イタミイラナイ
周りの同級生たちや、地域の大人たちの視線が胸に刺さる。参列中にも、こちらに度々目をやりながら遠巻きに何か話し合っている姿を何度も目撃した。
(イタイ、イタイよ……でも、しょうがないんだよね。だって、結果的には私がアキを殺しちゃったようなものなんだから……)
あれから数日後のすっかり日も暮れた夕闇の中、私はアキの通夜を行っている斎場にいた。
(私が嫌がってなかったら、あの夜アキと一つになってれば、今頃アキは……)
あの夜保護された警察にも、迎えに来てくれた両親にも、そして今この場にいるアキの遺族にも、何も包み隠さずにすべて本当のことを説明した。あの夜アキとケンカ別れしたコト、例の男子学生のコト、人工呼吸をしたけどダメだったというコト……。
目の前に横たわるアキに、なり振り構わず抱きつきたかった。最後のキスを、何回も何回もしたかった。
でも、アキは私一人のものじゃない。悲しいのは、みんな一緒。だから、私のわがままでみんなを困らせるわけにはいかない。私は、もうそれほどの子供じゃない。
アキの前で私は、唇を噛みしめた。アキにそうされてるように、血が出るくらいに噛みしめた。
一礼のあとアキに背を向け、黙って立ち去ろうとした途端、
「……ミキちゃんは、悪くないから」
私の小さな肩は、ウサギみたいにびくんと跳ね上がった。唐突に話しかけてきたのは、喪服をまとったアキの母親だったのだ。
――黒が女をキレイに見せるなんて、ウソだ。
普段は色とりどりの明るいドレスでおしゃれを決めていたおばさんが、今は黒という一色に悲しみを集めている。
きっと、黒は悲しみを隠すのだ。こんな場面で取り乱さずに気丈に振る舞うためにも、黒衣は必要悪。
でも、それは流したい涙をこらえるというコト。気付いて欲しいのに、気付かせちゃいけないというコト。
周りのコたちがやたら茶髪に染めたがる理由が、今になってようやく分かった気がする。
なぜ、私にだけ声をかけたのだろう。それまでは、隣でうなだれている父親のほうと一緒で顔も上げずに泣きじゃくっていたというのに。
ひょっとして、訝られたのだろうか? 誰よりも悲しいはずなのに、泣いてすがらなかったことを咎められた? 息子に対するお前の愛はその程度だったのかと?
頭の中で罪悪感がぐるぐる回る。言わなきゃ、謝らなきゃ……
「ごめ……」
「ミキさん、ごめんなさい……っっ」
言いかけたところを、目の前の制服姿の少女に先を越された。今年中三になるアキの妹で、兄妹ながらも仲睦まじくじゃれ合うその姿に少なからず嫉妬を覚えたものだった。それが今では平素の明るさは見る影もなく、両親に挟まれながら声を震わせている。
なんで、なんでクミちゃんが謝るの? クミちゃんにこんな思いをさせたのは私なのに……
「まだ高校生のあなたにこんな思いさせて、本当にごめんなさい……っ」
再度おばさんにそう言われ、こちらの謝罪の機会を完璧に逸してしまった。間の抜けたオウムのように返しても、本当のキモチはきっと伝わらない。
うろたえながらも黙礼だけで場をしのぎ、そのまま外に出ようとした私のもとに、陰口が飛んできた。
「……あの子、何の責任も感じないのかねぇ」
小さいながらも容赦なく、それでいて声自体が小さければどんな内容でも許されるとおごった、無責任な声。
でも、どうとも思わなかった。そんなことを言う人は、アキのことを本当に悲しんでなどいない。
アキの最後にわざわざ泥を降らせに来たような連中に何を言われようが、動じる筋合いはなかった。
建物を出たところで、前方に三人の男が肩を並べてここに向かって歩いて来るのが見えた。
「ミキちゃん!」
右端の年を食った男が、こちらに気付くなり片手を上げる。その年季の入った深いしわが刻まれた顔立ちには、つい先日見覚えがあったばかりだった。
「……刑事さん」
あの夜、警察署で親身になって話を聞いてくれた年かさの刑事に向かって力なく返事を返す。左の男は同じくそのとき一緒にいた人の良さそうな若い刑事である。だが、その二人の間で悄然とうつむきがちになっていた人物は……
「……ツトムさんも、いらしてくれたんですか」
ツトムといった男は、他ならぬあの晩アキを轢いたトラックを運転していた張本人だった。不幸な事故で命を奪いこそしたものの、その後の検査でアルコール反応等が出なかったことや普段の勤務態度の真面目さもあいまって、目撃者も多数いたことからそれほど大した罪には問われないだろうとのこと。実際、こうして外をうろつける程度の扱いは受けているらしい。
「ミキちゃん、本当に済まなかった! あのとき私がもっと周りに注意を払っていればこんなことにはっ! 結局、あの男の子も逃してしまって……」
落ち着いた声で、深々と頭を下げる。下手な土下座や涙声などの見栄えに走らない点に真に誠実な人柄が垣間見え、好感が持てる対応だった。
(こんないい人が、苦しむコトなんかないっ!)
「ツトムさんは何も悪くなんかありません! それよりも、アキを突き飛ばした奴は誰か分かったんですか?」
刑事二人はびっくりしたような顔になったものの、すぐに温和な表情を作り直し、ごまかすように頭をぼりぼりと掻いた。
「……ミキちゃんは強いね。ミキちゃんぐらいの歳でそうやって返せる子はそうそういないよ」
「私、八つ当たりなんてバカなコトしたくないんです! それより捜査に何か進展は……」
年長の刑事が、申し訳なさそうに目を伏せる。
「それが、芳しくない状況でな。監視カメラも近くにないし、目撃証言も黒っぽい制服とだけで、まだ学校すら特定できていない。だが、心配しないでくれ。こういうのは何か一つでもつかめれば後は芋づる式に真相が見えてくるもんだ。それまで、もう少しだけ待ってもらいたい」
「ミキちゃんも、あれから何か思い出したことは……」
身を乗り出した若い刑事を、年上の刑事が手を張って制止した。
「今日は弔いに来たんだ、質問は控えろ」
「私なら大丈夫です! そうだ! アキの財布は見つかりましたか?」
こちらにとっても、質問攻めをするには又とない機会なのだ。
「所持品にも自宅にもなかったことから、君の言うとおりその学生が持っていったとみてまず間違いないだろう。残念ながらこちらも手がかりはまだ……言い訳になってしまうが、相手が未成年の学校の生徒となるといろいろひと筋縄ではいかないんだ」
そうですかと、伏し目がちに黙り込むしかなかった。これ以上の情報は期待できそうにない。このまま向き合っていたら、罵倒せずにはいられなくなる。役立たずだと、何のために声をかけたのかと、目を合わせるなり口走ってしまうかもしれない。そんな身勝手な女にはなりたくない。
「……絶対犯人を捕まえてください、お願いします。私はこれで失礼します」
最後はお互い噛みしめるようにして言葉少なに済ませ、会場の入口で逆方向にすれ違う。ところが、遠ざかる背中が三人分のままであることに気付くとはたと振り返る。
「ツトムさんも中に入られるんですか?」
虚を突かれたように立ち止まった三人組の中で、唯一ツトムだけが重苦しそうに口を開く。
「ああ、状況がどうであれ、彼の命を奪ってしまったのは他でもない私だからね」
「やめといたほうがいいです。針のむしろになるだけなのは目に見えてますから。私ですら……」
そこから先は、言わずとも察しがついたようだった。やるせなさがしかめ面になり、刑事二人が痛々しいものを目にしたように気持ち顔を背ける。
「そうならないために我々がいる。彼を危険な目には遭わせないから、安心してくれ」
「でも……」
「心配いらないよ、ミキちゃん」
ツトムが、覇気なくこちらに笑いかける。心なしか、以前よりやつれて見えた。
「確かに、逆なでする結果に終わってしまうかもしれない。それでも、この場に姿を現すことは私の責務だと思うんだ。ミキちゃんや、刑事さんたちの優しさに甘えて逃げ続ければ今は楽だろうけど……後できっと、後悔する」
そう言い残し、ツトムは他二人とともに建物の中へと消えていった。
その大きな後ろ姿が、目に焼きついて忘れられなかった。
それから一週間が経ち、本葬儀もとうに過ぎた。妹のクミちゃんの忌引期間もとっくに終わり、今は友達に支えられながらなんとか普通に学校に通えるまでになったという。
忌引。暇つぶしに生徒手帳をパラパラとめくっていたら、たまたま目に留まっただけの現実味のなかった一事項。誰か知らない親戚が死んでくれないものかと、アキと二人で笑い合っていたこともあるたった二文字。
それを、まさかこんな形で思い知らされることになるなんて夢にも思わなかった。
「ミキぃー? それじゃあお母さんお仕事行ってくるから、朝ごはん片付けておいてねー」
母がたったそれだけを言い置き、娘の部屋に顔ひとつ出さずに家を出て行ってしまう。父も父で最近は早々と出勤して逃げるようにいなくなり、家に残されるのはいつも私一人。
学校には、あれ以来行けていなかった。興味本位の心無い噂が飛び交うのはもうこりごりだし、何よりも、まだアキを失ったショックから立ち直ることができない。最初の二、三日は励ましのメールや、実際に家の前まで迎えに来てくれる友人たちもいたのだが、気を遣おうと明るく振る舞われるその分だけ逆にアキの存在を軽くあしらわれているようにも感じられてとても気分を晴らすことなどできなかった。次第に友人たちもその意を汲んで下手な接触を控えてくれるようになり、今では毎日の宿題や連絡プリントを担任がお悔やみついでに親に手渡しするだけになっている。ただ、それすらも煩わしいほどに、何をするにも未だに手がつかなかった。
それでも食事だけは口にかき込もうとダイニングに下り立ったところで、
「……トオル、まだいたの?」
「お? 穀潰しのおでましだ」
朝食をかっ食らっている最中の、中学生の弟とばったり出食わす。とある漫画の影響でシルバーアクセにどっぷりはまっており、現にこうして登校を控えた制服姿でも十字架のネックレスやらチェーンのブレスレットやらで全身をごっちゃりと飾り立てている。大抵の男の子はこの歳になると暴力や非行、不純行為に染まりやすいという印象を受けるが、これだけで満足して女の子にモテると思い込んでいる弟はまだまだ子どもらしさが残り、かわいげがあった。
だからこそ、出し抜けの暴言には虫が納まらない。
「ちょっと、今の言葉どういう意味?」
「その通りの意味だろ? かれこれ一週間学校はズル休み、かといって勉強や家事の一つでも熱心にするわけでもない。よくある無気力症候群でしかないのに、理由付けに使われたアキさんが不憫でならないよ」
我慢がならず、食事中のテーブルを両の手のひらでばんと叩きつけた。
「言っていいことと悪いことがあるよ! あんた、私相手だからまだよかったけど、そんなことクミちゃんにひと言でも言ってごらん! 確か同じクラスでしょ? 私もアキも、絶対に許さないからっ!」
「おお、コワっ! 引きこもりが家庭内暴力に走ったよ」
波打ったミルクを一気に飲み干し、そそくさと鞄を抱えて玄関へと退散していく。靴を履いた後、振り向きざまに文句を告げた。
「自分で考えてもみろよ。母さんも父さんも、何やっても喜ばない姉ちゃんの相手してへとへとなんだよ。彼氏が死んで辛く当たれないからっていつまでも甘えやがって、そんな特権もらえるなら俺だって彼女欲しいよ。んでもってさっさと事故って欲しいよ」
目線を合わせないのが、せめてもの良心。軽口で済むように、新しく替えたばかりのウォレットチェーンを繋いだ面ファスナー式の財布を回しながら、ごまかしながら。玄関の明かりを真新しく反射し、乾いたこの目をチカチカと痛めつける。
「あんたなんかに何が分かるの? 好きな人を、大切な人を、愛した人を、喧嘩別れしたまま目の前で永久に離れ離れにさせられた私の気持ちが! あんた、どうせ彼女の一人もいたことないんでしょ? 漫画ばかり読んでチャラチャラとダサく着飾って斜に構えて、世の中をひねくれた態度で見ることしかできないガキのあんたに何言われようが私はちっとも応えないわよっ!」
「いい加減気付けよ。友達だってさっぱり来なくなったろ? 愛想尽かされたんだよ! 俺は姉ちゃんのためを思って言ってんだよ!」
「うるさいうるさいうるさいうるさいぃっっ!」
眼前には、もはや閉じられたドアのみ。言うだけ言われて、トンズラこかれた。
一人で食卓に戻って座り、温かみのないパンや野菜を黙々と口に運ぶ。自分の咀嚼音を鬱陶しく感じ、録り溜めていたテレビドラマを流した。今期のダークホース枠でタイトルを『ラブラブチェーン』という、その名の通り堅い愛の絆で結ばれた男女二人の恋物語である。両者の仲を裂こうとする様々な困難や謀略をその都度乗り越え、次第にお互いの愛を深めていくという王道展開が思わぬ人気を博していた。
タイトルバックに、題名を模したきらびやかな鎖が舞い踊る。
(鎖――)
装飾過多でいかにも脆そうな画面上の鎖が、嫌みったらしい顔をしたトオルの腰にぶら下げられた鈍い光と重なる。
「……私、何やってんだろ」
スイッチを切って暗転したモニタの中に、寝癖もそのままの自分一人が取り残された。
後片付けもおざなりに髪をとかして制服を着込み、ひったくるようにして鞄をつかむと外に飛び出した。
突っかけた靴を直すこともせず、遅刻しないように全速力で走った。
「ミキっ? もう学校来て大丈夫なの?」
目ざとくも、教室に入ったすぐそばからクラスの友人たちが一斉に声を上げ、取り囲むようにして集まってきた。
「うん、へっちゃら。自主忌引からもようやく脱出!」
矢継ぎ早の質問に返す合間、教室の隅に固まったモテない男子のグループが陰口を叩いたらしい。「何が自主忌引だよ、サボリ魔のくせに」と、近くにいた生徒から瞬く間に伝播し、クラス中の周知となる。
仲の良い女子グループが、足を揃えて詰め寄った。
「クラスの仲間が事故で死んじゃったってのに、なんでそんな悪態つけんの? あり得なくない?」
「は? 一週間も昔のことで何言ってんの? 俺らだってお前らあばずれが誰かくたばったら『恋人でーす』って名乗り出て一度学校好きなだけ休みてーわ」
「キモオタブサイクが集まって生きがんなし! 女にモテないからって現実逃避の八つ当たりやめて下さ~い」
罵り合いはエスカレートする一方で、仲裁者は誰もいない。いつの間にかグループの輪の中央に担ぎ上げられた自分をよそに始業間際の過激な言葉の応酬はやむことを知らず、両陣営のボルテージが最高潮にまで達する矢先に、
「――ちょっとあなたたち! 朝っぱらから猿みたいにキィキィ騒いでないでさっさと席に着きなさい!」
不機嫌そうな顔をした女教師が、出席簿を平手で叩きながらつかつかと怒鳴り込んできた。
それまでの喧噪が嘘のように蜘蛛の子を散らすがごとく去っていく生徒たちの中で、人海に退路を阻まれ閉じ込められていた自分ひとりが呆気にとられたまま立ち尽くす格好となる。さらし者になったこちらを一瞥した女教師は一瞬怪訝な目つきを浴びせるも、すぐに何か心得たように溜め息をつくと、出席簿を乱雑に投げ出して教壇に立ち上がった。
「えっと……空いている机は一つだけね。久しぶりに全員揃ったみたいだわ」
――反射的に、首を回して教室中を見渡していた。自分を含め、クラスのみんなはとうに着席している。この上でまだ座席が余っているにもかかわらず欠席者がゼロというのは脈絡上明らかに矛盾していた。
だが、すぐに合点がいった。
「先生ぇ~、早く席替えしてくださいよォ~。俺の近くってなんか地縛霊居座ってるみたいで気味悪いじゃないですかぁ」
ぽっかりと切り取られた空っぽの席は、他ならぬアキの席だった。
「ついこないだしたばかりでしょう。来月まで我慢しなさい」
「スペースの無駄だし、いつまでも死んだ人間の荷物押しつけられてるみたいでマジ嫌なんスけど~」
教師をも巻き込み、またしても野次合戦へと発展していく。いや、教師自体が煽っているとすら感じられた。
騒動に無関係を装った生徒の一人が、「あーあ、今日は朝からうるせえな」とうるさく独りごちる。いさめるでもなく、教師がそれに呼応するかのように眉を寄せてこちらを流し見た。
中途半端に口に出すより、よほど雄弁だった。一連の騒ぎはすべてお前らのせいだ、この恥知らずのアベックはどこまで問題を広げれば気が済むんだと、何よりも流暢な視線が弱った胸の隙間を無遠慮にこじ開けていく。
「ハイ! 無駄口は叩かずに、さっさと一時間目を始めます。ええと、今日の目標は、っと……」
本人が自覚してか、ただの一声で予防線を張られてしまう。傷心を苛む不用意な発言は、一度たりともしていない。
面など、上げようがなかった。好奇と同情がない交ぜになったどす黒い感情の高波が四方八方から押し寄せ、こんなちっぽけな背丈などたちまちにひと飲みしてしまう。漂流物の板切れにも似た机にうずくまり、耳を塞ぎ、目をつむり、それら海面を覆った垂れ流しの悪意が頭上を過ぎ去るのをただただ待つより他になかった。
「――ミキっ! 先生が呼んでるよっ!」
「え……っ!」
暗い海の底から、針山の水面へと強引に顔を引っ張り出される。
「やっと起きたのね。今言った指示語が指す前述の部分は?」
あらかじめ照準をすませた担任の眼光が、つがえた矢の切っ先を盾も何も持たない無防備な体に容赦なく突きつける。
「ハ、ハイっ! ええと……」
「六十ページの三行目」
立ち上がってまごつく暇もなく、後ろの席の友人がそっと耳打ちして助け舟を出した、つもりでいた。
実際には、身を乗り出して顔を突き出す間抜けな体勢は教壇から丸見えなのだ。上澄みのような記憶をたどれば、今の問題ぐらいなら自力で解ける自信があった。それなのにしたり顔で背後から助言されたりすれば、こちらがろくすっぽ話すら聞いていなかったと喧伝されるに等しい。
弁解の余地さえなく、女教師が露骨な溜め息をついた。
「私の授業がつまらなくて眠たいんだったら、それはそれで構わないわ。でも、そのことが癖になって他の先生の授業のときに寝ちゃうと失礼だし、今みたいに周りの子たちにも迷惑かけるから、私はあまりよくないと思うな」
尖った言葉の雨が、冷え切った心に触れて豪雪となる。わざわざ引きずり出したこちらの存在を一片たりとも許さんと、たちどころに覆い尽くす。他人本位の隠れみのを、見せかけの懐の広さを盾に、凍った海に足を取られて身動きの封じられたさらし者の体を非難のつぶてが容赦なくうがっていく。
固く結ばれたタイが最後の砦と成した胸の奥、心ならいざ知らず。乙女の肌を社会にあまねく供給することを強いた制服が剥き出しにした脚など、とうにもがれていた。
「ミキっ?」
耳を塞いで机に崩れ落ちた私に、付近の友人が席を蹴って駆け寄る。
もう何も見たく、聞きたくなかった。手が四つあれば耳も目も全て塞げるのにと、もどかしくなるほどに。
なぜ、世界はこうも醜いのだろう。どうして純粋に悲しむことをせず、哀れみや蔑みに転化したがるのか。それこそ、天国に行ったアキのほうがいっそ幸せだったと思えるくらいに。
それでも、この心だけは、アキの心をがんじがらめにすらして芯を備えたこの魂だけは、決して折れない。その証拠に、どんなに汚い人の悪癖が目や耳を犯そうともそれに負けて気を失うことは絶対になかったし、そのことが逆に、わざわざそのフリをしなければならなくなるという罪悪感にも繋がった。
教師の呼びかけに答えることなく過呼吸を装い、友人二人に肩を支えられてこの教室を脱出することには、もはや何の抵抗も抱かなかった。
一介の同級生の死をこれとばかりにダシにし、体よく授業や宿題から逃れているとは、保健室のベッド上でのカーテン越しの言だった。
さすがに早退とまではいかず、二限目からの授業への出席は余儀なくされた。
“された”とは、若者の精神構造に機微の欠片もない安直性を求めたがる大人――生を受けた期間の単純な引き延ばしのみを矜持の拠りどころとする教職員たちの身勝手な弁に過ぎず、当の自分は元より勉強に背を向けたつもりなど毛頭なかったのだが、かといっていちいちそのことを説明する気も起こらなかった。
他に脚色のしようもあろうが、言葉にすれば、アキを失ったショックから立ち直れないという至極簡単な論理に行き着く。他人へ、アキへと割く心遣いを失った一方で自己の内心と向き合う機会も増え、それなりに詩的な表現を考えつくようにはなったものの、それらを駆使して誰かに伝えようとは微塵にも思わなかった。
アキが、汚される気がしたから。欺瞞が絡んだクモの巣がそこら中にはびこり、アキの名前を出したが最後、言質のように張りつけられてこの汚れた世界に野ざらしにされてしまうから。先のいわゆる年長者の理屈からすれば、たった十六かそこらで生涯を閉じたアキなどはこの先いくら経とうが永遠に青臭い未熟者のまま。青写真は、その色だけを刹那的思考の代名詞としていつまでもたたえ続ける。無限の可能性とはよくいったもので、その対極にある者の無力さは否応なしに引き立てられた。
ことさらに無理解を悪とし、悲劇ぶるのではない。健気で我慢強い少女を演じるでもない。
自分はただ、アキの盾となりたかった。何をされようと決して打ち破ることのできない心の外殻を受け取った見返りとして、アキが認めたかつての私を――その選択眼の正しさを証明するかのごとく、より高みへと昇華させていこう。
自分を通してアキが評価されるというのなら、私はどこまでも強くなる。私は、身も心も腐らせた大人たちには絶対にならない。
「ミ~キぃっ! 無神経の巣窟からようやく解放されたってのに、な~にしょげかえって~んの?」
そのような物思いにふけった下校中の背中を、級友のマコがぱーんと張り叩く。先の授業で、教室を抜け出す際に手を貸してくれたうちの一人である。
生えかけの天使の羽がもがれた気がしたとは、言わないでおいた。
「そうだよ。私、まだそういうのよく分からなくて月並みなことしか言えないけど……アキくんだって、ミキが元気のないトコ見るのは嫌だと思うよ」
もう片方のハズがためらいがちに言葉を次ぐ。二人とも、こんな世界で得難いかけがえのない親友だ。
「分からないっていえばさあ、あれ、今日の担任のヒス、あれ絶対ひがみだよね」
「分かるー! 彼氏できないから八つ当たりしか能がなくて、しかもあれ絶対『男に依存しない自分カッコイイ』とか思っちゃってそーなタイプだよね百パー!」
しかし、そんな彼女らの口を突いて出るのは浅ましいけなし文句。
分かっている。あの程度の卑しいトーク、自分だって幾度と参加したことか。それに、その一面のみを以て人格の上幅を決めつけるのはあまりにも早計で、独善だ。聞くに耐えない罵りとて、話題の当人を遠ざけたそれはむしろ優しさの表れともとれる。
だが、同一の空気が誰彼の身を包むこの世の中で、完全な陰口などまかり通るのだろうか。耳をそばだてていた第三者から面白半分の噂伝いに本人の耳に入ることがないと、どうしていえよう。偶然ならまだしも、敢えてそうなるよう仕向けたとしたら“優しさ”とやらを武器になんでもできてしまう。
そうならないための条件はただひとつ、地続きの世から逃れること。それは、鼓膜を手荒く揺さぶり続ける空気の支配から解放されること。ちょうど、アキのように。万が一にも伝え聞くおそれのない対象をはやし立てるとき、人々は永遠に優しいままでいられる。
このままずっと、アキは、そんな“優しさ”を浴び続ける羽目になるのだろうか。
「……だよねー、マジそーだよねー! ミキもそう思うっしょ? ……ミキ?」
性懲りもなく道端でまたしても意識の泥沼に浸かった顔を、隣のマコが同じ高さで覗き込んでいた。
「え? ……あ、ゴメン、何だったっけ?」
取り繕うこともなしに上の空だったことを露呈するこんな私にも二人は、
「ま~たぁくっ、ちったあ聞いてたフリでもして話合わせてみろっちゅーにぃっ」
「……でも、ミキのそんなウソがつけないトコ、キライじゃないよ。ね、マコ?」
泥水が跳ねるほどの不愉快さはあり得たろうに、つむじを曲げもせずに努めて気を遣ってくれる。
そんなこの世の何にも替え難い二人に、心の底から感謝した。
「……にしても今からどーする? 何かこうパーっと憂さ晴らししたい気分だけど、小遣い激ヤバだし」
右手に繁華街、左には遠近感ではなしに次第に小ぶり化していく町並み――自分たちの巣であるしぼんだ住宅地を望む十字路に差しかかったところで、マコがこれみよがしに盛大な伸びをした。
金がないとは、校則でバイトも満足にならない高校生にとっての常套句である。色とりどりのおしゃれなファッション、食欲をそそるポップの踊るスイーツグルメなど、街中の行く先々には至るところに誘惑が散りばめられ、寂しい懐事情からそれらを横目に歯噛みするだけの毎日を過ごしている。そうやって募りに募った鬱憤こそが将来大人になって金を稼ぐという原動力に昇華されるのだろうが、それを待てずに地団駄を踏んでしまうのは、ひとえに漫画やドラマの存在が大きいのではないか。
虚構の女子高生たちは勉強も部活もバイトまで、はたまた親代わりの家事ですらいともたやすく両立してしまい、その分睡眠時間が削れても肌荒れ一つしない。どこから元手が湧くのか喫茶やファミレスに連日通い詰め、その上大した努力もなく勝手に御曹司に見初められ、旅行やパーティー三昧ときた。
それらフィクションはいわゆる夢を与えるものとして市民権を得ているのだが、ときにそれは何不自由ない現実にもギャップを芽生えさせる不満の温床と成り果てる。帰りにお茶して当たり前、彼氏がいて当たり前、充実して当たり前。そんなひと握りの恵まれた環境を当然のものとして当てられ、そこに届かない、届きたい、届かなければという贅沢な焦りが身の丈に合わない背伸びへと無垢なる少女を駆り立てていく。
別の切り口として、行動の実践を伴わない“見方”どまりの影響もある。弟所有のそれを一瞥したが、ジャンルは百八十度転換して、男向けの空想で俗にいう美少女が導入するだけの了見の狭いストーリー。そこに出てくる主人公陣以外の若い男女はふしだらで当たり前、彼氏持ちの女子高生は尻軽で口汚くて性格悪くてほうぼうから非難されて当然の役柄。反面主人公とそのパートナーは異性同士に特有の情感を惹き起こすことなくプラトニックに徹し、他人の中身に踏み込めないだけの恋愛ごっこを純愛と取り違えた少年たちの共感を生む。その最たる例が今朝方のクラスで野次を飛ばしたオタク集団で、大人のはしごを踏み損ねもせず登ることをやめた彼らにとって自分たちの知るうわべ以上の言動を取る現実の女性は皆目の敵なのだろう。
悩みに悩んだ末、スーパー前の露店で一人につきたこ焼き一人前を注文するという適度の散財かつ日頃の甘い物好きのイメージを脱却してもみるという大胆なのか慎ましいのかよく分からない行為の決定に落ち着いた。
「『青のり付いてるぜ……』なーんてスマートに指摘してくれる男はいないけどサ」とは、少女漫画一色に育った言い出しっぺことマコの談である。
店員によれば二人分は既に出来上がっているものの、もう一人分は今から作るので多少時間がかかるという。焼き立てをとって仲間外れになるか、それとも出遅れないために作り置きを手にするかでお互い何となく決めかねているうちに、誰かの鞄の中でくぐもった流行り歌がかき鳴らされる。
「あ、私じゃん。ちょうどいいから二人で先食べといて……サキ先輩!」
携帯電話を手にしたマコが、出し抜けに黄色い悲鳴を上げた。
「久しぶりですぅ先輩! 珍しいじゃないですかぁ、わざわざハズじゃなくて私に連絡よこすなんてェ」
サキ先輩とは、三人の共通の知人である。先輩とはいっても学年は四つも上で、中学・高校と同じ学校の生徒になったことは一度もない。唯一ハズが小学生の頃に一緒で、中学の校区こそ違ってしまえどいわゆる近所のお姉さん的存在だったらしく、現在は華の大学生として授業漬けだった高校時代の恨みを晴らすがごとくさぞや自由を満喫していることだろう。自分やマコとはまだハズを介して五月の頭に知り合ったばかりだが、絵に描いたような遊び好きでも着飾りに無頓着な勉強一筋でもなく極端なキャラクターを持たない彼女は女としても学生としてもまさしく現実に学ぶことのできる人生の先輩であり、尊敬できる人物でもある。ときに情報の発信源としてや対等な遊び仲間としてなどその日ごとの付き合いが疎らにある程度の関係だが、そんな気のよい彼女にはハズはいうまでもなく私もマコも概ね好印象を抱いていた。
――突然連絡してごめんね。今、授業終わったトコだよね? 三人一緒?
「突然だなんていつものことじゃないですかぁ~、全然イイですよォ~! そうです、他の二人は今のんきにたこ焼きがっついてます」
私もハズも何か物申したい気持ちでいっぱいになったものの、熱々にとろけた生地とともにそれをのどの奥に流し込んだ。
――実はさぁ、今大学の仲間たちとカラオケに居るんだけど、たまたまアンタたちの話になって『そんなにカワイイなら紹介してくれ』って言われちゃってさー……今、時間ある?
マコは、携帯のスピーカーを拡声モードにしていた。それが自分たち二人に対する配慮などではなく、単に通話内容を説明する手間を省くためだということを私もハズも知っている。
それによって、断りもなく代弁者の称号を恐らくは無自覚に得ているということを。
「えぇ~? 先輩という存在が近くにありながら若いJKをナンパとか、それだけで偏差値知れてるってカンジなんですケドぉ~。実際そこんトコどうっすか?」
鉄板の油が弾ける音にかき消されまいと力が入ってか、心もち普段より言葉が粗野になる。店頭の駐車場という公衆の面前で腰に手の大股開きのまま話し込むマコを横目に眉をひそめる買い物客も目につくが、そんな人は女子高生という記号を勝手に枠にはめた男の虚妄か自分の過去現在を正当化するためだけの大人の偏見であるから、私もマコもどうでもよかった。
――まあ、中の下ってトコだけど……私の顔を立てると思って今度だけ! お願い!」
偏差値とは、顔面もとい男としての器量もろもろの数値を指すのだということが疑いもなく大前提としてある。
「ええぇ~? いくら先輩の頼みといっても、私たちにも選ぶ権利ありますよォ~」
――来てくれたら、フード好きなだけ御馳走してくれるって言ってるから。
マコの目元が、現金ににんまりと吊り上がるのがまざまざと見てとれた。
「ほぉーう? で、フードだけ? ドリンクは?」
――もちろんタダ! ルーム料金も全部おごり!
「よし決まりィっ! 早速今から飛んで参上しやすぜいィっ!」
結局他二人の意見を何一つ求めることもしないまま、場所だけを聞いてマコは通話を終了した。
「ねぇマコ、やっぱり私そういうのはちょっと……お酒とか、飲まされたらどうしよう……?」
引っ込み思案のハズが、不安げに眉を寄せる。仮に玉の輿のイケメンぞろいが相手だと聞かされていても、この反応は必至だっただろう。
「あたしらそんなあばずれじゃねーし、先輩もついてるから心配いらないって。あんただって最近会ってないってぼやいてたじゃん? テキトーに合いの手入れて、好きなモン飲み食いだけして帰っちゃえばいいってことよ。てなわけで大将、あたしの分の注文取り消しね」
「えっ?」と、傍にいた三人が一様に疑問の音をあげた。マコの分の出来上がりを待つべく個数がろくに減らないままに冷め始めて重さを感じるようになったパックを片手の自分とハズはいわずもがな、キャンセルには慣れっこであろう出店の店員も物言いたげに私たち三人を交互に見比べて手を止めており、その困惑の拠りどころは火を見るよりも明らかだった。
「よぉし! それじゃあ先方を待たせて食いっぱぐれるわけにもいかないし、とっとと出発しよォーっ!」
マコとて傍若無人が極まった女ではなく、注文の取りやめだって他の客が次に控えていて店側に迷惑をかけることはないと踏んだからである。それでも友人間の連帯感を逸脱してひんしゅくを買うことを恐れないのはひとえに彼女がこのグループの牽引役であるという自負心の成せる業であり、もしこれがハズの立場なら熱々の焼き立てを大急ぎで口に放り込むという目も当てられないような悲惨な姿に陥っていたに違いない。
ただ、マコのほうにも人並みの罪悪感はあるらしく、私たち二人の手元からは頑なに目を逸らしながらではある。
「マコぉ、さっきから食い物食い物って、私たちそんなにがっついてないよォ」
珍しくハズが食い下がるも、そのワードはまずいと、私は内心天を仰いだ。
「そりゃあ、たこ焼き食ったあんたたちからしたらね」
マコの狙いが、見事的中したと思った。
「違って私はまだなんにも口にしてないし、このまま帰るだけじゃあまりに不公平じゃん? マコたちだってたこ焼きの出費をタダ飲みタダ歌いで差っ引きゼロにできなくはないし、行かない理由はないと思うけど?」
誠実、もとい自分を殺しやすいハズはこの手の攻めにめっぽう弱かった。たとえその理屈が、土壇場で船を下りた発案者の詭弁だとしても。
「それに、人生はイベントによって潤うもの。日々のローテに甘んじてないで、様々な経験を通じてこその女子力アップってもんでしょおー!」
ハズは、諦めた。しずしずと、やがて黙々と大ぶりのたこ焼きを胃の中に消化し始めた。先輩と一回デュエットできればそれでいいしと、わざと青のりつけて幻滅させてやるなどとぶつくさ独りごちながら。
そんなハズの様子を、マコに話しかけられて初めてぼんやりと他人ごとに眺めていたことに気付かされた。
「ミキは当然行くでしょ?」
「え……? あ、うん……そうだね」
恐らくその根拠を先の二人のやりとりの合間にすっかり平らげてしまったこちらの空容器に見出したのだろうが、持て余していたそれを備え付けのゴミ箱に放りながら曖昧に言葉を濁すと、マコは意外そうに目を真ん丸にした。
だが、マコだって空想の薄っぺらなキャラクターではない。一見軽く取れる発言の裏にも、いっぱしの人間なら得てしてそうであるよう常に思案を張り巡らせている。すぐさまこちらの心情を察してか表情を持ち直し、柔らかい口調で話を繋げる。
「そりゃあ……なんていうか、一応喪中明けっぽい手前、はしゃぎづらい、ってのもあるかもしんないけど……」
マコの指摘は、的を射ていた。ほんの数分前に胸に去来したばかりのフィクションによる精神汚染の道理が、再度脳裏をよぎる。ただでさえ高校生の分際で、あまつさえ恋人が死んだばかりだというのに、ふしだらな女、尻軽な女、ここぞとばかりに誰にでも寂しがってみせる売りが上手い女。先日の通夜の悪意に染まった色を着込んだ参列客、あの教師を始めとする若さ憎しの偏見が先走った大人たち、そして、根暗集団のみならず似たような関係が蔓延しているはずのクラスの青春組までもが一様にあざけり、罵り、透明な牙を突き立てる。この背中はとうに傷まみれだというのに、アキという翼も失ってしまったのに、こんな自分がどうして新たな羽を伸ばせるだろうか――?
「でも、そんな奴らには好き勝手言わせとけばいいんだよ」
マコの手が、背中をぽんと叩いた。
「想像力を欠いた人として終わってるような奴らにどう言われようと、痛くもかゆくもなんともないっしょ? アキだって、ミキの行動を束縛して喜ぶようなちっちゃい男だった? もしアンタがそれでもまだ義理立てしたいっていうんなら、目の前に居並ぶ男どもを片っ端から鼻で笑い飛ばせばいいんだよ。アキのほうが何十倍も何百倍も何千ば~いもイカしてたっていう再確認のためにさ。それに、もしかしたら――」
――新しい出会いがあるかもしれないしさ、と、目を逸らし気味に口ごもってみせた。
そんな遠慮と照れ隠しとがない交ぜになった表情が、マコ本来の愛らしさとあいまって何よりも眩しかった。
「そ、それにさ、ハズみたいな大人しいタイプに限って一度男のスイッチが入ったら暴走が止まらないってよく聞くよね? そういうのも一回見てみたいじゃんさ?」
だからその継ぎ句が、友人観察を企てる陰口の類などではなく、不似合いなシリアスにかぶれた雰囲気を打破するための冗句に過ぎないということを私も、聞こえていたらしく頬を真っ赤に膨らませて駆け寄ってくるハズも分かっていた。
眼下で、大学生と思しき男四人が踊り狂っていた。
大げさに頭を振りかぶり、タップダンス紛いの足踏みはまるでスニーカーの泥を撒き散らしているようで気持ちが悪く、狭い室内に反響する不揃いな手拍子と合いの手は流れる時間そのものの歪みすらをも感じさせるかのごとくこちらの耳を休なく襲い立てる。
切ない系のバラードをソロで歌い上げ、紙吹雪のように軽い褒めそやしの文句を避けるようにして座り込みながら、カラオケとはなぜこうも退廃的な香りがするのだろうかと一人感じ入った。もっともそんな態度はおくびにも出すことなく、ノリのいいJKという記号を申し分なく演じてみせるだけの器量も備わっているのだから、そのことで何かが変わるわけでもなかったのだが。
マコが体のいいサービスとして男女のデュエットを披露している最中にも、別の男がドリンク追加の有無など何かにつけて話しかけてくる。一応は男女別の対面式という体裁は守りながらも、心もちテーブルを向こう側に引いて女子組の下半身への視界をちゃっかり確保しているという嫌らしい魂胆がそれを帳消しにしてしまっていた。とはいえ、わざとらしく身を乗り出してくるあたりそのことをことさらに隠し通す気はないらしく、端から堅物ぶるつもりなど毛頭ないらしい。そもそもこのような機会を設けること自体が誠実とは程遠く、今更紳士然されたところで場がしらけるだけなのだから、こちらがそうであるように相手側もいわゆる盛り上げ係に務めているだけなのかもしれない。
もしくは、そんな明け透けな下心にも気付かないレベルの代名詞的なギャルだとみなされているか。
仮にもサキ先輩の遊び仲間であるのだし、ここでは前者を信じたい。よしんばこの場にアキがいたとしても、同じような言動をとっただろう。だが、それが分かった上であっても相手のことをこれ以上に知りたいという欲求などは微塵も湧き上がらなかった。
一つ挟んだ隣の、当のサキ先輩の様子をうかがう。久々の顔合わせで積もる話もあるのだろう、真隣りに陣取ったハズの言葉攻めにかれこれしきりに相づちを打ち続けている。一人っ子で甘えたがり屋だったとかねてより自称していたとおり、さながら本当の姉妹のように懷き懐かれの関係をみせる二人に微笑ましさを覚えながらも、その一つを以て目下の狂騒をまとめて打ち消すための清涼剤とするには到底物足りなかった。
それに、マコもハズも気に留めていないようだが、妙なしこりがあった。この状況を憂慮なく楽しめずにいる一因でもある。サキ先輩を含めたグループは先輩を残した四人ともが男で、私たち三人と合わせると丁度男女が四対四の合コン風のセッティングに収まる。
だが、そんな中で男たちがサキ先輩のことをこれっぽっちも女としての頭数に加えていないかのような印象を受けるのだ。単純に普段の交流で事足りている分やたらに絡む必要がないともとれるが、それにしても料理の取り分けなど店員にすら映る甲斐甲斐しさで以て小間使いのような任務に忠実に甘んじる姿勢がいささか異質なものとしてこの目を射抜いた。
そのことで自分たちミドルティーン組が女としての魅力で先輩に勝っているのだと思い上がるほどには、さすがにお粗末な頭ではなかった。手の届く見本として、サキ先輩は自分たちにとって何よりの理想の女性像だった。ここしばらく会わないうちにより一層女子大生らしさを伴って垢抜け、一段と輝きを増したようにも思う。だからこそそんな先輩を見向きもしない男達には不可解を超えた気味悪さすら抱き、ひょっとすると既にこの中の誰かとデキているのではないかと目を凝らしてもみたものの、それらしい素振りはあいにく見受けられなかった。元をたどれば大方できあがり始めていたこの部屋に入室した段階で、奇妙な感覚がとうに鼻をついていた。男数人の紅一点というフィクションにはありがちな光景を実際に目にした途端、その関係のいびつさや不自然さがあからさまなイメージとなってこの身に流れ込んできた気がしたのだ。男衆に囲まれた女一人という構図はどうしても綱渡り的なきわどさがあり、作り物じみた胡散臭さを覚えてやまない危うさが拭えない。無論、サキ先輩は男好きこそすれど決してそれを面白がって振りまく性格ではなかったし、あるいはたまたまサークルメンバーの組み合わせが今のメンツで固定されてしまっただけかもしれないが、もし自分が同じ立場なら女友達の一人はいないととても落ち着かないだろう。
しかしそう考えると、まるで今の状況そのものが一種の仕立て上げられた舞台装置のようにすら思えてしまう。会話の節々から勘案するに、仲間五人で遊び呆けていた折にたまたま知り合いの紹介という選択肢に行き着いたそうだが、これにも唐突感が否めない。こちらの事情をひと通り知っているはずのサキ先輩自らそんなことを提案するとは考えにくいし、元気づけるために仕組んだにせよ偶然にせよこうも人数が合致してしまい、その中でサキ先輩が数合わせのように扱われているのはいかんせん薄気味悪かった。
マコの歌が終わり、ハズがサキ先輩と念願のカップリングに漕ぎ着ける。男女ペアの曲でどちら役に回るか歌い出し寸前までしどろもどろになりながらも、いざ始まった瞬間音の外れた無理やりな低い声を惜しげもなくさらけ出す様が面白おかしくもあり、いつまでも変わらないその姿はひどくあどけなく、心に安堵をもたらすものでもあった。
ふと、携帯の時計を確認する。誰一人として言い出さないので気にしなかったが、時刻はすっかりまもなく日の入りかという頃合いになっていた。
そのことで懸念が芽生えた様子を目ざとく発見してか、もう帰らなくてはならないのかと、男の一人が不意に尋ねてきた。
「一応俺らと同じ時間とってあるけど、親とか心配するんだったらいったんここいらでお開きにする?」
そうは言いつつ、夢中でマイクを握りしめているハズのほうをちらりと見やる。端から断られることなど想定していないという態度が露骨に潜んでいた。
「親なんてうちらそんな子どもじゃないし、門限なんて前時代的なものあり得ないからまだまだ余裕ですよォ。ねえミキ? ハズもめっちゃテンション上がってるし」
出費ゼロのタダ尽くし享楽にすっかり取り込まれてしまったマコが、幾ばくかかすれかけた声で横から顔を差し込む。大部分が未成年ということでタバコは遠慮してもらっているのだが、それでもここまで喉がかれるとなると、かれこれ向こう四ヶ月分はゆうに歌い尽くしたことだろう。それどころかほんの序の口、まだまだ歌い足りないという雰囲気すら醸しているのは、今この瞬間に自分のような疑問などこれっぽっちも挟んでいないからに違いなかった。
それが正常だ。飲んで歌って愛想よく笑い合って、楽しくないはずがない。自分一人が過敏になり過ぎているだけなのだ。
本音をいえばそろそろ疲れたし、同じような調子で自分たちを持ち上げることしかしない大学生たちにもウンザリし始めた頃合いなのだが、だからといってすっかりその気のマコやハズを差し置いて一人だけ先に帰るような空気の読めない真似はする気が起きなかった。
プレートに盛ったお菓子よろしく食い合うようにして歌ったレパートリーもいい加減底をつき、宴の後に特有な数分前までの自分への嫌悪感にも似た倦怠感がそこかしこに立ち込める。
とっくに誰もがお開きを口に含んでいるのに、“付き合いの悪い奴”という汚名を自分一人が被るまいと意味もなく互いに牽制するだけの時間に心地よさすら感じ始めた折に、サキ先輩が待ち望まれた一声を放つ。
「明日も学校でしょ? もういい時間だから、そろそろおしまいにしましょ。高校生は、私たち大学生とちがって暇じゃないし」
ぼつぼつと賛同の声が上がる中、えーっ、と、マコ一人だけが恨めしげに唇を尖らせている。とはいえ、握りしめていたマイクやらリモコンやらを早々とほっぽる様子をみるに、固執しているのは今のメンツでの会合そのものよりもむしろ最後まで明るいノリの良さを保てる“マコ”というキャラクターのほうなのかもしれない。
「それにしても、すっかり暗くなっちゃったわねぇ」
全会一致で部屋を後にし、会計を済ませて店先に出揃ったところで、サキ先輩が見れば分かる当然のことをやたらと感慨深くぼやいた。
「私のところ、電灯少なくて、夜は寂しいんだよねぇ……」
よくもまあ、そんなお安い誘い文句をすらすら口走れるものだと、大学生という人種に感心半分危惧半分のところ、
「じゃあ、俺が家まで付き添おっか?」
撒かれたエサに、早速一匹飛びついてきた。
「じゃあじゃあ、マコちゃんたちは俺らが責任もって家まで送り届けまっす!」
しかも飛び火した。残りの三人が口々に名乗りを上げ、片手を高々と掲げながらわざとらしく詰め寄り合っている。
「あの……バラバラになるより、みんなで一緒に帰ったほうが安全だと思うんですけど。途中まで道も一緒だし……」
人一倍怖がりのハズが、さも夜道被害に遭うこと前提で面々に訴えかけるも、
「ハ~ズぅ~。アンタもいっぱしの乙女なら、ちったあ空気を読めい空気を!」
一滴の酒すら口に含んでいないマコが、あたかもそれに飲まれたかのようなテンションで以てハズの首に絡みつく。
ああ、そうなのかと、誰がけしかけるでもなく自然と二人して離れた位置で立ち並ぶサキ先輩と男メンバーの一人とを一目見るなり分かった。カラオケ中にはついぞ微塵も匂わせなかった男女のそれのいかにもな雰囲気が、夜のネオンに照らされた体の放つ些細な仕草の一つひとつからいかんなくにじみ出ている。
傍に微笑む上背の高い男性に向かって小躍り気味に満面の笑顔を投げかけるその様は、さながら年端もいかない少女が不慣れな背伸びの恋に当てられておどけているかのようで、未完熟な果実を思わせる新鮮な甘酸っぱさが、首をかしげるそのひと振りの度に蒸気した心のしぶきとなってほとばしっていた。
「何の遠慮もナシにああもまあ見せつけられちゃあ、そんな二人の仲に水を差すのは野暮ってもんでしょオー!」
もっとも、マコは自身の口を突いて出る喉を潰しかけたしゃがれ声が面白おかしくてやまず、某芸能人にも似たそれで大して考えのない言葉を羅列するというなりきり遊びに興じているだけのようにも思う。
その上、一人だけ自転車の用意があって、しかも当然その後ろが予約済みだと暗に含められたとなれば、もはや誰にも若い二人を引き止める術などなくなってしまった。
「それじゃあ三人とも、今日は急なお願いだったけど聞いてくれてありがと。お先に失礼するね、帰り道気をつけてー」
街外れの暗がりに走り出した自転車の上で、サドルにまたがった背中に寄り添ったサキ先輩が別れの挨拶を言い置く。
はーい、とも、うーす、ともつかないごった煮の返事が止まない中、先輩を引き連れたハンドルの握り主もひと言、お前らも、若いコらに夜道の一人歩きなんかさせんなよと。
「男がすたるぞー」と、連れの言葉尻に乗っかったサキ先輩の軽口だけが尾を引いて、二人の自転車は闇夜の奥へと消えていった。
余り男の口々の冷やかしや歓声に紛れ、「夕べはお楽しみにー!」などと、マコが愚にもつかぬことをさらりとこぼす。本人は大声で返し文句を浴びせたつもりだろうが、ご存知のかすれ声では半径数メートルの声量がやっとのほど。
「……酒飲みの上に二人乗りなんて、先輩にもしものことがあったら……」と、額面どおりの身の危険を心配するハズの呪詛にも似た呟きのほうが、よっぽど心にどっしりと食らいつくものだった。
「……と、よォーし! んじゃ俺らも見せつけられた二人にならって寝静まった夜の街を愛の逃避行と行きましょーう!」
そんな遅い時間じゃねーし、だの、サキを占領された現実からの逃避行ってコトか、だのと男衆が盛り上がる手前、自分一人が久々の賑わいどころにそろそろ辟易したとて抜け出すこともままならず、「でも、皆さんを回り道させるわけには……」などと、それこそ遠回りに言葉を濁すのが関の山。
「ミ~キぃ~。一度ぐらい女の子のナイトを気取ってみたいっていう哀れあぶれ破れかぶれ男のささやかな願いぐらいこの際叶えてあげよ~よ~」
それなのにマコが、同伴の引き受けを女子の総意に仕立て上げてしまう。いくら礼節の一片の必要も求められない砕けた場面とはいえさすがに失礼が過ぎると、さしものハズもが発したたしなめもどこ吹く風。「いいってことよ」「その歯に衣着せぬ物言いがサイコーにタイプ!」とは、さも当のマコ本人が放ったのかと聞き紛うほど。
すっかりその気になっているマコには悪いが、その手の遊び盛りの大学生が送り狼の真似事のひとつもしたことがないわけがないだろう。それを此度が一度だと決めてかかるのは、お人好しにも程がある。どれほど経験豊富の船頭役を装おうが、結局人格形成期を少女もの一本に捧げたマコの見方からは純粋もとい楽観的な殿方の認識法が今なお拭えないのだ。
ほろ酔い加減の脳みそ相手にこれ以上の当てこすりも無意味だと悟り、「……それじゃあ、せっかくだし頼んじゃおっか」「……うん、そうしよ」と、ハズと目配せしつつ白々しい芝居を切る羽目に。
賛成の意を得たと沸き立つ歓声を号令に、ようやく店頭にたむろした体を追い立てた矢先のこと。行く手に見据えたサキ先輩を飲み込んだ夜のとばりの向こうに、かすかな幻影をひとつ見た。
自転車に乗ったアキと、懐かしいその背にすり寄る笑顔の眩しい少女との二人が、自分を冷たく一瞥した後、前を阻む雑踏もすり抜けて暗闇の彼方へと吸い込まれていった、ような気がした。
「変なコトしたら、サキ先輩に言いつけてやるんだから……」といつもの被害妄想に身構えるハズの恨み節が、このときばかりは現実を踏みしめる足がかりとなってくれたことなど、誰も知る由はない。
まるで二次会のハシゴのノリで男女六人が連れ立ってそぞろ歩くことしばらく、他愛もない笑い話に中身のない相づちを打ってやり過ごすのにも限界を感じ始めた頃合いもよく、自宅への通学路上のマコとハズと別れる道にまでたどり着いた。さすがに出会ったその日に異性が玄関前まで一人ずつに付きまとうというのは防犯という名目を駆使してでさえ無理があり、ましてや二人以上が一人を囲って送り届けるなどは論外。地雷原に設けた安全柵の内側で猛獣を放つようなものだという陳腐な例えでひとまずは受けを取ってからは、やんわりと、かつ断固として丁重にお誘いをお断りした。ここまでやたらと好意的に両グループ間を実質取り持ってきたマコまでもが一転して大真面目に突っぱねたとあってはこれ以上の無理強いも甲斐なしと判断してか、男たちもついに諦め、かといってそれほど落胆した素振りもなく鼻唄歌いに来た道を引き返していった。
手を振り返しながら彼らの後ろ姿が角の向こうに消えていくのを確認すると、今まで口数の少なかったハズがぽつりと、心もちほっとしたような口調でささやいた。
「……ごめんねミキ、私がどうしても先輩に会いたいからって付き合わせちゃって、やっぱりまだああいうところは負担だったよね? いつもならマコと二人ではっちゃけるのに、今日のミキ、どっちかっていうと私寄りだったし」
「そんなことないよ。でも、私のほうこそごめん。傍から楽しくなさそうに見えたなら、きっとみんなの気、悪くしちゃったよね」
「全然大丈夫だって。見た目は普通に盛り上がって見えたし、あんな軽いしがない男どもがそこまでの内面の機微を読み取る能力を持ち合わせたりなんかしてないっしょ」
何だかんだで大学生たちの面前と比べて大いに安堵したように語らうマコを見るなり、とっさに、「大人だなあ」との嘆息が漏れた。
「知らない人たちの前で、不安や警戒心をおくびにも出さずにあんなに明るく振る舞えるんだもの。私、改めてマコのこと尊敬しちゃったな……」
「や、やめてよこそばゆいっ! それに、ミキは今大きなハンデ背負ってるでしょ。……恋人の死を経ての成長なんてベタな展開、私は好かないから。それはあくまで不幸なハンデでしかないんだから、ミキは今、世間が無責任に押しつけるように大人びる義理なんてないの。……その点、ハズはお子ちゃまだよねぇ~。その引っ込み思案の癖早く何とかしないと、将来面接で社会から叩き出されるよ」
「べ、別にいいもんっ! おしとやかなほうが……モテるしっ!“大人しい”っていう字は“大人らしい”って意味だし!」
しばしの談笑の切れ間に、潮時を告げる夜風が吹き抜ける。
それじゃあまた明日と、誰からともなく絞り出した呟きの震えは、本当にこの身を包み込む冷気ゆえだろうか。これから先に起こることを、少なからず予感したからではなかったか。
三叉路を別々に歩き出した三人の背後、大学生たちもとうに去りすっかり人気が絶えたはずの曲がり角で街灯の影が揺らめいたことなど、誰一人として気付かなかった。
そしてこの不覚のつけこそが、これからのそれぞれの行く末を決定づける運命の分岐点となったのだった。
読者の皆様、ありがとうございます。
本作を書いていて一番楽だと思ったことは、登場人物の名前です。全員が名字なしのカタカナのみという決まりさえ作れば、あとは一切詰まることなく即興で名付けることができました。実際に他の作品を書く際、登場人物の名前が決まらないまま記号や空白で進めることも珍しくありません。そこに名前を当てはめることは、だるまに目を入れるときの気持ちと似通っています。
今回の部分は比較的平和で、いわば箸休め兼、嵐の前の静けさといったところです。退屈に感じてしまった方も、次回からは急転直下の展開の連続ですのでご期待ください。




