作の肝がそのような点にないことをわかっていただけると存じます。


 とはいえ、結果的に先が気になっていただければこれ幸いです。是非とも、次のページをめくって、もとい開いてみてください。

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