戦いの決心
両手に持ちきれない程のバッグを抱え、トウヤはよろめきながら歩く。息は切れ、額には汗が滲んでいる。
その様子を見ながら、いじめっ子集団はニヤニヤと気色悪く顔を歪めており、醜く下劣な笑い声が上がる。
『この場から一瞬にして逃げることができたらいいのに。いや、いっそのこと僕なんて消えてなくなってしまえばいいのに!』
トウヤの心の叫びが虚しくこだました。
魔法や超能力が使えたら……。誰しもが一度は考えることだ。そして、大半の人間はそれを仕返しに使おうとする。
例えば瞬間移動ができたのなら……。自分へ暴力を振るおうとする者の攻撃を避け、背後へ回り反撃することができる。
例えば予言ができたのなら……。自分をいじめようとする人間の行動を先読みし、逆に陥れることができる。
例えば透明人間になれたのなら……。敵対する者には居場所を悟らせず、一方的にやり返すことができる。
例えば幽霊と話ができたのなら……。味方に引き込むことができれば、怖いものなどなくなるだろう。
いや、いっそのこと単純に火や雷を操れたとしたなら……。これはもう、説明を要しない。
誰でも心の奥底では嫌いな奴に痛い目をあわせたいと思っている。
だが、彼は違った。
彼はただ逃げたかったのだ。
穏便に済めば、平和な日常さえ手にすることができれば、彼はそれで満足だった。恨みを晴らしたい、などという考えは一切なかった。
そんな彼、トウヤは転校して早々いじめのターゲットとなってしまった哀れな学生。以前のターゲットだった生徒に陥れられ、まんまと新しい生贄に仕立て上げられたのである。
「さっさと歩けよ! 俺らのバッグ落とすんじゃねーぞ?」
「落としたら罰金だからな」
言いなりのトウヤを見ながら、いじめっ子集団は卑しい笑みを浮かべている。そのほとんどが元々はいじめられていた側だというのに、トウヤを犠牲にし自分たちだけ安全圏へと逃げたのだ。
そうして、いじめられる側の痛みを知りながらも、その最も忌むべき行いへと今日も手を染めている。
と、その時……。
「こら! いじめはやめなさいって言ったでしょ!」
後方から女子が拳を振り上げながらやってきた。
「ヤバい! 委員長だ!」
「逃げるぞ!」
途端にいじめっ子グループはトウヤから自分たちのバッグを引ったくり、一目散に逃げ出した。
「……ありがとう、委員長」
「いいのよ。トウヤ君は悪くないわ」
その言葉に、トウヤは少しだけ明るさを取り戻した。
委員長と呼ばれるその女子は名前をサヨという。いじめられている時には駆けつけ、独りでいる時には積極的に声をかけてくれる。毎日が嫌で嫌で仕方ないトウヤにとって、彼女の存在だけが心の支えだった。
そして今も、こうして一緒に下校してくれている。
だからこそ、不登校にならずに済んでいるのだ。
「着いたね。それじゃ、また明日」
「ありがとう。また明日」
こうして、今日もトウヤの苦行は終わる。だが、それは明日も明後日もずっと続いていく。いじめっ子たちはサヨがいない隙を突いてくるので、根本的には何一つ解決などしていない。
それでもどうすることもできなかった。夕食の席でも、風呂上がりでも、寝る前でも、親に相談するチャンスはあったというのに……。
そうして、この日はやってきた。
目が覚めて階段を下りると、いるはずの両親がいない。
寝過ごしたかと慌てて時計を見るも、まだ6時だ。いつも通りの起床時間である。
それなら親が寝坊したのかと、両親の寝室をノックしてみる。……反応がない。
恐る恐る開いたドアの先には、誰もいないどころか人のいた気配すらなかった。布団や枕は綺麗すぎる程にそこに形だけ存在し、部屋の隅々までホコリが一切ない。
引っ越してから半年が経つ上、両親とも掃除が嫌いだ。仮に気が向いて掃除をしたのだとしても、ここまで不自然な清潔さは出しようがない。
その異様さにトウヤも気づき、悪寒が走る。つい半年前に経験した新しい部屋の感触。それが今、再び目の前にあるという不気味さ。
だが、トウヤは青ざめながらも、まだどこかで甘い考えを持っていた。あるいは、ただ単に逃げ道がほしかっただけ、とも言える。今日は両親とも早く出かけたのだと、清潔すぎる寝室は何かの間違いだと、そう思いながら玄関を確認した。
そして絶望した。
靴は一足たりとも減ってなかった。靴箱の中など確認するまでもない。そもそも両親ともしまわないのだから。
トウヤはリビングに向かい、テレビをつけた。だが、電源はつくのに画面に何も映らない。放送休止の画面すら映らず、ただ真っ暗な闇が広がっている。
トウヤは背筋の凍る思いがして慌てて電源を消し、自室に向かった。そして携帯を確認したその目に飛び込んできた文字は……。
「う……そ……」
思わず現実逃避が口を突いて出た。それもそのはず。何しろ、彼の目に映ったのは圏外の二文字だったのだから。
数々の非現実的な現象を前にして震え上がっていたその時だった。携帯に一通のメールが届いた。
『リビングへお越しください』
一文だけ、そう書かれていた。差出人の欄は空白である。
圏外だというのに届いた気味の悪い謎のメール。そもそも差出人が空白だということ自体がありえない。
普通、赤の他人からのメールであっても、そこにはアドレスが表示されるはずであり、それが存在しないということは送り主への接触を禁じていることを意味している。つまりはメールという媒体への完全否定であり、それどころかシステムへの一種の冒涜ですらあり、本来あり得るはずのないことだ。
トウヤの恐怖心は最高潮に達していたが、無視するのも恐ろしく思えて恐る恐るリビングへと向かった。
テレビが真っ白な画面を映し出している。
トウヤはそれを見て膝から崩れ落ちた。今にも叫び出したいという衝動と、呆然とした絶句の狭間で気を失いそうになる。
何しろテレビは先程自分の手で確かに消したはずで、なおかつ映らなかったはずの画面が今は確かに映っているのだから。
「ご安心ください。私はあなたに一切の危害を加えるつもりはありません」
突如テレビから聞こえてきたのは抑揚のない女性の声。低めでゆったりとしていることから大人の落ち着いた印象を受けるが、感情は一切読み取れない。
そして……。
「あなたには、今から殺し合いをしていただきます」
先程の宣言とは矛盾する内容の言葉がトウヤへと下された。
あまりの唐突さにトウヤは言葉も返せずにいる。当然だ。それ程までに残酷な通達なのだから。
しかし、そんなトウヤの様子をお構いなしとばかりに声は続ける。
「プレイヤーはあなたをいじめていたグループです。その全てを排除すれば、あなたの運命は変わります」
それを聞いて、トウヤの思考はある方面へとまっすぐに向けられた。
「……お願いします。元の世界に帰してください」
トウヤは震える声で懇願した。自分の命を弄ぶような存在にその声が届くとも思えなかったが、それでもそうするしかなかった。
だが、返ってきた言葉は意外なものだった。
「もし、本当にご希望でしたら今すぐにでも帰してさしあげましょう。しかし、よろしいのですか?」
投げかけられた問いに、疑問の表情で返すトウヤ。
「あなたは、半年以内に彼らによって殺されます。いじめは徐々にエスカレートしていき、暴力へと発展します。その結末があなたの死です。それでもよろしいのですか?」
耳を疑うような非情な未来を突きつけられ、トウヤはその場に固まってしまった。
「受け入れなさい。己の運命を。どの分岐点を通ろうと、それは変えようがありません」
「……でも、人を殺すなんて」
トウヤは画面から目を逸らした。
だが……。
「また逃げるのですか? 逃げてどうにかなるのですか? 逃げれば死なずに済むのですか? 逃げることは何かの解決になるのですか?」
容赦なく抉るような正論がトウヤを追い詰める。
「だって……怖いじゃないですか!」
「よくお考えなさい。このままではあなたは殺されます。そちらの方が、より恐ろしくはありませんか? 楽に死ねると思ったら大間違いです。とても残虐な殺され方をしますよ? 説明するのもはばかられる程の痛々しいものです」
トウヤは涙を流し、呆然と口を開きっ放しにした。
「もう一度お聞きします。このゲームを、辞退しますか?」
トウヤはしばらくの間を置いた後、その問いかけに対し、なぞるように言葉を漏らした。
「……殺したかったわけじゃない。仕返しがしたいなんて思ったこともない。だけど」
一呼吸起き、首を左右に振り払った。
「だけど、やらなきゃやられるのであれば……僕も、もう逃げるのはやめる!」
震える声で、しかし確かにそう断言した。
「……決断できたようですね。それでは、ルール説明に移行します」